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終末のオーバーラップ  作者: 屑屋稲
第六章:
8/10

そうしてまた人は過去を語る。

 頭から爪先までずぶ濡れになったイーサンが戻った場所は父の住む屋敷ではなく、狭いワンルームだった。

 軋む扉を開くと、家の中は暗かった。未だ降り続く雨が窓を打つ音のみがその空間にある唯一の音だ。

 今までとは違う。

 アルバイトが終わり、疲れ切った状態で扉を開くと、部屋で本を読んでいた彼女がこちらを向き、「おかえり」と言ってくれる。そんな日常は、もう終わった。

 否、戻った。と言う方が正しいのかもしれない。

 彼女は彼女の場所へと戻り、自分もまた、一人に戻った。虚無と怠惰の日常へ。

 自分のいるべき場所とは、どこだろうか。士官の道を諦め、父から逃げた自分に相応しい場所が、果たしてあるのだろうか。

 わからない。考える気力もなかった。

 濡れて体に貼り付く服を脱ぐこともせず、ベッドに倒れ込む。ソファを見ても、そこには誰もいない。

 顔を反対側へ向けて、瞳を閉じた。一人の夜はこんなに寂しかっただろうかと、過去の自分に思いを馳せながら。


           ●


 ヘクター・ロックハートが仕事を終えて帰宅すると、居間のソファには神妙な顔でアレックスが座っていた。快活な彼がこのような表情を見せている時は例外無く非常時だ。何かあったのだろうと眉を顰めていると、こちらに気付いた彼が顔を向けた。

「遅かったじゃないか、ヘクター」

 その声に苦笑する。それを返事として彼の向かい側に腰を落ち着けた。姿勢は前のめりだ。焦っているな、と無意識にとった自らの行動を溜息混じりに分析する。

「内務大臣に呼ばれてな。保安局から私への査察が決定したそうだ。三日後に奴らは此処に来るそうだよ。査察の結果が出るまでは仕事が出来ん。新しい法案の審議中だというのにな」

 報告にアレックスはふむ、と頷く。三日、という期限に思い当たる節があるのだろうか。そう考えていると、彼がこちらを真っ直ぐに見て口を開いた。眼差しは真剣そのものだ。

「落ち着いて聞け。坊主と娘っ子が出て行ったきり帰ってこん」

「なんだと?」

 言葉が突いて出た。跳ねるように立ち上がる。

「落ち着いて聞けと言ったろうが。お前が携帯電話さえ持っておけば報告がこんなに遅くなることもなかったのだがな」

 深い溜息とともに、彼は視線を落として自らの頭を撫でる。息を吐いて、再びソファへとヘクターは座った。今度は背もたれに深く体を預けて。

「あれは常に監視されてるようで慣れなくてな。連絡はコンピュータで十分だ」

「それすらも満足に操れん男がよく言うわ。しかし、三日後とはいくら何でも早過ぎるな」

 からかうように彼が言うが、無視する。それよりも重要なのは後に言った言葉だ。

「イーサンとステラ嬢の失踪。そして同日に査察が決まり、決行日は三日後。これは偶然ではないな。それを聞いた当初はこちらに準備の期間を与えないためのものかと思ったが……」

 悪い展開だ、どうしようもなく。その考えに至ったと同時、ヘクターの思考をアレックスが代弁するように言った。

「三日、というのは準備期間という訳だ。保安局の新しい査察官の、な」

「……おそらく、彼女の方だな」

 自分の考えが正しければ、イーサンは無事な筈だ。それに、やはり安堵してしまう。アレックスも同じ考えなようで、表情を険しくしたまま頷いた。

「接したのはごく短い期間だが、あの娘っ子、聞いていたのとは随分違う性格で驚いた。大方、坊主を庇うために自ら降ったのだろう。あやつは自分を責めておったしな」

 彼の言葉に、こちらも頷いた。おそらく彼女は、兵器ではなく、イーサンと関わることで得た人としての性質を利用されたのだ。

「皮肉な話だよ。兵器としては不要の、しかし人としては不可欠の感情を、兵器としての道に戻るために利用されるとはな。しかし再び兵器となった以上は、あちらにしても人の感情は邪魔な筈だ。となれば……」

