初めてのお出かけ。そして初めての――。
イーサン・ロックハートは水面に立っていた。現実で生身のまま水面に立つ事など、想術を使いでもしなければありえない。
想術とは、万物の構成因子である霊素を想念によって支配し、術式に霊素を呼応させることで様々な超常現象を起こす業だ。
それを用いるためには術式を組むための膨大な知識と、霊素を従えるための強い意思が必要だが、軍ではそれを簡略化されたものが携行兵器に実装されている。
そして、彼が今着ている衣服は儀礼用の軍服だった。士官学生のもので、一度は望んでそれを纏い、ある事件をきっかけに自ら脱いだものだ。
複雑な思いを馳せていると、唐突に水中から数多の腕が伸びてきた。それらは全て長く水に浸かっていたのだろう。腐敗ガスで醜く膨らみ、皮膚が剥がれ落ちていた。
声を上げる暇も無く、引きずり込まれた。
水中では、腕の主たちが待っていた。皆一様に角膜が濁り、髪の毛は抜け落ちて頭蓋骨が露出している。中には水苔や藻が繁殖しているものや、腐敗の家庭で蟹や船虫に蚕食されているものもあった。彼らは全てがイーサンと同じ、しかしぼろぼろの軍服を纏っていた。
吐き出した呼気が次々と気泡となって上へと昇る。代わりに、鼻孔と口腔から塩水がなだれ込んできた。恐怖に顔を引き攣らせてもがくが、数多の腕や体がしがみついて離れない。
徐々に視界が薄れていく。そのまま多くの屍に抱かれながらイーサンは深海へ沈んでいった。
●
イーサンは目を見開いた。視界に広がるのは先程の水死体の群れではなく、生きた人の顔だ。それも、怖ろしいほど整った少女の。
大きな桃の瞳はこちらをじっと見ている。粘つく汗をかいた額に、白銀色の髪束の先端が触れていた。適度な膨らみと艶やかさを持った唇が動く。
「大丈夫?」
「おわああああっ!」
絶叫した。
身を跳ね起こすと、軽い仕草でステラが退いた。服装は昨夜のワンピース姿ではなく、サイズの合っていないぶかぶかの黒いジャージ。
どうやら自分は自室のソファで寝ていたらしい。粘つく汗が全身を濡らし、動悸と体の震え以外は体の何処にも以上は無い。辺りを見渡しても此処は馴染みのある自分の家だ。
夢自体は今日と同じものを二年前から毎日のように見ている。決して慣れることはないいつもの夢。そのおかげで、イーサンは安らかな眠りというものをしばらく体験できないでいる。金の瞳の下に刻まれた濃い隈がその証だ。
落胆と苦笑が滲む。いつも通り、胃がきりきりと痛かった。平素ならばこのまま一服するところだが、今の彼には優先して考えなければいけないことがある。
――何故、この女が此処にいる?
ステラと名乗った少女に目を向けても、彼女は首を傾げてこちらに視線を返すだけだ。つまり彼女は、ここに居ることに何の疑問も抱いていないらしい。
無言かつ無表情の彼女は、古今東西のあらゆる彫像よりも美しく完成されているように見えた。それは同時に冷たさと、悪夢のものではない寒気をイーサンにもたらした。
だが今は少女の美しさを形容している場合ではない。何故昨日知り合ったばかりの少女が自分だけの、誰も招いた事の無い家にいるのかが最大の疑問だった。
悪夢に苛まれた脳を必死に落ち着かせ、胸に手を当て昨夜の事を思い出す。やましいことは何もない。ないはずだ。
――名乗り合って握手を交わした後にたしか……。
注文の中々決まらない彼女を急かしたところ、全て頼むと言い出したのを必死に宥めて、頼んだ料理を通常の二倍の量にすることと、食後のデザートを一品頼む事で妥協案とした。妥協という言葉の割には随分こちらが歩み寄った気がする。
――まだ給料日まで間があるってのに……。
大事なことを想起して頭を抱えた。こちらを悩ませる本人は気付いているのかいないのか、首を傾げたまま不動でこちらを見ている。疲れないのかそれ。
溜息を漏らす。暗鬱に浸るのも後だ。想起を続ける。
その後、二人とも量は違うにしろ食事を済ませて、ステラが無表情のまま出されたデザートを平らげる様を水を肴に見たはずだ。もう一度そのシーンを思い出し、確信を持って頷く。
そして、会計の際に店主とおぼしき初老の紳士から「若いねぇ、頑張りな」と意味のわからない励ましを受けた。
思い出して、心が折れそうになった。だがそれも後だ。
店を出て、再び腕を組もうとする少女を決死の思いで落ち着かせ、別れて帰宅しようとしたのだ。それから――。
「あ」
記憶が繋がった。自らがベッドではなくソファで寝た理由も全てだ。
――こいつ、勝手に付いて来て俺の家に上がり込んだんだ。
何度も帰るように促したのだが、少女は頑として譲らず付いて来たのだ。
理由を聞いた時の返答はただ一言、
「あそこには、帰りたくない」
その時だけは面に明確な憂いを浮かべていた。自身の出自を彼女は語らない。きっと、語りたくはないのだろう。
イーサンが家を出た理由も同じようなものだったし、彼も出会ったばかりの人間に自らの事を語りたくはない。自身の姓を聞いて興味深げに尋ねてくる他人の視線に晒されるのはうんざりしていた。
だからこそ少女を突っぱねる事はイーサンには出来なかった。
生地を見る限り高価と踏んだワンピースに皺を付けないよう自身のジャージを貸し与え、安物のハンガーにそれ吊るさせ、空いたクローゼットに掛けさせた。一つしか無いシングルベッドで寝るよう指示した後、ソファを臨時の寝床にする事に決めたのだった。
そして、結局うやむやなまま眠りに就いたのだ。
体に合わない寝床と、普段は一人のはずのワンルームにあるもう一人の気配と彼女への警戒で中々寝付けなかった。不可解な悪夢を見たのもそのせいだろう。
「……なんで、俺の側にいたんだ?」
湧き上がる気持ちを吐息の形で吐き出しながら、佇む少女へ問い掛ける。
「うなされてたから、気になったの」
抑揚の無いアルト。簡潔な答えにこちらも短く返し、机に置いた煙草の箱とオイルライターを手に取った。
「外で吸って」
間を置かずに、今度は険を持った声が届いた。昨日と同じ、美しくも怖い顔だった。
ぐ、と抗議の唸り声を上げるが、イーサンの抵抗はそこで止まる。
昨夜、強制的に掃除させられた灰皿を掴んでベランダに出た。否、出させられた。
ベランダに出ると、この街は今日も霧だった。外で喫煙する事自体は構わないが、自身の空間で他人の指図を受けるのは癪に触る。
