未来へ吼える。
時刻は既に夜だったが高緯度に位置するこの国はまだ薄明い。しかし空は、この国の人間には見飽きた曇り空だった。その遥か下に、数台の軍用トラックが高い塀に囲まれた屋敷の周囲に横付けされている。この屋敷の主はヘクター・ロックハートで、トラックの周りには黒の戦闘服に身を包んだ数多の人影があった。この時代の戦闘服は旧時代のものと比べれば薄く、体に張り付くような構造だが、要所には装甲板が取り付けられている。それに加え内部には防護、身体強化、体温の調整機能など数多の術式が刻まれており、性能と軽さを両立させた、現存の技術では最適のものだ。頭部は同じく黒のフルフェイスヘルメット。それは防具の効果を持つとともに、無線機が内蔵されている。さらには戦闘服の背面に取り付けられた各種センサーから得られた周囲の情報をモニタリングし、液晶代わりのシールドにそれらを視覚化して映す仕様になっている。腰のホルスターには銃剣付きの拳銃が左右に一丁ずつ。肩には兵種によってそれぞれ専用の装備が提げられていて、全てが黒に統一されていた。それら全てが、これから始まる査察が、ただのそれではないことを匂わせていた。
「諸君、報告がある」
ヘルメットに取り付けられた無線機から、簡潔な言葉が聞こえた。声の主は私邸の正門に停められた二台のトラックの内一台の傍に佇む青い国軍の勤務服を着た男。金髪を後ろに撫で付けた、ロウという識別名を持つ保安局の査察長官だ。
「初めに言ったことだが、ヘクターの私邸には結界想術が施されている。通常の手段では進入することは不可能だが、ドライの解析が完全ではないが今終わった。手順を踏めば中に入ることが出来るらしい。ただし、人数の制限がある。六人だ」
そこで一旦言葉を区切る。彼はヘルメットも、戦闘服も装備していない。それどころか拳銃の一つも持っていなかった。そのため、左耳に取り付けた。イヤーカフス型の小型無線機で、彼の声を傾聴する部下たちへと語りかける。不敵な笑みを浮かべて。
「つまり、これは招待状だ。我々四人の査察官に対する、な」
部下たちの動揺は感じない。旧時代には幾度も国家間の闘争があったと聞くが、人類が壁の中に居住するようになってからそれらは途絶えた。そうする余裕はもはやないのだろう。そのため軍人は実戦経験がほぼないが、保安局の特戦隊は違う。国家に巣食う過激派のテロリスト相手に、水面下で幾度も実戦経験を積んできたのだ。この程度で狼狽えるようでは、ここにたってはいまい。とうに屍と成り果てている。
「先鋒はドライとランス。私とジャバウォックは後発だ。諸君は厳戒態勢のまま私邸の周囲を警戒しろ。誰も通すな。このような結界を張った時点で、奴は黒だ。手加減はせん」
了解、と各隊の長の声が耳に入る。満足気に頷くと、もう一台の装甲車に佇む二人に視線を移した。
一人は他の構成員と同じく黒の戦闘服を身に纏った女。違う所は背部のバックパックとうなじの部分に取り付けられた排熱口が通常よりも大きなことと、武器だった。
腰の銃剣はなく、右手には同じく黒塗りの長い柄があり、その先には不釣り合いな小さな二等辺三角形が取り付けられた。それに刃は付いておらず、更には幅が厚いために、殺傷には向いていないと一目で分る。右手には既成品よりもシャープな造形のヘルメットを無造作に持っている。
対する一人はこの場に置いては異質だった。灰のタートルネックの上によれよれの白衣を着た男。戦闘員と装甲車ばかりのこの空間に、研究者然とした姿はあまりにも似つかわない。しかし、彼も査察官の一人だった。識別名はドライ。自他共に認める想術のスペシャリストだ。
「それで、中に入るための条件とは? ドライ」
黒の戦闘服の女、ランスが頭一つ分背の低い彼へと問い掛ける。問いにドライは白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、黒縁眼鏡の中の緑の瞳を歪めて笑った。粘つくような笑みで、それは愉悦によるものではなく、苦虫を噛み潰すような、そんな笑みだった。
「簡単だ。もしもし、いらっしゃいますか? と門の前で言うだけでいい。それを告げることで、一人づつ中へ入れる」
答えを聞くと、ランスは眉を顰めて表情に険を作った。心中に浮かんだ言葉を隠そうともせずに、
「馬鹿馬鹿しい……」
「そう言うな。これでも理にかなっていてな。上辺だけでも訪問の意思を示せば迎えてくれる。というわけだ。逆に、礼儀を持ち合わせない愚か者に開ける扉はないと、そういうことだろう」
兄貴のやりそうなことだ、と独り言を呟いたドライに、ロウが声を掛けた。それは単純な疑問によるもので、
「貴様は、家族の繋がりを捨てたのではなかったのか?」
その疑問に、ドライは笑った。口端を吊り上げ、黄色い歯を見せて。今度は心から哄笑する。
「ああ、捨てたとも。でもな、俺は気付いたんだ。捨てるだけじゃ、どうしても思い出しちまう。だからこそ、この手で断ち切りに行くんだ。兄貴との縁も、ロックハートという姓も。そうすることで俺は、真の違う人間になれる。そう信じている」
その言葉に、隣のランスは口を噤んだままだが、正面のロウは笑った。獰猛な獣のように。
「貴様が先鋒を望んだのはそのためか、ドライ。いいだろう、行け。法を盾に、その想いの牙で自分と決別しろ。縁を憎み、しかし渇望する己と決着を付けてこい」
イエス、ボス。と、仰々しくドライが頭を下げる。そして、自分の背後の装甲車をちらりと見た。あれは一体どうするのであろうな、と声には出さずに、想う。それもまた、想術師の性故かと、自嘲の笑みを小さく浮かべて。
●
正門をくぐって入ってきた二人の人間を、ヘクター・ロックハートは峻厳な瞳で見た。二人とも知った顔だ。一人は黒の制服を纏った女で、先日イーサンとステラに接触したランスという識別名を持つ査察官。彼女は右手にヘルメット、左手に持つ長い柄の武器は、おそらく想術兵装だろう。あれ自体が術式の媒介で、戦闘に特化したものをそう呼ぶ。通常兵器と違い術者の想いに威力が依存するため出力は不安定だが、はまれば強力だ。彼女の加速術に関係した術式が刻まれているだろうと、これまでの経験からヘクターは当たりをつけた。
そしてもう一人はよれよれの白衣を着た男だ。黒縁眼鏡越しに見える自分と同じ色の瞳は、最後に見た時と変わらず、弓なりに細められている。表情は見るものに嫌悪を抱かせる、粘つく笑みだ。
「よぉ、久しぶりじゃないか。兄貴」
気さくにこちらに掛ける声も、大仰に両手を広げる仕草も、今となっては全てが憎らしかった。共に研磨し合い、その中で何度も衝突し、何度も折り合いを付けたが、遠い過去の日々だ。あの日を境に決別し、更には忌むべき研究を続けていたと知った時は、憤怒という言葉すら生温いほどに憤った。
「ベネディクト……」
怨嗟を乗せてかつての弟の名を呟く。怒りを乗せた瞳で睨むと、彼はわざとらしく肩を竦めた。
「おいおい、そんな目で見るなよ。久しぶりの再開だろ? それに、あんたは今は責められる側。こんな回りくどい結界を張った時点で完全に黒だ。大人しくお縄につきな」
嘲笑混じりの宣告とともに、こちらへと中指を立てる。それに対して、隣のアレックスが一歩前に出た。彼は白の戦闘服に身を包んでおり、右脇にヘルメットを抱え込むように持っている。彼の体格だと戦闘服が着られているようにも見えるが、古い仲だ。その点については既に見慣れた。
「それは早急過ぎるであろう。きちんとお主たち査察官の入れる余地は設けた。節度を持たない連中に大挙して押し寄せれられるのは、誰だって嫌であろう?」
涼やかな、よく通る声だった。それを聞くと、ベネディクトがは、と声を上げて笑う。それがまた、神経を逆撫でした。
「なら、あんたのその格好はなんだ? アレックス軍曹。いや、今は元だったか? はっきりさせようぜ。やる気なんだろ? あんたらはこの査察は根拠のない、越権行為だと言う。俺たちはこの査察は正式な手順を踏んだものだと確信している。平行線だ。いくら話し合ってもらちがあかない」
後半の言葉で、ランスという女が俯いた。ただの犬ではないらしいが、ここに乗り込んできた以上。彼女にも彼女の意思がある。そういうことだ。
「平行線に立つ者同士が、一つの答えを出すのに必要なものはなんだと思う?」
ベネディクトが、こちらに問うた。ならばと思い、答える。おそらくは、二人とも、血を分けた兄弟が望む答えを。
「そうだな……。闘争だ。私たちが勝てば、保安局を不当な査察を行った罪で解体する。お前たちが勝てば、私はありもしない罪で更迭される」
「そうとも。あんたも望んでたんだろう? だからこそ、こんな回りくどい真似をしてまで俺たちを招き入れた。証人は当事者だけのこの無駄にでかい屋敷の中に」
互いに言葉を引き取り、二人で紡いでいく。あるべき答えの為に。前に立つアレックスが、ヘルメットを両手で持ち、装着した。微かな起動音とともに、うなじの排熱口から霊素光が吐き出される。ベネディクトの隣に立つランスも、片手でそれを装着する。
「いくら時代が流れても、結局はシンプルな答えに行き着くのさ。人間は」
「それは違うな。いつの時代にも、分かり合える者たちと、そうは出来ない者たちがいる。それだけだ。人は変わっていける。私とお前は後者だった。それだけだ。お前も、あの子を見て感じたはずだ。ベネディクト」
それには答えずに、ベネディクトが白衣を空へ脱ぎ捨てた。同時にそこから幾枚もの紙片が舞う。それらは薄明かりの中、存在を強調するかのように霊素光で煌めいていた。
「そんなことはどうでもいい! さぁ、決着を着けようぜ兄貴! あんたと、俺と、どちらが優れた術師なのかを!」
黄色い歯を剥き出しにして叫ぶかつての弟の瞳は、確かに血走っていた。眼鏡が霊素光を反射して不気味に光る。
ヘクターはただ静かに佇んでそれを見ていた。弟と同じ、しかし妻や息子とは違う緑の瞳を細めて。
「ああ、決着を着けよう。お前は確かに間違っている。そのことを、今から教えてやる。一人の術師として。そして、かつての兄として」
言い終わると同時に、世界が一変した。
●
