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終末のオーバーラップ  作者: 屑屋稲
第三章:
5/10

人が過去を語るのは何故か。

 白い部屋がある。窓にはブラインドがかかり、日光は遮られていた。部屋を照らす光源は天井の照明のみだ。

 正方形に並べられた机には、それぞれ椅子が二つずつ置かれている。机や椅子はそこらに売っているような安物ではなく、どれもが機能性とデザインを兼ね備えた高級品だ。

 部屋の中にいる人間の数は三。机で作られた正方形の辺の一つに一人の形で座り、扉に近い机は無人になっている。

 三人の内二人は青を基調にした服を身に纏っていた。それはこの国の軍服だったが、本来階級章が佩用されているはずの襟や肩にはそれがない。そして一人はよれよれの白衣を着ていた。彼だけは着ているものも、纏う雰囲気も違った。

「何故、彼女の居場所を黙っていたのですか?」

 軍服を着る女が、正面に座る白衣の男へと低い、しかし良く通る声で言う。口調は詰問のそれだ。

「上から捜索と捕獲の命令が出ていたはずです。しかし貴方は場所がわからないとはぐらかしていた。しかしこうして我々を呼び、実は最初から掴んでいたなどと言うのですか?」

 対する男は無精髭を撫でながら実にそうだと言わんばかりに頷いて彼女の言に頷いている。そして間を置き、口を開く。粘つくような低音が、女ともう一人の男へ放たれた。

「俺は無意味は嘘は言いたくなくてな。あの時は意味があったのだが、今はそうでなくなった。だから言ったのだよ」

 女は眉根を上げる。表情に浮かぶのは怒りだ。怒声を男へ放とうとした時、視界の隅で青の袖から生えた手の平が動いた。制止をかけられ、渋々口を閉じる。

「そう言うからにはれっきとした理由があるのだろう、ドライ?」

 金の髪を後ろに撫で付けたヘアスタイルの男が、鋭い視線を右の男へ投げかける。ドライとは男の名前ではなく、識別名だ。

「勿論さ、ロウ。あれが転がり込んだ場所に住む人間はな、私と深い関係にある者なのだよ。そしてあれ自身とも。だから放置しておいた。君らにはわからんと言ってな」

 ロウと呼ばれた金髪の男は、ドライの言葉に訝しげに返事をする。続きを話せと、そう促しているのだ。

「今あれと共にいる人間の名前は、イーサン・ロックハート。前に話したろう? あれを造る際の基礎理論は奴のものを元にしたと。そして、俺と兄貴が決別した原因を作った奴であることも」

 二人に交互に眼鏡の奥の視線を送り、一息を置いてドライは話を再開する。

「だからこそ、興味が湧いた。あれと奴が共にいれば、どんな状況が発生するのか。本性を出さぬまま上辺の付き合いを続けていくのか、それとも、体の奥に刻まれたあれの影響で殺し合うのか、だ」

「ロックハート家の呪われた研究ですか……」

 女がぽつりと呟く。それを補完するのはロウという識別名を持った男の言葉だ。

「旧時代からロックハートの家は高名な術師の家系だった。しかし、あるものを拾った時からお前たちの研究は想術から離れる。そうだろう、ドライ?」

 ドライは真の名を、ベネディクト・ロックハートという。彼はロウの問いにかぶりを振った。

「それは違うな、ロウ。大昔に滅びた異族、その中でも最も強く、最も忌み嫌われ、そしてそれ故に最も早くに滅びた彼らの体の一部を手にした我らは、想術をもってその力を用いる研究を始めたのだよ。今までの知識を根底に置いてな」

 愉悦に表情を歪めて、ドライは言った。

「まぁ、昔話はどうでもいい。ロックハートの姓も今はもう捨てている。あれもそろそろ色々な経験をしたことだろう。回収はお前に任せる、ランス。それで良いだろう?」

 対面に座る女へと指示し、それを確認するようにロウを見た。彼は頷く。

「ああ。我々内部保安局の力に彼女はなる。今まで見過ごしていた貴様もこの際不問にしよう。それと、ランス。件のイーサン・ロックハートも連れて来い。彼女と同じ力を持つならば、我らの戦力増強にもなる」

 ロウの言葉に、ドライは仰々しく礼を述べる。

「しかしロウ、彼は一般市民のはずだ! それを連れてくるなど……」

 ランスの識別名を持つ女の声は、明らかな不満を持っていた。対するロウは声音を変えない。

「壁の中にも敵はいる。反政府を掲げるテロリスト共は、潰しても潰しても湧く害虫だ。そいつらを根絶やしにするための力が我々には必要だろう? それは貴様もわかっているはずだ」