「昔から、押しの強い女は苦手だ……」
勝手に出た呟きに胸が締め付けられる。痛みを伴って懐古しながら咥えた煙草に火を点ける。慣れた臭いが鼻に届いた。
煙草を初めて吸った時を今でも彼は覚えている。父に黙ってアルバイトを始め、家を借りられる程度の貯蓄をし終わってから此処に移った夜だ。
一人前になった証が欲しかったのだ、その時は。
今は惰性で常用しているのみだが、時折吸わなければ不安になる時がある。
煙草の依存性のせいだろう、と結論を出し、二本目を箱から取り出した。
「あいつをこれからどうしたもんかな……」
煙草を咥えたまま紡ぐ独り言に答えを返す者はいない。オイルライターを開き、火を点けた。
問題は依然として存在している。しかし解決の糸口は見当たらない。
――多分、帰りたくないって言うんだろうなぁ。
少女にそう返されたら、同じような境遇の自分は何も言えなくなってしまう。憂鬱だ。そう思いながら、煙混じりの溜息をついた。だからと言って、彼には少女を養うだけの資金が無い。あっても養うかどうかの話は別だが、彼は自分の面倒を見るのに精一杯だった。
それにいくら美人でも、自分だけの空間に異物が存在するのは慣れなかった。他者との関わりを持たなければ人間は生きていけない。しかし、一人の時間というものも人間には必要だ。
昨夜の言動から察するに、彼女は極度の世間知らずだ。この憶測は間違っていないと断言できる。そのことから、とんでもない苦労を背負う事になるのは目に見えていた。いくら退屈しないし美人だからといって――。
そこまで考えて、イーサンは気付いた。自分が今考えているのは彼女を遠ざける方法ではなく、共存を選んだ場合の問題点であることに。胸の痛みが増した気がした。
灰が煙草の先から自然に落ちる。いつの間にか、二本目も半分以上を消費していた。
無言で、灰の辿った軌道を追った。表情に浮かぶのは苦笑だ。
後一本吸ったら今後の展望を話し合おうと、そう決めた。骨は折れるだろうが、何とかして帰ってもらわねばと再確認する。
深く煙を灰へ取り込む。ほろ苦い味と爽やかな風が彼を現実からも、そして夢からも遠ざけた。
ふと空を見ると、朝霧が薄くなっている。高台にあるワンルームからは遠くの海に垂直にそびえる外部隔壁の輪郭がぼんやりと見えた。
珍しい事象に微かな笑みを浮かべながら煙草を揉み消し、イーサンは最後のそれを箱から取り出した。胸の痛みは、まだ消えない。
●
ベランダで喫煙する彼の後ろ姿が見ながら、ステラは昨夜を想起する。
彼女にとって食事とは黙々と栄養を摂取するだけの行為であった。本の中で見た、多人数で語らいながら物を食べる行為は彼女から見れば非効率であり、不可解だったのだ。
研究所の職員たちに聞いても、答えるものは誰もいなかった。そういった質問をする意図自体がわからないと言うように、首を傾げられ質問を返されていた。
だから、書物の中の食事風景はただの演出だと決め付け、その瞬間から考える事を止めたのだ。
――でも、違った。
写真でしか見たことのない形をした料理の実物を目にし、それを口に運ぶと単一ではない様々な味を舌で感じた。自分の頼んだものとイーサンの頼んだ物は量も外見も大きく違っていた。自分の前に出された皿は向かいの彼のものと比べて三倍はあった気がするが、それは十人十色だ。言い替えるならば個性。何の問題もない。
そしてその時に、本の中の世界がわかった気がした。
食後のデザートも自身の視覚と味覚に衝撃を与えるものだった。何故かイーサンは頼まなかったが、食事に対して湧く気持ちが本に書かれている通りだったならば、彼らは恒常的にあのような料理を口にしている事になる。
いくら見た目と味が素晴らしいと言っても、摂取し続ければ飽きが来る。イーサンがデザートを頼まなかった理由は、自身が感動を覚えた料理に彼はもう飽いていたからではないだろうか。
――この世界は恐ろしい場所ね……。
ステラは表情に出さぬまま戦慄した。恐れを抱くのは久しぶりで、彼女は身を強く引き締める。
あの食事で心を揺さぶったのは料理だけではない。他人と共にそれを行うのは微かな躊躇いと、居心地の悪さを覚えるものだった。だが、不思議と嫌ではなかった。
戦闘を行う場面の多い小説では同じ釜の飯を食った者同士が凄絶な連携技を放つシーンが多くあった。読んでいた当初は何故寝食を共にしただけでここまで出来るのかが理解出来なかったのだが、それもまた、わかる気がする。
そして、自分たちが個別に食事を取らされていた訳も同時に。
食事が終わった後、イーサンはこちらと別れようとした。だが、彼女は彼の反対を押し切ってここまで付いて来た。
自分は何も知らない。本である程度は補完しているつもりだが、百聞は一見にしかずだと、切に体感している。
狭い世界で生きてきたと、まだ短いながらも外で過ごして痛感した。文字や写真ではなく、実物を五感で確かめたいと強く思った。
――それに、イーサンが何故此処にいるのかも、知りたい。
食事の最中やここに来るまでの道で幾つか言葉を交わしたが、その答えはまだわかっていない。おそらく、彼自身は何も知らないのだ。
自分たちと彼は同じ存在なのは間違いない。それなのに生きている環境は全く違う。自らと同じ存在を何度も目にし、その全てを屠ってきた少女は、自身と違う生活をする同じ存在を見て、困惑と羨望を覚えたのだ。
今は何もわからないまま、視線を下に落とす。わかったことといえば、肩透かしに事実のみだ。
サイズの大きな黒いジャージ。寝るにあたって彼が貸してくれたものだ。構わないと言ったのだが、いいから着ろと半ば押し付けられる形になった。昨夜着ていたワンピースは部屋の隅にあるクローゼットの中にしまわれている。彼の少ない衣類とともに。
衣服やベッドから自分以外の匂いがするというのは、何とも不思議な感覚だった。はっきり嫌とは思わなかったが、それに慣れなかったのと彼への警戒心でほとんど眠れなかった。もしかしたら、今までのことは全て演技で、夜襲をかけられる可能性もあったからだ。心の底でそれを期待していた自分もいるが、それが起こることは決してなかった。
イーサンもこちらを警戒していたのだが、ソファに仰向けになったまま動く事はなく、やがて眠った。しかしすぐに唸り始め、全身に汗を掻きながら荒い息をし始めたのだ。
