罠
「さて諸君、英国の反抗に手を打つ時期が来ていると思うのだが?」
恒例の朝食会の席上。パワーランチが有名だが彼らは平日早朝から集まる。
ここにいるのは、ヘッジファンドと呼ばれる富裕層から集めた大規模資金を運用している連中だ。
「ふむ、ポンド危機は繰り返すという所かな?」
「それは作り出すと言うべきでしょうな」
少々下品な笑いに顔をしかめた男。
ジョン・サロモン。
彼は一九九二年にイングランド銀行を相手取り多額の利益をあげていた。
個人投資投機家としてはもっとも成功したユダヤ人の一人である。
早朝の金儲けの話題は尽きない。
「アキト・ホムラは一線を引いたのだろうか?」
これが本日彼らの一番の興味である。
B・H社の資本比率はアキトが五一%を持ち、英国資本が残りの四〇%で、外国資本は僅か九%だった。
資産総額は推定二十億ポンドを超える企業。しかも作れば売れる商品を持つ優良企業だ。
依然未公開だが、上場されればどこまで時価総額が上がるか想像もつかない。
いま世界でもっとも注目されている企業だ。
「財団に資産を移したとみるべきだが、影響力は減ったでしょう」
ところがここに来てアキトの出資が三〇%と下がったのだ。
もともとシャドウ・ディレクター(影の取締役)だったアキトはMD(業務執行取締役)の地位にクリスを添え全面には出ていない。
それでも世間の見かたはアキトの会社と思っていた。
「彼は元々研究者だ。いわゆる学者様で、経営者ではなかったという事なのだろう。ウインストーン家が一枚上手だったという事だな」
研究機関の分析を元にそう見るという。
「充分な利益は得るのですから、それで満足なのではないですか?」
「そうだな、巨大化した企業をコントロールするのは難しいだろう」
誰もが見方は同じようである。これにはウインストーン家が英国有数の貴族である事が関係していた。
代々を女性が受け継ぐウインストーン家で、次期当主のクリスが日本人のアキトに恋をしているとは誰も思わず。ましてや母親のアイラが全面支援をしているなど考えもつかないのだ。
そこにはマクラレン・フィルの存在も大きかった。エディンバラ公の孫に当たるマクラレンの情報操作により、世間の見方は何れウインストーン家と結ばれるのではと思われていたからだ。
「では我々が英国の利益の何割かを得るとしてだ。何が有効だろうか?」
「出資は断られたよ」
ウオーター・バレットは残念な顔をゆがめる。
賢人と呼ばれ普段はハイテク分野には投資しない。彼の投資基準は明確で、自分が理解できる事業だけ手を出す。
その点で言えばB・H社は投資対象にならない存在なのだが。
「正攻法で分かち合えないのならば」
「ジョン?」
「我々の流儀でやるべきだ」
ジョン・サロモンはあらためてメンバーを見渡すとそう言った。
イングランド銀行など敵にはならないと思いながら。
※※※
サブプライム危機からドル売りが加速され、急速に上昇した円高。その後のリーマンショックを経て円相場はコントロールを失った。
民政党はこの問題に何の手立ても打てず、政治は迷走している。マスコミは都合の悪い事は報道せず、国民はなかば呆れ中小企業は嘆き苦しんだ。
終わりの見えないデフレ不況。
財務大臣の口先介入にも動かないトレンドに対して、ついに日銀が動いた。
二兆円の円売り介入だった。
「えっ!? 日銀?」
慌てるディーラーたち。
「日銀だ! 日銀が介入したぞ!」
ポジションの差し替えと、利益を得るチャンスを伺う慌しい現場。誰もが損をしないようにと考える中。
「おいっ!」
ポンドが上昇を始めた。ギリシャ問題を解決し南欧を経済圏に納めた英国は好調である。
「くそっ! ポンドだ!」
加速する資金の流れ。
一斉に円が売られていく。
「ど、どこが売っているんだ……協調介入?」
円が買い戻されずポンドに資金が流れたのだ。
※※※
「むふふ、計画通りだわ」
ここにアキトがいれば、ほくそ笑むクリスを見てどう思っただろうか?
悪魔の乙女がここにいた。
「ママ? どれくらいで売るの?」
傍らでチャートを眺めるアイラに声をかける。
「まだまだ」
ここはウインストーン家の命綱というべき場所である。投資の専門家が集まり世界中にアンテナを張っている。
「引っ掛かってくれたわね」
ヘッジファンドが円を使って仕掛けをしようとしている。この情報を掴んだのはアキトからだ。正確にはマルタの修道院を通じてなのだが、これを英国が利用しない手は無かった。
「ハゲタカの資金を根こそぎ吸い上げてやるわ」
ポンド危機の敵を取ろうと狙っていたのだから。
「アキトの新事業の上前を跳ねようなんて、させるわけ無いじゃない」
大規模エネルギー事業を日本で行う。財団はそのための調査機関である。
意図的に流した情報だ。
円高に乗った連中は今頃慌てているに違いない。
なにせ日銀だけでは無く、イングランド銀行も介入したのだから。そして確認は取れてはいないが、複数国がそれに乗っている。
ドルに流れた資金をポンドに誘導しているのもそうだ。つられてユーロも上昇している。
「通貨高に耐えられえるのは我々だけ」
現在上り調子の英国経済は、豊富な資産を蓄えていた。もちろん国としてではなく、B・H社を中心とした民間企業だ。
核にしろ魔法薬にしても、替えのない物だ。アキトによって国内に創世された産業が失業者を吸収していき波及効果で好景気になっていた。黙っても売れるのなら自国通貨高が苦にならない。
しかも利益は積極投資しているから、どんどん資産は巨大になる。
「アメリカを頼っても無駄よ」
資金がポンドに流れた後に、アキトの財団がそろそろアメリカへの投資を発表する時間だ。内容は軍事分野への協力を含めた大規模なものだ。アメリカ政府も無視できないだろう。
そして発表直後にアメリカに投資する。大規模にだ。
「さて連中はどこまで耐えられるでしょうかね?」
大英帝国が再び、世界のトレンドを握った瞬間だった。