 正論に、唇を噛む。外界の脅威は隔壁により退けられたが、区切られた世界の中で民衆の不満は増大している。その原因は腐敗した政治であったり、増え続ける人口に対しての限られた居住や食料であったりだ。後者は壁がある以上どうしようもない問題なのだが、それを受容できずに過激な手段に及ぶ輩は後を絶たない。

「大義は我らにある。貴様は余計な口を挟むな、ランス。その名の通り国家の槍となればいい」

 突き放すような言葉に、歯を食いしばって俯く。

彼らの所属する内部保安局は、元はスパイ行為や私欲を貪る政治家に対しての監察機関として設立された内務省の一部署だった。地表が死の森と化した今でも、空は比較的安全だ。そのため国家間の物や人の交流は全て空輸によって行われている。世界は開けてはおらずとも繋がっているのだ。

だからこそ、各国は諜報員を旧時代と変わらず他国に派遣している。この国も例外ではない。内部保安局は国内に潜むスパイの検挙には一定の成果を挙げていたが、肝心の政治家の検挙は未だにゼロだった。国家を脅かす諜報員とテロリストへの牙は持っていても、政治家に対する牙は設立当初から抜かれていたのだ。

それを悔しく思いながらも、いつかは、とランスは淡い希望を持っている。士官の地位を捨てて此処に入った価値を、まだ彼女は見出だせずにいた。

歯軋りをして、席を立つ。

「……了解、しました」

 そのまま二人に背を向け、退出した。今はまだ我慢の時だと、自分に言い聞かせて。


           ●


「保安局にいる協力者から情報が入った。奴らはとうとう動くらしい」

 荘厳な調度品が幾つも並ぶ部屋の中、高価な黒革のソファに座る白のスーツを着た男が言う。彼の顔立ちは引き締まっていて、自己に対する峻厳さすら感じさせる。

「なるほど。ということは、お前の倅もそこに居合わせる可能性があるということか」

 神妙な声音で返したのは、男の向かいに同じく座る禿頭の男だ。褐色の肌に覆われた顔つきは既に老年に差し掛かっているが、体つきは筋骨隆々。黒のスーツを着用してはいるが、全く似合ってはいない。

 苦笑を浮かべながら、白いスーツを着た男は頷く。

平素ならば数人の秘書がせわしなく出入りする白いスーツの男の執務室だが、今は人払いをしてある。そのため、部屋には二人きりだ。扉を叩く者もいない。

「ベネディクトが保安局に入ってあれの研究をしていると耳にした時は言葉を失ったよ。しかし介入は出来なかった。私に出来たのは逐次情報を得ることだけだ」

 顔を上に向け、息を吐いた。躊躇いながら、言葉を続ける。表情には、諦観と悲哀が見て取れた。

「結局は引かれ合う運命なのだな。元は同じ欠片から造られた者同士だ。何も知らずにいた方が幸せなのだと、そう思っていたが……」

「お前の弟が馬鹿な研究に取り憑かれ、数多の偶然が起こらなければ有り得なかったことだ。それに、今更誰を責めてもどうにもならん」

 老年の男の言葉に、ヘクター・ロックハートは頷いた。背もたれに深く体を倒す。

「回収の決行日がわかれば、私たちもそこへ向かうことが出来る。そして、彼女が保安局の手に渡るのを阻止する」

 視線を正面の男へ戻し、確固たる口調でヘクターは告げた。

「あれは、人の手には余るものだ。いかなる高尚な思想の下で用いても、過ぎた力はその全てを蝕んでいく。だからこそ、奴らに渡す訳にはいかん」

 それに、老年の男は頷いた。彼から出るのは疑問だ。

「しかしヘクターよ、お前も本当に行くのか? 保安局は政治家への介入権限も持っている。あくまで名目上のみだが、議会に疎まれている改革派のトップである貴様が赴くのは危険だ」

 わかっているさ。とヘクターは疑問に頷く。

「しかし私は行かねばならない。あれを造り出してしまった一人として拭い切れない責任がある」

 言い切る彼の言葉に男は苦笑。

「相変わらず、硬い男だ。息抜きせんと保たんぞ?」

 冗談を交えて茶化すように言う男。それにヘクターは表情を緩める。

「その他にも目的はあるさ。二年振りに見る我が子はどうなっているのか、楽しみなのだよ。私は親としては失格だが、それでも子の成長は気になるものだ」



「だーっ! 畜生!」

 安物の家具が置かれたワンルームで、イーサンは頭を押さえて絶叫した。

 彼が座るのはベッドの上で、正面にはステラがいる。二人の間には縦横八マスずつに区切られた正方形の盤があり、六種類の動き方が異なる、二色に色分けされた三十二個の駒があった。これは旧時代から世界中で広く行われているゲームで、イーサンが先の外出の際に購入したものだ。外出の夜に彼が対局をステラにもちかけてから、毎晩何局か対戦することが二人の日課になっていた。