彼女はそれに気付いたものの、どうすればいいのかわからなかった。
しかし気付けば、彼の側にいた。苦悶の表情で喘ぐ姿を呆然と見ていたのだ。
目を覚ますなり叫び声を上げたという事は、よほど酷い夢を見たのだろう。そう、きっと。ステラにも悪夢の経験はある。その時の気分は冷や汗をかいて、胃が重く、胸が痛くて頭が揺れる。言葉として形容するならば最悪だ
眠りを遮って起こすべきだったのだろうか、と今になって考える。
しかし既に過ぎた事だ。結局、自分は何もしてやれなかった。
そこまで考えて、彼に何かをしたかったのだろうか、と思索する。わからない。
疑問符を頭に浮かべながら、ステラはベッドへと身を倒した。染み付いた彼の匂いの中に、微かな自身の匂いを感じる。
なんとも言えない、不思議な感覚だった。
窓硝子越しに足音が耳に届いた。イーサンが部屋に戻ってくる。
自身が持つ無数の疑問は、彼と共にいる事で解かれるのだろうか。まだ彼女にはわからない。
ただ、昨夜初めて彼女は笑うことを経験した。笑うとはこういう事だと知ることが出来たのだ。
彼と共に在りたいと、昨夜よりも強く想った。全ての疑問が解かれ、自身の見識が広がった時、彼に対して自分は何が出来るのだろうか。それを返すことが出来るのだろうか。
ゆっくりと窓が開く。湿った風が、彼女の頬を優しく撫でた。
●
「少し、話をしよう」
ベランダから戻り、ソファに座るなりイーサンはベッドに座るステラへと言った。
声は緊張を孕んでいる。落ち着こうと息を吐き、体を背もたれへと深く預ける。
中古の家具を取り扱う店で買った流行遅れのデザインのそれは軋んだ音を立てながらもしっかりと彼の体を支えた。喫煙出来ぬ代わりに、オイルライターの蓋を指で弾いては閉じる行為を繰り返す。
小気味の良い音が連続する中、少女はベッドの端にちょこんと座り、真っ直ぐにこちらを見つめている。面には何の感情も浮かんでいないように見える。続く言葉を待っているのだろうと判断し、右手で弄んでいたオイルライターを拳に握り込んで口を開く。それから言葉が出るまで、いくばくかの間があった。
「あの……」
「あのさ……」
テノールとアルトの二重奏。その結果に共に呆然とし、二人は一拍を置いた。
「……えっとさ」
「……えっと」
偶然が二度続く。気恥ずかしさにイーサンは黙るしかなかった。それは向こうも同じなようで、表情は変わらずとも困惑の雰囲気は伝わってくる。
「どう、ぞ……?」
しばらくの間を置いて、頭を右へ傾けながら少女がおずおずと左手をこちらに差し出した。
なぜそこで首を傾げるのか問いたくなるが、それは後だ。頷きを返すが、別れを告げる行為は言う側にもある程度の勇気を要求するものだ。譲歩を受けてほいほいとそれを言葉にする事は内気な彼には至難の業だった。
視線が少女から部屋の壁へ移り、また戻る。それを幾度か繰り返して、気を落ち着かせる為に深呼吸をした。
言い淀む自分が情けない。下唇を軽く噛み、閉じた唇をゆっくりと開いた。ベランダで無言の試行を重ねた末に決定した台詞を頭で反芻し、それを形にするために口唇が動く。顔には笑みを浮かべていたが、誰が見てもそうとわかる作り笑いだ。
「その……、いつまでも此処にいるわけにはいかないだろ? 俺だって暇じゃないし、お前の、あー……保護者の方だって心配してるだろう」
親を保護者と言い換えたのは、自分なりの意地だ。自嘲を顔には出さず、言葉を続ける
「だからほら、あれだ……。今日辺り帰った方がいいんじゃないか?」
ほぼ考えた内容通りに言葉が出たはずだと、イーサンは思う。もう一度確認し、成果を頷きで認める。
肩の荷が下りたと思った途端、気の抜けた吐息が零れる。ソファへと更に身を沈め、視線を低い天井へ向ける。
対する少女は無言。それに耐えかね、視点を天井から彼女へと変え、様子を窺う。
ステラは仏頂面のままだ。だが、先ほどまでこちらを見ていた桃の瞳は黒のジャージに覆われた膝の辺りに向いていた。紅を引いていない、しかし淡い色の唇は硬く閉じられている。
罪悪感と呼ぶべきものを、胸中に抱く。
だがここで折れたら自分の負けだ。慰めの言葉が出そうになるが、抑える。
無言が二人を支配した。初夏の風がカーテンを押し開き、言葉のない室内を横切っていく。
更に沈黙は続いた。その状態にイーサンが耐えられなくなってきた時、俯いたままの少女がこちらを見た。
「……イーサンは、私がいない方がいいの?」
無表情のまま、確認するように彼女は言う。桃色の眼はどこか、こちらに縋るように向いていた。
その聞き方は卑怯だ。ぞんざいに少女の問いを蹴れるほど、彼は強い人間ではない。
そうだとも言えず、かといっていた方がいいとも言えず、イーサンは無言を貫くしかなかった。ステラの言葉は続く。
「私は、イーサンといたい」
決定打が打ち込まれた。真っ直ぐな言葉と、縋るようにこちらを見る双眸に言葉に詰まる。癖のある黒髪を掻いた。がしがしと乱暴に。
「あのなぁ……」
絞り出すような声は、彼女を咎めるものだ。ちくりと胸が痛む。彼は今、人を拒絶しようとしていた。流れてしまいそうにならないように、声を張った。
「わかるか? 俺には他人の面倒を見る余裕がない。金もないし、家も見ての通りワンルーム。お前が帰りたくないのは分かる。俺も家を出た口だからな。でも、今の状態じゃお前を養うのは不可能だ」
身を乗り出して拒絶をぶつける。その後に来るのは虚脱と後悔だ。押し潰されない内にソファを立ち上がり、ベランダへと向かおうとした。拒絶した少女から逃げるために。
「部屋が狭いのは構わないよ」
逃避へ向かう背中を平坦なアルトが引き止める。思わず足が止まった。ステラの言葉が続く。
「それに、お金がないなら私も働けばいいんだよね? 本で読んだことがあるから、大丈夫」
呆気にとられた。口をあんぐりと開いたまま、少女へ振り向く。机上の知識だけで何が大丈夫だというのか。それに、彼女の性格はどう考えても就業向きではない。短い付き合いだが、それは確信を持って言えることだ。
「ちょっと待て、いいか……」
無理を成そうとするステラを諭そうとしたが、平手を突き出す腕の動きでそれは中断させられた。
「少し待ってて」