同刻、薄明るい夜道を走る影がある。時折躓きそうになりながら、息を荒げ、それでも必死に走る。場所は内部隔壁の中、金持ちや政治家の私邸が多くある一等住宅地だ。青年にとっては五日ぶりに足を踏み入れた場所。黒の癖のある髪を揺らし、額に汗の玉を幾つも作りながら、それでも彼は走っていた。硬く手に握られているのは二枚の符。これは、彼の父親が持ってきたジャムとスコーンの入っていた袋の底にあったもので、中身を食べずに捨てようとしていた時、偶然発見したものだった。その意図に気付くやいなや、急いでスコーンを腹に詰め込み、家を飛び出した。元の材質が紙なため、既にくしゃくしゃになってしまってはいるが、まだ効力は失われていない。想術が使えなくとも、符を使うくらいならばは彼にも出来た。だからこそ、彼の父はこれを袋の中に忍ばせておいたのだ。
術式の説明は、同梱されていたメモに記されていた。これは招待状だ。父からの。お前のことはお前で決めろと、そう言っている。誰に何を言われようと、信じること、やりたいことを完遂しろと。
急げ、そう念じながら走る。前ならば想術の使えないこの体を恨んだだろうが、今は違う。メモには、こうも記されていたからだ。
――これだけは覚えておいて欲しい。お前は私に、何より母に、これ以上ない愛と、祝福を受けて生まれたのだ。だから、どうか自分を恨まないでくれ。
だから、恨まない。あの話を聞いた後、啖呵は切ったものの、落ち着いて考えてみれば、自分は肉親を殺してしまったのかと、そう考えて落ち込んだ。しかし、違うのだ。
想術が使えないこそ、想術に対して深く触れた。父の話が本当で、自分そのが化物の姿を模倣するほどの高密度の霊素を纏ったとしたら、
――間違いなく生きちゃいない。
ならば、何故自分は生きているのか。それは、母が護ってくれたからだ。強い想いで、死の間際に、どうか無事でいてくれと。
それを父が伝えなかったのは、おそらく後ろめたさと、自分で気づいて欲しかったからだと思う。他人から聞かされるまま受け入れることと、しっかりと事柄を理解し、自覚することは違う。今まではその違いがわからなかった。しかし、今ならばわかる。そう自覚させてくれた人たちがいたからだ。
とうに体力の限界は来ている。高級住宅地な分、ここに住む人々は例外なく自家用車を持っていて、交通の便は悪い。最寄りの駅からもう一時間以上も全力で走り続けている。ペースは確実に落ちている。しかし、金色の瞳は、確固たる意思で前を向いていた。
急げ。たとえ術が使えなくとも、そう思わざるを得なかった。そう念じれば少しでも早く、目的地へ辿り着ける気がした。
●
二人ずつ隔離された結界の中で、ランスとアレックス・リーは対峙していた。この結界を構成する符は先日に用いたものとは質も量も段違いだ。それに、大多数の中から特定の人物を引き込むものでもない。広さは三十メートル四方で、効果時間も三十分をゆうに超える。
白い戦闘服を来た男の表情はヘルメットで覆われているため判別できないが、動きを見る限り動揺した様子はないようだ。大方読み通りだったのだろう。既に老年の域へ達しているはずだが、そんな雰囲気は微塵も感じさせない大柄な男はぶっきらぼうに言う。
「なぁ、降伏せんか?」
予想外の一言に、呆気にとられた。しかし表には出さない様に努める。既に此処は戦場だ。そして敵は、先日相手にしたものよりも遥かに危険だと、彼女はそう認識している。
「お主、先程の遣り取りを見る限りでは押し入りに賛成しかねる様子だった。そのきっかけを作ったのはお主だが、この結果は望むものではなかった、そうだろう?」
査察を押し入りと言い切る声音は涼やかで、よく通るものだった。更には心中を見抜かれていたことに、なんとも言えない感情を覚える。しかし、引く訳にはいかない。不本意とはいえ、この任務に同行した以上は責任がある。ましてや口火を切ったのは他ならぬ自分だ。
「それは出来ません。確かに貴方の言う通り、この結果は不服です。しかしこうなった以上。私は私の仕事を完遂する。この名の通り槍として。たとえ持ち手がいかなるものであろうとも」
降伏しろと言われて、はいそうですかとは言えない性分だ。意地もあったが、何より、
――私の力を試したい。
向い合って立つ人物は、この国に住むものなら誰しもが知る英雄だ。かつて存在した海軍の外界開拓班の一員として活動し、ルーインを相手に戦い、生き抜き、同じ班員の命を幾度も救った。成果こそ上げられなかったが、その活動は壁内に住む人々に希望を与えた。そしてある日に軍服を脱ぎ、隠居したのだった。
「言うではないか。張りぼての戦士が。ならば迷いは捨てろ。一振りの槍として、この儂を貫いてみよ!」
笑声とともに、アレックスは告げた。それが意味するものは嘲りでも皮肉でもない。こちらを同じ戦士と認め、対等に戦おうという宣誓だった。
初めての経験だと、ランスは感じる。これまで幾度となく従事した任務は掃討戦と言うべきものが殆どで、自分は常に狩る側だった。保安局に所属される前も、女だからという理由で、遺憾無く力を発揮出来る場所は用意されなかった。技術の進歩によって、戦場における男女の差異など殆ど無いにも関わらず、だ。
そして今、それが用意された。自らが憧れる英雄が、自分を認めてくれた。形容しがたい感覚に、体が震える。これが武者震いというものだろうか。
「行きます!」
勢い良く、言葉とともに踏み出した。そこにはもう迷いも、懸念もない。否、それらは抱くことすら許されない。だからこそ、言葉に出して振り払った。長柄の槍を両手で持ち、先端に取り付けられた三角形を相手に向ける。
応、という豪気な声音が、空気抵抗を抑える形に造られたヘルメット越しに聞こえる。
その頃には既に、ランスの射程だった。三角形から藍色の光が迸る。霊素によって形成された長大な刃に全力の加速と意思を乗せて、彼女はそれを振り抜いた。
●
もう一方の結界の中は、既に死闘の最中だった。二人が立つ場所は元は石畳だったが、結界に囲われた三十メートル四方の内部で無事はものは一つとなく、その全てが破砕し、捲れ、露になった地面は歪な形に隆起していた。無論互いも無事は済んでいない。ヘクターの着ていた純白のスーツは土埃に汚れ、所々がほつれて焼け焦げていた。対するドライも右頬が深く裂けており、眼鏡には細かいひびが幾つも刻まれている。
「意外じゃねぇか。そんな術式を組んでたとはよ」
ドライが笑みを深くする。それに伴って、頬の傷が歪んだ。同時にどろりと血液が溢れるも、気にする様子はない。まだまだ余裕はあるようだ。
「似合わねぇ、似合わねぇなぁ! あんたは俺と一緒に、シェリーを殺したんだ。なのに、よくもまぁそんなことを思いついたもんだよ!」
罵声だった。それには答えない。膝を曲げて屈むと、左手で破砕された石畳に触れる。途端、薬指に嵌めた指輪から霊素光が起こった。想術が発動する前兆だ。無表情のまま、しかし双眸に強い光を宿して、対面の弟を見据える。
「謝罪は続けているとも。シェリーは死んだ。私が殺した。これは償いきれない事実だ。だが、二人で過ごした歳月と、積み重ねた思い出は無に出来ない。してはいけない。罪の意識に溺れて、それのみに拘泥することを、私は愚かだと思う。私たちは、共に笑い合えていたのだから」
今では世界で二番目に大切なこの指輪に刻まれた術式は、過去に妻と過ごした思い出を引き金にして、触れたものへ自らの意思を投影するものだ。彼女との関係を劇的に変えることになった意思疎通の術式を元に構築した。ヘクターにとっての最高傑作。
大地が光とともに炸裂した、触れた石畳の欠片は霊素に導かれ、その全てがドライへと吸い寄せられるように飛んでいく。
対するドライは腰の後ろに右手をやり、そこにある小型のポーチから防護の符を取り出して、無造作に投げる。防ぐべき対象を自動で認識する術式も加えられているであろうそれは石片と彼の間に割って入り、衝突の瞬間に小気味の良い音を立てて両者が砕けた。
おかしい。ヘクターはそう思わざるを得なかった。この戦いが始まってからドライで符しか用いておらず、自分の術式を表に出してはいない。ヘクターが知る彼の性格上、符の使用は最低限の補助のみで、自身の研究を用いた術式を多用してくると思っていたのだが、何か考えがあるのだろうか。
「不思議でたまらないって顔してるじゃないか、兄貴。表情には出てなくてもな、わかるんだよ」
その言い様が癇に障る。嘲笑混じりの挑発には答えない。答えると、余計な言葉も出てしまいそうだったからだ。こちらの意図を知ってか知らずか、ドライは言う、この上ない得意顔で、その疑問に答えてやるよ、と前置きする。
「たった一度の失敗で怖気づいた臆病なあんたとは違う。これが、俺の研究の集大成さ。こいつを、俺は制御できた。完璧に、人の身のままな!」
言うと同時に、右手の袖を肘まで捲る。彼の手首から肘までが、びっしりと刺青で覆われていた。元の肌の色は、全くと言っていいほど見られない。そしてその中央には、小指の大きさ程度の、漆黒の破片が埋め込まれている。それは、ヘクターにも見覚えがあるものだった。
彼が持ち出した、禁忌の破片の一部だった。それは僅かに脈動している。弟は愚かにも、その身に畏怖される力を宿したのだ。刺青は全て、それを制御するための術式だろう。
「馬鹿者が……!」
表情を歪める。歯を強く食いしばり、彼に向かって身を躍らせた。指輪を嵌めた左手で彼の右腕に触れれば術式へ干渉できる。弟を止めるためにはそうするほかなかった。
頬の傷は、いつの間にか塞がっていた。腕に刻まれた刺青が霊素光で明滅する。
そして、ヘクターの体が一直線に吹っ飛ばされた。結界の境界に受け身も取れぬまま叩きつけられ、視界が揺さぶられる。スーツの下に仕込んだ大量の防護の符で外傷は免れたが、衝撃までは殺しきれなかったらしい。
目の焦点が定まった時、ドライの右肘から下は人の形を成していなかった。
赤黒く脈動する人外の腕からは鋭い棘のような爪が伸び、手の甲から肘までは半月形の鋭利な刃がせり出している。見た者全てに嫌悪と忌避と畏怖を与えるその主は、荒い息のまま黄色い歯を剥き出していた。自分と同じ緑の双眸が、ひびの入った眼鏡の奥で狂気に炯々と輝いている。