 これはイーサンが昔得意だったゲームで、折角やる相手がいるのだからと買ってきたのだが、彼は連敗を喫していた。

 ステラに問うたところ、知っているのは基礎的なルールのみで実戦経験はないと言っていた。当然最初の内はイーサンが連勝を重ねていたのだが、ある局を境に全く及ばなくなったのだ。

 ――おかしい。

 彼女は仏頂面のままだが、感情の機微を読み取れるようになっていたイーサンにはわかる。今のステラは得意顔だ。しかもこの上ない。

 負けた方を駒を並べ直すという二人だけのルールに則り、それを行いながらイーサンは考える。何故こうも負けまくるのだ、と。

「なんでボロ負けするのか、教えて欲しい?」

 駒を丁寧に並べながらああでもないこうでもないと思索する彼に、こちらの考えを読み取ったらしいステラが声をかけてくる。抑揚のない声だが、その中に含まれる感情がわかるようになってしまったイーサンには彼女の言葉は癪に障る。完全に上から目線だったからだ。

 負け続けで荒んだ心を必死に抑えながらイーサンは考え、結論を出す。その頃には駒は並び終わっていた。

「……教えて、ください……」

 悔しい、この上ない屈辱だ。しかし聞かぬは一生の恥だと自らに言い聞かせ、言葉を絞り出す。顔を背けるのはプライドを保つためだ。

「じゃあ、打ちながら教えてあげる」

 ぐ、と唸り声が出た。先程は自分が先手だったため、次の先手は彼女だ。

 無言でゲームが進む。一向にステラの指示は来ない。今のところ戦局は五分だ。首を傾げながら、彼女の駒を取ろうとする。

「そこ」

 短く、ステラが声を発した。駒に伸びた手が止まる。何故、という疑問符を頭に浮かべながら、彼女を見た。

「イーサンはちゃんと周りが見えてるのに、相手の重要な駒が取れそうになったらそこにばかり目が向くんだよね。だから負けるの」

 彼女の指摘に、今までの対戦を思い返す。確かに、相手の重要な駒を手中に収めてから戦局が徐々に劣勢に変わっていった気がした。

「確かに強い駒を取るのは大事だけど、それだけじゃないよ。折角イーサンには良い目があるんだから」

 彼女の評価に対する実感は、ある。昔、同じようなことを言われた。過去を想起し、胸が締め付けられる。顔には出さずにもう一度周りを見渡し、考えられる最善手を打った。

 結果、その対局は負けた。しかし、手応えのある負けだった。

 駒を並び直し、再戦。要点が掴めたのだからそれを徹底するだけだ。

「……お前の打ち方は単純だな。駒を犠牲にして強引に突破口を開いてくる」

 打ちながら、気付いたことをそのまま口に出した。普段は冷たいくせに、戦い方は業火のようだ。飲まれそうになるが、踏み留まる。現状はイーサンが有利。ステラは無言で険しい表情のまま盤を見ている。

