それでもなお人は過去に縋る。
広い部屋の中に、二人はいた。定期的に清掃されていると思われるそこには埃一つない。
家具は空の棚が幾つかと、クローゼットが一つ。中央に置かれた机の上には大きな旅行用の鞄がある。そして、隅に配置されたベッドには、イーサンが横たわっていた。
ベッドの脇に置かれた椅子には、ステラが座っている。彼女は動かぬまま、眠るイーサンの顔をじっと見つめていた。
「……イーサン」
あれから三日間、目を閉じたままの彼の名を呟く。声には悲哀が滲んでいた。
此処は内部隔壁の中に建てられたイーサンの父の屋敷だ。あの騒動の後、アレックスは負傷したイーサンを知り合いの医者へ連れていき、ヘクターとステラはイーサンの住居へ必要な物を取りに行ったのだ。
●
「君に幾つか聞きたいことがある」
賃貸アパートに向かう四輪駆動車の中で、運転席のヘクターは前を見たままステラへ言った。
「奇遇ね。私も貴方に聞きたいことがあるの」
イーサンに付いて行かずに彼と行動を共にしたのは、このためだ。おそらく、ヘクターも彼女に問いたいことがあるからこそ道案内を頼んだのだろう。
「……そうか、ならば君から問いたまえ」
一瞬、目を伏せたヘクターが言う。予想はしていたのだろう。
「イーサンを造ったのは、貴方ね?」
確信に満ちた問いかけだった。対するヘクターはしばし沈黙する。エンジンの駆動音だけが車内に流れる音だった。
「次の角を右よ。答えて」
「……正確には、私と、私の父母、そして君を造ったベネディクトの四人だ」
衝撃に打たれた。怒りに、奥歯を噛み締める。
「……貴方たち、家族でしょう? それなのに、なんで……」
拳を、強く握り締めた。腕にこびり付いた、まだ乾いていないイーサンの血が嫌な音を立てる。しかし、激情は罪悪感を凌駕した。
「人は、裸で生まれる訳ではない」
いきなり何を、と思った。激情を言葉に変えてぶつけようとする。
「このまま直進でいいのか?」
「……二つ目の曲がり角を右」
先手を取られ、勢いを削がれてしまった。背もたれに深く腰掛ける。イーサンを貫いたあの感触は、まだ残っている。あの時自分はどんな顔をしていたのだろうか。それが気になって仕方がない。
「家柄や、親の遺伝子、家族の期待……。そういうものを背負って、人は女の腹から生み出される。イーサンがああなるのは宿命だったのだよ。偶然ベネディクトに目を付けられた君と違ってな」
言葉に、脳が沸騰した。風切り音と共に、運転席のヘクターの首へ赤黒い刃を添える。ランスと対峙した時とは違い、今の彼女の腕は巨大な鉈のような形状をとっていた
桃色の瞳は、怒りの業火に燃えている。
ハンドルを握るヘクターは首に添えられた刃を横目で一度見たが、怯えた様子も身構える様子もない。自然体のまま、赤色を灯す信号へ目を戻した。
「人の話は最後まで聞くべきだ。それとも、君のいた施設では最低限の礼儀すら習わなかったのか?」
彼女の変形した腕を見ても、ヘクターは全く驚かない。むしろ、感じる気配は関心だった。
「……しかし、形状変化も自在とはな。木精の血とあれの遺伝子が混ざり合った結果か」
「話を逸らさないで!」
研究者の口調に変わった彼を一喝する。それにヘクターは小さく息を吐いた。
信号が青に変わり、車が動き出す。ヘクターが口を開いたのは、それからしばらく経ってからだ。
「……あの時、私は夢の中にいた。先祖から引き継がれていた研究を知り、それに惹かれ、一つの完成が見えていた」
刃は動かさず、ステラは独白を聞いていた。彼の口調は、痛みを伴った贖罪だった。
「妻の胎内にイーサンが宿った時、これは天命だと思ったよ。我が子を進化させることができると思い、妻を説き伏せ、胎児の時に先祖の発見した生物の遺伝子と、我らが研究し、その生物と同化するために完成させた術式を心臓に刻んだ」
緩やかに、車が右折した。目的地はすぐそこだった。
「そして産まれたのがイーサンだ。出生時に母の腹を突き破り、祖父母を屠った奴の姿を見て、私は後悔したよ。……いや、違うな。後悔の前に、私は確かに高揚した。そして、自分を強く憎んだよ」