「どうだ、兄貴……。美しいだろう? 俺はこの力で、あんたを殺す。ガキの頃から常に渇いていた俺は、捨てた姓も名も、縁も! 全てこの手で断ち切るんだ。そうすることで、この飢えのような渇きから俺は解放される! 俺は、違う俺になれるんだ!」
そう叫びながら高く笑う声が、曇天の空に響いた。それに呼応するように、ぽつぽつと、小雨が降り始める。この結界の壁はある程度の高さはあるものの、上空は遮断されてはいない。小さな雨粒がヘクターの頭を打った。予報では、この後には豪雨になる。この国では小雨はよく降るが、豪雨となるのは珍しい。
雨粒に晒されながら、両手を肘に当ててヘクターは立ち上がる。そして、血液混じりの唾を吐き捨てた。若い時と同じように。
「あいにく、たやすく殺されるような安い命は持ち合わせていない。そして、私とて軍曹と同じ元壁外開拓班だ。人外の相手は慣れている。貴様に人の心が一片も残っていないことはよくわかったよ。イーサンともあの少女とも違う、貴様は正真正銘の化物だ」
啖呵を切って、笑うドライを睨めつけた。残っていた微かな慈悲も、彼の姿と言葉を聞いた途端に消え失せた。ここからはお互いの存在を賭けた殺し合いだ。妄執と確執に支配された怪物に対して、ヘクターは走る。軍属を抜けて久しいが鍛錬は欠かさず続けてきた。そのおかげだろうかか、ダメージの残る体は思った以上に軽い。
●
軍用トラックの荷台に取り付けられたシートに座るロウは、向かいに座る少女の肩が大きく跳ねたのを視界の端で見た。黒の戦闘服に身を包んだ彼女はヘルメットを脇に置き、揃えた両膝に重ねて置く自らの手を、じっと見たまま石の様に動かなかった。そう、今までは。だからその分、不自然な挙動が目立つ。読んでいた文庫本から目を離して、向かいの少女へ顔を向けた。
「どうした?」
その問いに、少女はゆっくりと顔を上げてこちらを見る。桃色の瞳は硝子玉のようにこちらを反射するばかりで、何の感情も測れない。彼女が本部に来てからはドライに全て処置を任せたが、それは上手くいっているようだ。
「――彼が、来るわ」
僅かな沈黙の後に、少女は言った。彼とはおそらく、イーサン・ロックハートのことだろうか。否、そうに他ならない。少女と奴には同じ遺伝子が刻まれている。そのため互いの存在を感じ取ることができるのだろうと、ドライは言っていた。
――しかし、何故だ。
そうロウは思案する。先日に会い、打ち据えた青年は弱く、不安定だった。そして何故か、ロウは彼に嫌悪を抱いたのだ。そのためにジャバウォックのみを回収したのだが、少女の言葉に、ほんの僅かな間しか見ていない彼へと再び腹立たしさを覚える。青年はその忌まわしき術式を封印されたのだと聞いた。何の力も権威もない一般人が、何故この場に来ようとするのか。
左の手首に嵌められた時計を見ると、ドライとランスが邸内に入ってから二十分が経過しようとしていた。結界の時間が過ぎるまでは二人に任せようと思っていたが、事態が変わった以上、こちらも動きを変える必要がある。そう思い、立ち上がった。青を貴重とした国軍の勤務服の襟を正しながら、座ったままこちらを見上げる少女へと告げる。
「作戦変更だ。中に入るぞ。奴らが結界にいる以上手出しは出来んが、六つの席は全て埋めておく。用心のためにな。その後は屋敷の中に入り、家宅捜索だ。無駄骨に終わるだろうが、形だけはとっておく」
そう告げて踵を返し、装甲車より降りる。背後の気配を察するに、少女も立ち上がったようだった。振り返ることはせずに、真っ直ぐ正門へと向かった。
●
白と黒。互いに対照の色の戦闘服を着た戦士たちの戦いは、激化の一途を辿っていた。
黒の戦闘服を着たランスは、文字通り縦横無尽に舞っていた。地を蹴り、もう一つの足場形成の想術で宙を蹴る、バックパックに大量に内蔵された小型の身体冷却と慣性制御の符を用いて、常に正面にアレックスを捉えている。通常の使用頻度であれば半日は継続使用が可能な符の残量は、たった二十分で残りの三割を切っていた。身体への冷却効果は間に合っておらず、戦闘服に覆われた体は熱く、汗にまみれていた、髪までずぶ濡れだ。
しかし、そこまで体を酷使し、出来うる限りの体捌きと術の行使をもってしても、未だに彼には傷一つ付けられてはいなかった。
――硬過ぎます……!
そう、自身の力が及ばないことに唇を噛む、汗の味がする。だが、気に留めている余裕はない。
アレックスの想術もまた、本人同様有名だった。内容は笑ってしまうほど単純で、自負の分だけ体を硬質化させる、だ。厳密には体ではなくその周りに霊素の壁を纏うもので、視界の中央の白の戦闘服は淡く発光している。
正中線を狙った槍による最初の一撃は、霊素で構成された刃が硝子のように砕けたのみで終わった。ランスの両手に持つこの想術兵装も、前に進む意思の強さだけ光の刃を形成する。それだけでも通常の戦闘では十分な威力を発揮するのだが、もう一つ、加速すればするほど刃の貫通力が増す性質も持ち合わせている。後者の原理はよくわからないが、これを開発したドライ曰く、偶然誕生した想術と科学のハイブリッド品らしい。自分のために造られたワンオフの装備だ。その名が示す通り、国家の槍となるための。
アレックスは武器を持たず、徒手だ。兵装も戦闘服のみで、総合的に見てもこちらが有利。しかし、経験と対応力の差で、ランスは有利を取れずにいる。
目で追えない速度で立ち回っているのにも関わらず、予測を付けて未来の自分へと攻撃を仕掛けてくるのだ。信じ難いが、そうとしか思えない。そしてその予測は針の穴を通すほどに正確で、何度も姿勢の転換を余儀なくされる。そのため、加速が乗らない。相手は知らないだろうが、それが結果的に武装の性能を殺してしまっている。否、殺されている。
今もそうだ。宙を三度蹴り、撹乱の動きも入れて背後に回ったにも関わらず、着地の習慣に拳が上から降ってきた、斜め前に加速を入れてかわしたものの、横目で見た彼の拳は轟音とともに地面を抉っていた。捕まったら終わりだ。戦闘服に内蔵されている防護の術式も役には立たないだろう。
初めの方は当たっていたこちらの攻撃も、今では全ていなされている。当たった所で現状では通りはしないのだが、気持ちの持ちようは変わる。想いが力となるこの世界では特に。
だが、挫けてはいけない。それは許されない。意地と礼儀だ。相手も全力を持ってこちらをねじ伏せに来ている。及ばない自分は、全力では駄目だ。そう気付かされた。限界を超えなければならない。それで及ぶかどうかすらわからない。しかし、やらなければならないのだ。
「どうした。もう終わりか?」
正面に立ったまま動かない自分に、肩を回しながら涼やかに告げる。声にはまだ余裕があった。これまでならば、突っ込んできて一撃を相手は見舞ったはずだ。そうしないのは、こちらの心境の変化を感じ取ったからだろう。ヘルメットの中で、ランスは笑った。不思議と、自然に出た笑みだった。汗に濡れ、息は荒い、自分の鼓動が体を揺らす錯覚すら覚えている。しかし、心は不思議と穏やかだった。
「もう、避けません」
必死に息を整えて、そう宣言する。続けて、
「今までの戦い方では、貴方に決して敵いません。だから、変えます。私はもう逃げません。真っ直ぐに正面から、この名の通り貴方を貫きます。次の一撃に、私の全てをぶつけます」
声に出すことで、覚悟が決まった。ヘルメットを被る彼の表情は濃いシールドに覆われていて、窺い知れない。しかしなぜか、笑っているように見えた。その形すら想像できた。
「いいとも。未熟な戦士よ。この老骨に持てる全てをぶつけてこい。己の想いを全て乗せて!」
頷く。自分は挑む意思を告げ、彼はそれを受けた。意地の張り合いだ。この約束を違えることは許されない。
そうして、彼に背を向ける。戦闘服の足裏に刻まれた術式は、確かに発動した。
そのまま結界で構成された壁を駆け上がる。そのまま一番上まで。そこに達すると降っている小雨の雨粒を地と断定して足場を形成し、改めて彼を見た。こちらを見上げる老練な戦士に一言、今度は先程とは比べ物にならぬ程の覚悟と、想いを乗せて、
「行きます!」
同時に、足場が消滅した。大気などを地と断定して足場を形成する場合、その効果は一瞬だ。今は雨粒のお陰で多少はマシになっている。一度そこを蹴りさえすれば効果時間は関係ないのだが、やはり少しでも長いほうが強く蹴れ、その分加速が乗る。自分にとってこの雨は僥倖だった。
そうして、落下するように結界の壁を駆け下りる。直角に曲がれば速度が落ちるため、後半は宙を土台にしてなだらかなカーブを描いた。そうして石畳へと足がつく。確かな感触を足裏に覚えながら、今までよりも強く蹴った。身体冷却の符が光の軌跡を描く。ランス自身も体感したことない速度だった。液晶代わりのヘルメットのシールドの速度計が危険域を示し、アラートを鳴らす。多大な風圧に戦闘服に内蔵された防護の符が起動し、霊素光が視界を妨げる。だが、それは些細な問題だ。標的はこの先にいる。自分は真っ直ぐに進むだけだ。
ふと、様々なことが頭をよぎった。保安局という組織の抱える矛盾と、それを許せない自分の葛藤。結局、初めての政治への介入がこの不当な査察だ。愚かだったとそう思う。妹のために、何より自分のためにいつかを信じ続けた自分が。イーサン・ロックハートには本当に申し訳ないことをした。あの時は彼に対して腹を立てたものだ。士官学校に在籍していたジンジャーから定期的に届く手紙には常に彼のことが記されていて、きっと妹は彼に恋をしていたのだろう。相談に乗ってやりたかったが、その手の話には生憎疎かった。だから彼が少女と仲良く街を歩いている様を見た時、憤った。本来ならば妹が彼の隣にいるはずだったのに、そうはならなかったことと、彼がのうのうと、妹が享受できなかった未来を満喫していることに。
――でも、そうではなかったんですね。
ロウが少女を保安局へ連れてきた際に、聞かされた。彼が今でも悔やんでいることと、ジンジャーへのただならぬ想いがあったこと。その時の少女の口調は怒っているようにも見えた。大事な人の前で見られたくない姿を晒されたことに対する怒りもあるようおだったが、何より、自分が彼に抱いていた感情を見透かされていたらしい。
