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終末のオーバーラップ  作者: 屑屋稲
第一章:
3/10

その出会いは必然。しかし、この二人であったことは偶然。

 白夜の下、街の中は数多の光が生む色彩に包まれていた。

 大通りに列を為す様々な種類の車の灯火に、人々や車両を余さず統率する信号機。そして道沿いに建てられた様々な店舗の看板のネオンや、住居の窓から零れる明かりがその正体だった。

 その光を、ある車の窓から眺める少女がいた。彼女は窓に濃いスモークの貼られた後部座席に姿勢を正して座っており、微かに黒ずんで加工された景色を硝子の様な桃色の瞳でじっと見つめている。しかし、瞳は外の景色をただ反射するのみで、そこには何の感慨も無いようだった。

 少女の乗る車種は白塗りの高級車で、他に三人の同乗者がいた。運転席に一人、助手席に一人、そして少女の隣に一人だ。少女の隣には女性が座っており、前の二人は男。皆例外なく黒のスーツに身を包んでいる。彼らは相互に口を開くことはあっても、少女にだけは話しかける事が無い。まるで少女がこの場にいないかのように。

「本部へは予定通りに着けそう?」

 薄暗い車内の中、女性が口を開く。口調は凛としたもので、車内のリーダー格は彼女のようだ。彼女は手首の内側に付けられた腕時計に目を遣る。短針が指す時刻は午後十時。長針の場所は数字の一の真上にあった。

「正直、厳しいです。今日は道が予想以上に混んでいますから」

 女性の問いに答えたのは両手で革張りのハンドルを握る運転席の男で、サングラスを掛けた面には苦笑を浮かべている。

 答えを聞いた女性は溜息を零し、焦れったいと言わんばかりに組んだ脚を小刻みに揺らした。

「うざったいたらありゃしないわね」

 紅を引いた唇を歪め、舌打ちを一つ。前に並ぶ車の列を忌々しげに彼女は見つめる。

 女の言葉に前に座る二人は揃って乾いた笑い声を零し、助手席の男が彼女へと振り向き、面に苦笑を浮かべて口を開く。

「まぁまぁ。もうすぐ行政区ですから、そこまで行けば一般車両はほとんどなくなります」

 なだめるような彼の言葉に、女性は苦々しくわかってるわよ、と素っ気なく返す。しかしその表情は険しいままで、我関せずというように窓の外へと視線を向けたままの少女を女は横目で見た。

 再び舌を打つ。

「大体、なんであたしらがこれの運搬しなきゃなんないのよ。あたしら事務方よ? もし不具合でもあったら」

 女の言葉の途中、振り向いたままの男が青ざめ、彼女の名前を呼んで制止する。その声は車内に響くもので、それに反応したのは女ではなく、先ほどまで窓の外へと視線を向けていた少女だ。

「……私が、心配?」

 少女の声は澄んだ、小声ながらもよく通るアルト。問いの先は隣に座る女で、硝子玉のような桃色の瞳は真っ直ぐに彼女へと向けられている。

 少女以外の誰もが息を飲んだ。訪れるのは沈黙だ。

 助手席の男が凍り付いた表情を面に張り付かせたまま、視線を女から少女へと移す。その手は腰に、正確にはベルトに取り付けられたホルスター、それに収められた拳銃のグリップを硬く握っていた。

 女の表情は驚愕と恐れが混ざり合ったもので、アイラインに縁取られた瞳を見開いている。それは小刻みに揺れ、必死に少女の問いに対する答えを探しているようだった。赤い唇は引きつったまま動かない。

 極度の緊張が生む沈黙は続く。場の雰囲気に気付いていないのか、一向に返事の無い女に対して向けた視線を外さないまま少女は大きく首を傾げた。その動きに伴って純白の長髪が揺れる。

 呼応するように、助手席の男がグリップを握る手に更に力を込める。運転席の男も先ほどまでとは違いハンドルを握る手は片手で、空いた手はジャケットの下へ。その手は隣の彼と同様に、シャツの脇に吊るされたホルスターに収納した拳銃のグリップを握っていた。