フロントミラーに写った自嘲を伴った笑みは、この上なく悲しかった。あらかじめ場所を知っていたのだろう。車が、賃貸アパートの前に静かに止まる。
「だからこそ、償いたかった。妻と、父母と、何よりイーサンに。議員になり、若者のための政策を掲げた。……しかし肝心の、イーサンが士官学校を辞めた時、私は何も言ってやれなかった。父親らしいことなど何一つ出来ず、奴を傷付けた」
刃に変えた腕を、そっとステラは戻した。ドアに手をかけ、開ける。車外に出て、運転席の前まで来ると、シートに深く体を預けるヘクターの切なげな横顔が見えた。
「……すまなかったな。余計なことまで言ってしまった」
ヘクターの言葉に、ステラは頷くことも、首を振ることもしない。代わりに、思いを言葉にして放った。
「……似てるのね、貴方とイーサンは。私は、親子の関係がわからない。でも、お互い嫌ってはないんだから、やり直せる可能性はあるんじゃない?」
それだけ伝えて、ステラは車に背を向けた。
微かに頭を叩く感触に顔を上げる。分厚い雲から雨が降り始めていた。
●
「申し訳ありません。目標の補足に失敗しました」
内部保安局の有するビルの中、ロウとドライが座る一室で、ランスは謝罪を口にした。
「気にするな。むしろ貴様はよくやった。ヘクター・ロックハートをおびき出せたのだからな」
そう彼女をなだめたのはロウだ。金髪を後ろに撫で付けた彼は腕を組んだままこちらを見る。
「先程、局長から通達があった。ヘクター・ロックハートへの査察許可が出たとな」
その言葉に、ランスは目を見開く。意味することは一つだった。即ち、彼の捕縛だ。
「奴は有能な政治家だが、内務大臣と折りが悪い。老人どもは怖いのさ。自らの地位を脅かす存在が」
嘲るようにロウが笑った。切れ長の瞳を細め、厳格な面を歪ませて獰猛に笑う。
権威を傘にヘクターへと脅しをかけたランスだが、それが現実になるとは思ってもいなかった。彼はどこを探っても黒い部分のない。潔白な人物なのだ。
「それは権威の乱用です! 我々は政争のための道具ではない!」
思わず、声を荒げた。二人に向かって断言する。
ドライは肩を竦めておどけ、ロウは笑みを浮かべたままこちらを見た。
「口が過ぎるぞ、ランス。貴様の役割はその名の通り槍だ。口を挟むな。これは法なのだよ。それに定められたことは絶対だ」
返答に、歯軋りする。拳で机を強く叩いた。
「しかし!」
「くどいぞ、ランス。報告が終わったら下がれ」
即答だった。ぐ、と喉から出ようとする言葉を抑えられる。
「……失礼、します」
未練に引きずられながらも立ち上がり、退室した。
しばらく歩き、廊下の壁を強く叩く。無人の廊下に、小さな音だけが響いた。痛む拳を抑えながら、そこに体を預ける。
このままでは妹に顔向けが出来るはずもない。深海に沈んだ彼女が今の自分を見たらどう思うかと考えると、胸が締め付けられた。
ジンジャーが亡くなったしばらく後に、救援が政治家たちの確執によって遅れたと知らされ、空軍将校の道を捨てて保安局に入ったが、何一つ此処に入った意義を果たせていない。
だからといって軍に戻ることも出来ない。道は此処にしかないのだ。己の薄弱な意思を恨んだ。
壁から離れ、歩き出す。打ち付けた拳がやけに熱かった。
●
広い部屋の中に、イーサンは立っていた。
この部屋をイーサンは知っている。父と暮らしていた時の自らの部屋だ。彼が士官学校を辞め、家を出る前に暮らしていた場所だった。
何故自分がここにいるのか、イーサンにはわからない。呆然としながらも部屋の様相に懐かしさを覚えていた時、扉が静かに開いた。
「ねぇねぇお父さん。今日はこの本読んで!」
明かりのない部屋に入ってきたのは、童話の本を持って無邪気に笑う幼児と、その後に続く男だ。二人とも黒髪だが、幼児の方はそれに癖がある。二人とも、イーサンには見覚えがあった。
「……ガキの頃の俺と、親父だ」
二人はイーサンに気付く素振りもなく、部屋のベッドへと歩んでいく。これは幼少時の記憶を夢に見ているだけなのだろう。その様子に目を細め、懐古した。
