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終末のオーバーラップ  作者: 屑屋稲
第四章:
6/10

過去は語らない。ただ悪鬼のように、その身に纏わりついている。

 白い部屋の中に、白銀の髪を持つ童女はいた。窓はないため、外部の状況を知ることは出来ない。部屋の中に置かれているのはベッドと、その周りに無造作に積み上げられた大量の本だ。

 難解な学術書から女性のファッション誌まで、その種類は多岐に渡る。彼女はベッドの上に座り、桃色の双眸を一冊の本に注いでいた。

 それはこの国に古くから伝わる童話で、竜に囚われた姫を王子が救出に向かう物語だ。その姫君の名前はステラという。

 ページの状態から、彼女がその本を何度も読んでいることが伺える。小さな手がページをめくった。その途端、ノックもなく、外から鍵のかかった扉が開かれる。

「三六番。時間だ」

 扉を開き童女へ声をかけたのは、白衣を着た男だ。彼の後ろには装甲服に包まれた二人の武装兵がいる。

 いつも通りだと、童女は思う。本を閉じて、扉から出た。男の後ろを付いていく。その間、彼女の後ろを歩く武装兵が持つ小銃の銃口は、ぶれずにこちらを向いていた。

 彼女が連れて行かれたのは、円形の広間だった。周囲の壁はいかにも頑丈そうで、天井には幾つものカメラと、スピーカーが一つある。

 そして彼女の正面、少し離れたところにいるのは、彼女と全く同じ姿形をした童女。

「始めろ」

 短く、スピーカーから声が届く。いつも通りの、他愛もない日常だ。彼らにとっても、自分にとっても、目の前の自分と同じ童女にとっても。

 無言のまま、自らの力を顕現させる。二人のそれは全く同時で、鏡合わせのようだった。

 今日も、同じ顔をした相手と殺し合う。そうして今まで生きてきたし、きっとこれからもそうなのだろう。自分が自分に殺されるその日まで。

 同じタイミングで鏡合わせの自分へと走り出す。ただ、速度は僅かにこちらが上だった。


           ●


 ソファの上で、ステラは目を覚ました。ゆっくりと起き上がり、ベッドの上で寝息を立てるイーサンを見て、ここが彼の部屋であることを確認する。

 ――なんで今更、あんな夢。

 彼女が見た夢は、過去の一部だ。イーサンには決して話すことの出来ない昔話。彼は昨晩自らの過去を語ってくれた。それが出来ない自分に後ろめたさを感じるが、話したら嫌われると確信していた。

 外はまだ暗い。それに今日は、前から約束していた二度目の外出の日だ。眠ろうと思い、ソファに身を沈めて瞳を閉じるも、それは至難だった。寝返りを何度も打った後に眼を開けてしまう。