「だ、大丈夫よ。気にしないで。何もそういう意味で言った訳じゃないの。ごめんなさいね」

 沈黙を破ったのは問いかけられた女の声だ。傍目にも震えているとわかる声。精一杯の猫撫で声で彼女が発した答えに、少女は無言で再び窓の外へと顔を向ける。

 一部始終を見て、少女以外の三人がゆっくりと肩の力を抜いた。彼らの雰囲気が緊張から弛緩へ傾く。

 助手席の男は腰から手を抜き前へ向き直り、運転席の男もハンドルを両手で握り直した。女は少女の横顔を窺うように様に見た後、視線を彼女とは逆の窓へと移す。

「――ったく、ふざけるんじゃないわよ。化物が」

 小声で紡いだ悪態と舌打ちは当の少女へと届かない。否、届かせないための小声だ。

 女は前を見る。車列はゆっくりと、だが確実に動き始めていた。薄明かりに照らされた物々しい大壁が少しずつ近付いている。彼女たちの目的地はその向こうだ。女の貧乏揺すりが早まる。早く着けとでも言うように。


         ●


 薄明るい空に照らされながら、それ以上に明るい街の大通りを進む人影がある。

 猫背で俯きがちな姿勢。パーカーにジーンズというラフな格好で頭にヘッドフォンを装着した細身の青年は、癖のある黒髪を店先の明かりに照らされていた。瞳は珍しい金の色。だがそれは濁っていて、深い諦観を漂わせている。更にその下には、濃い隈があった。それは一時的なものではなく、長期間安眠できていない印だ。

 青年――イーサン・ロックハートは、今日何度目かわからぬ溜息を密かに漏らす。

「今日も全くいい事ねぇなぁ……」

 静かに一人呟く。明かりの消えた店の前で不意に立ち止まり、空を見上げる。

 ぼんやりと薄明るい空が霞んで見える。霧の街の別名で呼ばれるここは、今日も霧だった。

 溜息。

 定職のなく飲食店のアルバイトで日銭を稼ぐ彼は、今日もオーナーにたっぷり絞られて鬱屈していた。マナーの悪い客との衝突が原因だが、それ以外の諸々の理由で叱咤された回数は両手の指の数をとうに超えている。

「そろそろクビかなぁ……。ほんと、やってられねぇ」

 いっそこちらから辞めてやろうか、との考えが脳裏に浮かぶが、それを実行するだけの胆力が己に無いことは誰よりもわかっていた。

 顔を再び下へやる。ぐるりと視界が巡り、一瞬で冷たいアスファルトを双眸が映した。

「ほんと、いい事ねぇなぁ」

 同じ台詞を路上に呟いて、のらりくらりと歩を進める。ヘッドフォンから流れる曲はR&R。現代では貴重な旧時代のアーティストの曲だ。

 無意識に、小声でそれを口ずさむ。鬱屈とした気分を、疾走感のあるサウンドと反社会的な歌詞が慰めてくれた。

足の向かう先は賃貸のアパートメントで、彼の現在の住居はその一室。二年前に実家を出てから、行き当たりばったりで見つけ出した一間の城だ。

 春の終わりを思わせる生暖かな風が襟足とパーカーの裾を微かに揺らす。何となくそれに肩を竦ませ、自宅へ続く細い路地を緩やかに曲がった。

「さっさと帰って煙草吸おう……」

毎度、この角を曲がる度に頭に浮かぶ思考を口に出す。何もかもが惰性だった。

 ヘッドフォンから流れる曲は既に終わりに差し掛かっていた。耳に余韻を残すファズが鳴り止み、音が消えた。

 一瞬の静寂。そしてトラックが変わる。


         ●


「ねぇ、車を止めて」

 渋滞に停滞する白の車内、足を小刻みに動かす音とエンジンの駆動音のみがあるそこに新しく入った音は、窓の外を変わらず見つめる少女の声だ。

 小声ながらもよく通るアルトは車に乗る全ての者の耳へと届く。

 その内容を理解した彼らは揃って怪訝な表情を面に浮かべる。一体何を言っているのか、と誰もが心中に疑問を抱いた。

 一番に反応を返したのは少女の隣に座る女で、彼女は険しい面持ちを少女へ向け、声色に不機嫌を隠そうともせずに言葉を放つ。車列の向こう、街を区切る高く分厚い金属製の壁をフロントガラス越しに指で示しながら。