小さい頃はよく父に童話を読んでもらっていたものだと、夢の中の自分と父を見ながら思い出す。自分が気に入っていた、王子が竜に攫われた姫を救出に向かう物語の名前は何だっただろうか。夢の光景が今のイーサンにはたまらなく眩しく、切なかった。
「昔の思い出って、今になってみるとなんでこんなに良い物だって思えるんだろうな……」
一人、そっと呟く。その疑問に答える者は、誰もいない。
「それは、人が思い出を糧にして生きてるからだよ」
その筈だった。
聞き覚えのある声に驚き、瞬時にそちらへ顔を向けた。かつて自分が住んでいた
部屋にいるのは、いるはずのない、士官学校の制服を着た青い髪の少女だ。
「や、久しぶりだね」
生前と変わりない姿と口調に、喉の奥から何かが溢れそうになる。唾を飲み込み、衝動を抑えこんでから、その名をイーサンは口にした。
「……ジン、ジャー?」
「覚えててくれたんだ。律儀だね、イーサンは」
微笑みながら彼女は言う。思いがけぬ再会に、イーサンは此処が夢の中だという事も忘れていた。
「お前、なんで……。だって、お前は……」
聞きたいことや言いたいことがあり過ぎて、言葉が纏まらない。ジンジャーには、それがたまらなくおかしいようだった。口元に手を当て、くつくつと笑っている。
「落ち着いてよ、イーサン。慌てる気持ちはわかるけどね。まぁでも、落ち着けって言っても無理か。もう二年も経つのに、忘れてないんだもんね」
そう言って、苦笑する。気まずさに俯く以外に、イーサンには何も出来なかった。
「馬鹿だよね、ほんと。わざわざ学校まで辞めることないのに。似合わない煙草まで吸っちゃってさ」
からかうように告げる彼女に、そっぽを向いた。頬がやけに熱い。小さな声で反論する。
「……うるせぇ」
「こんな隈まで作ってさ。もっと器用に生きればいいのに……」
いつの間にか、すぐ側に彼女はいた。手指が這うのは目元、濃い隈の部分だ。近い顔と肌の柔らかさに、体を硬くする。ジンジャーの表情は憂いだった。瞳は微かに潤んでいる。
「勝手に背負い込んで、あんな夢まで見て、本当に馬鹿なんだから。……でも、覚えててくれて嬉しかった。」
彼女の手が、頬へと滑る。躊躇いがちに、細いジンジャーの肩へ手を置いた。
「……忘れられる訳、ないだろ。あんだけ俺に纏わり付いて、別れも言わずに離れていったんだから」
そうだ。彼女といた日々はとてつもなく濃密で、そして楽しかった。暗鬱としていた日常に、光を呼び込んでくれたのが、他でもないジンジャーだ。
「……そうだね、ごめん。だから、今日はさよならを言いに来たの。不器用で鈍感で、でも優しくて、誰よりも愛しい貴方に」
憂いを帯びた表情が、花の咲くような笑みに変わった。言葉の意味を理解する前に、唇に温かなものが当たり、そっと離れた。
「……狡い女だね、私は」
こちらが呆けている間に快活な笑みが苦笑へと変わり、ジンジャーの体が離れた。
「もう時間がないから、最後に一つだけ。人の想いが霊素に影響を及ぼすなら、その逆だってあるはずだよね? 私が君に会えたのは、それがあったからだよ」
彼女の声が、姿が霞んでいく。同時に、幼少の自分と父がいる部屋も。
「待てよ、待ってくれ! ジンジャー! 俺は――」
決死の叫びは彼女に届いたのだろうか。ただ、ジンジャーが微笑んだような気が、イーサンにはした。
「さようなら、イーサン。彼女を、ちゃんと幸せにしてあげてね。あの子も君と同じ、幸せになるべき人だから」
微かに聞こえた別れの言葉。それを最後に、景色が真っ白になった。
●
イーサンが目を覚ましたのは、一週間後の昼だった。目を開け、飛び起きるとそこはいつものワンルームではなく、夢で見たあの部屋だ。
「おう、起きたか」
無論、部屋に青い髪の少女などいるはずもない。代わりに部屋にいたのは、褐色の肌に禿頭のやけに体格のいい大男だった。
落胆に沈むこちらを尻目に椅子から立ち上がると、男はベッドの脇まで歩いてきた。そして、節くれ立った手を差し出してくる。
「直に言葉を交わすのは初めてだな。儂はアレックス。アレックス・リーだ。お主の親父の秘書をやっとる」