 言いかけた言葉を、アレックスが続ける。彼の顔は既にいつもの人懐っこいそれではなく、戦いを待つ戦士の面持ちだ。

「洗脳だな。確実で手っ取り早い。テロリストやスパイ相手に経験は積んでいるから万に一つも失敗はない。で、どうする?」

 窺うように、アレックスが問うてきた。答えは既に決まっている。

「奴らの査察の目的が私にありもしない罪を着せることにあることは明確だ。こちらはそれに対して抗議をし、それに対して奴らが力づくで私を告発しようとするならば……」

 そこで、一旦言葉を切った。

「こちらも武力を持って抵抗する。憲法にも定められていることだ。奴らもそうなることは見越しているだろう」

 答えを聞いてアレックスが豪胆な笑みを浮かべる。その口調は試すようで。

「鈍ってはおらんな? ヘクターよ」

「術師としての自身を私は忘れたことがないよ、軍曹。貴方も派手にやるといい。向こうも、彼女を引き入れたということはそのつもりだろう。奴らを盛大に迎えてやるさ」

 こちらも笑みでそう返した。方策は決まった。ただし、心配事が一つある。

「……イーサンは、おそらく彼女と暮らしていた家だろうな……」

 此処を出て行った息子の心境を考えれば、一人の状態で家に戻っているはずもない。独り言のつもりだったが、アレックスは目聡かった。唐突にソファから立ち上がり、巨躯を縮めて扉をくぐり、どこかへ行ってしまう。疑問には思ったが、声は掛けなかった。

 しばらくして彼が戻ると、左腕に旅行用の鞄を持っていた。それには見覚えがある。

「あの坊主、どうやら忘れ物をしていったようでな。儂が届けに行こうと思って追ったのだが、ここに適任がいるではないか。これから査察の日までは休みなのだろう?」

 その言葉に、頭を抱える。二人を迎えに行った時も、その後も結局息子との交流は出来ずにいたのだ。

「二年ぶりの団欒か……。昔と同じようにはいきそうもないな」


           ●


 目が覚めると、そこは自室だった。

 ただし、二日前までとは有様が大分違う。整頓された部屋はインスタント食品と飲料のゴミに塗れ、ベランダに置かれていた灰皿は今や机の上で大量の灰と吸殻に埋もれている。カーテンを閉め切ったままの部屋は暗く、換気もしていないため空気も悪かった。

 ひどく散らかったワンルームの隅に置かれたベッドで、既に目を開いているにも関わらずイーサンは起き上がろうとしない。洗っていない髪についた脂に不快感を覚えるも、それを改善する気力は当人になかった。

 やがて、のっそりとベッドから降り、焦点の定まらない瞳のまま、ソファに座る。バネの軋む音が小さく、一人きりの部屋に響いた。物の置き場のない机に置かれた煙草の箱を手に取り、その中の一本を口に咥える。そして安物の電子ライターで火を点け、深く煙を吸い込む。油の切れた愛用のオイルライターはカーペットの上に投げ捨てられていた。

 不意に、扉の方から重い金属音が二度聞こえた。一人の空間に飛び込んできた来訪の信号に肩が跳ねる。

 そして同時に、希望も芽生えた。

 半分ほど残った煙草を灰皿の上の吸殻に押し付け、早足で扉へと向かう。

 取っ手に手をかけ、ゆっくりと開いた。高鳴る鼓動が耳障りだと、そう思いながら。



 扉の向こうにいたのは、知った人物ではあったが、望んでいたそれではなかった。

「こうして顔を合わせるのは久しぶりだな、イーサン」

 父だった。今日は普段のスーツ姿ではなく、シャツにデニムという格好だが、峻厳な顔立ちに変わりはない。

 驚きにこちらが固まっていると、父は首を傾げた。しかし、すぐに言葉を続ける。気のせいか彼の緑色の瞳は、どこか浮ついているようだった。

「今日はお前の忘れ物を持ってきたんだが、ついでに幾つか話したいこともある。立ち話もなんだ。上げてくれないか?」

 イーサンにとって、首を縦に振れない提案だった。ただでさえ苦手な父と話をするなど、何を話してよいか、何を話されるのか、どちらにしても聞きたくはない。しかも、家の中は人を上げるには最も適していない状態だと言っていい。