「はぁ? 私たちはドライブしてるんじゃないの。今は仕事中よ? 郊外の研究所から貴方を本部に届ける仕事。わかってるでしょう?」

 女は相当鬱憤が溜まっているようで、前の二人は口調の厳しさに今度は振り向かぬまま表情を硬くする。先ほどまでの腫れ物を扱うような態度で接する余裕はもはや女には無い。

「お手洗いに行きたいの。良いでしょう?」

 歯を剥く女に振り向きもせず、平素のままに少女は問いかける。視線は窓の外、首を背に向けるように捻り、桃色の双眸は何かを追うように動いていた。先刻とは明らかに違う動きだ。

 お手洗い、という単語に女が浅く眉を立てる。前の男二人に視線を向けると、彼らも同じように女へ視線を向けていた。迷っているのだ、どうするべきか。

 三人は向き合ったまま逡巡する。少女の言葉を無視する訳にもいかないが、ここで車を止めてはただでさえ危ぶまれている予定通りの到着に更なる支障となる。

「一つ聞くけど、着くまで我慢は出来ない?」

「無理。実はさっきからずっと我慢していたから」

 女の淡い希望は即答によって砕かれた。口端が小刻みに揺れる。しかし、理由を聞いてからでは憤慨出来るはずもない。ストレスに削られた理性がなんとか怒声を抑える。

「そこの軽食屋の駐車場に車を止めて」

 俯き、膝に立てた腕の指先でこめかみを軽く叩きながら運転手へ声をかける。

 返答の代わりに左ウィンカーを出し、彼はハンドルを回して駐車場へと車を止めた。エンジンは切らぬまま女へと振り向く。

「じゃあ、行くわよ。貴方の監視も私たちの仕事だから私が同行するわ。拒否権はないから」

 溜息をつき、苦々しげに女は言う。車のドアを開き、外へ出る。ヒールで地を踏み、座りっぱなしだった体を伸ばすと、少女に構わず軽食屋へと歩み出す。

 反対側のドアが開く音が背後から耳に届いた。アスファルトを踏むブーツの足音は緩やかで、こちらに追い付こうとする素振りはない。

 軽食屋は外国からこの国に進出してきたチェーン店で、店名の綴りも外国のものだ。しかし職業柄他国の言語をほぼ解する女にはそれが読めた。店名の意味は「快適な空間」。

 扉の硝子越しにはカウンターと客席が見える。この時間になっても客はおり、席の半分ほどが埋まっていた。若い層の客が多く、それぞれ連れ立った者たちと談笑している。

 店内に入ると女はカウンターに寄り、コーヒーを一杯注文する。それから厠の場所を店員に尋ね、番号札を受け取りそこから一番近い座席へ腰を下ろした。

 一息。

 遅れて少女が店内へ入って来た。こちらを見つけた彼女がやって来る。少女が五歩の距離まで近付くと、女は背後の通路を振り向かずに親指で指す。

「この先がお手洗いよ。さっさと行ってらっしゃい。私はその間にコーヒー飲んでるから」

 少女が無言で頷き、こちらの脇を通って通路へと行く。その筈だった。厠に行きたいと申し出た彼女は、女の隣に立ち止まったまま動かない。

 女が怪訝に眉を顰める。

 数瞬の思考。その後に至った答えに女が跳ねるように立ち上がる。しかし、遅い。

 対面に立つ少女は動かないまま、女の体が唐突に吹き飛ばされた。

 鈍い音と共に店名のポップなロゴが貼られた厚い硝子へと全身が打ち付けられる。

 衝撃。そしてそれによって発生する熱と激痛が脳を痺れさせる。店内の客は皆目を見開いて先ほどまで座っていたソファに倒れるこちらへ視線を向けていた。

 自分の鼓動の音がやけにはっきりと聞こえる。半分瞼の掛かった瞳で少女を探すが、彼女の姿はどこにも無い。

 罵声を紡ごうとする唇が震える。声は形に成らず、呼気がただ肺から吐き出されるだけだ。

 女の意識が薄れていく。視界の隅、人々の向こうでゆっくりと開く出入口が見えた。

 扉を開いた人物の姿は見えない。音もなく閉まるそれに揺れる双眸を向けた時点で、女の意識は闇に飲まれた。


           ●


 少女は、大通りの歩道を歩いていた。否、歩くというより、その速度は小走りに近い。