親父の、という一語に表情が苦くなるのを自覚しながら釣られるままに手を握ると、強い力で握り返してきた。硬く厚い手の平は年季と、アレックスと名乗る男がただの秘書ではないことを教えてくれた。人当たりの良い笑みを浮かべる面には数多の皺が刻まれているが、肉体には全く老人の印象がない。逞しい姿だ。
「……なんで、俺は此処に……?」
夢の中では懐かしがっていたが、現実では二度と訪れることのないであろう場所に自分はいるのか。その理由がわからず、挨拶も忘れて問い掛ける。
「なんだ。覚えちゃおらんのか? 保安局の手先、ランスとかいう小娘にやられたろう」
その言葉を聞いて、全てを思い出した。ジンジャーの姉とステラの戦い。彼女の人ならざる姿。そして、二人の間に割って入ったこと。
「ステラは、ステラは大丈夫なのか?」
慌てて、部屋を見渡す。部屋の中にはアレックスと、ワンルームに置いているはずの旅行用鞄があるだけだ。彼女の姿はどこにもない。
「落ち着け。他人の心配より自分の心配をすべきだろう。……と言いたいところだが、その文だと心配ないようだな」
言葉と共に、彼は自分の頭を無でた。冷静になって自分の体を見ると、晒された胴が目に入る。包帯が巻かれはしていたが、痛みは微塵もなかった。
「全く大した回復力だ。常人ならとうに死んどる」
そう言って豪胆に笑う。しかしその時のイーサンには自分の状態よりも、姿を見ない少女の方が気がかりだった。
ステラの姿は、イーサンの網膜に焼き付いている。あのおぞましい両腕と、それを忌避するような彼女。その彼女がどういう気持ちで今いるのか、それが心配だった。
「まぁ、しかしヘクターの言っていた通りだ。お前たちはよく似ておる。儂はここらで失礼するよ」
こちらの頭に大きな手を乗せ、軽く叩いてからアレックスは去っていった。その後、開いた扉の先で彼が誰かと会話しているのが見えた。その人物の来訪を彼は察したのだろうか。
しばらく、扉から見える廊下にイーサンは顔を向けていた。すると、見覚えのある白銀の髪の少女が躊躇いがちに部屋に入って来る。
「……怪我は、もういいの?」
少女は立ったまま、ベッドに近付くこともなく声をかけてきた。桃色の瞳はこちらを見ておらず、視線はさまよっている。
見る限り、彼女は疲れているようだった。いつも堂々としている姿が、今は小さく見える。その様子に、罪悪感が湧いた。
「ああ、お陰様でな。でも、なんでこんなところにいるかはわからないが……」
苦笑。珍しく弱腰なステラに引っ張られているのだろうか、何故かこちらまで気まずくなる。こちらの返事を聞くと、彼女はおずおずと、落ち着きのないまま答えを言った。
「あの後すぐに、貴方のお父さんとアレックスが来て、此処に連れてきたの。着替えは、私が持ってきた……」
部屋に何故旅行用の鞄があるのか、それで得心がいった。自分がここにいる理由もだ。しかし何故今更父が自分を助けに来たのかが、わからない。その答えを持っているはずの父も、アレックスも今はいない。部屋にはイーサンとステラだけがいる。
ただ、彼女に対してもまだわからないことが幾つかある。言うべきか躊躇い、慎重に言葉を選んだ。どう発言すれば、彼女を傷付けないで済むのかを。
「……なんで、親父は俺たちの場所がわかったんだ? ……それに、アレックスさんは彼女を保安局の手先だと言った。保安局って言う名前の部署を、俺は聞いたことがない。……あと――」
「内部保安局は、内務省の非公式の部署。軍部管轄の情報局とは違って、主にテロリストやスパイの検挙をする部署で、政治家への査察権限もある。私はそこに所属するために造り出された人型の兵器だよ。彼女……、ランスっていう識別名を持つ女の人の言う通り」
こちらの言葉を遮り、まくし立てるようにステラは言った。これは明確な彼女の拒絶だ。自らの失態に落ち込むも、少女の言葉を噛み砕きながら飲み込んでいった。