 しかし、彼は断れなかった。故に散らかった部屋を片付けるので暫し時間が欲しい旨を告げたところ。彼は俯いて思考し、

「……なに、気にするな。気を遣う仲でもあるまい」

 その後に口元を笑みにして言い切った。イーサンからしてみれば最大に気を遣う仲であるにも関わらず、だ。

 そうして父を一人気まずいままゴミ山に招き入れることになった。彼はイーサンの旅行用鞄を肩にかけ、手にはビニール袋を提げていた。その状態で部屋を見渡すと、極めて真摯な口調で、

「すまん、イーサン。私が悪かった」

 唐突な謝罪とその言葉の意味に、胃が重くなる。ソファの空いたスペースに父を座らせ、自らはベッドに腰掛けた。足元に旅行用鞄を、灰の積もった机の上にビニール袋を置くのを確認してから、口を開く。

「悪いけど、茶は出せないよ。部屋がこの有様だから」

 自分で思ったよりもぶっきらぼうな口調に、少し罪悪感を覚えた。そんな気も知らずに父は笑って、ビニール袋に手を突っ込みながら言う。

「気にするな。心配せずとも飲み物は買ってきた。お前の分もある。ミルクティーが好きだったな」

 言葉とともに、袋からストローの刺さった蓋付きのプラスチック容器が差し出される。立ち上がり受け取ると同時に、小さな声で礼を言った。立ったまま口に含むと、その味に驚く。

 子供の頃好んで飲んでいた味に、あまりにも似ていたからだ。その様子を見た父が目を細める。

「最近の店は店員に伝えればミルクやシロップの細かい調整ができるようになっているのだな。手間はかけてしまうが、その分自分の嗜好に合わせられていい」

 その言葉に、頷いた。しばらくして、ソファのゴミをどけ、間を空けて座る。横目で父の容器を見る。彼のものは色から判断すればストレートだ。わざわざ自分のために味を調整してくれたのかと確信すると、容器が少し重く感じられた。

「スコーンもあるぞ。ジャムも買ってきた」

 視線を感じたのか、父がこちらを向くと袋を漁って紙袋とジャムの詰まった瓶を出す。それに苦笑。同時に、重くのしかかるものがあった。

「……いや、腹が減ってる訳じゃないんだ。その……」

 一旦言葉を区切って、唾を飲み込んだ。視線は合わせられない。だから、父の持ってきてくれた容器を見ながら、決意する。

「……ごめん」

 父の沈黙が伝わってくる。どう思っているのだろうか。顔を見る勇気はなかった。

 それから間を置いて、固まったまま動けないイーサンの耳に父の声が聞こえた。

「……私も、若い頃は吸っていたよ。偶然かな」

 それに釣られて顔を上げると、父が懐かしそうに煙草の箱を持って見ていた。口調は穏やかなものだ。彼はこちらに視線を向けて、箱から慣れた仕草で一本取り出す。

「貰っていいか?」

「……あ、ああ」

 慌てて電子ライターを手に取ると、父がそれに気付き、「すまないな」と苦笑して煙草を口に咥えた。言葉は返さずに、火を点ける。そのまま父が息を吸い、炙られていた煙草の先端が燃え、白い包み紙が黒から灰色へと変わった。

「……苦いな」

 吸口から口を離して、煙混じりの吐息を吐きながら一言。それは、自分に言い聞かせるような口調でもあった。

 片手に煙草を持ったまま膝に手首を置いた前のめりの姿勢の父は、これほどなく様になっていた。そんな父と今の自分を比較してしまい、嫌になる。そう思ってしまうことが、イーサンの胸に痛みを残した。父はこうして歩み寄ってくれているにも関わらず、未だに近寄りがたいと思ってしまうことすら罪なのではないかと、錯覚する。