「……むぅ」

 ソファに横たわったまま、小声で唸る。気持ちがざわめいていて、眠れない。

 無意識に視線が向かったのは、イーサンが眠るベッド。ふと、一つの考えが頭をよぎる。

 ステラの行動は迅速だった。一人用のベッドだが、イーサンは細身なため、彼女一人が横たわるスペースは残っている。そこに、迷わず入った。体はほぼ密着している。

 煙草の微かな臭いが、彼の匂いと混ざって鼻に届いた。こちらに背を向けて眠る彼のそこに両手を当てる。緩やかな呼吸と鼓動がそこから伝わった。

「ごめんね……」

 自らの秘密を打ち明けられないことを詫びた。卑怯だと、そう思う。そして、卑怯な自分を変えたいと言った彼の言葉が胸に浮かんだ。

「……大丈夫。貴方になら、きっと全てひれ伏すわ」

 彼の耳には届かない言葉を紡ぐ。そして、ステラは目を閉じた。



 無論、この後起きたイーサンが悲鳴を上げたことは言うまでもない。


           ●


「ったく、今朝は驚いたぞ」

 この街は今日も霧だった。その中、二人で繁華街の通りを歩きながらイーサンは言う。ちなみにこの言は三度目だ。

 今日も人は相変わらず多い。天気は芳しくないが、人々の外出意欲はそれに優先するようだ。

「そんな固いこと言わなくてもいいじゃない」

 隣の彼女は澄まし顔だ。溜息をつくも、文句は言わない。蛇足だが、二人は手を繋いでいる。ステラ曰く、

「またイーサンが迷子にならないように」

 とのことだったが、はぐれたのはお前だとイーサンはその時強く心中で抗議した。先の外出でも繋いだが、奥手な彼にとってこの行為は未だ慣れない。

 今日の外出は特に理由もないもので、前回のそれが終わる際にステラが提案したものだ。

よって二人は適当に街をぶらつき、目に留まるものがあればそこに行くという行き当たりばったりな行為を行なっていたのだが、これが案外楽しかった。

 ふと、過去を思い出し胸が痛むが、ふり払った。表情に苦笑の形でそれが出る。

 変わりたいと、昨日決意したのだ。それに、自分がこうではステラに失礼だろう。

「どうしたの?」

 変化に気付き、彼女がこちらを向いて問いかけてきた。当初はこちらの感情に全く疎かった彼女だが、今では目聡い。問いに、苦笑のまま首を振った。

「なんでもないよ。大丈夫」

 そう言うと、彼女は視線を通りに並ぶ店へ移した。こういう距離のとり方が、ステラは上手い。否、上手くなった。こちらが鬱陶しいと思う所まで踏み込んではこないし、かといって寂しいと思う程離れたりもしないのだ。

「ねぇ、そろそろご飯にしよう?」

 繋いだ手を軽く引く彼女の目は一軒のレストランに目を向いている。言葉に右腕の時計を見ると、時間は正午の少し前だった。小腹も空いている。

「そうだな、飯に――」

 言葉の続きは、彼の視界の隅に映った人影によって遮られる。肩まで伸びた深い青の髪を着た国軍の勤務服を着た女だ。肩に階級章はなく、見慣れない牛車の紋章を付けている。その女がこちらへ近付いてきた。顔が、自然とそちらを向く。表情に驚愕と怯えを纏って。

「合同葬儀以来でしょうか。お久しぶりです。イーサン・ロックハート君。私を覚えていますか?」

 人混みの中でも互いがはっきり認識できる距離になって、彼女は足を止めた。そしてあの時と同じ、どこか物憂げな表情で挨拶してきた。

 忘れるものかと、イーサンは思う。ジンジャーの姉である彼女を。

 過去が、うつつとなって追ってきた。時間をかけて向き合おうと決めた途端に。時は彼を待ってくれない。

 ステラが、まずこちらの表情を見て、イーサンの視線の先に立つ彼女を見た。一歩ステラが前に出る。イーサンを守るように。

「貴方は、誰?」

 短い言葉だが、口調は厳しかった。問いかけに彼女は首を振って、事も無げに言う。

「貴方が配属されることになっている部署の者ですよ。そして、彼の知り合いであったジンジャー・フラーの姉です」

 彼女の放った言葉に、ざわめく心中でイーサンは疑問した。彼女はイーサンの知る限り軍人だ。合同葬儀の際も軍服を纏っていた。その彼女がステラに向かって、配属されることになっている部署の者、と言ったのだ。

「お前……」

 ステラの背中に声を掛ける。今まで、彼はステラを何処かの富豪の娘だと思っていた。だが、今のやりとりを見るに、その認識は明らかに間違っている。

 こちらに背を向ける少女は何も語らない。代わりに、少女を挟んで立つ彼女が答えた。

「知らないのですか? まぁ、無理もない。彼女は人ではない。我々の新たな戦力として造られた人型の兵器です。名はジャバウォック」

 そこで、彼女は一旦言葉を切った。そしてステラを見、彼女とイーサンの繋いだ手を見て、首を振る。

「まぁ、ここまで人の世界に順応しているとは思いませんでしたが。何にせよ、野放しにしておくには余りに――」

「黙って!」

 彼女のここまで大きな声を、イーサンは初めて聞いた。彼女は俯いたまま、肩を僅かに震わせている。こちらと繋いだ手は、強く握られていた。彼が痛みを感じる程に。

 繋がれた手から伝わる痛みは彼女のものだ。おそらく、最も知られたくない者に、自分の秘密を知られてしまったことの痛みだろう。それも他人の口から。

 認識を覆されたことで抜けていた手の力を戻す。言葉の代わりに、震える手を強く握った。

 彼女が、呆然とした顔で振り向いた。繋いだ手を、こちらに向かって強く引く。

「わっ……」

 予想外の行動に崩れた体を抱き締めた。大衆の面前だが構うものか。

「人の事情に立ち入るのは気乗りしないが、こいつはよっぽど例の部署とやらに行くのが嫌らしい。それだったら、正式な手続きを踏んでそこを辞めることも出来るはずだ。今は戦時中じゃないんだからな」