「あ」

 ある一手を彼が打ったところで、ステラの声。詰みだった。

「よっし、やっと勝った!」

 両手を挙げて、後ろへ倒れこむ。今までの鬱屈が吹き飛んだ。ただただ爽快な勝利の余韻に浸る。

「……やっぱり教えなきゃ良かった」

 拗ねたようなアルト。悔しさを孕んだ声に、にやつく。性格が悪いと思いながら、抑えることはしなかった。

「ねぇ、イーサン」

 駒を盤に並べながら、ステラが言った。

「聞かせてよ、イーサンの昔の話」

 こつん、と駒が盤に立つ度に音が鳴る。それがやけにはっきりと聞こえた。何気ない彼女の言葉が、胸を衝く。

 躊躇う。緩んだ表情が引き締められ、唇を噛んだ。話すほどのことでもないと、あしらおうとしたが、何故だか彼女には聞いて欲しい気がした。

 腹筋と背筋に力を込めて体を起こす。そして駒を取り、進めた。あ、という彼女の抗議の声が聞こえたが、気にしない。

「長い話さ。そして面白くもない話だ。だから打ちながら話してやるよ」

 彼女と目が合う。こちらを見る綺麗な桃色の瞳が微かに揺れた。

「……ありがと。でも、話したくなかったら、いいから」

 自分はそんなひどい顔をしていたんだろうかと、言葉を聞いて苦笑する。

彼女が駒を手に取った。ルールに背いて自分が先手を取ったのは不問にしてくれるようだ。


           ●


 イーサンが士官学校に入ったのは、今から二年前。即ち一六の時だ。

 物心の付いていない頃は地方の山奥に住んでいたらしいが、全く覚えていない。父はその時既に議員で、内部隔壁の中にあった家には年配の人々が良く出入りしていた。

 母はいない。幼い頃に父にそれを聞くと、物寂しい顔で事故で亡くなったのだと教えられた。母の写真や遺品などは何も残されてはいない。墓参りにも行ったことはなかった。

 それを寂しいとは幾度も思った。父は自他に厳しい人間だったし、多忙なため一人の夜を過ごすことも多かった。しかしイーサンは、父を誇りに思っていた。

「隔壁に人々が守られるようになってから、安寧に溺れた人は腐ってしまった。だがな、イーサン。健やかな中でも、人は確かに変わっていける。私はそれを彼らに思い出されるために政治家になったのだ」

 父の言葉は高尚で、確固たる意思を持ったままぶれない姿に羨望を覚えた。そんな父の力になろうと、彼は苦手だった勉学を必死に行い海軍の士官学校に入ったのだ。

 父の力になるために士官になると言った時、彼は複雑な顔を見せた。

「私のことはいい。お前はお前の意思で進め」

 父はそう諭したが、そんな彼の背を追うことがその時のイーサンの意思だったのだ。決意は揺るがなかった。

 その結果、此処に彼は立っている。入学式典での学長の長話という最初の試練を越え、個室のあてがわれた寮の一室に。イーサンの心は昂ぶっていたが、引き締められていた。まだ入口に立っているに過ぎない。始まりは此処からなのだ。

 士官学校では通常の学問に加え、兵学の講義がある。それは船の運用、航海術、砲術、軍政、兵術などのスタンダードなものから哲学や心理学を含めた精神科学まで多岐に渡る。この他に武道を含めた体育と想術の講義もあり、入学してから時間はあっという間に過ぎた。

 座学の成績は概ね優秀で、何の問題もなかった。だが、彼には致命的な欠陥があった。

 軍の銃器には、全て射程距離の延長と弾の威力強化、命中補正の術式が刻まれ、それらによって銃は使用者の想いの分だけ本来の性能に補正が掛かる。しかしイーサンが使うと、全く術が発動しない。想いは抱いているにも関わらず、だ。国が規定した戦闘服にも通常の防御機能に加えて身体強化と防護の術式が刻まれているが、これらも銃と同じく発動はできなかった。何度やっても、だ。

 学内の図書館だけでなく、あらゆる場所に赴いて想術について記述された本を読み、調べた。しかし何も手がかりはなく、その分彼は失意を覚えた。

 砲術の講義は休みがちになり、部屋に篭る日々が多くなる。周りに壁を作るようになってからは友人たちも離れ、彼は孤独だった。

 そんなある日、食堂の隅で食事をとっていた彼の前に、盆を両手に持った少女が座った。

 盆の上、器に盛られた食事はどれも大盛りだ。定められた食事の時間は既に終わりに差し掛かっていて、他の学徒は皆談笑やゲームに興じている。その中で今から食事を始めようとする少女を、イーサンは訝しんだ。

「いやー、居残りで遅くなっちゃってさ。此処、空いてるよね?」

 聞いてもいないのに彼女は理由を述べ、椅子に腰を下ろしてから確認を取る。襟章を見るに、イーサンと同じ一年目の候補生だ。深い青の髪を短く切った、快活な顔立ちの少女だった。