 父は時折煙草を吸っては、床を見ている。言葉はない。自分からもどう話しかけてよいかわからず、沈黙が散らかった部屋を覆った。気まずさに耐えかねて、テーブルに置かれた煙草の箱に手を伸ばしたその時だ。父が灰皿に煙草を押し付けると同時に、こちらを向いた。

「すまなかったな、イーサン。私は父親失格だ。士官学校を辞めた時、お前に何も言ってやれなかったことだけじゃない。お前が本来享受するべき母の愛すら私が全て奪い、孤独にさせてしまった……」

 唐突な謝罪に、箱へと伸ばしかけた手が止まる。それに対して、父の訪問によって薄々気付き始めていたことが、確信に変わった。

 自分は、見放されてはいなかったのだ。

 確信したからこそ、イーサンは恥じた。これまでの思い込みを、そして、それに基づいた勝手な行いを。

 喉が、紅茶の味に隠れた意図に気付いた時よりも熱かった。しかし、言わなければならない。二年という歳月は短いようで長く、重い。だが父はそれを振り払って言ってくれた。ここで応えなければ、自分は真の親不孝者だ。逸らしたくなる思いを必死で留めて、父の顔を見る。そして、

「俺こそ、俺の方こそ……ごめん。勝手な思い込みで、何も言わずに家を出て……、何も変えられなくて……。親不孝者で……。こんな息子で、ごめんなさい……」

 端から聞いたら笑ってしまうほど震えた声で、絞り出すように告げる。同時に、抱き締められた。硬い体と体温と、香水の香り。幼い頃の記憶が蘇る。

「こんな息子などと、言ってくれるな。お前に責められる謂われは何もない。何の落ち度も無いことに対しては謝るな、イーサン。お前はそう思ってはいても、私はそうは思っていない。だからどうか、誤解しないでくれ……。そして、お前にその想いを植え付けた私を許してくれ。愛する息子よ」

 父の切実な声音で紡がれた告白に、形容しがたいほど、胸が震えた。熱いものがこみ上げるが、俯き目を閉じて必死に抑える。声に出せば一緒に溢れてしまいそうで、申し訳ないが何度も頷くだけに留めた。劇的な場面ではあるが、流石にこの年で泣くのはみっともない。

 父が離れると、紅茶のカップを手に取って、中身を一気に飲み下した。冷えた甘さと一緒に何とか涙は抑えこむことに成功したが、もしかしたら何粒かは既に溢れているかもしれない。それは煙草の煙が目に入ったことにしておこう。既に火は消えて久しいが、言った者勝ちだ。隣の父の双眸が心なしか潤んでいるように見えるのもそのせいだ。否、そうに違いない。

「ありがとう、イーサン。今日は謝罪と、お前に母親の話をしようと思ってな。したことがなかっただろう。少々、重い話になるが……。聞きたいか?」

 苦笑混じりの言葉に、イーサンは既視感を覚えた。しかしそれ以上に、母親というワードがイーサンの心を打った。頷くと、父は煙草の箱を取って、火を点ける。そしてそれをこちらへ差し出した。

「お前も吸うといい。私にとっては、いや……これは言い訳だな。先に言っておくが、話が終わった後は、私を軽蔑してくれていい。気の済むまで殴ってくれても構わない。私は、お前に殺されて当然のことを、お前と妻にしたのだからな……」


           ●


 ヘクター・ロックハートがシェリー・アンダーソンと出会ったのは、彼が二十歳の春、自動二輪車を相棒にして諸国を巡っていた時であった。隔壁によって各国家が孤立しているとはいえ、空を経由しての物流、人員の移動は今もなお存在する。無論旧時代と比べその頻度は減っているものの、旅客船はどこの国にも存在するのだ。

 ヘクターが危険を冒して旅に出た理由は、ロックハートという術師の家系に生まれたが故に他国の最新の想術に興味を持ち、それに直に触れたいという思いからであったが、意識の根底には、閉ざされた世界に対する閉塞感から来る鬱憤を晴らしたいという思いもあった。そして十五の頃から五年間旅を続け、古今東西あらゆる想術の知識をその身に蓄えることに成功した彼は、帰路の途中のある国で、興味本位に立ち寄った劇団の公演中に彼女と出会った。