 目を丸くしてこちらを見る彼女とは目を合わせない。合わせたら間違いなく赤面する自信がある。なので、ステラを迎えに来たらしいジンジャーの姉へと言った。

「それは不可能です。私の話をきちんと聞いていましたか? 彼女は人間ではなく兵器だと言ったはずです。そして貴方にも同行してもらいますよ。上が貴方を欲しがっていてね」

 怒りは、疑問に打ち消される。

 ――何故、軍が俺を欲しがる?

「意外なのはわかります。正直私も今は一般人の貴方を連れて行くことに気乗りはしませんが、命令ならば仕方ない」

 こちらの表情を見て察したであろう彼女が、溜息混じりに答えた。しかしそれはイーサンにとっての疑問の解決にはならない。問いかけの言葉は、ステラの怒りを孕んだ言葉に遮られる。

「貴方、まさか……」

「そのまさかですよ。貴方と同じように、彼にも国のために尽力してもらいます。貴方が彼と離れたくないのならば、悪い話ではないでしょう?」

 イーサンは、完全に置いていかれていた。話の流れが全くわからない。ただ、腕の中のステラの憤怒の雰囲気がびりびりと伝わってくる。そして、ジンジャーの姉が、その面に微かな憂鬱を滲ませていることも。

「これは命令です。ジャバウォック、そしてイーサン・ロックハート。すぐに私と本部に来なさい」

 ぎり、と歯軋りが腕の中で聞こえた。

「私の名前はステラよ! それに、イーサンを巻き込ませはしない」

 ステラが、腕の中から出た。一歩を彼女へと踏み出す。背中に先程の弱さの余韻は残っている。しかし、後ろ姿は凛としていた。

「……そうですか、ならば仕方ありませんね」

言葉と共に、彼女が動いた。彼女が動く刹那にイーサンは前に立つステラの肩を掴み、自らの体と共に横に倒す。直後、イーサンの斜め後ろに彼女は立っていた。すぐに立ち、振り向いて目を女へ向ける。

イーサンが対応できたのは、これまでの知識の累積によるものだ。

 彼女の足元の霊素光から想術の発動を見切り、それが靴から発生したことで加速系の想術であると判断できた。想術は術式とそれに対応する想いを持つ他に、術式をどこに記すのかも重要だ。その知識はイーサンが自らの欠点を克服するために集めたものだ。結局彼は最後まで術を扱えなかったが、集めた知識は残っている。

「ほぅ……」

 感嘆の吐息を、加速術を用いた女は漏らした。威嚇の動作を見切られたことで、目を細める。

 おそらく次は躱せない。彼女は初撃を外したことで本気になったはずだ。

「貴方を侮っていたようですね、私は。妹は貴方を高く評価していましたが、今になって」その理由がわかりました」

 妹という、たった一語が彼の心を大きく揺らす。反論しようとしたが、一体何に対して言えばいいのかわからない。

「さて、仕込みは終わりました」

 続く女の言葉と共に、世界が一変した。周囲にあれだけいた人々が全てその姿を消したのだ。先程までイーサンがステラと歩いていた通りは今やがらんどうだ。その中に、自身と少女と女がいる。

 様変わりした様相に呆然とするも、すぐに思考する。此処は既に戦場だ。緊急時は思考することを止めるなと、あそこで教官から執拗に言われ続けていた。

「……符で俺たちを位相空間に引きずり込んだのか?」

 思考の末、ある結論に至る。符とは紙などの媒体に術者が術式と共に予めそれに対応する想いを込めて作成する術具の総称だ。術を用いる度に式に対応する想念を持っている必要がなく、特定の状況下で自動で大気中の霊素を使って発動するが、任意に使用することもできる。今のは後者だ。