こちらを遮り、ベッドから立ち上がる。何をするつもりなのかと思ったが、その足は迷うこと無くクローゼットへ向かった。
途端に彼女はサイズの合わないジャージの上を脱ぎ捨てた。細くしなやかな背中が露わになる。驚くほど白い肌に一瞬目が吸い寄せられ、下も同じようにしたところで正気に戻る。
慌ててベランダへ退避。室内からは衣擦れの音がやけにはっきり聞こえる。それが止むとブーツの硬い足音が遠ざかっていき、唐突に止んだ。
何事かとおそるおそる顔を向けると、そこには出会った時と同様の白のワンピースを纏った彼女がいた。桃色と金色の視線が重なる。
一拍を置いて、少女が言った。何か思い出しているようにも見えた。
「……行ってきます」
金属製の扉が重い音を立てながら開き、そして閉まる。
残されたイーサンは呆然としながらそれを見ていた。
●
煙草を五本ほど消費した頃に扉は開いた。戻ってきたステラが運んできたのは、朗報か悲報か。その時のイーサンには区別が付かなかった。
「仕事、見つけてきたよ」
部屋のベッドに着替えぬまま座った彼女は、開口一番にそう言ったのだ。
にわかには信じ難い言だ。昨夜所持品を問うた時、ステラは何も持っていないと言った。同意の元に衣服を精査しても何も見つからず、身一つで出てきた事が明らかになった。この国の国民に発行される身分証すら、彼女は持ち合わせていない。
しかし彼女の表情はどこか満足気だ。それから推測出来る事柄は、言葉の内容が真実らしいという一点のみ。ベランダからソファへと戻ったイーサンは頭を抱え、淀んだ声で問い掛ける。
「……一体どこ?」
まさかいかがわしい店ではないだろうか。確かに彼女の容姿なら身分証明書がなくとも即採用だろう。彼自身足を運んだことは一度もないし詳しくもないが、歓楽街にそういう店は山ほどあることを知っている。
彼女の答えは簡潔だった。
「昨日行ったお店」
意外と言えば意外だ。しかし考えてみると疑念の中に小さな得心があった。
昨夜会計を行った老紳士は大らかそうであったし、あの軽食屋はこじんまりとしていて、どこか寂しかった。人手が足りていないようには見えなかったのだが、
――それでも普通、身元のわからん人間を採用するか?
「これでお金の問題も解決だね」
疑問を検証する間もなく、ステラは追い討ちをかけてくる。
「あー、いや……。そのだな……」
口ごもりながら最後の抵抗を試みるが、既に諦めている自分もいた。少女の意思は強靭で、それに伴う行動力もある。
それらがないイーサンに、少女は輝いて見えていた。
手狭な家で初めての共同生活を迫られる立場になるとは夢にも思っていなかった。ステラとの出会いが、彼の世界を開拓している。
羨望と嫉妬が同時にあった。彼女と共にいればいつか自分もその意思と力を持てるのではないかと期待を抱くし、それらを持ち合わせた相手が近くにいると彼我の優劣を明確に感じてしまい、強い劣等感を抱くだろう。その力をイーサンも持ち合わせた時、この痛みからは解放されるのだろうか。その答えはわからないが、それは許されない気がした。
ただただ、複雑だった。だが、その中で負の感情だけがぬめるような輝きを放っている。
「イーサンは、私が持っていないものを沢山持っている。だから私はそれを知るために貴方と在りたい。そのためだったら何でもするわ」
駄目押しの一言。マイナスの情念に鬱屈していた彼は、その言葉にはっとした。
彼女は、期待している。世間知らずで見識の狭い己を認め、変わりたいと強く願っている。未確定の未来がもたらす変化が正の結果をもたらすと信じているのだ。
強く信じ、そのための行動を起こせば未来は微笑むと父は言っていた。過去、その言葉の通りにはならず、イーサンは挫折を経験する。残ったのはこの身と、悪夢と、それに準じる決して癒えることのない心の傷だ。
そして挫折した今、惰性のままに暮らす彼と少女は共に在りたいと言う。士官候補生でもなく、この国を動かす議員の倅でもなく、イーサン・ロックハートという一人の人間と。
もう少女に何を言っても無駄だろう。ただ彼は、失望だけが恐ろしかった。
「俺は、お前が思ってるような人間じゃないよ」
自嘲の笑みを浮かべて、少女へと言う。これは問いだ。彼女の意思と行動に対しての。そしてそれは、イーサンが己に感じる罪の意識を言葉にしたものだった。
きっと少女はそんなことはないと答えるだろう。彼女がそう言えば、無言で追い出すつもりだった。
まだ互いに何も知らない相手にそう決めつけられるのは、彼にとって度し難い屈辱だったからだ。今までそれで嫌な思いを散々してきた。勝手な期待と失望はその本人ではなく、対象にこそより強い苦痛をもたらす。
間を置いて、少女は口を開いた。そっと身構える。
「……貴方がどんな人間かなんて私は知らない。それは、これから知っていくこと」
予想と違う答えに、放心して彼女を見た。言葉は続く。
「私はただ、他の誰でもなく貴方と共に在りたい。私と同じ、そして違う貴方と。そうすれば、答えが見つかるような気がするから」
絶句する。彼女は自己が信じるままに決断していた。そのために他人を巻き込むと迷い無く口にした。なんという自己至上だろうか。
溜息を、イーサンはついた。羨望も嫉妬も警戒も、それに乗せて吐き出す。後の表情は微笑みだった。
父の存在に圧迫され続けていたイーサンにとって、ステラの言葉は爽快だった。こちらがどんな人間でも構わないと、そう言ってもらえたからだ。
彼に対して求めることは一つ。共にいることだけ。ステラが何の答えを求めているのかはわからない。だが、彼女はきっとこちらに頼ることなく答えを見つけるだろう。
その答えが見つかったのならば聞かせてもらおうと、口には出さずに決めた。
「家賃は高いぞ?」
口端を上げたままのこちらを怪訝な顔で見る彼女に冗談交じりで言う。
「構わないよ」
冗談とわかっていないのだろう。真摯な面持ちで答える少女に、口端を吊り上げた。
もしかしたら、自分も彼女と共に在ることで変われるのかも知れない。漠然とした気持ちを胸中に抱きながら、イーサンは頷いた。
不安は累積していたが、先のことは考えないようにした。今はただこの愉快な気分に浸っていよう。そう思い立ち上がる。足の向かう先はベランダだ。煙草を咥え、すっかり霧の腫れたそこへ歩んでいく。何故かその時だけは、胸の痛みは消えていた。