「イーサンも見たでしょう? あれは想術なんだ。昔に発見された名もない異族の遺伝子を心臓に埋め込んで、それを高密度の霊素で模倣する術式と高速再生の式を同じく心臓に刻むの。どっちも胎児の時にやって、体に馴染ませる。そうして血によって式を全身に広げるの。私の場合は両親が木精だから、その血と混ざってあんな風になってるらしいんだ」
イーサンに言葉を放つ隙を与えずに、ただステラは言葉を垂れ流した。ここまで饒舌な彼女を見るのは初めてで、言葉は飲み込めるが理解が追い付かない。
木精はこの国でポピュラーな異族だが、旧時代に行われた異族狩りによって滅びたはずだ。それは教科書にも載っていることで、到底信じられない。それに、心臓に直接術式を記すなど聞いたこともなかった。学生時代に片っ端から想術についての文献を漁ったイーサンでさえ知らないことだ。
「研究所では、クローンによって量産された私と同じ子たちが沢山いて、毎日毎日戦ってた。ずっとこのまま、死ぬまでこうなんだって思ってたら、私は外に出られたの」
そこで、ステラは一旦言葉を切る。もはや瞳の揺らぎはない。桃色の瞳は、ただ真っ直ぐにこちらを見つめていた。無機質な硝子のようなそれは、何の表情も、感慨も見せてはいない。
彼女の言葉と瞳に、イーサンは戦慄した。口端がひくつき、懐疑の目線を彼女に向ける。一方的に告げられる彼女の言葉は彼にとってはとうに常識の範疇外だった。現実感と倫理の欠片もないお伽話だ。ただ、それを一蹴することは出来なかった。
「そして、保安局の建物がある場所に護送されてる途中、逃げ出したの。外の世界に、ずっとずっと憧れてたから。イーサンに近付いたのも、一人じゃ生きていけないってわかってたからだよ。本で読んで、大体の知識はあったから。……誰でも良かった。そう、誰でも良かったの。ただ私を受け入れてくれる人なら。一緒に住む時に言った言葉も、全部嘘。イーサンが単純で助かった」
そこまで言って、ステラは背を向けた。背中の告げる意思は完全な拒否だ。同情も、理解も、何も求めていない。痛い程小さく、虚勢にまみれた背中だ。
声をかけることは、出来ない。今のイーサンに出来ることは、呪縛に囚われたように不動のまま少女の背中を見つめ続けることだけだ。
「でも、駄目だった。私の体の中には発信機が埋め込まれてたんだ。あの女の人が来たのもそのせい。イーサンのお父さんたちが来たのは、彼が内務大臣と仲が悪くて、保安局の情報を頻繁に探ってたから。放し飼いにされてただけだったんだよ、私。でも、外の世界は眩しくて、儚くて、……楽しかった」
そういうなり、部屋の出口へ足を進めた。そして、一度止まる。
「さようなら、イーサン。ごめんね、ひどい事して」
白銀の髪が尾を引いて、少女の姿が消える。
少女が去ったところで、イーサンの呪縛は解けた。
反射的に、自由になった体はは彼女を追っていた。ステラの言葉を聞きはすれど、理解はまだ追いついていない。だが、追わなければならない気がした。そうさせるのは彼女の小さな背中であり、夢の中のジンジャーの一言だ。
旅行鞄から適当な上着を引っ張り出し、着ながら走る。怪我の痛みはなかったが、長い間横になって代償は大きかった。
体が自分の物ではないかのように重く、少し走っただけで息切れしてしまう。心中で毒を吐きながら、ひたすら走った。
彼女の言葉を確かめたいという思いもあったが、今彼女を一人にしたくないという理由の方が大きかった。
だが、本当に一人になりたくなかったのは他ならぬ自分だ。そのことにも、気付いていた。
以前の彼ならば決して気付けなかった思い。それを気付かせてくれたのは、他ならぬ少女だ。
●
――痛い、痛い、痛いよ。
負傷は体の何処にもない。それなのに何故、こんなにも胸が痛むのか、ステラにはわからなかった。
わからないまま、ただ走る。目的地など無かった。保安局に行くつもりは毛頭無かったし、イーサンの元へも真実を打ち明けた以上は戻れない。それに――
――あんなにひどい言い方した……。
思い出して、唇を強く噛む。彼はどんな顔をしていたのだろう。気になるが、想像したくはなかった。
不意に躓く。崩れたバランスを立て直せずに、そのまま歩道に両手を付いた。