 彼女の軍服から光が漏れているのを確かに見た。あながち間違ってはいないはずだ。

「……驚きましたね。一目でそこまで看破するとは。流石はロックハートの血族というべきでしょうか」

「家柄は関係ねぇ。俺は親父から想術のことなんてこれっぽちも習わなかったよ」

 答えを告げ、声に賞賛を伴って紡がれる言葉に、自分自身に対する皮肉を言う。

 今の状況は非常に不味い。これが符によるものならば、この空間は時間が経てば元へと戻るはずだ。ただ、それまで女からステラを連れて逃げ切る自信は彼に無かった。

 理由は二つ。

一つは、今三人を取り込んだこの空間が、実は非常に狭いものであるということだ。符を用いてイーサンとステラを此処へ引きずり込んだのはおそらく目の前の女だ。どんなに優れた術者が作った符であろうと、効果範囲はそう広いものにならない。ましてや特定の人物をその中に連れてくる式も組み込んでいるのだ。範囲は精々彼女を中心に十メートルが限界だろう。

もう一つの理由は、彼女の用いる加速術だった。身体強化系の想術は、術者への負担が大きい代わりに安易な式で強力な効果を発揮する。今のような限られた空間と時間で戦い抜くには最適のものだ。

相手を打ち倒す必要はない。符の効果が切れるまで逃げればよいのだ。しかし、そのための策は全く無かった。

諦めそうになる自分を奮い立たせる。女が一歩、こちらへ進んだ。

途端、襟首を掴まれて後ろへ投げ飛ばされる。女はまだ術を用いてはいない。訳もわからず、受け身の取れなかったイーサンは結界の境界線まで飛ばされそこにあった見えない壁で後頭部を強く打った。

 彼を投げたのは、先程まで後ろに立っていたステラだ。しかしイーサンは細身とはいえれっきとした男だ。それを五メート以上投げ飛ばす膂力を彼女が有しているとは思えない。だが、事実としてイーサンはステラにそうされた。

 激痛と疑問の中で女の言葉が頭をよぎる。彼女は人ではなく、兵器だと。ジャバウォックとは、旧時代の童話の中の詩に登場する人食いの怪物の名だ。

「下がってて」

こちらに顔を向かぬまま、声だけが彼に届いた。背中に浮かぶのは悲壮と覚悟。それを感じて、イーサンは何も言えなくなる。

 空気が変わる。少女と女は無言で見合ったまま動かない。探っているのだ。最適の一手を見誤らないように。張り詰めた雰囲気の中、二人の動向を観測する形になったイーサンは、どうすればよいのかわからなかった。

 張り詰めた空気が弾ける。同時に、二人が動いた。


           ●


 今はランスの識別名を持つメリッサ・フラーは、少女の放った見えない一撃を斜め上に飛ぶことで回避した。その動作の途中で、腰のホルダーから刀身に切断力向上の術式が刻まれた二本の軍用ナイフを順手に持つ形で引き抜く。

 途端、下からの風が纏う裾をはためかせた。瞬時の判断で空中を蹴り、右斜め下へと回避と移動を同時に行う。着地の瞬間に加速術を発動させ、衝撃を強引に押し殺した。体勢を低く保ったまま、征く。軍服の下には冷却と疲労軽減、更に停止する際の慣性制御の符を小型化して大量に仕込んでいるため、ランスの全身からは霊素光が迸っていた。

眼前には少女の姿。目的は捕獲なのだから、狙いは足だ。体を捻り、速度を乗せて刺突する。

少女が選んだのは回避でも防御でもなく、迎撃だった。こちらへ差し出された、白く細い左腕。

「……っく!」

 跳躍。直後、少女の見えない攻撃が轟音を伴って石畳を穿った。

 少女の背後に回る形で跳んだランスは空中で縦に一回転し、着地する。視界の先には、悠然と佇む彼女がいた。

 ――全く、やりにくい相手です!

 少女の攻撃が見えない理由はドライから聞いている。彼は、異族狩りによって絶滅したはずの異族の生き残りをこの国の田舎で見付け、それを母体として彼女を造ったと言っていた。

 少女の母体となったのは、木精だ。彼らは森と共に暮らすために木々に擬態する力を持つ。しかし少女の場合は違う。人の街で生きる彼女は周囲の景色に擬態するのだ。自らの力を穢れたものと認めているからこそ。

 彼女が攻撃の手を止めているのは、ランスの後ろにイーサン・ロックハートがいるからだろう。葬儀の際の彼は死人のようだったが、こうして接触する前、遠目に見たときは明るかった。妹と共にいる時も、彼はそういう顔をしていたのだろうか。