 白銀の髪と純白のワンピースの裾を靡かせ、一号線に溢れる様々な光に体を照らされながら少女は征く。

 急ぐ理由は、先ほど車内から青年の姿を確認したからだ。

 猫背で、鬱屈そうに歩く彼の姿は少女が今まで見てきた人々に比べて幾分情けなく見えたが、青年から感じたあの気配は研究所で常に触れてきたものだ。

 何故、その気配を持つ者が此処にいるのかは彼女にわからない。

 しかし、刷り込みは思考に優先する。

 真っ直ぐに前を見る彼女の瞳はもはや無機質なものではない。表情には何の感情も現れていなかったが、その双眸は炯々と獰猛な光を宿していた。

 少女は進む。舗装された道を軽いステップで踏むブーツの足音が奏でるリズムは躍動的だ。

 そして彼の曲がった細い路地へと入る。視界の先に曲がる背が見えた。

 ブーツの足音が加速する。

 唇が歪み、笑みが露わになる。自身はそれに気付かないまま、少女は名前も知らない標的の元へただ走った。

 

           ●

 

 イーサン・ロックハートが自身に近付く人影に気付いたのは、ヘッドフォンから流れる楽曲が伴奏に入った時だった。

 ギターのソロパート。そこに割り込む硬い、しかし軽やかな足音。

 彼は臆病者だ。それを痛いほど自覚しているイーサンは、逡巡の後に振り向いた。微かな緊張から体が硬くなるのを感じる。

 しかし、振り向いた先には何も無かった。疑念と安堵が心中に生まれる。同時に、一種の気恥ずかしさも付いて来た。それを振り払うように再び進行方向に体を直そうとする。

 だが、その動きは完遂されない。否、出来ないのだ。

 完遂出来ない理由は三つ。

 一つ目は、振り返る瞬間に聞こえた、自らの背後からの足音。振り返る前に確かに背後から聞こえたはずの音が、再び背後から耳に届く。不可思議な現象にまずは思考が、次に肉体が硬直した。

 二つ目は、自身の背後から肩を押さえる細い、柔らかな感触。それは確かな力をもって、音によって硬直したイーサンの肉体に負荷をかけている。

 そして三つ目はヘッドフォン越しにも耳にはっきりと届いた声。澄んだアルトが紡ぐのはこの国の言葉で、硬直から立ち直りかけたイーサンの思考を再び硬直へ引き戻した。

 言葉の意味はこうだ。

「貴方は、不思議ね……。私達と同じなのに、こうも違う。どうして?」

 訳が解らない、と思った。正直、気味が悪い。

 幸い肩に当てられた手の力は強いものではない。反射的に彼は肩に当てられた手を振り払い、まだ見ぬ相手と距離を取る。自分でも情けないと心から思う悲鳴を上げながら。

 そうして、彼は足音の主と今度こそ正面から相対した。震える喉を必死に抑え、視線は下から正面へ。そしてヘッドフォンを外し抗議の言葉を放とうとした時、二度目の硬直をイーサンは体験した。

 正面に立つ姿は一八の自分より、二つか三つは下と思われる少女。声からある程度の見当はついていたが、彼女は美しかった。繊麗という言葉すら霞むほどに。

 その容姿に、自分は夢を見ているのではないかと疑ったほどだ。異世のものを見ているような錯覚に囚われる。

 用意していた言葉は飲み込まれ、代わりに感嘆の呼気が開いたままの口腔から漏れた。

 背中の中ほどまで伸びた少女の白銀の髪が風に揺れる。真っ直ぐにこちらを見る顔は端麗でいてどこか儚げな印象をこちらに与える。服越しに確認出来る体躯は細いが、そのラインは女性的な曲線美を持ち、若いながらも十二分に艶かしい。くっきりとした双眸は対のピンクスピネルのようだ。ただし、底には深い悲哀が沈殿している、そんな錯覚を彼は感じた。

 イーサンはただ彼女に見惚れていた。先ほどまでの不快な気分はもはやなく、思考は空虚のままだ。

「ねぇ、どうして?」

 返答の無いこちらに焦れたのか、適度な膨らみを持った唇が滑らかに動く。

 語尾を上げて発せられた少女の声に我に返ったイーサンは、気まずさに頬を染めて彼女から視線を逸らした。

 そして、彼女の言葉の意味を考える。

 考えれば考えるほど解らない。だらしなく緩んだ顔が困惑に険しくなる。

 ――電波?