●
それから一月が経った。気温は既に夏のそれだ。
ステラが彼の世界へ飛び込んできてから、日が経つのは非常に早かった。その期間、イーサンは色々な変化を経験した。
アルバイトの勤務時間帯を夕方から午前に変え、勤務日を増やした。昼に起きるのが習慣となっていた彼にとって起床のサイクルを変えるのは辛かったが、慣れてからは体の調子が良くなった気がする。
勤務中は叱責されることが滅多になくなり、店主からは褒められた。その理由は彼自身にはわからなかったが、店主曰く、「表情に活気が出て、それが行動にも出ている」ということらしい。自覚は未だにしていないが、失敗と叱責がなくなったのは精神衛生上良いことだ。
空いた夜の時間は同じく仕事を終えたステラと過ごす。身元が不明瞭な彼女の代わりに図書館で本を数冊借り、ステラはベッドで、イーサンはソファでそれらを読む。言葉を交わすことはあまりない。それが最初は気まずかったが、しかし今では沈黙は気まずいそれではなく、むしろ心地良いものだ。
以前は料理を全くせず、外食とインスタントの食事を摂っていたイーサンだったが、食い扶持が増えたのでそうはいかなくなってしまった。ステラは常人よりも、控え目に言ってよく食べる。なので外食では割が合わなかった。料理の本を借り、埃を被っていた炊事場を掃除して慣れない作業を行う。当時は本とにらめっこをしながら格闘していたのだが、徐々に勝手がわかってきて今では慣れたものだ。最近はステラも調理に加わり、彼女のおぼつかない手つきをはらはらしながら見ている。
余談だが、浮世離れした容姿の彼女に不思議とエプロンは良く似合った。なんというか、それを着ることで俗世の雰囲気が加わり、親しみやすく見えるようになるのだ。
不安だったステラの仕事だが、存外上手くやっているようだった。
以前彼女には内緒で件の軽食屋へと向かったのだが、無表情ながらも給仕の仕事を上手くこなしていた。ステラは突然の来訪に驚いたようだったが、他の客に呼ばれて話す間もなくそちらへと向かっていった。カウンター席に座り、此処を初めて訪れた時に出会った老紳士に経緯を聞くと、意外な答えが返って来た。
「確かにステラちゃんを雇うのに抵抗はあったよ。身分証明証を持ってないべっぴんさんがいきなり働かせてくれ、なんて言うものだから驚いたさ」
その時を思い出すように口を開いた彼は苦笑を浮かべていた。そりゃそうだ、と大きく溜息をついたのを覚えている。
「最初はやんわりと断ろうと思ったんだが、ふと気になって理由を聞いたのさ。そしたら何て言ったと思う?」
皺だらけの面に悪戯っぽい笑みを浮かべて問いかけてきた老紳士に、こちらは何と答えただろうか。その後の言葉が強烈でもう思い出せない。
「一緒にいたい人がいる、何としても。って言ったんだよ。そう言われたら雇うしかないじゃないか、ねぇ? 若者を応援するのは老人の楽しみだしさ」
喉の奥で笑いながら、老紳士はこう言った。その時丁度注文を受けたステラが遠くから彼にそれを告げた。店主は片手を挙げてステラへ頷きながら、イーサンが此処に来た理由を見透かしたように言葉を続けた。
「ま、ステラちゃんは問題ないよ。無愛想だけど飲み込みも早いし要領がいい。よくやってくれてる。一部の客からはその無愛想さがたまらんらしい。おかげさまで盛況さ」
それを最後に彼は厨房へと消えていった。気になる一言があったが、疑問は消えたので何も頼まぬまま店を出た。その夜にステラから何をしにきたのかと聞かれたが、答えることはしなかった。理由は単純に気恥ずかしかったからだ。
奇妙な少女と出会ってから一ヶ月。もしあの夜がなければ、イーサンは今も怠惰に生きていたことだろう。もしかしたらアルバイトも解雇され、新しい職を探すことになっていたかもしれない。
今のところ、ステラと同居してからイーサンの生活はプラスの方向に向かいつつある。家にある他人の気配にも随分慣れたし、寝床は協議の末一日ごとにベッドとソファを交代で使うことになった。
「一緒に暮らすなら同じところで寝るものじゃないの?」
と、首を傾げて言ったステラを説得するのは骨が折れた。彼女は世間知らずの癖に妙に自信家なのだ。少々惜しいことをしたとも思うが、彼にそこまでの度胸はない。
ただ、一つだけ問題があった。
夢を見るのだ。水死体の迫ってくる過去にまつわる夢ではない。新しい夢だ。自分の体を引き裂いて化物が飛び出してくる悪夢。それは前述のものと共に、一定の間隔をおいてやってくる。
初めは慣れないソファで寝たせいかと思ったが、ベッドで寝ていてもそれはやってくる。そして目覚めると、いつもステラが寄り添ってくれていた。
今日もまた、そうだった。
●
そこは、天地の全てが赤に染まっていた。
見渡す限りの赤。大地と空が交わる境界線の果てまでも赤い。
その世界で唯一の異物が、イーサンだった。衣服を纏わず、生まれたままの姿で彼は赤の空間に立っている。
自分が何故ここにいるのか、わからない。わからないが、存在は確かにここにある。
世界の持つ雰囲気は空虚。その中にただ、目の眩むような赤だけが存在している。
その異様さに耐えかねて、紅に汚れた大地に膝を付いた。大事はぬめりを持った柔らかさで自身の脹脛を迎え入れる。大地は血に濡れた汚泥で構成されていたのだ。
衝撃に声が出ない。体を動かそうとする意思も、根こそぎ毟り取られていた。
唐突に、音が聞こえた。
何かを引き裂くような、獰猛な音。
虚ろの中に生まれたそれに、彼は無意識に目を向ける。
金色の瞳が向く先は自身の腹部。音は、その奥から発生している。
虚無に塗り潰された思考に飛び込んできた事実は、彼に体の感覚を思い出させる。
同時に激痛が来た。脳が警鐘を鳴らし、その反射で絶叫が迸る。
異音は大きさを増し、それに比例して痛みも増していく。
涙と鼻水と涎を撒き散らしながら、激しく首を振った。行き場の無い痛みを叫びの形を吐き出す。虚ろの赤に響くのは苦悶の雄叫びと自らを内側から引き裂く不気味な音だけだ。
手を差し伸べる者は誰も居ない。
ぬるりと、臍の上に十本の爪が内側から生えた。間欠泉のように血が噴き出す。
そのどれもが至る所に血と、肉片と、骨の欠片と、臓物の一部をこびりつかせていた。それらは全てイーサンの体を構成していたものだ。