 そこまで考え、止めた。今は戦闘中だ。思考を切り替える。このままイーサンを利用する形で立ち回れば少女に勝てるだろう。しかし、それは彼女の流儀に反する。街中での行動のために戦闘用装備の使用許可は下りなかったが、この状態でも十分戦える。先程の流れから、それは確信していた。

「どうしたの?」

 少女が問いかけてくる。結界の効果時間は三分。まだ余裕はあるが、拙い挑発にランスはあえて乗った。

 加速術を使わずに、少女へ走る。鍛えているために常人よりは遥かに早いが、短いながらも手合わせした少女には十分遅いと感じる速度だ。彼女まで後三メートルの距離になって、ランスは跳んだ。

 同時に術を発動させる。空中を蹴って背後へ着地。その瞬間に加速し、背後から真横へ、体を回しながら移動し、その力で少女の上腕を狙ってナイフを振る。同時に慣性制御の符を使って進もうとする体をその場に留まらせた。

ランスの想術は、前に進む意思を彼女が保ち続ける限り自身の速度を上昇させ続ける加速術と、蹴れると認識した場所に仮想の足場を作成する術だ。両方ともランスが要望しドライが作り上げた術式で、ブーツに術式が記されている。ただ、加速術は前に進む意思を基底にしているため、彼女の前方百二十度以内に進む場合にしか適応されず、仮想足場の効果時間も一瞬だ。だが、元より後ろに進む足は持ち合わせていない。むしろ効果を限定したため、術自体の効果は通常のそれより上になった。

 確かな手応えと共に、鮮血が散る。ランスの動きは止まらない。回転の動きはそのまま、体勢を低くする。腕を裂いたものとは別のナイフが、少女の太腿を深く抉った。

 一瞬でランスは少女に二つの傷を負わせる。それ以上の追撃は危険だと判断し、少女の体を再び飛び越え距離を取った。

「……それが、貴方の真の姿ですか」

 負傷によって擬態を維持できなくなったのだろう。少女の両腕は、もはや人のそれでは無かった。

 肩から生えているのは腕ではなく、赤黒い二本の触手だった。それらは鋭い棘がびっしりと生え、先端には槍の穂先に似た鋭利で大きな刃が剥き出しになっている。少女は擬態によって巧妙にこれを隠し、自在に伸縮させていたのだろう。それが見えない攻撃の正体だ。

 ランスが抉った腕と太腿は既に修復されて、傷跡すら見当たらない。少女は驚異的な再生能力を有していた。

少女の姿と特性を事前に聞いていたとはいえ、目の当たりにして顔には出さずとも驚嘆する。四肢を狙っていてはきりがなかった。

 醜い両腕と同居する美しい容貌が、少女のおぞましさを際立たせている。今や彼女は全てにおいて忌々しく、呪わしい。人の顔と体を持った化物は、ただ瞳を伏せていた。


           ●


 ステラの思考は黒に染まっていた。

 ――イーサンに、見られた。

 自分ですら見るのを憚るこの姿を、よりにもよって一番見られたくない彼に。

 彼の方を見たくはない。どんな顔をしているのかも、どういう心境をしているかも知りたくなかった。全てわかりきっているからだ。

 自分の姿を大事な人の前に晒させた女への強い憎悪と、自分への嫌悪だけがある。

「……うあ、ああっ!」

 両腕の触手を、激情のままに振り回した。これらはステラの意思に従って自在に伸縮し、形を変える凶器だ。追手を振り切る際は殺傷力を抑えて打撃したが、今は違う。

先端の刃は厚く、更に鋭くなり、びっしりと生えた棘は長さを増していた。

しかし、当たらない。驚異的なスピードで怒涛の連撃を避けながら、女はこちらへ迫ってくる。

四肢を攻撃してもきりがないと判断したのか、彼女は胴を狙っていた。僅かな隙間をくぐり抜けて、遂に眼前へ達した。

迫る切っ先が太陽の光を反射していた。真っ直ぐに肺を狙ったそれを、ステラはあえて受けようとした。流石に内臓へのダメージは瞬時に回復出来ないが、致命傷には成り得ない。