藍色の刃は肥大を続けている。それは頭によぎった様々な想いが、前に進む意思と繋がっていることを示しているのであろうか。
そこまで考えた所で、ランスの間合いに入る。長柄の武器を持っている以上、体格の差があるとはいえ彼女の方が間合いが長い。しかし、まだだ。まだ加速は乗り切っていない。片手で柄の根元を掴み、武器を後ろに回しているのは、最短の射程で最大の加速を乗せるためだ。
一歩を踏み込む。そこでアレックスの間合いに入った、体全体を使って放たれた拳は、正確にこちらの顔面を狙っている。ありがたいと、そう思う。向こうは女だからという理由で手を抜いたりしていないということを、はっきりと示してくれた。正面から打ち合おうと、この拳はそう言っている。
ぐ、と足の拇指に力を込めた。此処で左右に体を振るのは簡単だ。だが、そうしてはならない。背を曲げる。深く、深く。膝を落としては速度が落ちる。だから、膝に垂直になるほど、上半身を落とした。そしてまた一歩を踏む。
風切音を伴って、拳が頭の上を抜けた。顔を上げると、逆の拳が構えられている。至近だ。今度は抜けられない。そして、抜ける気もない。一歩を踏む。そして、相手の懐に潜りこんだ。速度は十分乗せた。後は後ろに回した槍を振り抜くだけだ。
「うああああああああああ!」
全ての想いを乗せて、叫びとともに振り抜いた。彼の鋼鉄の拳と、想いと速度を乗せた刃が交わる。瞬間、眼前が光で溢れた。
●
かつてはベネディクトという名を名乗っていたドライは、妄執と確執に飲まれたはずの心に、それとは違う奇妙な感覚が芽生え始めたのを感じた。
右腕は人のそれではない。かつて存在した最強最悪の異族の破片をベースに、渇望の想いによってその力を顕現させた。その力を使いこなすために、基礎的な鍛錬と、更に身体強化の符も用いている。そのはずなのだが、
――当たらねぇ。
決殺の一撃が、遠かった。身体には疲労が溜まり、額には汗の玉を浮かべてる。当たらないどころか、術式の刻まれた指輪を嵌めた左手に右腕を触れられ、干渉されて術自体が解除されたことも一度や二度ではない。
その度に、かつての兄だった男の意思が頭の中に流れ込んできた。彼の持つ想いは、術を解除するための制止と、そして何よりも大きな悲哀だった。
先程のこちらの術を見た兄の瞳に込められた感情を、ドライはよく知っている。本気で怒っている時の兄だ。あんな目を見せたくせに、彼はまだ情を捨て切ってはいないのだ。
――ほんとに甘い男だよ、あんたは。
口には出さずに、そう思う。だが、それも含めて彼の強さなのかもしれない。不意打ちを入れたはずのダメージの残る体で、こちら以上の動きを彼は行ってくる。再び右腕に触れられそうになると、慌てて体を引いた。
自分にとって、兄は目標だった。幼い時から常に背中を追いかけてきた覚えしかない。だが、彼はこちらが助けを求めていた時は振り向いてくれた。学校で虐められていた時に、共にいじめっ子たちに殴りこみをかけたのはいい思い出だ。その後に兄は世界を巡る旅に出て、自分は残り研究を続けた。帰ってきた時に自分の成長ぶりを驚かせてやろうと。そして家の中を漁っていた時に、あの異族の欠片と、それに関する情報に触れた。そしてしばらくして、兄がシェリーを連れて帰ってきたのだ。
あれにはすこぶる驚いた。朴念仁の彼が嫁を連れて帰ってくるなど、想像もつかなかった。そして馴れ初めの話を聞いて大笑いした記憶がある。
シェリーは優しかった。兄と二人で遅くまで研究をしていた時などは、よく夜食を持ってきてくれたものだ。あれがまた、美味かった。そして兄とシェリーが笑い合っているのを見て、羨望を覚えたものだ。
――いかんな、戦闘中に余計なことをつらつらと。
余計な想いは術を鈍らせる。だが、一旦堰を切って溢れたものはどうしようもなかった。はは、と不意に笑い声が出る。同時に、兄がぎろりとこちらを睨んだ。怖い顔だ。左手でポーチから爆砕の符を取り出し、投げる。距離を取るためだ。
そして、イーサンが産まれた。甥の誕生したあの日を、今でもベネディクトは鮮明に覚えている。忘れることなどできるものか。
彼が生き永らえたのは、奇跡以外の何物でもない。シェリーの無償の愛だ。そして兄が研究を凍結すると決めた時、自分は反対した。封印を施したとはいえ、イーサンの術式は不安定だ。彼のために研究を続けて、安定化させる方法を探さねばならない。それが、シェリーや両親に報いることだ、と。だがそれも突っ撥ねられた。だから、勝手に資料を持ち出したのだ。
――ああ、そうか。そうだった……。俺は……。
道を違えたのは、いつからだったのだろう。当初の目的を忘れて、目の前の成果に没頭したのは、いつからだったのだろう。
――だから俺は、渇いていたのか。
どうしようもねぇなと自嘲する。過ぎてしまったことだ。今更悔やんだところで悔やみきれるものではない。悪魔の研究の成果に、喜びを覚えていたのも確かなのだから。
今の自分にあるのは、何だ? そう自問する。そして、自答する。それは、このどうしようもない渇きだけだと。ならばそれを満たすものはなんだ? 再び自問する。縁を断ち切ることによってそれは満たされるのか? この人外の右腕で兄を屠ることによって、自分は幼少から覚え続けた渇きから解放されるのか?
――……わかんねぇ。
思考を放棄するのは術師としてどうかと思う。だが、今心中に湧き上がる思いがあった。
同じ家で生まれ、同じ姓を授かり、しかし同じ位置に並ぶことは敵わなかった目の前の兄。今も、確実に自分は劣勢だ。この身に知りうる最大の力を宿してなお、彼は遠い。
――勝ちてぇなぁ。
びき、と右腕に痛みが走った。何事も完璧はない。何度も術を解除され、それと同じ回数展開し直した。制御の術式は弱まり、異族の力は自分から離れつつある。既に、肩の付近までが赤黒い肌へと変質していた。左の視界に赤の霞がかかりつつある。
だが、堪えた。化物としてではなく、術師としてでも、弟としてでもなく。一人の男として、
――勝ちてぇよ。
そう思い、笑う。体中に脂汗をかきながら、表情にはっきりと苦悶と疲労を濃く刻みながらも、笑った。虚勢だ。しかしないよりはいい。右腕の痛みが、少しはマシになった気がする。ほら見ろよ、と心中で得意気に呟いた。
兄が身を翻す。体勢は低く、こちらの懐に入り込む動きだ。それから引くことはせずに右腕を大きく振り上げた。そして、叩き付ける。渇望の想いを込めて。
●
光の爆発は二つの結果を呼んだ。一つはランスの槍の刃を、アレックスの拳が確かに砕ききったこと。そしてもうひとつは、アレックスの手の甲から肘までが深く避けたことだ。白の戦闘服が破れ、褐色の肌と深い傷口が晒される。そこから溢れた血液が二人の間の石畳を汚した。
「――まことに天晴」
拳を戻すと、アレックスは心からの賞賛を贈る。痛みはあったが、表には出さない。そのまま、無事な手でヘルメットを脱いだ。褐色の素顔を晒す。頭に当たる小雨が、戦いで熱した体を冷やした。それが心地いい。
その言葉に、ランスは脱力した。そのまま膝から崩れ落ちる。
「通ったのですね、私の意思が。貫くことは叶いませんでしたが」
荒い息のまま告げる言葉には口惜しさが溢れていた。その態度も見事だと、アレックスは思う。今は刃の展開されていない槍を置き、疲労の濃いであろう体を重たげに動かしてヘルメットを脱ぐ。藍色の髪まで汗に濡らした顔がこちらを見上げる。そして、唇を噛みながらゆっくりと瞳を閉じて、俯いた。
「……私の、負けです」
その言葉を、アレックスは大きく頷いて受け入れる。
「左様。お主は既に補助の符を使い切り、術をこれ以上行使できん。だが、儂は違う。故に、儂の勝ちだ」
返す言葉にぐ、と、地面に置かれた拳が硬く握られた。今こそ勝ったが、いずれこの娘は自分を越えていくだろう。否、越えていかなければいけない。それが、若い者の義務だ。そしてそのための環境を作ることが、年寄りの義務だろう。見下ろす彼女は、確固な意思をまだ失ってはいないのだから。
「しかし、アランの娘が随分大きくなったものだな」
達観するような笑みとともに、目下の彼女へと告げる。紡がれた名は彼女の父のものだ。十二年前に戦死した、アレックスにとってもかけがえのない戦友だった。
はっと、彼女が顔を上げる。震える声で、絞り出すように、
「父のことを、覚えておらられたんですか……?」
その言葉を聞くに、向こうも自分のことを覚えていたらしい。フラー家にはよく飲みに行った仲だ。そこで、二人の娘とも遊んだ記憶がある。どちらかと言えば妹の方が活発で、姉は少々人見知りなところがあった。しかし、こうして成長した姿を見ると、不思議な感慨を覚えるものだ。相手が覚えていてくれたこともまた、嬉しくある。
「当たり前だろう。アランとは言い飲み仲間で、かけがえのない戦友だった。あの時、助けられれば良かったのだが……。お主も難儀な境遇よの。家族が全て引き裂かれてしまったのだから……」
言葉にランスは俯くが、ゆっくりと首を振った。再びこちらに向けた表情は微笑で、声音は震えたままだったが、口調は確かなもの
「いいんです……。確かに悲しいことですけど、父も、妹も、彼らが大事に想っていた人々が覚えてくれている。それだけで、救われます。それに、まだ病院で療養中ですけど、母は存命ですから……」
儚げな笑みだった。それを見て、強い娘だと思う。そうやって己の中のわだかまりを受け入れ、完全とはいかずともある程度は精算出来たからこそ、彼女の槍は己の自負に勝ったのだろう。
彼女に向かい合うように座ると、ヘルメットを地に置いて、その手で頭を軽く掻いた。そして、ランスの潤んだ瞳を覗きこむようにして、豪気に笑む。
「では決着が着いた所で、これからの話をしよう。この壁が消えるまでまだ時間はある。今後を整理するには早い方がいいだろう?」
そう前置きして、ヘクターと決めたことをランスへと話し始める。いずれ自分たちを越える責務を持った若者に、そのための環境を提示する話を。