予測の外の事態に鼓動が跳ね上がり、体が暫し固まった。口腔から吐き出す呼気は荒く、自分のものではないかのようだ。瞳を硬く閉じ、接地した熱を持つ手の平を強く握る。
そして立ち上がる。その筈だった。
「おい、何やってんだ」
背後から右脇に回された腕が、強制的にステラの体を持ち上げた。そして、耳に届いたのは紛れもなく一番会いたくなかった彼の声だ。
「……離してっ!」
振り向かずに、手を振り払った。手の甲に肉を打つ感触が伝わり、同時に苦悶の声が背後から聞こえる。
人の形をしているとはいえ、心臓に刻まれた式と組み込まれた異族の遺伝子の影響で、その身体機能は常人を遥かに凌駕する。その加減なしの一撃だ。体を彼に向けると、イーサンが右手で顔の下半分を覆っていた。先程彼の顔を打った自身の手の甲を恐る恐る見る。そこには、赤い雫が点々と付着していた。
「あ……嫌……っ」
視界が、酷く歪んだ。脳が揺れる。空白の後に彼女の頭によぎった映像は、イーサンを貫いたあの場面だ。
意思とは関係なく、足がよろめいた。逃げなければ、と頭に警鐘が鳴る。
ふと気付くと、そこは先程の路地ではなく開けた広場だった。意識するると、息が上がっている。
逃げたのだ、いつの間にか。安堵の息を漏らすと同時に、罪悪感が双肩にのしかかった。
手近なベンチに倒れるように座り込む。気力を使い果たした彼女に、立ち上がる意思はなかった。
広場に知った顔は何一つない。当たり前のことだが、それが堪えた。
また一人になってしまった。研究所にいた頃は特に感じなかったことだが、今は違う。
変わってしまったのだ、あの時とは何もかも。
それが恨めしかった。何よりも。
「……こんな気持ち、知らなきゃよかった」
呟きとともに、自身の体を抱く。そのまま、時間だけが過ぎていった。
●
「……上手くいかないもんだな、中々」
あっという間に消えたステラの背中を見送ったイーサンは溜息を零す。
鼻血は既に止まっていたが、痛みは微かに残っている。しかしそれよりも彼を動揺させたのは、攻撃した後のステラの表情だ。
思い出して、唇を噛む。きっと思い出したのだろう。
同じだ。罪の意識に苛まれた自分と。
自分は救われた。だから、今度は救う側にならねばならない。否、なりたい。
だから急いだ。冤罪に喘ぐ彼女の元へ。
●
どの程度時間が経ったのだろう。呆けたままベンチに座っていると、広場には人一人いなくなっている。
ふと、空を見上げた。この街は今日も曇り空だ。元より晴れた日が少ない国だとは知っていたが、ここまでとは思っていなかった。再び顔を広場に戻す。
すると、知った顔がそこにいた。距離にして約十歩先。彼は真っ直ぐにこちらを見ている。
最初は、錯覚かと思った。次に確かに彼がいることを確信し、そして複雑な気持ちが体中を駆け巡った。
硬直したままのこちらを見たまま、彼は深呼吸。そして、困ったような顔で口を開いた。
「……あー、少し話があるんだが、いいかな?」
●
がらんとした広場に置かれたベンチに、一組の男女が浅く腰をかけている。二人の間には一人分の間隔が空いており、右側の少女は脚をぴったりと揃えたまま伏し目がちで、左の青年は脚を軽く開き、両肘を両膝へとついている。顔は少女の顔を覗き込むような形だ。
先の反省を踏まえやんわりと誘ったところ、とりあえず会談には漕ぎ着けた。しかしイーサンは何から話していいのかわからなかった。表情を苦笑気味に保ったまま、どう会話を組み立てようかと考えている。我ながら情けない、とまで思う始末だ。
「……家の中で聞かせてくれた話、本当なのか?」
口腔に溜まった唾を飲み込み、絞り出すように問うた。それに対する彼女の答えは沈黙。そして、しばらく置いて口を開いた。
「……見たでしょ、貴方も。あれが全て」
嗚咽のような声音だった。それを聞いて、何も言えなくなる。
「そう、か……」
何か言わねば、と必死に考えた結果が、これだ。続くのは沈黙。言葉が続かない、鉛を飲まされたような感覚だった。いたたまれなさに、顔を伏せた。
「……どうして」