 最初の関係は観客と、彼らに芸を披露するピエロだった。ステージの眩しいライトに照らされて煌めく癖のある金の髪と瞳に、他の観客同様、ヘクターは心を奪われたのだ。

 恋は盲目とはよく言ったもので、その日から彼は足しげく劇場に通い、既に多数いたシェリーのファンに混じって彼女が天幕から出てくる頃に贈り物を渡したりした。今となっては聞くに恥じる行為ではあるが、彼は若かった。それ故に一途で、ひたむきだった。

 観客とピエロの関係が終わりを告げたのは、ある公演の最中だった。シェリーは芸の終わりに、自身が使用した拳大のボールをサービスの一環として客席へと投げる。毎度奪い合いになるのだが、彼女の使った道具ではなく、彼女自身に執心だったヘクターはそれには参加していなかった。しかしその日、何の心境の変化か、こちらの方向へ投げられたボールへと手を伸ばすと、吸い寄せられるように手に収まった。すると、頭の中に声が響いたのだ。内容は穏やかな女の声で、「今度、良ければ食事しませんか?」と。

 想術だった。信じられない面持ちで手の中のボールを見ると、綺麗な字で術式が書かれている。難度としては初歩の初歩で、術式に伝えたい想いを込めるだけの誰にでも扱えるものだが、ヘクターは高揚した。もしかしたら自分にあてられたものではないかもしれないし、彼女はサービスの一環としてボールにメッセージを込めて投げているのかもしれない。深く客席に礼をして顔を上げた彼女を見ると、自分と目が合った。ような気がした。そして、目を逸らせぬまま、悪戯っ子のように笑ったシェリーはウィンクしてみせたのだ。

 いつものように公演の終わり、天幕の傍で待機していたヘクターは真偽を確かめるために、用意していた花束の包みに術式を書いた。それは先程の返事に対するもので、込めた言葉は「さっきの言葉は僕に宛てたものですか?」だ。

 天幕から彼女が手を振りながら出てくると、すぐに彼女の両手は贈り物でいっぱいになる。以降は彼女の付き人がそれらを受け取るのだが、今日は運良く直接渡せた。花束を受け取った彼女は立ち止まり、今度は気のせいでなく、こちらを見た。驚いた顔が微笑みに変わると懐からペンを取り出して包みに何か書き、此方へとそれを寄越してきた。受け取ると再び声が響く。

「ええ、勿論。二時間後に、この近くの公園で待ち合わせしましょう」

 気のせいではなかったのだ。呆然と花束を持ったまま、通り過ぎる彼女の背を見送った。いつもなら耳障りなファンの歓声も、その時はやけに遠かった。



 約束の時間から三十分ほど遅れて、彼女はやってきた。こちらを見ると小走りで駆け寄り。深く頭を下げる。街頭に照らされた髪が大きく波打った。

「ごめんなさい。遅れてしまって。急いできたんですけれど」

 華やかなステージで見ていた露出の多い服装とは違い、今の彼女の服装は質素だった。ありあわせを着てきたかのような印象さえ受ける。こちらの視線に気付いたのか、シェリーはぱっと顔を赤らめた。恥じ入っているようで、白のロングスカートを両手で抑えて、俯きがちに、先程よりは深くないまでも頭を下げる。

「ご、ごめんなさい。こちらから誘ったのに……、服、こんなのしかなくて……」

 恥をかかせてしまった、とヘクターが思う頃には遅かった。それでも取り繕わないよりはマシだ。慌てて言う。

「いや、いいんだ。こちらこそすまない。じろじろ見るような真似をして……」

 さっと顔を背ける。横目で見ると、俯いたまま立ち去る様子はない。聞きたいことは色々とあったが、今の状況ではまずいだろう。話を進めることにした。

「それじゃ、行こうか。何か食べたいものはある?」

 すると、ぱっと顔を上げた。その表情は安堵しているようで、胸の前で両手を握り、頬は赤いままに笑う。ステージで見せる笑顔とは別の、初めて見る顔だ。細められた金の瞳に、吸い寄せられそうだった。