「何よそんな物珍しそうに人のこと見て。イーサン君、だっけ? あたしはジンジャー。ジンジャー・フラーよ。よろしくね」

 一方的に自己紹介してから、ジンジャーと名乗った少女は器に盛られた料理を掻き込むように食べ始めた。恐るべきスピードだ。腹を空かした獣かと錯覚してしまう。

「なんで、俺の名前を知ってんだ?」

 同学年の人間はそう多くはない。士官学校の志望者はその後の生活が約束されているために一般の学校より遥かに多いが、合格者はその一握りだからだ。

 しかし、イーサンは同学年の人間の名前と顔を全て把握している訳ではない。それは他の学生たちも同様だろう。

 それなのに何故、彼女が自分の名前を知っているのかが気になった。

「砲術の時間に教官にこってり絞られてたじゃない。結構有名人だよ、君」

 ジンジャーの返答は簡潔にして明解だった。それを聞いて、気が滅入る。劣等生なのは自覚していたことだが、他人に改めて言われると傷付くものだ。

「……失礼する」

 席を立つ。食事はまだ残っているが、急に部屋に帰りたい気分になった。当の彼女はこちらを気にせず、人工肉のステーキを大きく切り分けている。

「ちょっと待ってよー。折角可愛い女の子が話しかけて来たのににべもなく行っちゃうのはひどいと思うのよ、あたし」

 フォークに切り分けた肉を三枚突き刺し、纏めて口に放り込みながら彼女は言う。確かに彼女の容姿は一般より大分優れていたが、今の様子はさながら飢えた肉食獣だ。

「自分で言うか、普通?」

 思わず呆れる。彼女はそれに咀嚼を続けながらにやりと笑い、

「否定はしないんだ?」

 しめたと言わんばかりに告げた。問いに、頬が熱くなる。

「可愛いねぇイーサン君は。ほらほら、いいから座って」

 茶化すように彼女は言った。溜息をつき、半ば自棄になって座る。

「自分で言うのもどうかと思うけどな」

 頬杖をつき、嫌味を告げた。対する彼女は澄まし顔だ。

「馬鹿ねぇ、自覚って大事よ。自信があればこそ輝けるんだから」

 胸を張って彼女は言う。大量の料理はいつの間にか食べ尽くされていた。

「うわ……」

 その早さに、空になった器を見て戦慄する。それが勘に障ったのか、机に身を乗り出して抗議した。

「うわって何ようわって! 仕方ないでしょ、育ち盛りなんだから! ただでさえ毎日頭と体使ってんだからそりゃ腹も減るわよ!」

 唐突な叫びに驚いて彼女を見れば、頬に朱が差していた。それから頬を膨らませ、そっぽを向いて着席する。これはまずい状況だと、経験のない彼にも一目でわかった。

「……そ、そうか。まぁ……仕方ないよな。悪かったよ」

 むくれる彼女を宥めるように、そう言った。そっぽを向いたままの彼女は横目でこちらを見て、ややあってから小声で、

「……本当に、そう思ってる?」

 窺いながら問うてきた。これは頷くしかないと、即決する。

「当たり前だろ、うん。よく食べる女の子も素敵さ、すごく。そう素敵!」

 作った笑顔に口端がひくつくが、構わない。どう聞いても無理がある釈明だった。無言が二人に訪れる。笑顔が崩れそうになった時、ジンジャーがこちらを向いた。

「そっか、なら許す」

 花が咲くような笑顔だった。そのまま続けて言う。

「イーサンの事は気に入ったから友達になってあげる。どうせ、こんな隅でご飯食べてるんだから友達いないんでしょ?」

 ずけずけとこちらの痛いところを突いてくる。おまけにいつの間にか呼び捨てだ。

「これから仲良くしようね、イーサン。じゃ、そろそろ時間だしこれで失礼!」

 返事も聞かず、崩れた敬礼をして彼女は去っていった。これが、イーサン・ロックハートとジンジャー・フラーの出会いである。

 それからというもの、事ある毎にジンジャーは彼へと絡んできた。友人のいないイーサンは必然的に彼女と過ごす時間が多くなり、場所を構わずジンジャーが話しかけてくる度に、彼は周囲の興味混じりの視線に晒される。

「やっほー、イーサン。図書館行こう図書館。さっきの講義がわからなくて困ってるのよー!」

 今もそうだ。廊下を歩いていると、後ろからジンジャーが声をかけてきた。振り向くのを躊躇ったが、瞬く間にこちらの手を取って誘導してくる。流れるような行動に抵抗する暇もなく、イーサンは突き刺さる数多の視線に冷や汗を垂らしながら引きずられていった。



「うあー、もう駄目。休憩しよう」

 ジンジャーは実技の成績は良好なのだが、座学についてはまるで駄目だった。入学試験を切り抜けられたのは間違いなく奇跡の賜物だろうとイーサンは思っていたし、本人もそれには異論がないようだった。

 飲み込みは悪くないが、集中が全く続かないのだ。今だって、勉学を始めてから三十分も経っていない。

 もはや彼女の扱いにも慣れたイーサンは、溜息とともに教科書を閉じた。彼女がやる気を取り戻すまでは何を言っても無駄だ。

「ねぇねぇイーサン。外界は空が比較的安全だって言うじゃん? でも霊素の量は地表よりはマシってだけで、あたしたちにとっては危険であることに変わりないよね? 空にある霊素はどうやって防いでんの?」

