第130話:空っぽの抜け殻、深淵への誓い
猛吹雪が荒れ狂っていた第五層の氷湖は、主であるフェンリル・ロードの消滅と共に、その猛威を徐々に和らげつつあった。
拓也は、氷の上に転がる巨大な白銀の魔石を拾い上げ、リュックへと収めた。
その瞬間、ふらりと視界が激しく揺れ、拓也は思わずその場に片膝をついた。
「拓也殿!」
瀬戸玲奈が慌てて駆け寄り、温かい光の魔法を拓也の背中に注ぎ込む。
「……すみません、ちょっと立ち眩みがしただけです。瀬戸さんの魔法のおかげで、身体はどこも痛まないんですが……」
「肉体の疲労は癒せても、極限の集中を維持し続けた『脳の疲労』までは魔法で誤魔化しきれない。……限界だな」
神宮寺蒼太が、大盾を背中に収めながら静かに告げた。
「ああ。第一層から第五層までの連続踏破。しかも、環境変化からボスの完封まで、全部お前の頭一つで回してきたんだ。いくらなんでもオーバーヒートするぜ」
風間蓮も、いつもの不敵な笑みを少しだけ和らげ、気遣うように拓也の肩を叩いた。
三十五層という絶望的な目標を前に、拓也の心はまだまだ先へ進みたがっていた。
しかし、凡人である彼の肉体と脳髄は、すでに限界の悲鳴を上げている。天才である姉のように、たった一人で深淵を歩き続けることなど不可能なのだ。
「……そうですね。ここで俺の判断が鈍れば、皆さんの命を危険に晒すことになる。……一度、地上へ帰りましょう」
拓也が同意すると、神宮寺は深く頷き、鉄山から預かっていた『階層接続用のポータルデバイス』を取り出した。
三月のテレポートの残滓を解析して作られた、このパーティ最大の切り札。
神宮寺が魔力を流し込むと、目の前の空間がガラスのように滑らかに歪み、眩い純白の光の門――ポータルが口を開けた。
その光の向こう側に見えるのは、赤々と燃える炉の光と、懐かしい鉄の匂いが漂う、新宿の『黒鉄堂』の鍛冶場そのものだった。
「歩いて帰る必要すらねえってのは、本当に最高のイカサマだな」
風間が笑いながら光の門へと足を踏み入れる。
四人は、第五層の極寒の氷湖から、文字通り『一歩』で鉄山の工房へと跳躍した。
「おっと、戻ったか、坊主ども。……ほう、ずいぶんと良い面構えになりやがって」
炉の火を落としていた鉄山厳が、煤けた顔に獰猛な笑みを浮かべて出迎えた。
ポータルの円環から現れた拓也たちは、極寒の衣服に身を包んだまま、工房の熱気に小さく息を吐き出す。
拓也はリュックを下ろし、今回の探索で得た戦利品を作業台の上に並べていく。第三層で得たバグの残滓である『純白の魔石』や、第五層のフェンリル・ロードの『白銀の魔石』など、常識外れの純度を誇る結晶の山だ。
「こいつは……驚いたな。本当に五層の主を叩き潰して、直接ここへ跳んできやがったか」
国宝級の鍛冶師である鉄山でさえ、その魔石の放つ冷気と魔力圧に目を丸くした。
「第五層のボスの魔石です。風間さんの槍の穂先や、神宮寺さんの大盾のコーティングに使えませんか?」
拓也の提案に、鉄山は喉の奥で低く笑った。
「ああ、極上の素材だ。お前さんの『解析』に完璧に応えられるよう、この一等星の魔石で、プロどもの武具をもう一段階上の次元へ引き上げてやる。……数日休んでな。その間に最高のモノに仕上げておく」
「よろしくお願いします、鉄山さん」
プロたちと別れ、拓也は鉄山の案内を受け、工房の裏手から手配されていた車に乗り込んだ。
向かった先は、探索者協会はおろか、いかなる国家機関もその存在を知らない、鉄山自身が私的に完全管理・秘匿している極秘の医療施設だった。
厳重な生体認証とセキュリティを抜け、静寂に包まれた白い病室のドアを開ける。
そこには、最高峰の医療機器が刻む微かな電子音の中、眠り姫のように静かに目を閉じている姉・三月の姿があった。
拓也はベッドの横の丸椅子に腰掛け、姉の細く冷たい手を、両手でそっと包み込んだ。
「……姉ちゃん。第五層のボス、倒してきたよ」
返事はない。
三月の身体には、外傷は一つとして存在しない。
彼女は、迷宮の魔獣に敗北してこんな姿になったわけではないのだ。
あの絶望的な第三十五層。そこに巣食う常軌を逸したバケモノすらも、姉は単独で討ち果たした。
しかし、その強大すぎる敵の魂を彼女自身の『魂喰い』で捕食しようとした瞬間、逆に相手の魂の質量に飲み込まれそうになってしまったのだ。
死力を尽くして、どうにか実家の玄関までは帰り着いた。
しかし、その瞬間に彼女の意識は彼方へと弾き飛ばされ、今はただ『魂が空っぽの抜け殻』として、植物状態に陥っている。
「……神宮寺さんたち、本当に凄く強いんだ。俺がほんの少し道を教えるだけで、どんな化け物も一瞬で倒してくれる。……でもね、分かってるよ。姉ちゃんが一人で倒した三十五層のバケモノに比べたら、今の俺たちがやってることは、ただの浅瀬だって」
拓也は、姉の空っぽになってしまった身体を想い、ギリッと奥歯を噛み締めた。
敵に力負けしたのではない。強すぎるが故に、己の異能に魂を持っていかれてしまった。
ならば、あの第三十五層には今も、姉の魂を奪い去った『何か』の残滓が、あるいは彼女の意識そのものが漂流しているはずなのだ。
「……外の世界じゃ、お父さんもお母さんも、みんな普通に笑って暮らしてる。鉄山さんが姉ちゃんをこうして守ってくれている間に、俺が絶対に迷宮を攻略してみせるから」
拓也は、眠る姉の手に額を押し当て、静かに、しかし狂気的なまでの熱を帯びた声で誓った。
「三十五層。……姉ちゃんの魂を奪ったバケモノの残滓ごと、俺が全部の理屈を捻じ曲げて暴き尽くす。絶対に、姉ちゃんの魂を見つけ出して、この身体に連れ戻すよ」
酷使した脳の疲労が、鉄山が守るこの世界で一番安全な部屋の静寂の中で、少しずつ溶かされていく。
ただ「強くなるため」ではない。
空っぽになってしまった姉の魂を、深淵から奪い返すため。
凡人の少年の執念は、迷宮という絶望の底へ向けて、より一層鋭く、冷徹に研ぎ澄まされていくのだった。
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