 ふと思いついた答えを否定出来る要因は一つも無かった。無意識に頷きの所作が出る。

 思考が終了し、告げるべき答えが決定される。

 ――絶世の美女だが、適当にあしらって逃げる。

 結論はこうだ。そうと決まれば話が早い。目線を少女へと戻す。しかし彼女を見る事は無いまま、イーサンはアルバイトの時の笑顔を表情に作る。

「俺にその答えはわかりかねるな、悪い悪い」」

 彼女の答えを待つこともせず、肩にかけたヘッドフォンを付け直す事も忘れ、早くこの場を離れようと歩み出す。

 少女の視線を感じる。桃色の瞳には微かな困惑の色が浮かんでいた。横目でそれを見ながら恐る恐る、少女の脇を抜けようとした。

 すれ違う。

 途端、彼は強い疼きのようなものを感じた。心ではなく、体から。

 疼きの原因は解らない。しかし、意識とは無関係に体が動く。

 足が止まり、横目で窺うように見ていた少女へ体を向ける。ポケットに入れていた右手が抜かれ、それを眼前の彼女へと伸ばした。

 手が向かう先は少女の細首。白磁の肌を捉えようと五指が開く。

 その時だった。

 ぐぅ、と間の抜けた音が二人の間に飛び込んだ。

 発生源は目の前に立つ少女。正確には彼女の腹部からだ。

 本能に支配されていた行動が停止する。理性が引き戻され、慌てて伸ばした手を引っ込めた。

 一体自分は何をしていたのだろうか。直前の不可解な行動に鼓動が大きくなる。

 眼前に立つ少女の細首をこの手で掴み、五指で絞め、体の奥から滲み出る愉悦のままに蹂躙しようとした。行ほどは中断されたが、そうしようとした自分自身にぞっとする。あの時何故か、そうしなければならない気が無意識下で確かにした。鼓動が大きくなる。心中に浮かぶのは自分に対する恐れだ。

 そんな気持ちなど露知らず、思い出したように少女が呟く。

「お腹、減った」

「はぁ?」

 反射的に呆けた声が出た。

 少女は自らの腹に手を当て、俯いている。しかし、そこに恥じらいの感情は無いようだ。ただ心境を呟いただけだろうと冷えた頭で考える。

 しかし、それを無視出来るほど彼は冷徹ではない。優しい人間ではないと自負している。ただ幼い時から、他人の些細な仕草を過分に気にしてしまうのだ。

 天を仰ぐ。そのまま、大きく嘆息した。

「飯食うところならここから一本向こうの道に出れば幾つもあるだろ? 行ってこいよ」

 早々に去ろうと思っていたが、気付けば言葉が出ていた。それは受難を避けようとする意思を明確に持った相手を遠ざける言葉だった。だが、縁は出来てしまったのだ。

 少女が口を開く。俯きから顔を上げて。過剰に整った、寒気すら感じさせる面が向けられる。

 会話をしようとしているのだ。先ほどまでの擦れ違いの応酬ではなく、互いに意味を理解できる言葉のやり取りを。

「お金、持ってないの」

 その答えに決定された行動が大きく揺らぐ。こちらが逡巡する間、彼女は黙してこちらを見ていた。

 こちらの答えを待っているのだ。

 それを察し、癖のある髪をがしがしと掻く。一時期はこの癖が嫌でどうにか矯正しようとしたのだが、今となっては諦めていた。

 会話が成立している以上、相手を無下にする訳にもいかない。しかし、返す言葉が見つからなかった。

 沈黙。

 苦悩するとはまさにこういう状態なのだと思い知った。気を利かせて何か言ってくれてもいいだろうに、と眼前の少女へ責任を転嫁するも、すぐにそれは情けなさ過ぎる、と否定する。

 緩やかな風が二人を撫でる。同時に、一つの言葉が脳裏に浮かんだ。

 だが、それを発することは彼に大きな勇気を必要とした。やめておけ、と何度も心の声が頭に響く。

 イーサンはそれを振り切った。やってしまえ、と不干渉に向かう心の誘惑を断ち切り、躊躇いがちに震える唇を開く。

「あー……何なら飯くらい奢ってやるよ。俺も……、飯まだだし……さ」

 言ってしまった。

 心中で大きくうなだれるが、不思議と穏やかな気分だった。言おうと思ったことを言えたからだろう。こういう感覚は、彼にとって久しかった。

 少女が口を開く。

 息を飲み、冷たい汗を背中から流しながらイーサンは答えを待った。

 

           ●

  