 集中力を使い果たした彼女は大抵こういう他愛の無い質問をしてくる。それは今までの行動からわかっていたが、今日ばかりは聞いて辟易した。

「……お前、それ前に話したろ」

 頭を抱えながら疲れた声で言う。対する答えは疑問だ。

「あれ、そうだっけ?」

 机に突っ伏す彼女の顔はこちらに向けられている。猫のようだとイーサンは思った。

「術式は球状にあるんだよ。ただ見えないだけだ。媒介として見えてんのは壁だけでも、地脈のある地下と空にもちゃんと防護の術式が張り巡らされてる」

 二度目の説明に、ふむふむとしきりにジンジャーは頷いている。彼女の様子に強烈な既視感をイーサンは覚え、記憶を辿ってそれが錯覚でないことを痛感した。

「すごいね、それって。でも空にも壁がなくて良かったなー。あったらきっと気が滅入っちゃう」

 そう言ったジンジャーは、視線を窓へと移した。季節は冬に差し掛かっている。空は既に暗く、目を凝らせば灰色の雲が天上を覆っている。天気は悪いが、全く空が見えないよりはいいだろうと、イーサンは彼女の言葉に同意した。

「この前の課外授業、覚えてる? 空軍の艦に乗って壁の向こうを見に行ったやつ」

 思い出したように彼女は言った。頬杖をついたまま、イーサンは頷く。

「すごかったよねー。壁の向こう側に何があるか知ってても、直に見るまでは実感湧かなかったもん、あたし」

 まさにその通りだ。百聞は一見にしかずとはよく言ったもので、艦の窓から外の世界を見たイーサンは圧倒された。壁の外、海の向こうには常識を超えた大きさの木々と僅かに発光する濃霧があり、思わず背筋が震えたものだ。

「あの森に住んでるルーインを見れなかったのは残念だけどね」

「もし会ってたら今頃俺たちは此処にいないよ」

 言葉を切って無邪気に笑う彼女に苦笑する。

ルーインとは、滅びに向かう世界の中で人々の絶望の想いが大量の霊素によって具現化した生なき怪物の総称だ。それらは霧に包まれた死の森を徘徊し、破壊衝動のままに動くものを例外無く襲う。致死量の霊素と森にはびこる強大な怪物が、人類が今になっても外界へ進出出来ない理由なのだ。

「そっか、なら駄目だね。死んだらイーサンとこうして話せなくなっちゃうし」

 笑みを浮かべたまま、当然のように告げる彼女に、イーサンの心臓が跳ねた。

 こちらの変化に気付いたのか、体を起こしジンジャーは笑う。先程までの無邪気さは欠片もない、妖艶さを漂わせる笑みだ。

「あれ、もしかして照れちゃった?」

 大きな藍の瞳が確信を持ってこちらを見ていた。言葉は問いの形式でも、既に彼女は答えを持っている。それを理解したイーサンは、ただ黙することしか出来なかった。

 その様子に満足気に鼻を鳴らして、ジンジャーは表情を元に戻した。

「しかし、このままだとイーサンは来週の課外授業には行けそうにないね。君と一緒に行くの、楽しみにしてたんだけどなぁ」

 そして唐突に話題を変える。話がころころ変わるのは彼女の習性だった。共にいるようになって短い期間だが、身を持ってイーサンは知っている。

 その話題は、イーサンに取って今一番触れたくないものだった。表情を硬くする。間を持って口を開いた。出来るだけ明るく言おうと努めて。

「国の領海上をぐるっと船で一周する哨戒任務、か。仕方ねぇよ。壁を超えてルーインが侵入してくるケースもゼロじゃない。想術が使えねぇ奴を乗せていくのは危険なのさ」

 声音に含まれた自虐的な表現は拭えなかったが、これが彼にとっての精一杯だ。

 未だに、想術が使えない。ジンジャーと付き合い始めてからは彼女も自分のこと以上に親身になって調べてくれたが、理由すらわからないままだった。

「でも、確率自体は低いからそんな硬いこと言わなくてもいいのにね。ルーインの侵入は十年前が最後なのに。あたしのお父さんが死んじゃった、さ」

 むくれて彼女は反論した。前に聞いたことだが、ジンジャーの父は軍人で、十年前、空の防護を抜けて侵入したルーインの群れとの戦闘で殉職したらしい。母は存命だが、父親が亡くなってから心の病を患ったのだという。

「でもね、あたしは悲しくないよ。父さんは死んじゃったけど、勝ったんだもの。格好良いよ。それに、お姉ちゃんもいるし」

 平素通りの快活な顔で彼女は語っていた。二つ上の姉は空軍士官で、父と彼女の存在に憧れて自分も軍人を目指しているのだと。

「……まぁ、いいさ。お前が船旅してる間に俺は俺の問題を片付けとくよ。帰ってきたら土産話を聞かせてくれ」

 ジンジャーの家族の話題には触れず、軽い調子で会話を流す。踏み込む勇気は彼にない。

「ふふん、任せといてよ。沢山話してあげるからさ」

 イーサンの意図を読んだのか、微笑んで彼女は言った。冗談っぽく親指を立ててこちらに見せる。

 彼女の明るさが、イーサンにはこの上なくありがたかった。ともすれば折れてしまいそうな心を、彼女が支えてくれている。しかしそれを口に出すことはしない。今はまだ。

 いつか、自分が想術を使えるようになった時に礼を言おうと決めていた。前途は暗く多難だが、彼女のもたらす希望の光だけはイーサンの胸中にある。ジンジャーといると、不思議となんとかなりそうな気がするのだ。

