04
一番の自信作。
更新遅れてすみません。
この社会は慈愛の海に沈んだ海中の世界だ。皆が窒息する慈愛の海の中、人間本来の光の届かない暗い深海に沈んでいる。ぼくは、この社会をぼく自身の言葉で批判できない。それがもどかしい。
14歳の夏、ぼくとレイの二人しかいない教室で、レイはそう切り出した。
「どういうこと」
ぼくは尋ねる。意味が分からなかった。慈愛の海。一体どういう意味なんだろう。
「トウマはこの社会――学校の中でもいい。何か得体のしれない息苦しさを感じたことはないか」
十数秒の逡巡の後、ぼくは「無い」と答えた。
「そうか…」
レイは少し残念そうな顔をした。
「ぼくはあるんだ。先生の言葉、行動、声色。すべてに息苦しさを感じる。とても気味が悪い。校外学習を覚えてるか」
うん、と僕は答えた。校外学習でぼくらは人工筋肉工場へ行った。人工筋肉用に育てられたイルカを解体し、加工する工場だ。初めて見る解体の現場に、ぼくは嫌悪感を覚えた。人工筋肉を使った道具は周りにたくさんあるけど、原料がイルカだと知って少し人工筋肉が使いにくくなった。
「原料がイルカだなんて、ぞっとする」
「そう。ぞっとする。衝撃の現場だった。だけど、誰もその時誰も測定値が悪化しなかった。あれだけの現場であるにも関わらず」
そういえばそうだ。あの現場を見れば測定値が一人くらい上がってもいいはず。なのに、測定値が上がった警告は誰も受けなかった。
「ぼくらが危険人物だからなんじゃないのかい」
「ぼくも最初はそう思った。だけど、説明する職員を観察していたら、そうじゃない気がしてきたんだ」
「どういう…」
「彼らの語る言葉はぼくらの測定値を悪化させないよう、注意深く脱臭されているんだ。それで、ぼくらの測定値は悪化しなかった。先生だって、誰だって。楽園の民はみんな、脱臭された社会を知らず知らずの内にお互いで築いている。無意識の内に、だ。その脱臭された社会こそ、楽園社会だ。彼らはそれに気づかない。気付く訳がない。だって臭いは無いのだから。だからこそ、ぼくらのような異臭はすぐに気付かれる。周りに邪魔な臭いが無いから」
レイは淀みなく一息に話した。ぼくはそれを黙って聞くしかなかった。
「臭い物には蓋をしろ。そうやって彼らはぼくらを隔離する。自らの社会、いや、世界に都合の悪い物を排除するために。そしてぼく達を慈愛の海に溺れさせ、何も考えられなくする。ここで一つ、質問。親しい誰かが怪我をした、という想定だ。目の前にいる君はまずどうする」
「まず、心配して声を掛けると思う。大丈夫、と」
レイは窓の方へ移動し、窓枠に腰かけた。夕日が沈みかけているので、レイの白髪は夕日に染められていた。風がレイの髪を撫でていく。
「それが君のAだ。声を掛ける、心配する。大丈夫、歩けるか。中には共感した「つもり」になって慰める人、一緒になって泣く人もいるだろう」
「それじゃダメだ、みたいな口調だけど…」
「ダメって訳じゃないさ。それがこの社会の正解、模範解答だ」
レイは口角を吊り上げながら言う。模範解答。どこか皮肉めいた言動だ。それが少し癪にさわったので、君のAは何なのさ、と尋ねる。
「ぼくか…そうだな。たぶん、同じ答えだ。心配する。とても立派だ。民として、当然の行為だろう」
ぼくは意味が分からなかった。同じ答えなら何故あんな言い方をしたのだろう。
「今のぼくにはそれしか思い浮かばない。ぼくはそれが腹立たしい」
レイが下唇を噛んだので、ぼくは顔をしかめた。レイが下唇をかむのは悔しい時の癖だ。当然の行為、模範解答で、何が悔しいのだろう。顔をしかめたぼくを見てレイは話し始める。
「みんなその答えだ。やさしさ、おもいやり。そうした善意、慈愛の海に被害者を沈め、何も考えられなくする。酷い時には被害者に罪悪感さえ持たせてしまう。自分のためにこんなにしてもらって申し訳ない、と。ここでQ。何故みんなこれしか思い浮かばない。対するA。何故ならそれは簡単だから。その簡単な行為が模範になってしまったから」
「人に優しくするのはいいことなんじゃないかな」
「そう。いいことだ。だけど、その道徳的な考えは誰が考えた。人間だ。道徳的思考に染色された空気が、この社会を支配している。そもそも、いいこととは何だ。人間が決めた線引きが、本当に真理なのか。この世界においての答えがこの世の真理なのか」
「待って。話が終わらない。そうやって世界を疑って、何が残るっていうんだ」
「疑っているわたし。…デカルトっていう哲学者はそういった。それこそが心だと。ぼくの心で考えたけど、答えは出なかった。ぼくの結論は真理が存在する必要は無い、ということだ。ひとりひとりの価値観が違うのに、真理なんて見つかる訳がない。ぼくはそう思う。だけどこの社会は、これが模範だ。これが真理だと言い張って聞かない。この社会は人々の価値観を同じにしようとしているんだ。だからぼくは、この社会が嫌いだ」
窓の方を眺めて語るレイは、どこか悲しげな眼をしていた。
言い返すことができなかった。ただ、危ない思想だ、と思った。
それがぼくの心が考えたことなのか、この社会がそう思わせているのか、ぼくには分からなかった。