 不思議な人だ、と少女は思う。

 あれから少女は青年の申し出を承諾し、再び一号線へと足を進めていた。男が前を歩き、自分がそれに付いて行く形だ。

 前方の彼の少し曲がった背中は頼りなく、小さい。

 だが先ほどは違った。

自らの首に迫った彼の五指。炯々とした金色の瞳。喜悦に歪んだ表情。

 その時の彼が放つ雰囲気は研究所で自身が絶えず触れ、そして打ち倒してきた者たちと同じものだった。そして――。

 ――私と、同じ。

 そのはずなのに、今は全く違う。彼女が決して触れることの叶わなかった外の世界の雰囲気を纏っている。弱く儚いが、何故か安堵する。そんな雰囲気を。

 少女は不可解で仕方なかった。彼の事も、彼に付いて歩く今の自分の事も。

 考えている内に、少し先を歩く姿が光に照らされた。

 大通りに集う光の群だ。

 そのまま彼は左に曲がろうとする。二人が進んできた道を戻る形で。

 それを慌てて引き止めた。パーカーの裾に手を伸ばし、指で掴む。

 騒ぎを起こしたばかりのあちらに戻るのはどう考えても危険だ。見付かれば間違いなく拘束され、自身の心中に浮かぶ疑問を解決出来ぬまま彼と別れる事になる。

 それだけはどうしても嫌だった。

 彼と目が合う。金の双眸は驚きと戸惑いに見開かれていた。

 陰った濁りが染み付いているが、その色を綺麗だと少女は思う。

 「そっちは嫌。こっちがいい」

 青年の裾を掴んだまま、右に曲がる。今度はこちらが引っ張る番だ。

 追手が来ているとしても、金銭を持たない身で食事を摂っているとは夢にも思わないだろう。あの場所から外に出たのはこれが初めてだが、文字の読み書きは万全だ。

 ――それに、本は沢山読めたから。

 検閲された本しか読む事は出来なかったが、外界の勝手は記されていた。そう、予習は万全だ。

 隣の青年は並んで歩くことに抵抗を覚えているようだが、こちらから進んで離れようとはしない。恋愛小説でよく書かれていた恥じらいというものだろう。

 個人的にあの手のジャンルはキャラクターの心情がどうしても理解出来ずに逐一思考する事もなく読んでいたのだが、まさかここで役に立つとは思っていなかった。他はともかく、読書において量は質に勝るらしい。

 しかしこれでは立場が逆だ。書物の中で、大抵は男性が女性をリードしていた。それに、二人の物理的な距離ももっと近かった気がする。

 ――こう、男の人の腕に自分の腕を絡めて……。

 寄り添った。彼の太いとは言えない腕に触れ、上半身でそれを感じる。

「ぬおあっ!」

 上から奇声が聞こえるが気にしない。体が石の様に硬直し、大きな鼓動を打つ青年は恥じらっているのだ。ならば奇行も仕方ないだろう。

 それよりも彼女は彼に触れて驚きを覚えた。外見から優男だと判断した彼の肉体は柔らかいが奥に確かな硬さを持っている。きっと、継続的に鍛えているのだろう。

 疑問が増える。眉を微かに寄せながら足を前に運ぶが、付いて来たのは彼の腕だけだった。

 振り返り、頭一つ高い彼の顔を見る。

 赤面したまますっかり固まった青年の顔がそこにはあった。

 表情は困惑の極みにあり、そしてどこか幸福そうでもある。

 おかしい、と少女は思った。予習は完璧のはずだ。そうでなければ困る。

 だから彼女は自らの体を更に腕へと押し付け、硬直した相手へと声をかけた。

「ねぇ、早く」

 勿論、幻想と現実は違うものだ。少女はそれをわかっていたが、今の彼女にそれを考える余裕はあまり無かった。早く手頃な飲食店を見つけ、追手から行方を眩まさねばならなかったし、彼女自身もこうして触れ合うのが初めてで、どうしたら良いのかをわかっていなかったからだ。