 楽観的だと彼自身わかっていたが、心の余裕も必要だろう。

 強く信じ、そのための行動を起こせば未来は微笑むと、父は言っていた。ならば信じ、動こう。自らの望む最良の未来のために。



 この日から一週間と十二時間後、領海の哨戒任務にあたっていたジンジャー・フラーを含むイーサンの同僚を乗せた一個艦隊は、上空から隔壁内部に侵入した一体の飛行型ルーインによって撃沈された。その後、一時間後に現場に到着した海軍の二個艦隊が二十分の交戦の末ルーインを撃滅する。

そして状況が安定した後に行われた三日間に及ぶ当該海域の捜索の結果、士官候補生八十名を含む全乗員の死亡が確認された。

 イーサンがその知らせを聞いたのは自身の寮室だ。居残りで想術の訓練を一日中行い、ほうほうの体でベッドに倒れ込んだ時に、教官が部屋に飛び込んできたのだ。

 報告を聞いた瞬間、イーサンの心中に浮かんだのは信じられないという思いと、確かな安堵だった。その場に居合わせず、命の助かった自身に安堵したのだ。

 その後すぐに、醜い一面をさらけ出した自分を呪った。

 捜索に参加させてくれと懇願し、受け入れられてからは無我夢中にそれをこなした。次々と引き上げられる同僚の遺体は欠損のないものの方が少なく、顔を識別できない骸が大半だった。最初は何度も嘔吐し、やがてそれにも慣れた頃、イーサンは彼女の屍を見た。

 損傷は激しかったが、何故かはっきりとジンジャーだとわかった。逃れようのない現実が心を蝕み、その場に崩れ落ちて嗚咽する。嗚咽はやがて悲鳴へ変わり、涙と鼻水と唾液で顔を濡らしながら叫ぶイーサンを、周りの大人が引きずり、彼女から遠ざけた。

 そして合同葬儀の後、同年に入学した候補生の中で一人生き残ったイーサンはその日の内に退学届けを出したのだ。

 父は何も言わなかった。優しさなのか、見放したのか。おそらく後者だろう。

 そして彼は内部隔壁の外へ出て、仕事を探した。過去と、何よりあの時の自分自身から逃げるために。

 最も劣る自分が、優れた者たちを置いて生きている。その罪悪感は汚泥のようにイーサンの心に沈殿していた。

 合同葬儀の際、棺に泣きついた遺族の一人が発した言葉をイーサンは今でも鮮明に覚えている。

「どうして、あなたが……」

 劣等生の自分が、彼らの代わりに死ねば良かったのだろうか。きっとそうなのだろう。

 生きる意味を見出だせず、かといって自ら死ぬ覚悟もなかった。

 この二年間、幽鬼のように生きてきた。目的もなく、ふらふらと。幾度も過去を忘れようとしたが、それは悪夢に形を変えて怨嗟の声を上げながら迫ってきた。

 そんなイーサンを変えたのは、唐突に現れた白銀の髪を持つ少女だ。情念に囚われた体を、彼女は立ち上がらせてくれた。彼女と出会ってから、昔の夢を見なくなった。

 だが、呪縛は体に絡みついたままだ。時折過去を忘れ、今の日々に幸福を感じてしまう自分自身に気付く度に呪わしくなる。

 あの日没した八十人は、幸福とは程遠い場所で屍へと成り果ててしまったのだから。


           ●


「こんなところだよ、俺の昔話は。な、面白くないだろ?」

 苦笑し、大きく息を吐いた。駒はある時から動いていない。いつの間にか、話に集中してしまっていた。

 無性に煙草が吸いたくなり、立ち上がる。ステラは深く俯いたままで、下に垂れた前髪が面を隠していた。

 彼女を窺いながらも、ベランダへ出た。夜間でも風は生温い。部屋の光に背を照らされながら、オイルライターの蓋を弾いて開き、咥えた煙草に火を点けた。

 今日は、珍しく霧がない夜だった。そこにそっと、肺腑に溜めた煙を吐き出す。

 初めに感じたのは気配。その後に、柔らかさと温もりが来た。次いで、鼻孔に自分が使う洗髪料の匂い。

 後ろを振り向くと、窓から漏れる光に照らされた白銀の髪があった。腹に回された腕の力が強まる。同時に、感触が強まった。

「え? っておうわっ!」

 状況の把握に時間を有し、その後に困惑の声を上げる。離れようと身を捩るが、しがみつくような抱擁を振りほどくことは出来なかった。無理にやろうとすれば右手に持った煙草で火傷を負わせてしまう。