●
振り下ろされる人外の魔手は、ヘクターには届かなかった。ベネディクトの心臓に当てられた左手の指輪が霊素光を帯びる。伝える想いは破壊だ。シェリーと二人で、照れながら馴れ初めの話を弟に話した時の思い出を乗せて。掌底を放つ。
確かな手応えとともに、が、と苦悶の声が聞こえた。同時に彼の口から吐き出された血液が峻厳な顔立ちへと赤い点を残す。それで終わりだった。力なくベネディクトが、剥き出しの地表へ大の字に倒れこんだ。
「ベネディクト、お前は……」
術を発動して弟に触れた時、彼の様々な想いが伝わってきた。本来ならばこういう効果は発揮しないはずだが、何の因果だろうか。それとも、今は霊素に還ったシェリーがそうしたのか。
「お前は、愚かだ。間違いを認め、それを償うために歩き出したはずなのに、結局は溺れてしまった。そしてそれは、私が兄として向き合えなかった責任もある」
はは、とベネディクトが笑う。その度にひどく咳き込み、口腔から血液を溢れさせた。こちらを見る瞳は焦点が合っていないように見える。破壊の意思を全力で伝えたのだ。殺すつもりで。そうせざるを得なかった。手加減する余裕などはない。
「何のことだか、わかんねぇなぁ……兄貴。……おれは、あんたに、勝ちたかっただけだ……。はは、結局、こうなっちまったが……」
苦悶の表情を浮かべながら、それでも弟は笑った。もう長くはないだろう。だからこそ、伝えることがあった。
「私はお前を下に見たことなど一度もない。血を分けた弟としてだけではない。同じ想術師として、そして友として、何より男として、お前を尊敬していた。お前と同じように。あの時までは」
佇んだまま見下ろす弟の顔が歪む。馬鹿者が、と下ろした両の拳を握った。
「本当に、残念だ。お前と、もっと話し合うことが出来ていれば……」
やめてくれよ、とベネディクトが言う。表情は歪んだまま、泣いているようにも見えた。そして彼が大きく咳き込み、体が上下に跳ねた。
「……今更たられば言ったって、何も変わらねぇ……。あんたは、おれにとってのあんたは、そうじゃねぇ……。いつでも胸張って、自分も他人にも厳しくて、こんな人になりてぇなぁって、思わせるような男だ……。綺麗な嫁もいてな……。だから、違うだろ……。なぁ、兄貴……」
握った拳が痛かった。胸に詰まるものがある。いつから弟は劣等感を覚えていたのだろうぁ。イーサンの時と同じだ。想うだけでは駄目なのだ。きちんと話し、伝えなければ、真意は汲み取れないこともある。どうしようもない後悔だった。
「本当はな、あいつのこと……洗脳する気だった。だがよ……その前に伝えたいことがあるとか抜かしやがって、あのガキ……。おれに、イーサンと出会わせてくれて、造ってくれて、ありがとう、だと……。笑えるぜ……はは……。おれがどんだけあいつらに酷いことをしたのか、わかってるはず……だろうに。ありがとう、だってよ……。馬鹿じゃねぇの……。だから、とことん苦しめてやろうと思って、何もしてやらなかった……」
あいつとは、あの少女のことだろう。こちらを見ていたはずのベネディクトの双眸は、既に虚空を向いていた。懺悔のような独り言を、ヘクターは唇を噛んで聞いている。
「なぁ、イーサン……、来てんだろ? この家に張られた結界は、中に入れる人数が七人分だった……。一人だけ、合言葉を言わずに、裏口から符を使って入れるように……。ロウには言わなかったが……あのクソガキは気付いてるはずだ……、イーサンが、来てるなら……。どうするんだろうな、あいつら……楽しみだぜ、はは……。イーサンのこと、おれは知らねぇが……あいつは、無駄に頭の回る馬鹿だ……。なぁ、兄貴……」
ベネディクトも欠片を埋め込んでいる以上。イーサンが来たことは察知しているはずだ。彼の独白は、既に触れた際に流れ込んできた事柄で、知っている。
「案ずるな。イーサンも、あれは大分母親似だが、私の息子だ。そして、お前の甥だ。馬鹿者だよ。しかし、奴は自分の足で歩くことが出来るようになっている。心配はいらない」
誰が心配なんかするんだよ、と弟が毒づいた。それが最期の言葉だった。その面に笑みを貼り付けたまま、動かなくなる。ヘクターは弟の傍らにしゃがむと、開いたままの瞳をそっと、閉じてやる。すると、ドライの識別名を持つ弟の目尻から一粒の涙が溢れた。
馬鹿者が、と呟く。この事実すら抱えて、乗り越えるしかないのだ。それが残された者の義務だった。
結界が解けるまであと十分少々。息子の身を案じながらも、信じることしか出来ないのが歯痒い。だがきっと、彼ならば最良の結果を出すだろうと、確信していた。自分たち兄弟が出来なかったことを背負い込ませるのは酷だな、と自嘲しながら。
●
「予想外の出来事だな」
場所はヘクターの屋敷の二階。天井に取り付けられた幾つもの電灯が、豪奢な絨毯が隅まで敷かれた長い廊下を照らしている。その端で、ロウは忌々しげに呟いた。窓から硝子越しに見る庭は上の面が空いた大きな正方形が二つ鎮座している。そのうち一つの中にいるはずのドライに嫌味の一つでも言ってやりたがったが、生憎結界内で通信機器は使えない。あの中は外部から隔離された空間だ。
そうして窓から視線を戻す。彼の足元にはまだ固まっていな血液が点々と絨毯を汚している。それはロウのものではなく、廊下の壁に凭れ掛かる青年のものだ。
「何故貴様がこの中に入れた。イーサン・ロックハート。私は、確かにジャバウォックと邸内に入った。そこまではいい。なのに何故、本来いるはずのない貴様がここにいる?」
彼の右腕はあらぬ方向に曲がり、青黒く変色していた。唇は深く切れている。黒い半袖のシャツはそこから出る血液によって色を濃くしていた。
その問いにイーサンは答えず、無事な左腕をジーンズのポケットに伸ばす。取り出されるものは煙草の箱と電子ライターで、荒い息でそれを咥えた。
その行為が、ただ苛立たしかった。火を点ける前に、腹を鉄板の埋め込まれた軍用ブーツで蹴る。息の詰まる音が聞こえ、唾液混じりの血液とともに苦悶の声を漏らした、煙草とライターが絨毯の上に落ちる。そして、左手で腹を抑え大きく咳き込んだ。
「何の力も持たないガキが、何をしに来た! 貴様はただ己の無力を呪い、自己嫌悪のままに引きこもっていればいい。それが貴様ら平民の務めだ! わかるか、イーサン・ロックハート。この舞台に貴様は不要なんだよ!」
胸倉を乱暴に掴むと、引き上げる。傷の痛みに脂汗にまみれた顔を顰めながらこちらを見る金の瞳は、力を失っていない。彼は唾液と血液で汚れた唇を開いて、掠れた声で告げる。
「それを確かめに、俺は来たんだよ……。そしてそれは、あんたが決めることじゃない」
にやりと、口端を歪めて笑った。虚勢だったが、それはロウの心をざわつかせる。既視感と、憎悪が湧いた。感情のままに彼を床に叩き付ける。そして、もう一度強く腹を蹴った。うずくまって吐瀉物を撒き散らす彼を尻目に、彼は耳に取り付けた無線機の電源を入れる。
「ジャバウォック、貴様はそこで待機しろ。私は用が出来た。それから合流する」
了解、とよく通るアルトが聞こえた。そして電源を切ると。足元に転がる相手を見下ろす。血走った瞳で。
「この屋敷は現在、法によって民間人の出入りは禁止されている。わかるな? それに背いた貴様を処刑する。この私が、お前が不要な存在であると証明してやる」
同時に、術を展開させる。ロウの術式は両手に嵌めた白い手袋の裏に刺繍されたもので、その内容は大気を固め、投射するものだ。起動するための想念はその識別名の通り、
――法に背いたものに鉄槌を下す。
そうして作られた不可視の杭を腕とともにイーサンに向かって振り下ろす。その数は十。強度は戦闘服に刻まれた防護術式を易々と貫通する。生身の人間に使用すれば確実にあの世行きだ。それをロウは躊躇いなく撃った。震える体で立とうともがく青年へと。
●
畜生、と、激痛と苦悶の中でもがきながらイーサンは思う。口の中は血や吐瀉物の味でいっぱいで、唾を吐いてしまいたかったが、その力もない。体中が重く、脂汗で粘ついている上に、折れた右腕は少しも動かなかった。その癖に鈍い痛みばかりをこちらに与え、脳が絶え間なく揺さぶられる。
父から授かった二枚の符、特定の相手に対して自分の存在を限りなく薄くする符で物々しい格好をした兵士たちの脇を抜け、もう一枚の符を使って裏口から家の中に入ったまでは良かった。庭には正方形の結界が二つ張られており、あの中にステラがいるのではないかと思ったが、入る手段がないのでとりあえず二階に上がりどうしようかとうろうろしていた、それがまずかった。背後に人の気配を感じて振り返ったが、その瞬間に右腕がやられた。逃げることもできずにこうして嬲られるがままとなっている。
端から見ればどうしようもない状況だが、それでもイーサンは諦める訳にはいかなかった。自分はまだ、此処に来た目的を何一つ果たしていない。それに、先程男は無線でジャバウォックと言っていた。これはジンジャーの姉がステラに言っていた名前だ。待機しろ、合流する、とも言っていた。つまり、ステラはあの正方形の結界の中にはいないのだ。自分が干渉出来る位置にいる。
だから、ここで終わる訳にはいかない。自分に何の力がなくても、なんとしてもステラの元へ行き、問わねばならない。あの時、別れの言葉に込められた想いを。今はまだわからないまま。それがわかれば、変われる気がした。
――だから、頼むよ。
そう、誰に頼むわけでもなく、思った。彼女に会いたいと、会わせてくれと。強く願った。
本当に彼女は自分を見限ったのかもしれない。しかし、そう決めつけたくはなかった。本当にそうならば、顔を合わせて言って欲しかった。でも、そうではないはずだ。身勝手な思い込みかもしれない。だが、一方的に終わらせられるのは嫌だった。
――頑張れ、俺。
力の入らない体に喝を入れる。膝が少し動いた。そのまま力を込める。左手と両膝を支えに、足の五指に力を込めた。その時に、上から圧力を感じる。瞬間、全身を悪寒が走った。
――やりたいことが、あるんだ。聞きたいことがあるんだ。だから、頼む……!