上の五本は右に、下の五本は左に曲がり、彼の赤く汚れた肌を掴む。
一拍。
イーサンの体は比喩抜きで真っ二つに引き裂かれた。
体内の物質を周囲に散乱させながら、涙を垂れ流す金の双眸は姿を現した爪の主を捉えていた。
全身を赤く濡らした、神話に登場する悪魔と見紛う黒の巨躯。
血と臓物を浴びながら、それは喜悦の咆哮を赤の世界へ轟かせた。
その光景を最後に、視界が暗転する。
●
動悸が脳を揺らし、粘つく汗が全身を這い回って気持ちが悪い。眼前にある彼女の顔だけが救いだった。もう驚きはしない。
「また、夢を見たの?」
頷きとともに体を起こす。呼吸が自分のものではないかのように荒かった。吐気もする。
まるで、あの黒い化物が追ってきているようだ。生温い気温の中で、彼は寒気を覚えた。
意識を戻すと、水の入ったマグカップが差し出されていた。それを掴む白く細い腕の主は他ならぬステラだ。
その面は平静のままだったが、そこに微かに浮かぶ感情をイーサンは読み取れるようになっていた。今の彼女にはいたわりと微かな口惜しさがある。自分への心配と、何も出来ない悔しさだろう。そういう気遣いをさせる自身を、みっともないと顔には出さずに自嘲した。
「はい。これ飲んで、少し落ち着いたらご飯にしよう?」
感謝を述べながら、提案に頷く。カップを口に当てゆっくりと傾けると、冷たい水が渇いた口内に染み入った。
とん、と軽い音を立てながら、彼女がベッドの端に尻を落とす。今日はイーサンがベッドを使う日だった。二人の距離は近い。
「自分の中から、……化物が出てくる夢だよね? 段々、ひどくなってるみたい」
「まぁ、大丈夫だよ。所詮夢だしさ」
苦笑とともに返してから、イーサンは心に引っかかる何かに気付いた。彼女は言いよどんだ。何故だろうか。
「そういえば今日は、お仕事?」
気にすることでもないと結論付けて、彼女の問いに答える事にした。今日は確か――。
「……いや、休みだよ」
視線を天井に移し、記憶を辿って答える。ステラへと視線を戻すと、彼女は俯いている。珍しく逡巡しているようだった。
こちらを向くが、桃色の瞳は微かに揺れていた。口を開き、一拍を置く。
「……私も今日は休み。それで、良かったら外に行かない?」
躊躇いがちなアルトが告げた意味を考える。一度考え、二度目になってイーサンは気付いた。
――これって、もしかしてデートの誘いか?
いや待て、とはやる心中を抑えてもう一度考える。異性が共に出掛ける。思えば、二人が同じ日に休みというのはこの半月で初めてだった。
――うん、間違いない。
確信してから、イーサンは緊張を覚えた。ステラは美人だ。それも彼が今まで目にした中で一番の。共に暮らしていたからこそ彼女に対しては慣れを覚え、普通に接していたが、美人であることに変わりはないのだ。動揺しながらも浮ついた気分になる。
「えーと、よ……喜んで」
無論、このような誘いを受けるのは彼にとって初の出来事である。ぐるぐると意味なく回る思考のせいで上手く言葉が出ず、瞳を見開いたまま間抜けに返事をするのが精一杯だった。
「じゃあ、決まりね。ご飯食べたら準備しよっか」
誘う前の躊躇は何処に行ったのか、素っ気なく返すと彼女は台所へ向かった。その背中を見送りながら、デートの誘いを受けたイーサンは呆然とする。
ふと、確かめるように頬を強く抓ってみた。たまらなく痛かった。
●
空はこの国には珍しく快晴だ。風も緩やかで、出掛けるには申し分ない。
街の匂いをステラは肌で感じていた。厳しいブーツではなくスニーカーで立つ場所は家から地下鉄とバスを乗り継いだ所にある繁華街だ。世間が休日な事もあり、此処は人に溢れている。来てすぐに人の多さに圧倒されたものだ。
服装はワンピースではなく、ショートパンツに半袖のカットソーだ。これは軽食屋の店主から譲り受けたもので、店主曰く彼の娘がステラの年の頃着ていたものらしい。今は遠方にいるとのことだったが、詳しい理由は聞かなかった。ただ、もの寂しい彼の表情が網膜に焼き付いている。
「ステラちゃんに着て貰えたのなら娘も喜ぶさ」
そう彼は言っていた。ならば有り難く頂くのがいいだろうと思い、彼から様々な衣服を受け取った。
隣にはイーサンがいる。今の服装を見た時に彼は鼻を伸ばしていた。だらしない。しかしだからこそこの組み合わせは正解なのだろう。彼の視線はこちらの脚に注がれていたが、脚部の何が良いのかステラにはわからなかった。性癖は人それぞれなのだろうと結論付ける。
気温と数多の人の温度で暑さを感じるが、不快感はなく、跳ねるような期待がある。
歩道沿いには衣服や食べ物、雑貨などを扱う店が幾つも並び、呼び込みをする店員の姿も多くある。何度か人混みに飲まれそうになりながら、顔をせわしなく動かしながらその全てに目を凝らした。
その中で、少女の目を射止めるものがあった。ショーウィンドウに飾られた沢山のぬいぐるみだ。
「……可愛い」
思いを言葉にして呟く。人の群れに追随するように進んでいた足は無意識に止まる。
彼に教えようとして、視線はそのままに手を隣へと伸ばした。しかしそれは虚空を掴む。
首を傾げた。顔をショーウィンドウから隣へやると。そこにはこちらを通り過ぎていく人の波だけがある。
はぐれたのだ。
これはいけない、とすぐに感じた。イーサンは肝が小さく、すぐに狼狽える。もしかしたらべそをかいているのかもしれないと、ステラは危機感を抱く。
渋々ぬいぐるみの群れを眺めるのを諦め、はぐれた彼を探そうと人波に乗った。彼女自身はまだはぐれたのは自分だという事に気付いていない。なんとも見上げた根性である。
しかし探せどもイーサンの姿は見えない。彼の服装は覚えているし、金色の瞳を持つ人間などはそういない。ましてや彼のそれは下に深い隈があり、死んだ魚の目をしている。すぐに見付かると思ったのだが、捜索は難航の一途を辿った。
段々、心細くなってきた。足が前に進む意思を失っていく。途端、先程まで高揚していた気分が下がり、急に人混みと気温に息苦しさを覚えた。
こんなときに携帯電話があればどれだけ便利だろうか。イーサンは持っているが自分はまだ持っていない。前、欲しいと頼んだら断られた。必要ないという彼にその時は渋々引き下がったのだが、
「必要じゃない。イーサンの馬鹿」
