最終夜
目覚まし時計の「7」の数字が、幸太郎を夢現の浅い眠りからはたと覚めさせた。朝の七時にしては暗すぎる。
「マジかよ!?」
何度も目をこすって確かめてみるが、時刻は夜の七時であった。
いくら疲労が溜まっていたとは言え、連続して二十四時間睡眠とは。普段、いかに怠惰な生活を送っているか。自ずと知れようというものだ。
「まったくお前は、ちいとばかし根性を出した思ったら……。よくもまあ、目が腐らんもんじゃ」
声のする方を見やると、幸作が枕元に立っていた。
「じいちゃん! 良かった、会えて。俺さ、ずっと……」
「幸太郎、お別れじゃ」
そのあまりに唐突な別れの言葉に、幸太郎は頭の中が真っ白になった。
これほど端的で分かりやすい表現はないはずなのに、祖父の放った一言がどこにも受け入れられずに宙に浮いている。
「ばあさんに、もう一度会いとうてなぁ」
絶句する孫の傍らで、幸作が淡々と話を続けた。
「この世で積んだ徳は、あの世でポイント換算されとるそうじゃ。
ばあさんは生前に山ほど徳を積んでおって、ワシがあの世に着いた時には、もう別の女子に生まれ変わっておった。
それならワシも早く、と思ってな。神様に頼んでみたんじゃが、ワシはポイントが少のうて哺乳動物にもなれんと言われた」
俄かには信じられなかったが、実際にあの世を見てきた祖父が言うのだから間違いないのだろう。
「この一年間、ワシは毎日のように神様を訪ねて、拝み倒したんじゃ。
そうしたら、向こうも根負けしたんじゃろう。条件付きで生まれ変わらせてやると言いおった」
「それって、もしかして……?」
最後まで聞かずとも、その条件が例の「三つの願い事」であることはすぐに分かった。
「一週間以内にお前の願いを三つ叶えれば、人間に生まれ変われるという約束じゃった」
「なんで、もっと早く話してくれなかったんだよ?」
「理由を話してはいかんのだ。それも約束の中に含まれておった。
神様はどれだけワシが身内に信頼されていたかも見ようとしたんじゃろう」
「違うよ、それは! じいちゃんのせいじゃない。俺がバカだから……。
そうだ、今からその神様に会わせてくれよ。俺から事情を話せば分かってくれるだろ?」
「もうええんじゃ、幸太郎。ワシはけっこう楽しかった。
お前と一緒に浪曲を聞いて、花見をして、剣道の稽古も出来た。もう充分じゃ」
うろたえる孫を宥めるように静かに語りかける祖父は、生前見たこともないほどの穏やかな顔をしている。
「ダメだよ、じいちゃん! ばあちゃんに会いたいんだろ?
俺が今から願い事をするからさ。何が良いかな。えっと、えっと……」
「三つの願い事は、心から願っていなければ意味がない。それにワシはもうお前に真実を話してもうた」
「じいちゃん……」
「そんな情けない顔をするな。ワシはこれでも満足なんじゃ。
誰の助けも借りずに、惚れた女子のために必死に努力する孫の姿を見られて、本当に良かったと思っとる」
「じいちゃん……もう最期みたいな言い方するなよ」
次第に薄れる祖父の姿は、残された時間の少なさを物語っていた。
「お前のその心根の優しいところは、節子さんに似たんかのう。ええ子に育っとる」
「逝かないでくれよ。俺、まだ話があるんだ。もっと、じいちゃんと……じいちゃん?」
「かおりちゃんと仲良くな。あまり食い過ぎるんじゃないぞ」
「じいちゃん!」
それはこの一週間、何度も目にした光景でありながら、今がもっとも悲しい瞬間だった。
音も立てず、ロウソクの火が消えるように、ふっと一瞬で幸作は消えた。
浪曲を愛し、質にこだわり、粋を通した祖父。ようやく気持ちを通わせられると思ったら、手を伸ばした時にはすでに届かないところへ旅立っていった。
「バカタレが! やはりバカは死ななきゃ治らんな。そんなことだから、女子の一人も口説けんのだ」
この一週間に祖父から言われた悪態の数々が胸に甦る。
死者と話をする機会などあるはずがないのに。その恵まれた機会が一週間もあったのに。自分は生前と同じ冷たい態度を取り続けた。
「じいちゃん、本当にもういないのか……?」
祖父の気持ちも考えず、無駄に過ごした日々が悔やまれる。何か幸作の為にしてやれることはないものか。
まだ現実を受け入れられない部分もあるが、せめてもの供養と思い立ち、幸太郎は家の近くの桜並木へ足を向けた。
世間でいうところの「花の盛り」は過ぎていて、夜桜見物の客足もまばらであった。
「幸ちゃん、もう歩き回って良いの?」
聞き覚えのある声に振り返ると、かおりが息を切らして立っていた。
「なんで?」
「幸ちゃんの家に行ったら、おじさんが多分ここにいるだろうって」