「ス、ステラ……さん?」

 右手を彼女から遠くへ伸ばして、おずおずと声を掛ける。何故か敬称で。

「イーサンは、自分が嫌いなんだね」

 言葉に、はっとした。唇を結び、前を向く。灰を落として煙を吸った。

「……ああ、嫌いだよ。誰よりも」

 吐き出す煙に気持ちを乗せた。俯くと、灰の積もった灰皿が見えた。

「自分に、価値がないと思ってる」

「そうだよ。俺に価値は何もない」

 本心だった。あの時死ぬべきだったのは間違いなく自分だ。ジンジャーや皆が何故死んでしまったのか、そして何故自分だけが生きているのか、いくら考えても答えは出ない。

「私にとっては、違うよ」

 静かに告げた彼女の言葉は、イーサンの心をざわめかせた。否定しようと口を開く。

「イーサンがいたから、私は外の世界を知れた。イーサンがいたから、何もなかった心が豊かになった。私にとってイーサンは――」

「やめてくれ!」

 拒絶した。その先の言葉を聞きたくはなかった。聞くことは許されない気がしたからだ。

「……イーサンを許せるのは、イーサンだけだよ。お父さんでもジンジャーさんでもなく、貴方だけ」

 ややあってから、彼女は告げた。押し黙ることしか彼には出来ない。

 腕の力が強くなる。促されるように、口を開いた。

「忘れて、のうのうと生きていけっていうのか? 無理に決まってんだろ……」

 煙草は既に燃え尽きている。左手で面を覆い、首を振った。

「忘れろ、なんて言ってない。過去に囚われないで、前を向いて欲しいだけ」

 二年の月日が、過去に対する負の情念を膨大させていた。それを知ってか知らずか、ステラは言葉を続ける。

「きっと今のイーサンは、二年前よりもずっと深く後悔してる。過去は引きずるものじゃなくて、積み重ねていくものだよ。私はそれをイーサンと過ごすことでわかったの」

 彼女の声が、言葉が骨身に染みる。しばらく考え、ぽつりと呟いた。誰に言うでもなく。

「……俺は、あいつらの上に立っていいのかな?」

「違うよ、イーサンが立つ場所は彼らの上じゃない。貴方自身の過去の上。どんな人だって、自分以外の人の人生の上に立つことなんて出来ないわ」

 ステラは即答する。ゆっくりと、彼女の言葉を噛み砕いて飲み込んだ。助かったと、あの時確かに思った自分を許せるだろうか、答えは否だ。

「私は、イーサンが生きてくれてて、良かった。だって、もし貴方が今此処にいなかったのなら、私は空虚なままだったから」

 こちらの心中を言い当てるように、ステラは言う。無価値な自分に、彼女は価値を感じてくれているのだ。そして自惚れでなければ、自分を好いてくれてもいる。

「……俺は」

 言葉を切る。息を大きく吸って、再び口を開いた。

「俺は、卑怯で臆病な自分を許せない。でも、許せないからこそ、……変えたいんだ。過去は変えられない。だから、贖罪はその先でこなすしかないんだよな? 俺は、変われるんだろうか?」

 絞り出した声は震えていた。喉の奥、こみ上げるものがある。

 彼女の手が、動いた、腹から胸へと、重ねた両手が押し当てられるのは心臓だ。

「きっと変われるよ、イーサンなら。だって、貴方は私を変えてくれたんだもの」

 予言のような、確信をもった囁きだった。出会った当初から薄々感づいていたことだが、ステラには底の知れない深さがある。囁きにそんなことはない、と否定しかけるが、止めた。

 彼女の言葉に導かれて変化を望んだ自分自身と、自分によって変化したと言う彼女を否定することになってしまうからだ。

 ただ一度、振り向かずに背後の彼女にもわかるように頷いた。今の顔は見られたくない。

「空が綺麗だね、今日は。しばらく、このまま見ていたいな」

「見にくいだろ、その姿勢じゃ」

 いいの、と一言返す背後で、体を動かす気配がする。上を見ているのだろう。

 イーサンも、顔をゆっくりと上げた。薄明るい空。霧のかかっていないはずのそこが、何故か滲んで見える。

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