第72話:暗闇の報復と、限界を迎える黒刃
ハンバーグの肉汁が口の中に広がる温かな夕食の時間を終え、如月家は静かな眠りについていた。
深夜零時。三月は自室のベッドから音もなく起き上がり、私服の上に黒いパーカーを羽織った。
彼女の手の中には、数時間前に玄関先で撃退した黒スーツの男たちから奪い取った、通信用の小型魔導具が握られている。
(……相手は探索者協会じゃない。協会の上層部は、すでに私という存在の危険性を理解して『不可侵』を貫いているはず。なら、こいつらは迷宮の利権や未知のスキルに群がる、非合法の闇シンジケートね)
三月の瞳に、一切の感情を排した冷徹な光が宿る。
彼女は『気配察知(微)』を広域に展開し、手の中の魔導具から発せられている微弱な魔力波長の「繋がり」を辿った。通信の暗号化など、迷宮の深淵で魔素の揺らぎを読み取ってきた彼女の感覚の前では、ただの糸電話に等しい。
窓から夜の闇へと飛び出した三月は、『磁力操作(微)』を駆使して街灯や鉄骨の反発力を利用し、夜の街を滑空するように移動していく。
辿り着いたのは、迷宮都市の郊外にある、表向きは廃棄されたとされている工業用倉庫だった。
波長の糸は、この倉庫の地下に構築された隠しフロアへと繋がっている。
三月は倉庫の裏手に回り、厳重なロックと魔力探知センサーが張り巡らされた搬入口の前に立った。
だが、鍵を壊すことも、センサーの解除を試みることもしない。
「……通るわよ」
三月が『自動透過の理』を意識的に拡張して前へ歩み出ると、彼女の肉体は分厚い鋼鉄の扉を、まるで水面を潜るようにすり抜けた。
物理的な接触も、魔力的な干渉も一切発生しない「絶対的な透過」。
最新鋭の警備システムは、彼女の侵入に一切反応しない。
地下フロア。
そこは、非合法な魔獣の素材売買や、才能ある探索者の人身売買を行う闇シンジケート『黒蜘蛛』の拠点だった。
冷たい蛍光灯に照らされたセキュリティルームでは、組織の幹部らしき男が、モニターの前で焦燥に駆られていた。
「どういうことだ! 捕獲に向かわせた実働部隊の六人が、一人の女子高生を前に全員連絡が途絶えただと!? あの娘の固有スキルを海外の研究所に売れば、一生遊んで暮らせる金になるんだぞ!」
「は、はい! 生体センサーによれば命はあるようですが、精神に異常を来しており、使い物ありません。対象の如月三月が、どのような手段を用いたのか全く……」
部下の報告に、幹部の男は苛立ち任せにデスクを蹴り飛ばした。
「チィッ! 明日、さらに上位の武装部隊を編成してあの団地を強襲しろ! 家族ごと人質にとれば、いくらでも――」
「随分と物讐な計画を立てているのね」
不意に、部屋の隅から底知れぬ深淵を思わせる声が響いた。
「なっ……!?」
幹部と数名のオペレーターが弾かれたように振り返る。
そこには、黒いパーカーのフードを目深に被った三月が、腕を組んで静かに立っていた。
「き、貴様、どうやってここに入った!? 警報は鳴っていないぞ!」
オペレーターたちが慌てて腰の拳銃を抜こうとする。
だが、それより速く三月の『多重並列処理』が起動した。
「遅いわ」
三月が指先を軽く鳴らした瞬間、オペレーターたちの足元が『氷結の魔力回路(真)』によって絶対零度に凍りつき、彼らは一歩も動けなくなった。
同時に、彼らの手元の銃器だけが『爆熱の魔力回路(微)』の局所的な熱膨張を引き起こし、破裂音と共に完全に使い物にならなくなる。
「ひっ……!」
数秒の間に、部屋の武装は完全に無力化された。
幹部の男は恐怖で顔を引き攣らせながらも、デスクの裏に隠された緊急防壁のスイッチを叩いた。
三月と男の間を遮るように、厚さ数十センチの魔導防壁が展開される。
「ははっ! これは迷宮の中層でも耐えうる最高強度の防壁だ! ここから先へは……」
男の言葉は最後まで続かなかった。
三月は歩みを止めず、そのまま防壁へと突っ込むと、『自動透過の理』によってその分厚い魔力の壁をあっさりとすり抜け、男の目の前へと現れたのだ。
「……え?」
呆然とする男の胸ぐらを、三月は『怪力(中)』で軽々と掴み上げ、壁へと叩きつけた。
メキィッ、と背骨が悲鳴を上げ、男は肺の中の空気を全て吐き出した。
「ゲハッ……ぁ……」
「あなたたちが私をどう扱おうと興味はない。でも、私の家族の日常に泥足で踏み入るなら、話は別よ」
三月の瞳の奥で、蒼と赤の魔力が渦を巻き、彼女の背後に「何か巨大で恐ろしいバケモノ」の気配が幻影のように膨れ上がる。
それは、彼女がこれまでに『魂喰い』によって貪り喰らってきた、数え切れないほどの魔獣たちの怨念の集合体だった。
幾千、幾万の死と絶望を内包したそのプレッシャーは、一国の軍隊すらも震え上がらせるほどの濃度を誇っている。
男は、自分が見下している存在がただの少女ではなく、「迷宮の深淵そのもの」なのだと本能で理解し、絶望に震えた。