絞り出すような声に、顔を上げる。ステラは唇を強く噛んでいた。注視すると、肩が小刻みに揺れている。
「どうして、追いかけてきたの……?」
続く問いに、眉を顰めた。答えは決まっている。
「そりゃ、お前が心配だったから……」
「私の事は放っておいて!」
強い語気に、言葉が途切れる。堰が切れたように、彼女は叫び出した。
「私のあの姿を見て、あんな事されて、なんでそんな事が言えるの? 普通は、近付きたくないって思うでしょ? だから嫌われる前に離れようとしたのに、イーサンは追いかけて来る! もうわからないよ、私……どうすればいいの?」
正面を向いていた彼女の体は、声が大きくなっていく程こちらに乗り出すような形になっていた。桃色の瞳は震え、縋るようにこちらを見ている。
思わず、体を引いた。それに気付いた時には、もう遅かった。
「……私を嫌ってよ、イーサン。貴方だって私と同じ体の癖に、なんで私だけこんなに醜いの? 貴方はいつだって優しくて、温かいのに……。なんで私は、私たちはこんなに爛れているの?」
両肩を掴んだ彼女の手の平は、幽鬼のように冷たかった。それに対してイーサンは何も言うことが出来ない。ただ、羨望と嫉妬の混じった声に圧倒されていた。
「……貴方となんて、出会わなきゃ良かった」
滑るように、肩を掴む腕が落ちた。途端、はっとしたように彼女の表情が変わる。
「随分と、人の真似事を楽しんでいるようだな。ジャバウォック?」
唐突に割り込んだ粘つくような声の主は、嘲笑を隠そうともせずに現れた。
二人揃って顔をそちらに向けると、金髪を後ろに撫で付けた男がそこに立っていた。その男は青を基調にした国軍の勤務服を纏っていたが、肩には階級章がなく、代わりに牛車の紋章が付けられている。男の先の言葉と合わせて、イーサンは瞬時に判断した。
――この前と同じ、情報局の刺客か!
同時に跳ねるように立ち上がり、男とステラの直線上に立とうとした。何の計算も計画もない、咄嗟の行動だ。
しかし、それは瞬時に叩き潰される。
立ち上がり、一歩を踏んでステラを庇おうとしたところで、彼の腹部に衝撃が幾つも刺さった。
堪え難い痛みに声を上げることも出来ず、膝から崩れ落ちる。そして、強烈な不快感とともに胃液を眼前の芝生にぶちまけた。
「イーサン!」
彼女の叫び声が、やけに遠く聞こえた。背中をさする感触が伝わるが、それが確かなものかどうかさえわからない。
「貴様は失格だ。イーサン・ロックハート。貴様のような軟弱者は、我らの同志として認められん」
混濁する意識の中で、男の声が波打って聞こえる。胃液にまみれた口を拭うこともせず、決死の思いで顔を上げた。
「……この、野郎……ッ」
揺れる瞳を細めることで焦点を安定させようとするが、定まらない。男は、既にこちらを見ていなかった。
「さぁ来るがいい。ジャバウォック。貴様のいるべき場所は安寧と静寂が跋扈する此処ではない。闘争と謀略のみの世界だ」
ふざけるなと、そう叫びたかった。しかし、口から出るのは雄弁な抵抗の言葉ではなく、無様な喘ぎと空咳のみだ。
「……いいでしょう。私は行くわ。私のいるべき場所へ」
必死で呼吸を整えるイーサンが聞いたのは、信じ難いステラの言葉だった。背中に置かれた朧気な感触が無くなると同時に、足音と、自身を横切っていく彼女の下肢がぼやけた視界に移る。
「さようなら、イーサン。……これ以上は、もう沢山なの」
微かな囁き。石が乗ったように重い頭を上げると、彼女は既に男の傍らにいた。
どちらも振り返ることなく、背中が小さくなり、やがて消えた。異臭を放つ胃液のぶちまけられた公園に、水滴が落ちる。最初は長い間隔だったが、すぐにそれは短くなり、彼の体と、彼のいる場所を濡らしていく。
「……くっそ」
短く刈られた草を巻き込みながら、拳を握った。心中には様々な感情が生まれては既存のそれと混ざり、ぐるぐると渦を巻いている。そのどす黒い奔流に、イーサンは溺れてしまいそうだった
「くそおおおおおおおおおお!」
心境を移すような色の空に向かって、吠えた。その後に咳き込む。体に当たる雨粒が、やけに痛かった。
雨は当分止みそうにない。