海外進出の罠
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殺伐とした空気の中。
誰もが無言で仕事をしている。
カタカタと聞こえるのはキーボードを叩く音だけだった。
「……えーと、美枝さん?」
アキトの呼びかけに振り向きもしない。
「ん? 何でしょうか? ……社長、私は忙しいんですが」
どことなくトゲのある声にビクリとしたアキトは口ごもる。
「いっ、いや!……ははは、何でも無いです」
心なしか美枝の後ろから、黒い霧が立ちこめているのは気のせいだと思いたい。
ブルルと体を震わせたアキトは、気を取り直しながら「さ、沙月さんお茶っ! ひっ! ひゃっ!」
お茶を頼もうと沙月に声を掛けたが、角を生やした幻覚が見える。
沙月はキッとアキトを睨むと、無言のまま立ち上がった。
ドン! と置かれた湯飲みを前に、凍り付くアキト。
どうしてこんな事に成ったかと言うと、それは朝の何気ない会話から始まった。
※
「しゅ、しゅっ! 出張?! それも海外!」
椅子から立ち上がった沙月が、驚いた声を出すのも無理は無い。
アキトが出張すると成れば同行者が要る。
しかも海外出張だ! 会社の経費で旅行が出来て、上手くすればアキトの仲も進展するかも知れない。
「いくいく! はいはい!」
沙月が元気よく手を挙げるのも当然だろう。
だがしかし……。
「あら? 海外進出のためなら当然お金が絡むわね? 経理の私が適任じゃないかしら?」
普段のおっとりした態度が嘘のように、キリリと美沙が口を出す。もしかして、ほんわかさんは擬態なのであろうか?
「ふふふっ、二人とも何言ってるの? ここは秘書である私が、付いて行くに決まってるじゃない 以前もお世話してたの知ってるでしょう?」
元社長秘書の夏希は勝者の態度で余裕を見せる。
「ねえ? アキトくん?」
アキト君と呼び捨てしている時点で疑問を持つが、元秘書だった事には変わりは無い。
「うーん……。特に誰でも良いんですが……」
「「「じゃ! 私が!」」」
同行者は中々決まりそうに無かった。
※
そのころ英国ではアキトの父親が忙しそうにしていた。
「まったく、いきなり頼んで来たと思ったら」
「ふふっ、そう言わずに、あの子が頼み事なんて珍しいんですから」
「確かに普段は近寄りもしないからな」
「何ででしょうね?」
夫婦揃って天然で、バの付くカップルが親なら息子は近寄りたくは無いだろう。
妻がいないと何も出来ない夫のために、息子を放り投げて夫に付いて行く二人は、何年経っても砂糖を吐きたくなるほど甘い夫婦だった。
二人はアキトに頼まれて会社の設立を進めているのだ。
イギリスでの法人設立は簡単である。ビザの取得にはある程度のお金が掛かるが、EU圏に足がかりを作るメリットは計り知れない。
簡単に例をあげると、こうなっている。
登記上の住所を持たなければならないが、元々物件を手に入れるのでこれは問題無い。
アキトに取って重要な点は、株主の国籍年齢を問わないことである。居住地も英国で無くても良い。
英国人で無ければならない会社秘書役も、当面株式を非公開の予定なので必要無かった。
「アキトが来るまでに済ませて置くことは問題無さそうだし、少し観光でもしようか?」
すでに息子の頼みが、二の次になっているのも仕様である。
※
再び日本ではカオスを増していた。
情報が漏れたからである。
「海外出張?」
ピキーン!と早苗は起き上がった。さっきまでだるそうにしていたと言うのに。
「誰が行くか決まったの?」
相変わらずの肢体は最近特に色めかしい。もともと磨きを掛けていた体は、精神の充実で花開いた。生き生きとした早苗を見て、四十六と思う人はいないだろう。
「まだみたいだって」
休憩中の工場では突然の話題で盛り上がっていた。
何でも経理の用事で本社に行った時に、誰かが小耳に挟んだらしい。
「誰でも良いって社長が言ったらしいよ。希望者から選ぶってさ」
最近化粧のノリが良くなって来たアカネの話では、同行者が決まっていないとの事。
アキトは誰でも良いと言ったのは事実だが、もちろん工場まで含めてでは無い。
「チャンスね! ちょっと本社に行ってくる。希望者から選ぶなら、当然工場からも参加させるべきよ!」
たくましい早苗の言葉に「おぉおお!」と声が響く。
「参加希望の子は私の所に声を掛けて頂戴」
自身が一番乗り気なのだが、そこは立場から一応全員にチャンスを与える。
何気に女の職場は難しいのだ。
「くしゅん!」
突然くしゃみが止まらないアキト。
「変だな? 花粉症?」
アレルギーなど持っていないのに止まらないくしゃみに「後でマスクを買いに行くか……」などと暢気に構えていた。
こうしてアキトの海外出張は、知らないうちに全社のイベントと化して行く。