「父さんが?」
「うん。もう歩き回っても大丈夫?」
「ああ。そんなことより、それ、どうした?」
幸太郎が指差したのは二人の足元だ。先程から見慣れぬ子犬が幸太郎と彼女の間で「構ってくれ」と言わんばかりに走り回っているのである。
「この子を見せたくて、幸ちゃんの家に行ったの。ラブラドールレトリバーの子犬だよ!」
「どうして?」
「信じられないんだけど、捨て犬みたいなの。首輪もしないで、家の前でずっと吠えていたの。
お父さんが休み明けに保健所に問い合わせてみて、大丈夫だったら家で飼おうって話になって……」
「それって、いつの話だ?」
「今日の七時過ぎだったかな」
動物に関してさほどの知識はないが、幸太郎は子犬の口元に違和感を覚えた。ラブラドールレトリバーの子犬とは、かくも気難しい顔をしているものなのか。
「なあ、かおり? ラブラドールレトリバーって、こんな顔だっけ?」
「こんな顔って?」
「例えば口とか。普通、こんなへの字に曲がっている?」
「そう? あんまり気にならないけど。
でも変わっていると言えば、この子、すごいグルメ犬なのよ。ドッグフードには見向きもしないの」
「もしかして、牛肉のロースなら食べるとか?」
「そうなの! すごい、幸ちゃん! どうして分かったの?」
「まあ、なんとなく……」
事情を話したところで、信じてもらえるかは疑問である。幸太郎自身、まだ確信を得たとは言い難い。限りなく黒に近いグレーであるが。
「それにね、この子、お風呂が大好きみたいで。私が入ろうとすると、嬉しそうに付いてくるの」
「ダメだッ! それだけは絶対ダメ!」
「えっ?」
「あっ、いや……その……いくら子犬でも、そいつは男……オスだろ?」
グレーの疑惑が完全なる黒に変わった。
間違いない。このラブラドールレトリバーの子犬は幸作の生まれ変わりだ。
神様の温情があったのか、本人が交渉したのかは知らないが、どうやら哺乳動物に生まれ変われる許しが出たようだ。
彼女に抱えられた子犬は、幸太郎を見上げて尻尾を振っている。その表情がしたり顔に見えるのは、気のせいか。
「ねえ、幸ちゃん? この子、なんだか幸ちゃんに懐いてない?」
「そうかぁ?」
「せっかくだから、この子の名前、幸助ってどうかしら? 幸ちゃんの一字を取って、幸助」
「ああ、悪くないけど……」
万物は流転する。
宇宙に存在する全てものが形を変え、居場所を変え、時には融合、分離を繰り返し、移り変わる。
それは人間の魂も例外ではないようだ。
だがしかし、願わくは、あまり身近なところで流転しないで欲しかった。
幸太郎が軽くひと睨みすると、子犬は両耳を垂らして「クウン」と鳴いてから、恨めしげな視線をあの場所へと投げかけた。
桜並木に沿って流れる川をまたいで架かる橋のたもと。そこには「あいつ」が立っていた。
幸太郎の唇から感嘆の溜め息が漏れた。
さすが偏屈な祖父が一番と認めるだけのことはある。満開のピークが過ぎてまだら模様となった桜並木の中で、一週間遅れで咲き始めた「あいつ」は一人だけ純白の花衣を身にまとい、凛とした立ち姿を魅せている。
「なあ、かおり? 迷い桜って知ってるか?」
「迷い桜?」
「ほら、あそこの橋の側の……」
「うわぁ、きれい!」
かおりの歓声に応えるかのように、漆黒の闇に迷い桜の花片が舞い落ちる。
はらはらと。ひらひらと。
これが幸作のこだわりなのだ。他の者より一週間遅れで花開き、他の者とほぼ同時に終わりの時を迎える。
花の盛りはほんの一夜の数時間。パッと咲いて、パッと散る。まさに桜の中の桜である。
「咲き時を心得ておるということは、散り際も心得ているということじゃ」
祖父の言葉を思い出しながら、幸太郎は目の前の桜花を心に刻むべく見つめていた。
一片、二片、命の欠片が落ちていく。
花の盛りとは己の命を最も美しく燃やす時。たとえその時が散り際の一瞬であっても、それを見頃と言うのだろう。
「また来年も一緒にここに来ようよ」
かおりが無邪気な笑顔を傾けた。
「ああ、来年はこいつの『夕桜』を見せてやる」
幸太郎は彼女の肩を抱き寄せると、同じように笑みを返した。
「ゆうざくら?」
「黄昏色が降りた時だけ見える本物の桜だ。きっと、こいつの夕桜は……」
最後まで言い終わらぬうちに、かおりの腕に抱かれていた子犬が尻尾を振りながら幸太郎の首筋に飛びついた。
「心配するな。お前も連れて行ってやるって」
幸太郎はいかにも愛犬家の振りをして子犬を抱きすくめると、その耳元で囁いた。
「ただし、一つ条件がある。かおりの風呂は絶対に覗くなよ?」
完