第60話:帰還の温度、楔となるハンバーグ
第14層、灼熱の荒野を支配する熱風が、三月の背中で遠ざかっていく。
魔力回路を極限まで引き絞り、精神を削るような調律を繰り返した迷宮の深層部から、彼女はふたたび地上の空気へと繋がる道を選んだ。
今は、これ以上深淵へ歩を進めるよりも、一度その身を日常の温度に浸さなければならない。
そんな直感が、彼女の理性を突き動かしたからだ。
「……ッ、はぁ……」
迷宮の出口へ続く巨大な石門が音を立てて開く。
その先にあるのは、見慣れた東京の夜景だ。
高層ビル群が放つ無数の光が、遠くで星のように瞬いている。
迷宮特有の魔素を含んだ湿った風とは全く異なる、コンクリートが冷える匂いと、都市が発する微かな喧騒。
それらが、三月の張り詰めていた神経を、まるで氷が溶けるようにゆっくりと解きほぐしていく。
三月は『魔鉄の塊剣』を腰のベルトにしっかりと収め、ロングコートの襟を立てた。
今の彼女の体は、第14層での極限状態によって、神経が痛いほどに研ぎ澄まされている。
だが、一歩街の路地へと踏み出せば、その視界は魔獣の気配を探るものから、家路を急ぐ娘のそれへと切り替わった。
彼女が戻るのは、かつての自宅ではない。
この広大な東京のどこか、閑静な住宅街の一角。
迷宮の脅威、そして探索者協会の監視から家族を守るために、鉄山が用意した強固な防壁に囲まれた隠れ家だ。
かつて高橋たちが率いた「協会」の掃除屋たちが、家族を執拗に追い詰めたあの悪夢。
それを防ぐために結成された警護組織『護民の盾イージス』が、この家を今も守り続けている。
路地の角に差し掛かると、影から黒いスーツ姿の男が静かに現れた。斎藤だ。
高橋たちが去り、家族を狙う直接的な脅威は消えた。
それでもイージスが解散することなく、この隠れ家の周辺を固め続けているのは、迷宮という混沌の隣で、いつ何が起こるか分からないという危惧があるからに他ならない。
「……おかえりなさい、如月さん。周辺に異常なし。拓也君の予習も予定通り終わっています」
斎藤は過剰な敬礼をすることもなく、どこか親しみを込めて短くそう告げた。
彼はただの警護員ではない。
実は、拓也の家庭教師として定期的にこの家を訪れ、勉強を教えながら身辺警護も兼ねているのだ。
「ありがとう、斎藤さん。……拓也、勉強はどう?」
三月が玄関に足を踏み入れると、拓也が自室からひょっこりと顔を出した。
外の世界では常に死線と隣り合わせの生活を送る三月だが、このドアを一歩跨げば、そこには「受験を控えた弟」と「警護を兼ねた教師」という、迷宮の怪物たちとは無縁の温かな空間がある。
「三月、おかえり! ああ、今日の数学、斎藤さんに教えてもらったポイントのおかげでだいぶ分かったよ。……夏休み明け、学校の授業が少し楽しみなくらいさ」
その弾むような声を聞き、三月は思わずふっと笑みをこぼした。
リビングでは父・昭雄が椅子から立ち上がり、キッチンからは母・由美子の声が響く。
「おかえり、三月。ちょうど今、できたところよ」
テーブルの上には、大皿に盛られたハンバーグが湯気を立てている。
焼きたての肉汁が溢れ、デミグラスソースの香ばしい匂いが部屋を包み込み、三月の空腹を心地よく刺激する。
父・昭雄は、かつて迷宮の影響で病を抱え、今も完治には程遠い。
時折見せる顔色の悪さが、その過酷な現実を物語っている。食卓に着く父の背中は、以前よりも少しだけ細く見える。
だが、こうして組織の盾に守られ、家族と食卓を囲めること。
それは当たり前ではない、イージスという名の献身があってこその平穏だ。
「……拓也、学校の準備は万端?」
「ああ、筆記用具も新しいのを用意したし、課題も終わらせた。……あとは、姉貴が迷宮で無理をしないことかな」
拓也がハンバーグを頬張りながらそう言うと、由美子が「もう、拓也ったら」と笑い、父も穏やかな表情で頷く。
「父さん、イージスの人たち、外で頑張ってくれているわ。彼らのおかげで、この東京の真ん中でこうして静かに食事ができるのね」
三月が小声で言うと、昭雄は窓の外に目をやり、静かに頷いた。
「ああ、本当に頭が下がるよ。彼らのおかげで、こうして三月を家族として迎えられるんだからな。感謝してもしきれん」
三月はその光景を、一瞬たりとも見逃さないように焼き付けた。
食事中、三月は第14層での苛烈な出来事をすぐには語らない。
ただ、弟の学校の話を聞き、母の作るハンバーグを口に運ぶ。
その一口、一口が、迷宮で受けた魔力回路の負荷を洗い流し、削り取られた自我を補修していく。
このハンバーグの温かさと、外で守りを固めるイージスの仲間たち、そして何気ない会話。
それらすべてが、彼女が迷宮という死地で「ただのバケモノ」に堕ちずに済んでいる唯一の理由であり、彼女が戦い続けるための、何よりも強力な燃料だ。
「……父さん、今日は調子が良さそうで安心したわ」
彼女がそう話しかけると、父は「ああ、みんなで食事ができる。これ以上の薬はないよ」と微笑んだ。
その笑顔を見ているだけで、三月の心に打ち込まれた「楔」は、より深く、より強固に食い込んでいく。
食事を終え、自室に戻った三月は、窓の外に広がる東京の夜を眺めた。
外では、組織のメンバーたちが交代でこの家を守っている。
たとえ当面の脅威が去った今でも、彼らが解散せずにこの街の闇に溶け込んでいることが、彼女に言いようのない安心感を与える。
(明日、また迷宮へ戻る。第14層を抜け、中層の終わりである第15層へ……。そして、いつか必ず)
彼女の視線は、夜景のさらに向こう側、見えない迷宮の深淵へと向けられていた。
探索者たちの限界点と言われる、第30層の壁。
誰も到達したことのない未知の領域へ至るためには、まだまだ途方もない道のりが待っている。
だが、焦りはない。
今日、このハンバーグで補給したエネルギーと、家族の笑顔という絶対的な盾があれば、きっと彼女はどこまでも行ける。
拓也は夏休みが明ければまた学校へ行く。いつもの日常が戻ってくる。
彼女は迷宮の謎に挑み続ける。たとえ世界がどう変わろうと、この温かな食卓という名の聖域を守り抜くために。
窓の向こう、遠くで鳴るサイレンの音が、迷宮とは違う「現代の街」の音として聞こえた。
明日はまた新しい戦いが始まる。
だが、その準備は万端だ。
彼女の心は、愛する家族の温もりと、それを守る盾によって、何にも汚されることのない鋼の強さを手に入れたのだから。
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