 しかしそれを顔には出さない。そう刷り込まれていた。

「おおおおおう」

 震える声で返事をする青年の様子は相変わらずおかしい。それを誤差だと判断し、共に歩き出す。

 研究所の中では決して起こり得る事の無かった事が、今こうして起きている。

 ふと少女は考えた。このまま彼と共に居たら、どんな事に自分は出会っていくのだろうか、と。

 途端、妙な気持ちが心中に湧き上がった。跳ねるような高揚と、僅かな寒気を同時に感じる。

 答えを知るのは未確定の未来のみだ。そう結論を出し、隣の青年を見て自身が惹かれたデザインの看板を掲げる軽食屋の方を指で示した。

 この体勢は随分歩きにくいと、自身の失態を思いながら。


         ●


 軽食屋のボックス席に座った途端、イーサンは広い机に突っ伏した。ここに歩くまでの間に、寿命が十年は縮まった気がする。原因は勿論対面に座る少女だ。

「どうしたの?」

 窺うように問うてくる声に顔は向けない。机に顔を伏せたまま、彼は年配の店員が水の入ったグラスと一緒に運んできたメニュー表を少女の方へ押しやる。

「ほら、これ見て食いたいもん頼め。俺は後でいいから」

 疲れた声で言葉を放った。少女がメニュー表を受け取り、開く音がする。

 店内に人の姿は此処に勤める人々と自分たちだけだ。狭いが洒落た、おそらく個人の経営だと思われる軽食屋には小さな音量で荘厳なクラシックが流れている。

 店の雰囲気はイーサンが好むものだったが、あんな格好で入った以上もうここに来ることはないだろう。

 伏したまま大きく息を吐く。

――柔らかかったなぁ……。

思い返し、再び体に熱が宿る。

女体をあんなに近くで感じた経験は彼には無かった。友達と呼べる人は今はいないし、恋人などはもっての他だ。ましてや彼は母を知らない。父の手一つで育てられ、そして今は一人だ。異性との接触はアルバイトの時にあるかないか。それも軽いものだけだった。

――寂しい人生だよな、ほんと。

自嘲の中で、メニューをめくる音とクラシックのみが耳へ届く。

頃合いを見計らって緩慢に上半身を起こした。熱は既に引いている。

眼前にはメニューを机に置き、それと睨み合う少女がいる。

今は、どうなのだろうか。そんな事をふと思った。

日常が唐突に現れた少女に引き裂かれた。平素ならば今頃帰って煙草を吹かしているはずだ。しかし彼女の出現でそうはならず、こうして二人で軽食屋にいる。

――世界は無数の事実が積み重なる事で出来ている、か。

唐突に父の言葉を思い出す。それを振り払うようにポケットから紙巻の煙草が入った箱と銀製のオイルライターを取り出す。その中の一本を口に咥え、火を点けた。

微かなオイルと独特な臭い。吸口から取り込んだ煙を肺腑に溜め、ゆっくりと吐き出した。白い一条の煙が天井の換気扇へ吸い込まれる様をぼうっと見つめる。

机の端に置かれた灰皿を掴み引き寄せる途中、少女がこちらに顔を向けているのに気付く。

端整な面が作る表情は険だ。

「それ、私嫌い」

 一蹴された。抗議の視線を送るも彼女は全く譲らない。

刺すような視線に従い、煙草を灰皿に押し付ける。鬱憤を晴らすかの如く、グラスを掴んで中の水を一気に呷った。

「で、食べるものは決まったか?」

 問いに、少女は首を振る。それに伴って絹のような髪が揺れた。

 ならば黙して待つしかない。会話をしようにも、自身は彼女の事を何も知らないのだ。そこまで考えて、一つの事態に気付いた。

 ――あれ、これってもしかしてナンパってやつですか?

 焦る余り思考が敬語になった。再び水を呷ろうとする。しかし、唇に触れたのは氷塊だ。

 どうしよう、と粘つく汗が全身に滲む。唐突に体を押し付けてきた少女の行動も、今となっては納得できた。

 ――まさか、自分の体を使って金銭を俺からせびろうとしているのか?