「はい! 私、何でも食べられますから、貴方の食べたいもので!」

 そして、観客とピエロの関係は、公演の後や彼女の休日に忍んで会う友人になった。

 ステージのある日は手紙のやりとりのように想術で意思を伝え合い、食事の際には色々なことを直に顔を見て話し合った。彼女は謙虚で、人の感情の機微に敏感だったが、譲れない時にはこれ以上ないほど頑固だった。そして表情がよく変わり、機嫌を損ねることは滅多になかったが、その時には仲直りするまで骨が折れた。

 帰国の予定を一年延ばし、彼女とのこれ以上ないほど有意義な時間を過ごしていたヘクターへと転機が訪れたのは、ある日の食事でのことだった。

 その日、やけに元気のなかったシェリーは、席に着くや否や、俯いたまま切り出した。

「実は、他の国に行くことになったの」

 彼女たちは各地を渡り歩く放浪の民だ。ヘクターもそのことは重々承知していたが、心の底に重くのしかかるものがあった。

「ごめんなさい、ヘクター。貴方といられた時間は、本当に楽しかった。私の人生で、一番と言ってもいいくらい。今まで、本当にありがとう」

 そう言う彼女は、ステージ上で見せるのと同じ笑みをこちらに向けていた。それに感じるのは、どうしようもない痛みだ。一緒にいたいと、彼女も望んでいる。そして、その想いを挫かせはしない。したくないと、強く想った。想術師として、そして何より、友人ではなく、一人の男として。

 テーブルに身を乗り出して、彼女の華奢な肩を掴む。壊れてしまいそうなそれを強く、しかし慈しむように。

「僕の国へ来て欲しい。君が好きだ、シェリー。だから、僕とずっと一緒にいよう」

 強い語気で、言う。頬が熱いが構うものか。彼女は言葉を聞くと、顔を上げて呆然としていた。こちらを見たまま、信じられないと言わんばかりに金の瞳を見開いて。

「……ごめんなさい」

 一拍を置いて吐き出されたのは、拒否だった。深くうなだれた彼女の髪だけが視界にある。掴んだ肩は、小さく震えていた。

「ごめんなさい……。そう言ってくれたのは凄く嬉しい。私も、貴方が好き。でも、駄目なの……」

 彼女が顔を上げる。金の瞳は、潤んでいた。そこから大粒の涙がぽろぽろと、堰を切ったように溢れ出る。

「私、親に売られたの……。貴方にずっと言えなかった。言ったらきっと軽蔑されるから……。人前では言えないような酷いことだって沢山された。だから……」

 霞む声で、嗚咽とともに告げられる言葉に、全ての疑問が解けた。彼女が質素な服しか着ていない理由も、感情の機微に敏感な理由も。

 きっと彼女は、想像を絶する様な過酷な日々を過ごしてきたのだろう。親の愛も知らず、歪んだ感情に裸のまま晒されて、それでも笑っていたのだ。気丈に、気高く、凛として。

 言葉では表しきれない感情だった。だから、身を乗りだしたまま顔を寄せ、口付ける。掴んだ肩が大きく跳ねるが、構わない。

「――それでも君が好きだ。君が何者であろうと、どんな過去を経験しようと、今僕の目の前にいるシェリー・アンダーソンが僕にとって至上の人だ。だから、僕と一緒にいて欲しい。これからもずっと」

 唇を離し、告げる。呆けた表情の彼女はそれを聞くと、笑った。見慣れた、しかしかけがえのない、彼女の真の笑顔だった。

「――はい」

 涙声で紡がれる声に、安堵する。乗り出した体を席に戻すと、テーブルの脇で待機していたであろう店員が気まずそうに。

「……お客様、水をお持ちしました。それと、えー……おめでとうございます」

 ――恋は盲目とは、よく言ったものだ。


           ●


「……確かに、殴りたくなる話ではある。別の意味で」

「若かったのさ。私も、シェリーも。それに殴りたくなる話はここからだ」

 ゴミの散らかった部屋の中で、ヘクター・ロックハートは左手の薬指に嵌まった指輪を撫でる。これは二人で故郷に戻った後、正式なプロポーズの際買ったものだ。値段はそれなりにしたが、それ以上に思い出の詰まったかけがえのない品でもある。外すことは生涯ないだろう。