瞳を硬く閉じる。同時に、不可視の杭がイーサンの体中を貫いた。
●
「シェリー。もうイーサンも十八だ。私のかけた封印の術式を解除するための一つ目の条件は終えている。」
結界の中、弟の亡骸の傍に座るヘクターは、亡き妻へと独り言のように呟いた。小雨が顔を打つ。しかし彼は虚空を見上げたまま。
「あとは、イーサン自身の意思に委ねられる。あいつが心から自分のやりたいことを望み、それを行使するために力を望むことで、イーサンは解き放たれるのだ。私の身勝手な庇護から。しかしイーサンならば、きっとあの力を使いこなせる。お前とそっくりの頑固さと、強い意思を持ち合わせているのだから。世界も人も、高尚な思想ではない、個人の意思の集積によって変わるものだ」
不安はある。しかしこれは親としての性分だろうと、ヘクターは苦笑する。大丈夫だと言い聞かせるように、左手を強く握った。
●
ロウは、たった今起こった結果に驚愕した。術で作り出した杭が衝突する寸前に、イーサンはこちらを向いた。そしてその時彼は右手を振り、杭は全て破壊されたのだ。折れていたはずの右腕は今や、全く別のものへと変質していた。否、両腕がともにそうだった。
二の腕までが漆黒の分厚い甲殻に覆われており、その鱗一枚一枚が照明を反射して不気味に輝いている。太さはもとの彼の腕のおおよそ三倍で、黒の五指には一体化した爪が付いている。それらは長く、鋭利で、分厚い。嫌悪と忌避と畏怖を見たものに例外なく抱かせるそれは同時に、吸い込まれるような錯覚を覚えるほど美しかった。
「……どうやら、証明はできなかったみたいだな」
一拍を置いて、吐瀉物と血液と唾液で汚れた口元を笑みの形にして、イーサンは言う。彼もまた困惑しているようだったが、意地が勝ったらしい。
「お返しだ!」
「貴様……っ!」
言葉と行動は両者同時だった。しかし、結果はそれぞれ違った。
大気の刃を形成させたロウはそれをイーサンの左肩、甲殻で覆われていない部分へと投射した。血飛沫が彼の背後に舞い、狙い通りにイーサンの左腕が断裂する。
同時に、硬く握られた黒の右拳がロウを打撃した。暴風のような暴力に大気の壁は呆気無く砕かれ、軍服の下に仕込んでいた防護の符は全てが発動したにも関わらず、轟音とともに彼の体が床と垂直に吹き飛ばされる。脳が無遠慮に揺さぶられ、視界が大きく歪み、遠ざかる。そして地面を三度跳ねるように転がされ、ようやく膝立ちに体勢を戻した。
後ろに撫で付けた金の髪は乱れ、憤怒をありありと浮かべながらイーサンの立つ位置を視線で射抜く。しかし、すでに彼はそこにいなかった。断ったはずの左腕も、何処へ向かったかを示す血痕すらない。そのまま、拳で床を叩く。幽鬼のように立ち上がると、法を乱す愚者の捜索を開始した。
●
あの後、傍の階段を駆け上がり三階に到達したイーサンは必死に走っていた。
――なんだこれ。ヤバ過ぎるだろ!
心中でそう叫ぶ。そして手頃な一室に入る。切断された左腕を持ったままなので、扉は閉められない。左腕の痛みは既に無かった。傷口も、右腕と同じ黒の甲殻が生えて覆われている。そのまま倒れるように部屋の中央にへたり込んだ。
荒い息を整える。頭の中で鳴り続ける鼓動がやかましかった。今のイーサンの心中を支配するのは、命を拾った安堵でも、莫大な力を手に入れた恐怖でもない。危機感だった。
今の自分の右腕は、高密度の霊素で構成された巨腕だ。その下には生身があり、常にそれに体が晒されている状態になっている。良薬も、過剰な摂取を続けると毒になる。この状態をこのまま維持し続ければ、間違いなく死に至るであろうことは容易に想像できた。事実、体に異変は起きている。先程から鼻血が止まらない。否、出ては止まることを繰り返している。止まるのは、心臓に刻まれた異族の遺伝子のおかげだろう。今の自分の体は破壊と再生を繰り返している。しかしこの再生もまた、術式の知識を持つイーサンにはまずいとしか思えない状況だった。
再生想術の理論は、既に確立されている。しかしそれは禁忌だった。何故ならば、再生の代償を自分の体で補わねばならないからだ。簡単に言うと、欠損した部分を再生するために、欠損していない自分の体の部分を少しづつ削り、再生にあてる、そのために、術を使えば使うほど、体の体積が減っていく。そして最期は再生することができなくなるのだ。今考えるとステラが大食らいだったのもそのためだろう。再生の度に体積を減らす自身の体を保つために、過剰な食事でカロリーを摂取していたのだ。
今のイーサンは、まさに存在の危機に立っていた。この力を使えばあの男は倒せるであろうが、それではいけない。目的はそうではないからだ。生きて、ステラに会い、問うことが目標なのだ。だからこそ、今のままではいけない。自らの心臓に刻まれた術式に干渉しなければならなかった。
しかし、その方法が見つからない。焦る頭を落ち着かせて、答えを探す。その彼が見つけたものは、切断された自身の左腕だった。
――……もしかしたら。
途端に、今の全てを解決する方法が、彼の頭に浮かんだ。もしも頭に浮かんだ方法が成功すれば、過剰な再生によって体積の減り続ける自分の体を救い、高濃度の霊素に晒され続ける状態を脱却できる。そして、生きたままあの男を倒し、ステラの元へと辿り着くことが出来る。しかしそれは、危険過ぎる賭けだった。失敗すれば確実に死ぬ。だが、この状態を維持する限りは同じく死ぬ。
切断されてなお術の解除されていない左腕は、イーサンにある感情を芽生えさせた。それはステラの変質した両腕を見た時と同じ感情だった。そういえばあの時も死にかけたな、と苦笑する。生きながらえたのはこの体のおかげだろう。父の話は聞いていたが、実物を前にするとやはり、驚いた。そして、自分を恐れた。だが、この体でなかったら彼女とも出会えなかったのだ。そして、今はなきジンジャーとも。
ジンジャーの名を心中で呟くと、不思議と笑みが零れた。もう彼女はいない。しかし、彼女がいたことは覚えている。共に過ごした日々も。
右腕の人差し指の爪、一本の刃と言ってもいいそれで左腕に触れると、がり、という音とともに小さな傷が付いた。それを契機に、爪で左腕に術式を書き込んでいった。彼女と考案した自分が想術を使うための術式を。あの時は上手くいかなったが、今ならば出来るはずだ。父たちが考案し、しかし不完全だったもの。それを完全なものにするために。何より、目的を果たすために。イーサンは賭けることを選択した。自分を変えるための術式を、左腕へと刻んでいく。
●
怒りの形相のロウは三階に上がり、そこで一つだけ扉の開いている部屋があることに気付く。既に頭の中は憎悪と怨嗟で満ちていた。荒い足音を抑えることすらせずに、敷居を跨ぐ。部屋の中央には、怒りの源となる青年がいた。イーサン・ロックハートだ。
「遅かったじゃないか。てっきり、びびったもんと思ってたよ」
不敵な笑みでそう告げる彼の顔はぼろぼろだった。口の周りは吐瀉物と血液で汚れ、その上は鼻血で濡れている。右腕はそのままで、五指で切断された左腕を掴んでいる。それはこの距離からでもひどく傷がついているのが見えた。何の意図だと訝しんだが、それ以上に目の前の青年が不快だった。
「貴様の存在が不快だ。イーサン・ロックハート。消してやるとも、この手で、法の名において貴様を抹消する!」
歯を剥き出しにして表情を歪める。同時に全力で術を展開した。右腕によって自分の術は防がれてしまう。その為に、今度は杭を時間差で多数の場所に撃ち込むことにした。まずは上半身。これを囮に、次射で膝と脛を狙う。
怨嗟とともに、特大の杭を一本。彼の胸部へ向けて投射する。前兆の霊素光で、大気が煌めいた。不可視なりとも、前兆を読み取って防ぐことは出来る。いかし対するイーサンは、それを右腕で防がなかった。
「な……っ!」
彼は右手に持った左腕の爪を自らの胸部に当てたのだ。そこに杭が激突し、押し出される形で左腕が胸部に埋まる。そのままそれは彼の体を貫通した。げふ、という声が漏れる。同時に吐血した。そのまま後ろに力なく倒れ込む。
ロウは、状況を飲み込めてはいなかった。忘我のまま、次射を行わない。否、行う必要がなかった。床に倒れ込んだまま動かない彼をしばらく見つめ、そして事態を飲み込むと同時、興が削がれた。
「……つまらん」
ぶつけどころのない怒りを呟きとともに吐き出し、踵を返す。そして無線機の電源を入れ、
「ジャバウォック。今から合流する。そろそろドライの結界も切れる時間だ。庭へ出て――」
その後の言葉は続かなかった。言い様のない気配を背後に感じ、振り向く。
そこには、先程地に伏したはずの青年がいた。しかし、その姿は今までと全く違う。彼も自分の姿を確かめるように、両手を広げて自身の姿を見下ろしていた。そして成果を確認すると、金色の双眸がこちらを向いた。下に深い隈を刻んだそれらは、確固たる意思をもって、こちらを見ている。そして深い黒の右腕で汚れた口元を拭う。それは先程とは違う、人の形を確かにしていた。
「賭けに、俺は勝った。だからそこをどけ。俺には会いに行かなきゃならない人がいるんだ」
●
自らの左腕が自分の体を貫いた時は、死ぬほど痛かった。事実、死んでいたのかもしれない。どの程度がはわからないが、記憶が抜けている。気付いた時にはこの体で、自分は賭けに勝ったのだ。
左腕に刻んだ術式は、士官学校にいた時にジンジャーとともに考案したそれを、改変したもので、それが生まれたのは偶然だった。
