第70話:日常の亀裂、迷宮からの帰還者
第17層の攻略を終え、如月三月は帰還ゲートをくぐった。
視界を白く染め上げる光の渦から解放されると、そこには見慣れた初夏の夕闇が広がっていた。
迷宮の奥底で蓄積した高濃度の魔素が、現世の空気と混ざり合い、彼女の肌を少しだけピリピリと刺激する。
「……帰ってきた」
三月は背後に預けた『魔鉄の塊剣』の重みを感じながら、ゆっくりと深呼吸をした。
ここ数日、迷宮の奥底で魔獣の魂を喰らい続け、その器は確実に限界点を超えようとしていた。第16層の主から『多重並列処理』を、そして第17層の支配者から『自動透過の理』を。彼女の魔力回路は以前とは比較にならないほど密度を増し、常人ならば発狂するほどのエネルギーがその内側に渦巻いている。
だが、彼女が家路を急ぐその足取りは、迷宮を支配する開拓者のそれではない。
ただの女子高生として、静かな夕暮れに溶け込もうとしていた。
団地の入り口を通り、自宅の玄関に手をかける。
鍵を回し、中へ入ると、キッチンから芳しい香りが漂ってきた。
ハンバーグの肉汁が焼ける音、野菜を刻む包丁の軽やかなリズム。
「あら、三月お帰り。ちょうど今、ハンバーグが焼き上がったところよ」
母の温かな声に、迷宮で張り詰めていた三月の神経が、ホッとほどけていく。
リビングのテーブルでは、拓也が眼鏡を押し上げながら、難しい顔で参考書を開いていた。
「お帰り、姉ちゃん。今日はずいぶん遅かったね。また迷宮の階層が深かったの?」
「……ええ、少しね。勉強は順調?」
「……まあね。姉ちゃんには負けられないし」
三月は小さく笑い、制服を脱いで着替える。
食卓に並ぶ手料理。たわいない会話。温かな団欒。
彼女にとって、この日常こそが、迷宮という地獄へ足を踏み入れるための「唯一の理由」であり、獣へと堕ちる自分を繋ぎ止めるための「絶対の楔」だった。
しかし、その穏やかな幸福は、意外なほどあっけなく破られた。
食事の最中、彼女の『気配察知(微)』が、家の中には存在するはずのない異質な「ノイズ」を捉えた。
いつも家の外で見守ってくれている斎藤の、微かな焦燥。そして、家の外周を囲むように配置された、静かすぎるほど不自然な複数の気配。
(……掃除屋の類? いや、もっと質が悪い。これは、明確な『侵略』の意志だ)
三月は箸を置き、水差しに手を伸ばした。
何事もないように振る舞いながら、彼女は回路を回し、家全体を覆う魔力の防壁を確認する。侵入者は、家の中にまで入り込んでくる準備を終えていた。
「ねえ、姉ちゃん。どうしたの? 具合でも悪いの?」
「……ううん、大丈夫。少し、ゴミ出し忘れたことを思い出しただけ。すぐ戻るから、先に食べてて」
三月は立ち上がり、玄関へと向かった。
扉を開けたその先には、いつもの静かな廊下ではなく、迷宮の奥底よりも冷たい、数人の「男たち」が立っていた。
彼らは黒いスーツを纏い、感情を排した無機質な瞳を三月に向けている。以前、通学路で交戦した『掃除屋』とは明らかに異なる、もっと組織的で、もっと邪悪な気配。
「如月三月さん。お帰りなさい。少しだけ、外の世界のルールを教えに来ましたよ」
男の一人が口を開く。その声には何の抑揚もない。
その瞬間、彼らの背後から空間が歪むような感覚があった。三月の眼前に展開されたのは、迷宮の魔獣ですらない、人間が魔導科学によって生み出した「人造の禁忌」――高出力の魔導障壁だった。
彼らは、迷宮の攻略データを狙っているだけではない。
彼女そのものを「素材」として回収しようとしている。
「ここには……入ってこないでって言ったはずよ」
三月の瞳の中で、蒼と赤の魔力が、怒りとともに激しく渦を巻いた。
『精密魔力循環』が極限まで加速する。
家の扉を背にした三月の背中は、もはや迷宮の開拓者としてではなく、愛する家族を蹂躙されようとしている「守護者」のそれへと変貌していた。
「掃除屋の皆さんは、もっと綺麗に片付けられると期待していたのに。残念ね」
男たちが反応するより速く、三月は『自動透過の理』を起動させた。
次の瞬間、彼女の姿が霧のように揺らぎ、男たちの視界から消失する。
夕闇の団地を舞台に、迷宮の理を逸脱した少女の「蹂躙」が始まろうとしていた。
第17層攻略後の帰還と、そこで待ち受けていた不穏な組織による接触を描きました。日常を蹂躙されることへの怒りを、三月の圧倒的な武力で跳ね返す次回の展開にご期待ください。
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