携帯電話があればはぐれた彼を探すのにこうも苦労しなかったし、そもそもイーサンがはぐれなければもっと近くであのぬいぐるみを見ることが出来たのだ。
全部彼が悪い、と断定する。いないのをいいことに言いたい放題である。
「疲れた……」
絞り出すような声は無意識に出たものだ。それを契機に歩みがぱたりと止む。ぜんまいの切れた人形のように。
気付けば、ステラは開けた広場にいた。そこにある手頃なベンチを見つけ、ほうほうの体で近付き、腰掛ける。
文字通り途方に暮れた。広場を横切る人々は皆はつらつとしている。親子や友人、恋人たちと今を満喫していた。対して、彼女は一人だ。研究所では常に一人だった。しかし、孤独ではない他の人々をみると、これ以上なく惨めな気持ちになったのだ。
「イーサン……」
共にいたい名前を、小さく呼ぶ。掠れる声に反応する者は、今はいない。
「なんだ?」
そのはずだった。聞き覚えのあるテノール。それにはっとして顔を上げる。陰り、濁った金色の瞳とその下に刻まれた濃い隈、癖のある黒髪。いつもとは違う、外出用の小綺麗な衣服。
今朝、共に此処へ来た彼の姿がそこにはあった。
「全く、お前はガキか! いつの間にかいなくなってるわ、はぐれたらしい場所にいったらいないわでそこら中探し回ったぞ! 手間かけさせやがって」
こちらを叱咤する彼の額には汗の玉がある。おそらく言葉の通りだろう。しかし、なんとなく、認めたくはなかった。
「……探してなんて頼んでない。それに、はぐれるイーサンが悪い」
ひどい言いがかりだ、と自覚しながらも虚勢を張らずにはいられなかった。俯き、ベンチの上で膝を抱える。
彼の溜息が聞こえた。呆れられていると感じながらも膝を抱える腕を硬くする。譲歩のタイミングを失したステラに残されているのは徹底抗戦のみだ。
不意に、彼の気配が遠くなった。スニーカーの足音は小さくなっていく。え、と疑問。籠城戦も城を攻める相手がいなければ無意味だ。折れかけ、イーサンの登場によって修復された心が黒く染まっていく。
空虚な時が過ぎた。ステラを現実に引き戻したのは、耳元に当たる冷たい感触。
「ひゃ……っ」
不意打ちに間の抜けた声が漏れる。反射的に顔を逸らし、それによってバランスが崩れた。
倒れる。頭の重さに体が引かれ、傾いた体は硬いベンチへ打ち付けられる。平素のステラならば何の問題もなく受け身が取れるのだが、この時ばかりは違った。体を動かす心は疲弊し、鈍っている。彼女に出来ることは衝撃に備えて体を硬直させ、瞳を固く閉じることのみだ。
「おわ、っと!」
落下に向かう体を止めたのは、微かな湿りを帯びた細い、しかし筋肉質な腕だ。覚えのあるそれに、閉じた双眸をはっと開く。
「大丈夫か?」
眼前には、驚いたようにこちらを見る深い隈の刻まれた金の瞳があった。濁りや陰りの残るそれに無意識に吸い込まれそうになる。彼は離れていったはずではなかったのか。
「離して……」
むっとしながら体勢を直す。頬がやけに熱かったが、それは気温のせいだろうと結論付ける。
見れば、彼は手にプラスチックの容器を持っていた。透けて見える中身は氷の入った鮮やかな色彩のドリンクだ。両手にそれぞれ違う色のものが一つずつ。先程耳に当てられたのはそれだろう。
重い音がした。イーサンが彼女の隣に座ったのだ。
微かな汗の匂いが鼻に届く。彼が自分を探し回った結果だろう。それを身近で感じて、申し訳なさが心中を埋め尽くす。しかし意地を張った以上おいそれと認める訳にもいかない。崩れた膝を抱え直し、空しい籠城を再開する。
「飲め」
ずい、と無造作に飲み物がこちらに差し出される。曲がったストローが正面にあった。
「いらない」
不躾に突っ撥ねた。その先にあるのは無言。傍から見れば彼女は駄々をこねる子供だった。
しばらくしてから、正面からストローが消えた。何故だか気持ちが沈む。
一息置いて、ぽん、と頭に手が置かれた。軽い、しかし確かな感触。あそれから伝わるのは息を飲むような緊張と、たどたどしさ。
続くのは言葉だ。
「……悪かったな、置いていって。寂しかったろ?」
ぎこちない言葉。だが、それは思いやりと温かみに溢れたものだった。ゆっくりと、イーサンの手が動く。これでいいのだろうかと、確かめるような、思い出すような動きだった。
安堵と、胸の締め付けが同時に来た。返事はしない。否、出来ない。口を開くと、何か余計なものが溢れてきそうな気がしたからだ。
頭を撫でる手を拒絶はせずに、横目で彼を見る。力の抜けた柔和な笑みがそこにあった。同時に、どこか物寂しそうでもある。そういう表情を、この一月でステラはよく見ていた。どこか苦しそうで、痛そうなもの。体に外傷などないはずなのにもかかわらずだ。
彼は左手でこちらに触れている。右手はプラスチックの容器を持ったままだ。先程彼女へ差し出した飲み物は、今は二人の間に置かれていた。
手早くそれを掴み、ストローを咥えて中身を流し込んだ。もうやけくそだった。
――……甘酸っぱい。
冷たく甘酸っぱい味がすっかり渇いた喉を満たす。だが、頬の熱は抜けなかった。
イーサンの手は既に頭から離れている。急な動きに呆気にとられたのだろう。こちらを見たまま、頭の少し上でふらふらと浮いていた。
「……大変だったんだから」
ストローをがじがじと噛みながら、ステラはむくれてそう言った。イーサンの方は見ない。しかし、彼が苦笑しているのは雰囲気でわかる。
「まぁ、その……悪かったよ」
諦めたようにそう言う彼に対して眉根を寄せた。先ほどまでの強い態度はどこにいったのだろうか。そういう彼はいつも通り、どこか頼りない口調だった。相手に合わせるようなそれだ。だが違う。聞きたい言葉はそれじゃない。
「イーサンの馬鹿」
「え?」
聞こえないように、呟きで留めた。だが声は届いたようで、疑問符を伴ったテノールがこちらへ問いを投げている。
その仕草も彼らしい、と内心で苦笑しながらステラは彼の方を見た。
絶対に言わなければならないことが一つだけある。
「携帯電話、買って。また迷子になった時にお互い困るから」
●
空は薄い橙に染まっている。時刻は夕暮れ。
舗装された道には伸びた影が二つ落ちている。一つは小さく、もう一つは大きい。横に並んだそれらは同じ間隔で動いていて、同じ方向へと進んでいた。