元はジンジャーの思い付きで、彼女が「想術が使えるようにする想術ってどう?」と言ったものを、ものは試しだと作ってみた。式自体も複雑だったし、結局それは成功しなかった。今考えると、封印の術式がかかっていたのだから当然か。しかしそれは解かれたらしい。父が意図的に解いたのか、それともある条件で解かれるようになっていたのかはわからない。全てが終わった後に問う必要がある。
術の内容は「成すべきことを成すための相応しい姿に、私は変わる」で、発動するための想念は、
――いかにそれを成したいか、だ。
それを心臓に刻まれた術式に、胸部へ左腕を撃ち込むことで上書きした。再生によって減った体積は左腕を吸収したことで元に戻る。腕の再生は叶わなかったが、結果、この姿に自分は変わった。胸部に大穴が空いたシャツの下から覗くのは素肌ではなく、漆黒の表皮だ。それは顎下から足の爪先までを覆う、先程の命を蝕む魔手とは違う、人の身に纏うための薄く、しかし頑強な鎧だった。失われた左腕は、高密度の霊素で構成された黒の仮想腕になっている。これは元の自分の腕と同じ長さ、太さで、何度か感触を確かめたが良好だ。しかしこの鎧と仮想腕だけでは、怪物の姿を模倣する霊素の量が大いに余る。それらの使いどころはイーサンの体の周囲に浮く、黒の物体だ。盾と剣が一体化したような流線型のそれは、左の仮想腕と同じ、イーサンの意思で自在に動く武器だった。数は全部で七つある。
全てが最良の結果だった。左腕は最初から治ると思っていなかったし、命があり、この力を制御できたことで安堵していた。だが、油断は禁物だ。イーサンの体にある異族の遺伝子、その再生力には何一つ干渉できてはいないのだ。ある程度は上書きした術式で抑え込めるだろうが、損傷は少ない方がいい。
「イーサン・ロックハートオオオオオオ!」
振り返ったロウがその表情を驚愕から怒りへ変える。叫びは、地獄の鬼のようだった。
同時に、彼の周囲に霊素光が発生する。術は、おそらく大気を操るものだろう。短い時間ながらも十分に見えた男の潔癖な性格と周囲の霊素光から、イーサンは読み取った。
お前に手を下すのは見えない大きな力だ、ということだ。どんな過去があったかは知らないが、間違いなく歪んでいる。
七つの子機を前面に展開する。自分を守るように。そのまま、イーサンは男へ突撃した。踏み出す一歩は彼の知る自分の体よりも軽く、力強かった。これが鎧の恩恵だ。異族の力に振り回されるのではなく、使用できている。それは自分の想いの現れだった。退く気がないのなら押し通る。それだけだ。何もかもを背負い込んでも、やりたいことが自分にはあるのだから、躊躇わない。躊躇っては術が解ける。その先にあるのは破滅だ。
子機が迫り来る見えない攻撃を確かに防いだ。手応えがある。そして前面に展開した子機を自分の周囲へ。眼前に立つ男の顔は憤怒。しかしそこには微かに憧憬の色があった。
右腕を引き、五指を揃えてそのまま突く。覚悟を再確認するように、イーサンは吠えた。獣のように、否、それは獣というには獰猛過ぎた。
鎧に覆われ、鋭い先端を持つ五指と同化した爪が男の青を貴重とした衣服を貫き、肌を破り、肉を抉って骨を砕いた。そして血と肉片と臓物の一部と骨の粉塵を纏った右手が、男の反対側へ抜ける。体の痙攣が伝わった。そして、先程通った場所を再び通過して、腕を抜く。力を失った男は音を立てて無造作に倒れ、そして動かなくなった。
他人の物体にまみれた右腕の、肘から先を顔の高さに持ち上げる。まだ残る温かさに眉を顰め、そして倒れたままの男を見た。
「……嫌な、気分だ」
イーサンは知らない。ロウという識別名を名乗る男の父親が、政治家の汚職を追求しようとした警官であったことを、そして彼が圧力に屈し、自殺したことも。ロウはそういう経緯を得て、父と同じ、見えない力に抗う者たちを狩っていたのだ。父が負けたのは仕方のなかったことなのだと、そう自分に言い聞かせるために。
●
ロウを破ったイーサンが二階に降りた時、視界の中央、廊下の先には黒の戦闘服を纏った人物が立っていた。体つきは女のもので、こちらを視認したであろう彼女は黒のヘルメットを脱ぎ捨てる。すると、背中の中ほどまで伸びた白銀の髪が曲線を描いた。それは電灯の光を受けて、一本一本までが煌めいて見える。真っ直ぐにこちらを見る顔は端麗でいてどこか儚げな印象を与えた。戦闘服越しに確認出来る体躯は細いが、そのラインは女性的な曲線美を持ち、若いながらも十二分に艶かしい。くっきりとした双眸は対のピンクスピネルのようだ。その瞳には、何の感情も伴ってはいないように見える。あるいはそれを殺しているのか。
見覚えのある姿に、イーサンは一歩前に出た。何を犠牲にしても会いたかった少女がそこにはいる。無意識に、名前を呼んだ。
「ステラ……」
少女はこちらをただ見据えていた。沈黙が二人の間に流れる。そしてイーサンが口を開いた時、彼女の、よく通るアルトが耳へ届いた。
「イーサン……。私、全部わかったの」
口調は無機質で、冷たかった。それがイーサンの心にざわめきを呼ぶ。何故だが、とても嫌な悪寒がした。墓の上を歩かれたような、そんな感覚だ。
「私たちは、同じ。だからこそ……」
唐突に、風が巻き起こった。それはイーサンの癖のある黒髪を揺らす。こちらに向かってくる風とともに、彼女は告げた。
「殺し合うしか、ないのよ」
言い終わると同時、イーサンの右腕が宙に舞った。
宣戦布告と先制攻撃が終わる。そして少女はこちらの腕を断った、分厚い刃のついた棘付きの触手を元の長さへと戻し、こちらへ向かって駆けて来た。
●
イーサンの懐に潜り込んだステラは、右腕を大鉈に、左腕を両刃剣に変質させて、躊躇うことなく彼を斬り付けた。
右腕は既に元に戻っているが、これは張りぼてだ。本当の腕は彼の後ろに転がっている。彼の周囲の七つの子機が猛攻を防いではいるものの、動きはやけに鈍かった。このまま攻め切れると判断すると、後退を繰り返す彼に密着するようにしながら、殺意と力を顕現した両腕で、何度も斬り付ける。防ぐ子機を弾き飛ばしながら、征く。
「どうしてだ、ステラ! 俺は……!」
「私の名はジャバウォック。怪物よ。貴方は何? 貴方だってそうでしょう。イーサン・ロックハート。貴方はその力でロウを殺した。今更言葉は要らないわ。だから、黙って」
軽く跳躍する。共に、大鉈の形をとる右腕を振り下ろした。それが子機とぶつかり、鈍い音を立てる。
――大丈夫、上手くやれるわ。
ステラは鉄面皮のまま、自分に対して呟いた。敵を殲滅する想いで変質するこの両腕は、今のところ発動している。だとすれば、表情や声音も問題はないはずだ。
「ステラ!」
彼が叫ぶ。同時に左腕で胸を突いた。またしても子機で防がれるが、構わない。
「ジャバウォックと、言ったはず」
短く答える。極めて冷静に、そして冷徹に。
今更ながら、思う。彼は底無しの馬鹿だと。こうして今まさに命の危機に晒されているのに、守るばかりで責めることをしてこない。彼女の基礎となったイーサンは安定性を求め力を殺した自分と比べて、よりダイレクトにその力を発揮できるというのにだ。
ステラの思っていた姿とは大分違うが、イーサンは変われたのだろうと、そう思う。力を何のために使うか、それに対して答えを見つけたのだ。自分と言えばこうして無造作に振るうだけだが、今はそれでいいと思う。
「そう、かよ……っ!」
要らない思考に時間を取られた。その間にイーサンの瞳の色が変わった。こちらの刃を二つの子機で防ぎながら、残りの五つが上と左右から飛来した。先程とは比べ物にならない、鋭い動きで。
瞬間、攻撃の動作を全て中止して後ろへステップする。戦闘服の補助もあり、一歩で大きく距離を広げたステラは、無表情に呟いた。
「……そう、それでいいのよ」
再び突撃する。今度は彼も応戦してきた。戦闘経験がないその動きは拙かったが、基礎に忠実だ。たどたどしいが周囲に浮く子機の横槍も厄介だ。死角から飛んでくるだけではなく、こちらの動きを妨害してくる。
今度はそう簡単に懐へと入れてはくれなかった。しかし構わずに攻め続ける。防御は戦闘服に内蔵された符に任せておけばいい。躱す動きは必要最低限に留める。これが研究所で研鑽された彼女の戦い方だった。どれだけ損傷を負おうとも、先に首を飛ばせば勝ちだ。体は勝手に再生する。二人で何度も対局した遊戯の駒と同様にしか、ステラは自分を定義できなかった。
――ごめんね。
謝罪とともに、刃を振り下ろす。これまでの動きで確認した。彼が躱せるぎりぎりの速度と強さで。
右腕を初めに断ったのは、血に染まったそれが彼とともにあるのが許せなかったからだ。彼に血は似合わない。自分と彼は違うのだから。
――本当は、こんなことしたくないの。
彼の右の仮想腕が、自分の顔に向かって突き出される。体を回してそれを避け、その動きで胴を薙ぐために斬り付けた。しかし彼はそれを左腕で防ぐ。だが自分の力が強過ぎたようで、黒の腕に深いひびが入った。はっとするが、表情に出さないように努めた。破片が落ちる。それは一瞬の光を伴って霊素に還り、そこから見えるのは肌でも血液でもなく。どうやら左腕も、既にないらしい。ロウにやられたのだろうが。ほっとしたが、その事実に唇を噛んだ。
――ほら、やっぱりそう。
馬鹿、と口には出さずに呟いた。いつだってそうだ。自分が関わると、イーサンが怪我をする。しかし、彼はどれだけ痛い目を見ても折れはしなかった。此処に向かっていると気付いた時も、やはりと思った。同時に、嬉しかった。そう思った自分が呪わしいとも思った。