姿を捉えられないならば、刺違えるまでだ。痛みを覚悟し、すぐに反撃に出られるように準備する。

――攻撃と同時に、あいつを打ち抜く。

声に出さず、決意を固めた。この女は許せない。イーサンの前であるが、彼との関係はこの姿を晒した時点で崩壊している。躊躇う理由はステラになかった。


           ●


 イーサンは、へたり込んだまま呆然とする他無かった。霊素光を纏いながら常識外の速度で動く女と、腕を振りながら見えない攻撃を繰り出す少女の戦いに目が釘付けになっていた。

 だが、少女の攻撃の正体が露わになると同時に驚愕した。あそこまで禍々しく、恐れを抱かせるものを彼は見たことがない。幻覚ではないかと、何度も瞬きを繰り返した。

 人外の腕を持つ美しい少女は何も言わない。ただその横顔は極度の悲哀と、嫌悪があった。

 それを見て、彼は何も言えなくなる。そして、未だに体温の残る痛い程握られた自分の手を無意識に見た。

 自分は、今まで少女の何を見てきたのだろうか。そして少女は、自分と接する時、何を思っていたのだろうか。

 あの醜い両腕を隠し、少女は彼と接していたのだ。騙されていたのか、と気持ちが浮かぶが、否定する。騙す他無かったのだ、彼女は。

 ――あんなもん、見せられる訳ねぇよ。

 少女の横顔が、全てを物語っている。きっと彼はそれを知っていたら、少女を拒絶しただろう。

 恐れていたのだ、彼女は。自分が拒絶されることを。だからこそ、今まで隠してきた。イーサンと共にいるために。

 そして、少女の両腕を目にした途端、イーサンの体が疼いた。初めてステラと会った夜に感じた、あの疼きだ。

 少女はあの時、イーサンと自分は同じだと言った。ならばこの疼きの正体は何なのか。

 わからない。わかろうともしたくなかった。考える余裕も、受け入れる寛容も、今のイーサンにはない。

 ただ、止めねばならない。イーサンは確かに少女を恐れている。拒絶しかけてもいる。しかし、ステラの横顔を思い出すと、胸が詰まった。

 ――ごめんな……。

 瞬間的に少女へ嫌悪を抱いたことを、声に出さず謝罪する。何度も、何度も。

 そして震える足を強く叩き、無様ながらも立ち上がった。局面は終息へ向かっている。

 イーサンは戦うための術を何一つ持っていない。しかし、行かねばならないような気が、強くした。傍観を決め込む体と心の大部分を奮い立たせ、葛藤から滲み出る額の汗を乱暴に拭った。

 二人の間へと走り出す。自身を鼓舞しながら。

先の事は考えない。



イーサンが次に感じたものは、前後から体に食い込む二つの刃だ。後ろからのそれは腹部の上、肺の下に潜り込み、前からのそれは臍から入り、肋骨を砕きながら背骨の脇を抜けた。

体内の違和感はすぐに灼熱となって彼を襲う。灼熱は彼の全身を焼き尽くした。視界が真っ赤に染まり、口から生暖かい液体が溢れ出る。

「イー……サン?」

 彼の前に立つ少女が、震える声で名前を呼ぶ。輪郭はひどくぼやけていて、どんな顔をしているのかはわからない。

 大丈夫だ、と言いかけたが、喉が余りに痛くて止めた。代わりに重い腕を持ち上げ、頭に乗せてやる。

 後ろの違和感が一度強く押し込まれ、抜かれた。反射的に咳き込む。ただ、追撃はないようだった。

 今のでステラの服を汚してしまっただろうかという懸念がある。大事にしていた、勤務先の店主から貰った服だ。

 ――……ごめんな。

 様々な感情を乗せて、声には出さず謝った。

 やけに瞼が重い。赤い視界が、段々暗くなっていく。

 ――ここまで頑張ったんだし、休んでもいいよな?

 自問と共に、視界が暗転した。倒れていく体の感覚すら、今はもうない。


           ●


 目の前の状況が信じられない。何故、という言葉ばかりが頭に浮かんだ。

 腕はいつの間にか人のそれへと戻っている。肘まで彼の血にべっとりと染まったそれと、おびただしい量の血だまりに横たわるイーサンの体がステラと、彼を挟んで立つ女が引き起こした結果だった。