白銀の髪の少女と、癖のある黒髪を持つ青年だ。二人は幾つかの袋を手に持っている。繁華街で買い物をした後、共に暮らすワンルームへと帰る道中だ。
「出たときは朝だったのに、もうこんな時間だね」
足を止めぬまま、桃色の瞳を細めて夕陽を見ながら少女が言った。隣を歩く青年は金の双眸を少女に向け、呆れた口調で返す。
「そりゃお前が迷子になったり、興味の出たもんを片っ端から見てたからだろ」
それを聞いて少女は微かに眉を顰める。だがすぐに元の無表情へ戻った。視線はそのままに、ぽつりと呟く。
「仕方ないでしょ。あんなに人がいるとは思わなかったし……」
諦めるように嘆息する。その様子に青年は苦笑し、ややあってから口を開いた。
「どれだけ箱入りだったんだよ、お前。でも、ま……」
彼には珍しくないことだが、いつにも増して歯切れが悪い。何故かその時だけは無性に気になって、少女は日輪から青年の顔へと視線を移す。
金色の眼が、夕陽を反射して橙を抱いていた。出会った時の瞳の陰りは、徐々に薄くなってきているようにも、更に濃くなっているようにも見えた。あの時も綺麗だとは思っていたが、今の色はもっと綺麗だ。
「……楽しかったよ、俺は」
間を保って放たれた一言に、心が揺れた。声を聞き、それが持つ意味を理解すると顔の筋肉が緩んだ。今、自分はどんな顔を彼に向けているのだろう。
「私も、楽しかった。一回はぐれてから、イーサン、手を繋いでくれたよね」
おずおずと差し出された彼の手と、その時の表情は記憶に新しい。無論、手を握った時の彼の少し熱い温度と、微かに濡れた感触も。
途端に、青年がそっぽを向いた。照れているのだろう。彼と暮らすようになってから感情の機微がわかるようになった。以前は全くわからなかったし、わかろうともしなかった。
彼は感情が顔によく出る方だが、それでも最初は戸惑ったものだ。何しろ、他人について推量するのは初めての経験だったのだから。
彼も、推量してくれているのだろうか。そうだったら嬉しいと少女は思う。だが、妙な気恥ずかしさもあった。
外に出て彼と出会うまで、持つことの決してなかった感情だ。
「……そろそろ夜だな」
話を変えようとしているのか、色の変わり始めた空を見て彼は言う。不自然だったが、乗ってやることにした。
「私は外に出てから初めて見たんだけど、イーサンはずっと目にしてたんでしょ? あれ」
そう言って指で示すのは外部隔壁だ。地面から生えるビル群の隙間からやけにはっきりと見える堅牢な壁を見て、隣に問う。
「まぁ、な……。でも、はっきり意識したことはなかったよ、昔から」
首を傾げる。彼は過去を語らないし、聞くこともしない。それは自分も同じだった。しかしその彼が躊躇いがちに過去を示唆する発言をしたとなると、
――少しは、心を開いてくれてるのかな?
自惚れかもしれない。しかしそれでも高揚してしまう。同時に、後ろめたさもあった。だからこそ表情に出さないように努め、踏み込まないことにした。
「……でも、不思議な話だよね。昔は国を囲う隔壁なんかなくて、海の向こうが見えたなんて」
顔を領海の境界上に設置された外部隔壁へ向ける。それは街を構成するどの建造物より遥かに高い。
「実際にあそこには壁はないけどな。誰が考えたのかは知らねぇが、集合的無意識を利用してばかでかい壁のイメージを全人類の意識に刷り込ませてるだけだ。途方も無いほど複雑で巨大な想術の結果だよ、あれは」
想術とは、基礎となる術式を媒介に記し、式に対応した想いを術者が持つことによって世界に満ちる霊素を操る人の業だ。
「想術……」
それは、ステラにとって身近なものでもある。想術に対しての勉強はさせられていたし、知識も豊富だった。
「あの壁は、媒介と術式の役目を同時に持つんだよね。あの壁自体はただの霊素の塊。でも人には、壁があるように見えちゃうから、壁っていう媒介がそこにあると認識しちゃう。そしてその壁は、私たちの無意識の根源的な部分に、術式を見せている」
「たとえ頭では違うとわかっててもな。そんであれは、壁の内側にいる全員の安寧と平穏を糧にして、今は未踏の地になり果てた外界から俺たちを守ってる」
続く言葉を頷きで確認する。そう、今の世界の象徴と言える隔壁を創り出した術者の詳細は未だに不明なのだ。
「全ては霊素の通り道になってた地脈が崩壊したことだ」
彼にとっても自分にとっても、そしてこの世界の誰にとっても衆知の事実で、遠い昔の話だ。
霊素を世界に巡らせる役目を持っていた地脈は、人の業によって崩壊した。結果、万物の源である霊素が地下から地上へと溢れ出たのだ。その結果、霊素を用いる想術の技術は著しく発展した。過剰な霊素が生む極大の弊害に晒されながら。
「病を治す薬も、過剰に摂取することで毒になる。だから、今は壁の向こう側はあらゆる生物が半刻も保たずに死滅する恐ろしい世界になった」
「そういうことだ。地表に溢れ続ける超高濃度の霊素に人は汚染され、ばたばた死んでいった。そしてあの壁が完成し、人類は滅亡を免れたのさ。そして、壁のなかった世界は今では旧時代と呼ばれてる。以上、歴史の時間は終わり」
冗談っぽく締め、ふ、と彼が一息つく。そして思い出したように、
「しかし、随分詳しいんだな。壁についての歴史はガキの頃に習うことだが、その仕組みとなると知ってる奴は少ないのに」
まだ、彼には自分の過去は言えない。告げたら間違いなくこの関係が終わりを迎える。
ステラは止まっていた足を進めた。彼の言葉から逃げるように、普段の速度よりも速く。
「昔に、少しね。イーサンと同じだよ」
背後のイーサンが、それにどんな反応をしたかはわからない。構わず、今の住処へと彼女は向かう。
しばらくしてから、スニーカーの足音が聞こえてきた。こちらに追従する足音の主は何も言わない。それが寂しいのか、ありがたいのか理解しがたかった。
「……あの、さ。もしよかったら、また出かけないか?」
おずおずと、小さな声でイーサンは言う。意外な言葉に足を止め、振り返った。
そこには、そっぽを向いて俯く青年の姿。
「うん、勿論」
心から、そう思った。快諾の返事に、伏せていた顔を上げて彼がこちらを見る。嬉しそうな、どこか痛そうにした瞳は、こちらと視線があってすぐに意外そうに見開かれた。何を見たのだろうか。
何気なく頬に触れると、答えがわかった。
――そうか。私、今笑ったんだ