嫌だった。自分のせいで彼が傷付くのが。汚れて爛れた自分と違い、綺麗な彼が汚れてしまうことが、たまらなく悔しかった。だからこそ、右腕から滴る血液を見た時は彼のものではないことに安堵し、そして愕然とした。優しい彼に、自分は人を殺す決断をさせてしまったのだと、深く恥じた。
――そんなに私は、価値のある人間じゃない。
そして、決めた。薄々とは思っていたことを決断した。彼に殺されようと。結果的に汚してしまうことになるのだが、それは我儘だった。話に聞いたジンジャー・フラーという女性のように、自分を覚えていて欲しかった。この戦いの後、きっとイーサンは悔やむだろう。だが、彼はそれでも前に進むはずだ。迷いながら、悔やみながら、それでも全てを乗り越えて、進めるはずだ。共に過ごしたのは短い期間だが、それは確信している。なぜなら彼は、小説の主人公によく似ていたからだ。何故だか、一度も口に出すことはしなかったが。
――ねぇ、イーサン。貴方に言いたいことがあるの。決して言えない、言いたいこと。
口には出さずに心中で言葉を作る。同時に懐へと潜り込んだ。彼の顔が近くにあり、そして仄かに香るのは汗の匂いと、血の匂いと、そして鼻をつく吐瀉物の匂いだ。それを嫌とは思わない。むしろ苦しい思いをさせてしまったことの申し訳無さがあった。刃を振るが、届かない。それでよかった。
――私ね、イーサンともっと一緒にいたかった。できればずっと。一緒にお出かけして、私の我儘に困り顔の貴方がいて、でも最後には笑ってくれる貴方と。一緒に食事を作って、食べて、その後は本を読んだり、雑談したり、ボードゲームをしたり。時には喧嘩もして、でも最終的には仲直りして。今までのような日々を過ごしていたかった。
子機が、腹へと直撃した。しかしそれは防護の符によって防がれる。自分が一歩進めば、彼が一歩引く。彼が進めば、自分が引く。踊っているようだとステラは思う。
――一回しか出来なかったけど、もっともっと仲良くなれば、毎晩一緒のベッドで寝たり、どちらかが落ち込んでいる時には抱き締めあって慰め合ったり、時には絆を確かめるようなキスをしたり、そういうこともしたかった。他でもない、貴方と。
胸が痛い。同時に熱かった。今すぐ言葉に乗せて吐き出してしまいたかったが、それは駄目だ。彼にはもっとお似合いの人がいる。それは自分ではない誰かだ。そこまで考えて、言葉が詰まった。
――……イーサン。私、幸せだったよ。短い時間だったけど、きっとああいうのを幸せっていうんだよね。貴方が全部教えてくれた。最初に腕を組んだのも、あれはお互いに信頼してからする行為だったんだね。だからイーサンは慌ててた。食事も、そう。仲の良い人や、興味のある人、そういう人とする食事が楽しいんだよね。それが一緒にいたい人とだと、どんなご飯も美味しくなるの。不思議だよね。一つ屋根の下に誰かと住むことも、それと一緒。私、全部わかったよ。
彼はどうだったのだろうか。わからない。ただ剣戟の音だけが絶え間なく続いている。防護の符もそろそろ切れるだろう。それほど、自分を捨てて攻めを続けていた。彼の操る子機の体への直撃は何度もあった。ヘルメットをしていない顔には、過擦傷がいくつも付いている。しかし、退くことはしない。
――だからイーサンにも、幸せになって欲しい。傷付かずに、健やかなまま、沢山幸せな思いをして欲しいの。それが、私の願い。今からきっと傷付けちゃうけど、ごめんね。最後だから、我儘を許して欲しい。貴方にどうしても、覚えていて欲しいから。
両肩を広げられるように、子機の側面を当てられた。先端に付いた刃による刺突ではなく打撃だ。確かに伝わる衝撃と痛みが防護の符が切れたことを示している。そして体勢を崩された。無防備に体が彼の正面を向く。視界に映っているはずの彼の表情は、なぜだか霞んで、ぼやけていた。その端で彼の右腕が横からこちらを薙ぐように動いているのが見える。首を刈る気だろう。正しい判断だ。体にいくら傷をつけた所で再生してしまうのだから。
――大好きだよ、イーサン。外の世界で最初に会った人が、貴方で良かった。貴方と同じ力を持っていて良かった。貴方じゃなきゃ、きっと駄目だった。私のただ一人の愛しい人。
来るべき結末に向かって、瞳を閉じる。そして最後の一言を紡いだ。
――ありがとう、イーサン……。最後に、ごめんね……。そして、さようなら。
覚悟していたはずの死はいくら待ってもやって来なかった。代わりにステラに訪れたのは微かな痛みを伴わない衝撃と、首にもたらされた閉塞感。そして、彼の匂いと鼓動だった。
瞳を開くと、そこには破れたシャツから覗く黒がある、首に回された両腕の力が強くなる。圧迫感が強まるが、それはこちらに害を成さないもので、むしろ心地よかった。
「この、馬鹿野郎……。殺し合うとか言いながら、なんであんな泣きそうな顔してるんだよ。なんであんなに辛そうなんだよ。何格好つけてるんだよ。似合わねぇ戦闘服来て、物騒なもん振り回して。その癖手抜いてただろ。俺はお前に……お前と話を付けるために来たんだ! 全部勝手に決めて、勝手にいなくなって、俺の気持ちは無視かよ! 馬鹿野郎!」
呆然とする頭に、上から言葉が降ってきた。彼の表情はくしゃくしゃだった。涙こそ零れていないが、怒っているのか泣いているのかわからない。その言葉が胸に刺さる。応えたかった。応えたかったが、そうすると余計なものまで溢れてしまいそうだった。だから一言だけ、
「離して……っ」
胸板を押す自分の両手は、いつの間にか術が解けていた。しかし膂力は健在だ。だが、既に同じ力を手にした彼はびくともしない。術がまだ発動している分、力では敵わなかった。
「嫌だ、離さない」
そう言われ、更に強く抱き締められた。体での抵抗は諦める。代わりに、言葉で反論した。
「イーサンは、私といるといつも怪我をする。私は、イーサンに私のせいで怪我をして欲しくない」
「だから、あんな言い方して離れたのか? 俺は、どんな怪我をしてもお前といたい。痛い思いをするのは嫌だ。だけど、お前を失うのはもっと嫌だ」
「私に、そんなに価値はない」
「俺にとっては違う」
「イーサンは、他の人といたほうがもっと幸せになれる」
「俺はお前といる間、確かに幸せだった。これ以上ない位」
「……ジンジャーさんといる時より?」
「お前、その質問は卑怯だろ……」
「答えて」
強い語気で、困り顔の彼を見上げていった。彼の深い隈の刻まれた上の金の瞳は、絶え間なく揺れていた。そんな彼の表情すら、愛おしかった。
「……同じくらい、幸せだった」
「もう一回殺し合う? 今度は本気で」
その言葉に彼が大きく肩を跳ねさせる。困惑の色が表情に見て取れた。それが、可笑しかった。同時に心に浮かぶこの感情は嫉妬だろうか。我ながら勝手だと思いながら、それを悟られたくなくて、彼の胸板に少し強めに額を押し付けた。その動作に、彼の体から力が抜けた。そして、問答を再開する。
「イーサンは、私とは違う。私と貴方は同じじゃない」
「そうだよ。俺とお前は違う。だからこそ、俺はお前に惹かれたんだ」
確かにそうだと、思った。彼と自分は違うからこそ、こうまで惹かれたのだ。 最初はただの興味本位で近付いた。でも今は違う。彼の生い立ちも人柄も、全て理解した上で、ステラは共にいたいと望んでいる。彼もそうだからこそ、自分を手にかけなかった。否、最初からそのつもりはなかったのだろう。
「次からは、毎晩一緒のベッドで寝てくれる?」
「そ、それはまだ俺の心臓が保たないかな……」
わかっていたことだが、この男はムードというものを理解していない。今のは小説ならば間違いなくイエスと答えるところだ。それを此処に来て断るなど言語道断だろう。まぁ、それもイーサンらしくはあるが。まだ、と言った以上は精進する気があるのだろう。それに期待することにする。
「大変だったんだから……、私」
いつかと同じ言葉を、彼へと投げかけた。今度は、答えを違えて欲しくなかった。
「俺も大変だったよ。言葉じゃ言い表せない位。でも、それでも会いたかったんだ」
途端に胸がつっかえる。喉が瞬間的に熱くなった。その行き場を探すように、垂らしたままの腕を彼の背中に回した。そして強く抱き締める。
「ごめんね……。大怪我させて、人も、殺させちゃって……。私が、私が悪いの……。イーサンともっと、ちゃんと話したかった。でも、話せなかった。ごめんね」
溢れる懺悔の言葉と共に、頬を生暖かい液体がいくつも伝った。それらは顎から滴り落ちる。止めようとしたが、止まらなかった。彼を傷付けたことが悲しくて、しかしそうまでして会いに来たことが嬉しかった。
「お前のせいじゃないよ。全部、俺が選んで、こんな結果になったんだ。だから背負うよ、全部。お前も、色んなこと背負ってるんだもんな。だからこれからは、支え合っていこう。二人で」
うん、と声に出して大きく頷いた。見上げる彼の表情が電灯の光で眩しい。頬が、たまらなく熱かった。涙を堰を切ったように溢れるまま、止まらなかった。何度もえづきながら、首を縦に振る。
「そういや泣き顔、初めて見るな」
思い出したようにイーサンがそう言った。その言葉が恥ずかしくて仕方ない。再び、額を胸板に押し付ける。彼の術は既に解けていて、首の圧迫感はいつの間にかなくなっていた。その代わりというように、背中に回した腕に力を込めた。
「……名前、呼んで」
ぽつりと呟く。彼の表情は見えないが、微笑んだのが雰囲気でわかった。耳に届いたのは優しい声音で、
「もう勝手にいなくなるなよ、ステラ」
「わかってる。イーサンこそ、前みたいにもう迷子になっちゃ駄目だよ」