 女も戦意を喪失しているようで、ステラと同じく立ち尽くしている。

 ステラは、どうしたらいいのかわからなかった。間違いなく嫌われたであろう自分を守るように立った彼と、彼を貫いた自らの腕。そして頭に乗せられた手の平。

 ぐるぐると、様々な考えが浮かんでは消える。足元に横たわる彼は虫の息だ。でもどうすればよいのかわからない。足の裏が地面に縫い付けられたように、寸分も動かない。

「……これは予想外でしたが、少なくとも彼は連れて行く事が出来そうですね。貴方と同じならば、この程度で死にはしないはずだ」

 絞り出すように、女が言った。それに我に返る。させないと、そのために踏み出した一歩は力を失い、よろめきながらステラは崩れ落ちた。生温かい血に、剥き出しの膝が触れる。

 上から溜息が聞こえた。

「無様ですね。人と接し、人の心を知ったからこそ、兵器としての致命的な欠陥を貴方は抱えた」

「だがしかし、人として生きるならば、むしろ喜ぶべき効果だろう」

 濁った、しかし豪気な声が突如割り込んできた。放心したまま、そちらを見る。

 褐色の肌に禿頭の大柄な男がそこにはいた。隣には、黒髪を真ん中で分けた男がいる。禿頭の方は旧時代に広く使われ、今ではオークションに出されているカーキ色の軍服を着ており、黒髪の方は白のスーツだ。その二人の顔は、この国に住む者ならば皆知っている。

「ヘクター・ロックハート議員に、アレックス・リー元軍曹……。どうやってこの中へ入ったのですか?」

 驚きを伴った声は女のものだ。ロックハートという姓を聞き、ステラは反射的に黒髪の男を見た。髪の色は同じだが、瞳の色は緑色だ。顔つきも似てはいないが、どこか面影がある。

「私が術式に干渉した。時間は少々かかったがな」

 ヘクターと呼ばれた、おそらくはイーサンの父親である男が事も無げに告げる。そして、一息。緑の瞳で倒れるイーサンを見て、言う。

「イーサンがこの様な状態になる前に駆け付けたかったが……。しかし、奴はこの程度では死なんさ」

 それに、ステラは食いついた。縋るように、彼を見て言葉を作る。

「イーサンは、助かるの……?」

 彼はステラを見て頷いた。確信を持った彼の表情に安堵する。

「させませんよ。彼は私が連れていきます」

 強い口調が被せられる。見れば、女はナイフを構えて鋭い視線を彼らに向けていた。

 一歩、アレックスと呼ばれた褐色の男が前に出た。顔立ちから既に老齢の域に達していると思われるが、彼は覇気に満ちている。

「その意気や良し。しかし、この状況で戦うのは愚策だぞ」

 女もそれはわかっているらしく、彼の言に押し黙った。彼はイーサンの傍まで寄り、着ていた上着をかけて血塗れの体を隠すように包む。そのまま、軽々と肩に担いだ。

「……私も、行く」

 脱力した体を必死に起こし、イーサンを担いで背を向ける男に声を掛けた。彼は一度ヘクターを見遣る。

「良いだろう。君も来るといい」

 彼の言葉を聞いて、イーサンを担ぐ男の元へ駆け寄った。直後、後ろから風を伴って加速術を用いた女が迫る。直後、女の体が吹き飛ばされた。

「ランス、と言ったか。そうまで暴れ足りないのならば、私が相手をしよう」

 彼女に一撃を見舞ったのはいつの間にかステラの後ろに立っていたヘクターだ。彼は加速術を用いた形跡もなく、瞬時にステラの後ろに立った。身に纏う霊素光が何らかの想術を使用したことを伝えているが、移動と、ランスと呼ばれた女を吹き飛ばした術が何なのかステラには見当もつかなかった。

「わかっているのですか? この一連の行為は我々に査察の許可を与えることになりますよ?」

 よろめきながらランスは立ち、ヘクターへと問う。

「元より覚悟の上だ。私は私の意思でこの場に立つことを決めたのだから」

 聞いているこちらが清々しくなるほど、彼は凛として答えた。言葉からは彼の育ちと、今までの経験に裏打ちされた確固たる信念と価値観が感じられた。

 そして、符の効果が切れる。ざわめきと群集が、ステラの視界に飛び込んできた。

「行こう、軍曹。それから君も」

 人混みをかき分けて、ヘクターは進んでいった。その後にアレックスが続き、ステラも付いて行く。

少女は歩みながらただ祈った。彼が助かるように。

晴天の空は、厚い雲に覆われ始めている。

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