「その端末を操作しなさい。私と、私の家族に関するすべてのデータを、今この場で物理的・電子的に完全消去するのよ」
三月の冷酷な声に、男は涙と鼻水を流しながら、震える手でメインフレームを操作した。
「如月」に関する調査ファイル、監視カメラの映像、部隊の作戦記録。そのすべてが完全に削除されていく。
「け、消した……! 全て消した! バックアップもない!」
「そう。これで、あなたたちは『私を知らない』」
三月は男を床へ投げ捨てた。
「もし次に私の家族に不審な影が近づいたら、その時はデータの消去じゃ済まさない。この組織の人間を一人残らず『喰らいに』来るわ。文字通り、魂からね」
その言葉に残酷なまでの真実味を感じ取り、男は声を上げて泣き喚きながら、何度も何度も土下座を繰り返した。
完全に心をへし折り、恐怖という最強の枷をはめたことを確認し、三月は再び壁を透過して闇夜へと消えていった。
翌朝。
三月が団地を出ると、いつものように自動販売機の陰から斎藤が姿を現した。
「……おはようございます、如月さん。信じられない報告が入りました。あなたの周囲を嗅ぎ回っていた非合法組織が、昨夜のうちに拠点を放棄し、街から完全に逃亡したそうです。一体、彼らに何が……」
「さあ? きっと、割に合わないって気づいたんじゃないかしら。これで、斎藤さんもお母さんたちの警護に集中できるわね」
三月は柔らかな微笑みを浮かべた。
根元の脅威は、完全に灼き尽くした。裏社会の連中は、二度と彼女の領域に踏み込むことはないだろう。
「……さて。私はこれから少し野暮用を済ませて、迷宮へ行くわ」
三月は斎藤に背を向け、街の中心部へと歩き出した。
向かった先は、迷宮都市の裏路地に店を構える、鉄山厳の武器屋だ。
カラン、と無骨なベルを鳴らして店内に入ると、奥の工房から熱気と鉄の匂いが押し寄せてくる。
「おう、嬢ちゃんか。装備のメンテナンスには少し早いペースだが……」
顔を拭いながら出てきた鉄山は、三月の顔を見るなり、ピタリと動きを止めた。
「……お前さん、またとんでもねえモンを『喰ってきた』な? 輪郭が、人間のもんじゃなくなりかけてるぞ」
「わかるのね、さすがは鉄山さん。今日は、これを見てもらいたくて」
三月は背中のホルダーから『魔鉄の塊剣』を抜き、カウンターの上に置いた。
鉄山は眉をひそめ、分厚い手でその剣を持ち上げる。
そして、次の瞬間、驚愕に目を見開いた。
「なんだ、こりゃあ……!」
鉄山の声が裏返る。
魔力を通して内部構造を確認した鉄山は、その異常な劣化に震えた。
「剣の『芯』は絶対零度で凍てついて細胞レベルで死んでるのに、剣の『刃』の部分は超高温で焼き切られかけてやがる……! どんな使い方をしたら、一つの金属にこれほど真逆の負荷を同時にかけられるんだ!?」
「昨日、第16層と17層の主を倒した時にね。私の魔力回路に『多重並列処理』が組み込まれたの。だから、氷結の魔力と爆熱の魔力を、同時にこの剣へ流し込んだわ」
三月は悪びれずに言った。
「同時だと!? バカ野郎! 相反する二つの極大魔力を一本の剣に同時付与すれば、金属が耐えられるわけねえだろうが! この魔鉄の塊剣だから一度の戦闘で砕け散らずに済んだものの、普通の剣なら握った瞬間に腕ごと吹き飛んでるぞ!」
「だから、持ってきたの。私の今の『並列制御』の出力に、この剣が耐えきれなくなってきたから」
三月の言葉に、鉄山は深くため息をついた。彼女の成長速度が、彼の最高傑作の限界すらも追い抜いてしまったのだ。
「……今の並列制御に耐えうる武器を作るするには、金属そのものを、属性の負荷を中和できる『特異媒質』に変えなきゃならん」
鉄山は真剣な眼差しで三月を見据えた。
「第18層だ。そこは『氷炎の双牙』と呼ばれる、熱と冷気が入り混じる異常階層だ。そこに生息する魔獣から『双極の魔石』を取ってこい。それがあれば、真の化け物じみた剣を打ち直してやる」
「第18層、『双極の魔石』ね。わかったわ」
三月は小さく頷き、限界を迎えつつある魔鉄の塊剣を再びホルダーへと収めた。
「……死ぬなよ、嬢ちゃん。第18層からは、文字通り中層の『深淵』だ」
「心配無用よ。私は、必ずあの家に帰るから」
三月は鉄山に背を向け、工房を後にした。
足取りは軽く、その瞳には一切の迷いがない。
新たなる武具の素材を求め、そして第30層の壁に迫るため。
巨大な顎を開いて待つ迷宮の入り口。
如月三月は、開拓者としての確かな覚悟を胸に、再びその深淵へと足を踏み入れた。
これで後顧の憂いもなくなり、いよいよ次からは第18層での過酷な素材集めが始まります。三月の新たな武器がどのような形になるのか、ぜひお楽しみに!
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