「シェリーが想術を扱えたのは簡単なことだ。あれくらいのものならば本を読めば誰でも出来る。何故話したこともない私に食事の誘いを送ったのかは、私も聞いたんだがはぐらかされてな。正式に籍を入れた後になって教えて貰ったんだが、一目惚れだったらしい」

 こちらを見る息子の瞳が眇になるが、何を言いたいのかはわかる。出来すぎだったとは自分でも思うが、こればかりは縁だ。

「国に戻った私は想術の研究を続けながら軍に入り、そこで軍曹……アレックスと知り合った。そしてお前を授かり――」

 そこで、一旦言葉を区切った。ここから先は言い難い話だ。自分にとっても、そして何より、イーサンにとって。

「研究とは、ある異族についてだった。旧時代の異族狩りは知っているな? それ以前に既に滅びていたもので、旧時代の文献にはこう記されている。この星に存在する生物の中で最も強力で、最も忌まわしく、最も凶悪なもの。その名すら呼ぶことは許されぬ、と」

 そこまで話したところで、イーサンの金の瞳が見開かれた。なにかを察したように。それに頷く。そして、伝えるべき順序を頭の中でもう一度整理し、口を開いた。

「そう、彼女は我々の研究の末に生み出された。人の、正確に言えば木精の身にその異族の力を宿した、新たな種族の形だ」

 衝撃的だったであろう。唖然とこちらを見つめる息子は、理解が追い付いていないようにも見える。それも仕方がないことだ。罪の意識が心に重いものを落とす。出来れば、知らずにいて欲しかった。しかし、こうなった以上は言わねばならない。本人が望まないにしても。もっと早くに言うべきだったのだろうとも思うが、過去は変えられないだが、後悔は纏わりついている。イーサンが士官学校に合格したと知った、その日から。

「そして、お前もそうだ。イーサン。お前を授かった時に、私がシェリーを説き伏せ、私と、お前の叔父と祖父母で、お前の心臓にその異族の遺伝子と、それを制御する術式、それはロックハート家に集積された想術の知識の粋を集めたものだった」

「親父が、俺に……」

「ああ、そして出産の日、万全のはずの術式が暴走し、お前の母と、祖父母が死んだ。あの情景は、伝えられるものではない……。私は己を憎んだよ。全て、全てが間違いだったのだ……。それでも何とかお前だけは無事に助け出すことができ、その術式を封印した。だから、お前は想術を扱えない。暴走を防ぐために、私がそう術式を心臓に上書きしたからな」

 あの夜の情景は、今でも網膜に焼き付いている。イーサンを核として膨大な霊素で構成されたあの怪物は、本来ならば彼すらも死に至らしめていたはずなのだ。否、そうでなければ理屈が合わない。致死量を遥かに超えた濃度の霊素を退治の彼は纏っていたのだから。

 そして、彼を死に至らしめなかった理由は、単純だ。

 母の愛。シェリーの想いが、イーサンを救ったのだ。術式など必要としないほどの強力な想い。それは呪いと呼ばれるが、あの時イーサンにかかったものは祝福に他ならない。

 ――シェリー、本当に君は私には過ぎた人だった。

 指輪の嵌められた左手を、右手で硬く握る。流石に、息子の顔は見れかった。妻と息子に心中で何度も謝罪した。既に遅過ぎることはわかっていても、だ。

「……だから、あいつは、俺のことを同じだって、言ってたのか……」

 困惑した声音で紡がれた言葉が、耳に届く。視線は動かさずに、息を吸って答えた。全ての疑問に、答える責務が自分にはある。

「そうだ。私はすぐに研究を凍結したが、弟はそうではなかった。全て処分したと思っていたが、奴はあれの一部を隠し持っていた。それを用いて保安局に入り、研究を再開した。そして、彼女が作られた」