 一度浮かんだ思考は簡単には拭えない。あの時やはり無視しておけばと思ったが、既成事実がある以上もはや言い逃れは出来ない。

 なんてこった、と絶望が思考を埋め尽くす。今にも店の入口から強面の男たちが笑顔で入って来るのではないかと戦慄する。

 ――だけどここで逃げても証拠は残る。

 そうなれば残る選択は金を渡すか、酷い目にあった後に金を奪われるかの二択だ。終わった、と心の底から思った。面を両手で覆う。

「さっきから一体どうしたの?」

 疑念を孕んだアルトが耳に届いた。それに大きく肩を震わせ、おそるおそる両手を膝の上に置く。

「すいませんでしたっ!」

 机と並行に頭を並べて、負の想念に囚われたイーサンは謝罪の言葉を口にした。

 めまぐるしい思考に言葉は纏まらない。瞳を堅く閉じたまま、決死で言うべき事を選択する。

「私はしがないフリーターですので金は全くありません! しかも今は給料日前で財布はかつかつなんです! 勘弁して下さいお願いします!」

 店中に響くような声を出し切った。体から力が抜ける。訪れるのは長い沈黙だ。

 無言のままに過ぎる時間が永劫のように感じた。店内のクラシックだけが彼の感じる事の出来る音の全てだ。

 耐え切れずそろそろと、びくつきながら面を上げた。正面には少女の姿。しかし顔は斜めに傾けられている。彼女の顔を構成するパーツの内、瞳と口は呆けたように開かれていた。

「……何を、言っているの?」

 本当に、訳がわからないといった様相だ。それを見て、イーサンの脳が疑問符に溢れる。

「え……と、俺を騙して金とか内蔵を根こそぎ持っていったり、しない?」

「そんな事、しないよ?」

 疑問の言葉ばかりが二人の間を交錯する。意思の疎通が出来ていないと悟ったイーサンは、なるべく落ち着いた口調で身振りを入れながら説明した。

「あのさ……、その美貌で男をころっと騙して、持ってるお金をむしり取って、それだけじゃ飽き足らず内臓まで持って行って生活してる裏稼業の方かと思ったんだけど……」

 少女は彼の言葉を噛み締めるように頻繁に頷いて傾聴していた。そして彼の意図を理解したのか、確認するような口調で疑問を投げる。

「もしかして、そのために私が貴方に近付いたと思ったの?」

 少女の次の言葉を促すように、頷く。希望の光が心中に差した。

「違うわ。確かにお金は持ってないけど、そんな理由じゃない」

 その答えに、安堵の息を大きく吐く。脱力してソファに背中を預けると同時に、あられもない勘違いで狼狽した自身に対して大きな羞恥を覚えた。

 赤面する。途端に机へ両肘を付いた。粘つく汗が全身から流れ、顎からぽたぽたと机に落ちる。

「違う、これはあれだ! スパイス、そう会話のスパイスなんだ! だから今のは全部冗談。冗談に決まってるだろ? あはははは……は」

 精一杯の取り繕いと渇いた笑いで締めると同時、再び両手で面を覆った。穴があったら入りたい。むしろ自ら掘りたいくらいだ。

 直後、耳に届いたのは呆れの声ではなく、微かな笑声。

 ゆっくりと正面に座る少女へ視線を向ける。やや俯き気味の彼女は笑い声を零す口元を手で覆い、瞳は弧を描いていた。

 その笑顔に、イーサンは暫し見惚れる。しかしすぐに自らの失態を思い出すと、八つ当たりのように身を乗り出して少女へ声を飛ばす。

「そ、そんなに笑う事ないだろ! 確かに勝手な勘違いをしたのは俺の方だけどさ……」

 我ながらひどい八つ当たりもあったものだ。そう自覚したからこそ、イーサンは言葉を切り身を戻して髪を掻いた。

「……うん、御免なさい。つい、ね。初めてだったから、抑えられなかったの」

 幾度か深呼吸をして笑声を止めた少女から、謝罪の言葉が返ってくる。微笑が元の仏頂面に戻る様を眺めていると、思い出したように少女が言った。

「そういえば、貴方の名前を聞いてない」

 確かにそうだ。二人は互いを何一つ知らない。知らないままに体を密着させて食事に来た事自体おかしかったのだ。

 少しの間が空く。躊躇いがちに唇を開いた。少女に名を告げる事ではなく、姓を名乗るかどうかを彼は逡巡したのだ。

「……イーサンだ」

 結局、名乗らなかった。父はこの国では有名人だし、彼らの姓は極めて珍しい。知らない人間には極力自分と父を繋げて考えて欲しくなかった。

「そう。私は……ステラ。ステラよ。よろしく、イーサン」

 白い手がこちらに差し出される。こちらも手を出し、接触に緊張しながら軽く握った。

ステラ、と心中で反芻する。彼女も姓を名乗らなかった。自分がそうであるように、彼女にも何かあるのだろうか。

 そんな考えが脳裏をよぎる。しかし、深くは踏み込まないことにした。

 手の平から伝わる彼女の体温はひどく冷たい。どちらともなく手を離しながら、彼の心中に疑問が生まれた。

 この事実は、自身にどう影響するのだろうかと。

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