 重い沈黙が訪れる。言い淀んだが、もう一つだけ、言うべきことがある。

「明後日、私の元に保安局の査察が入る。恐らく、彼女も来るだろうが、既にその時はお前の知っているステラ嬢ではない」

 ゆっくりと、顔を上げて息子を見た。困惑の表情はそのままで、こちらを見る金の瞳は揺れている。

「親父……」

 震える声で発せられた言葉に答えはせずに、しっかりと息子を見た。先程氷解した関係も、次の言葉で戻るかもしれない。しかし、言葉を妨げることはしてはならないと思う。必死に、こちらに伝えようとしているのだ。何も出来なかった分、今からは果たさなければならない。父親として。息子を想って逝った妻のためにも。

「親父が、親父たちが、その異族の研究さえしなければ、俺のお袋や、じいちゃんやばあちゃんが死ななくて住んで、俺は……士官学校でも普通にやれてたって、ことだよな……今の話」

「そうだ。私たちが、お前のそうした日常を、人生を奪ってしまった。それは、事実だ」

「そうか。そうなんだな……。でも、でも……確かに、ちゃんと……親父やお袋、じいちゃんやばあちゃんがいて、一緒にご飯食べて、笑って、どこかに出掛けるってこと、俺はほとんど経験しなかったし、そういうの、羨ましいとは思うよ。でも……俺、そうだったら……士官学校できっとジンジャーと仲良くなれなかった。そして多分、あの時に……死んでた。今までは、その方がいいんだって、思ってた。俺もあの時、死んでたら……こんな、罪悪感に苛まれることもなかったんじゃないかって。でも……それは違うんだ。きっと、違うんだ……。ジンジャーだって、言ってくれた。夢かもしれないけれど、もしかしたらとんでもない勘違いで、ほんとは俺のこと恨んでるのかもしれない、でも、確かに会えて、言ってくれたんだ……。それに、俺が……もし今と違う俺だったら……ステラにも会えなかった……。あいつがいたから、救われたんだ……。あいつが、俺に教えてくれたんだ……。だから、たらればなんて、あったらいいなと思うけど、違うんだ。俺は今の俺しかいない! ジンジャーがいて、ステラがいて、親父がいて、沢山辛いこともあったけど、良いことだってあった! だから、すぐになんて受け入れられないとんでもない話だけど、親父を恨んだりなんてしない!」

 絞り出すような声音は、段々と力強く、熱を持っていった。彼の表情も、困惑からはっきりと、意思を持ったものに変わっている。見ていて、眩しかった。

「イーサン……」

「それに俺、覚えてる! 小さい頃親父が、夜に本を読んでくれたこと、忙しいのに必死で休み見つけて、遊園地に連れて行ってくれたこと! 俺、確かに部屋もこんなに散らかって、フリーターだし、似合わないのに煙草吸ってるし、金ないし、どうしようもない人間だけど、否定したら、今まで俺のこと気にかけてくれて、支えてくれた人のこと、全部否定することになる。だから、それじゃ駄目なんだ。受け入れて、変わらなきゃ駄目なんだよな?」

 赤い頬で言う息子が、誇らしかった。そして、自分との関わりを覚えていてくれたことが、何より嬉しかった。目頭が熱くなるが、堪える。この年で泣くのはみっともないし、父親としての尊厳は保っておきたい。少々息子の顔がぼやけて見えるが、煙草の煙が目に入ったせいだ。

「だから、俺も査察の場に居させてくれ。そのために、聞きたいことがあるんだ、ステラに」

「駄目だ」

「なんでだよおおおおおお!」

イーサンが勢い良く立ち上がる。だが、仕方のない事だ。父親として、その場に居合わせるのは認められない。危険過ぎる。

「おそらく査察とは名目で、何らかの理由をこじつけて連中は強硬な手段に出る。その場にお前を置いておく訳には行かん。危険だ」

 突っ撥ねるように言い捨てると、立ち上がった。呆然とする彼を尻目に踵を返す。

「明後日の査察が無事に終われば、食事に行こう。店を予約しておく。それから、これからのことを決めよう。お前ももう十八だったか、早いものだな……」

 背を向けたまま、背後に立つ息子へ告げる。全ては明後日が過ぎてからだ。杞憂はあるが、大丈夫だろう。イーサンは自分の意思で歩いていける。そのための話も、準備もした。後は彼を信じるだけだ。一人の男として。

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