第9話 私の言葉で
手が震えていた。でも、声は震えさせない。
領主館の大広間は、思っていたよりずっと広かった。高い天井に木組みの梁が渡り、壁には辺境伯家の紋章が掲げられている。長い楕円形のテーブルを囲むように、十数人が着席していた。
近隣五領の領主たち。王家から派遣された監査官。そして──公爵家の代理人。
私は、テーブルの端に置かれた商人代表の席に座っていた。
議題はいくつかあった。辺境の交易路の整備、冬季の備蓄計画、近隣領地との関税の調整。その全てが粛々と進み、最後の議題が読み上げられた時、広間の空気がわずかに張り詰めた。
「議題第七号。アシュフォード公爵家による、クロエ・アシュフォードへの製法返還要求について」
私の名前が、この場で呼ばれた。
テーブルの向こう側に、公爵家の代理人が座っている。四十代くらいの痩せた男で、黒い法衣を纏っている。法務官だろう。その隣に──エドワード殿下の側近と思しき若い男が一人。
そして。
テーブルの最奥、議長席に──カイがいた。
質素な上着ではなかった。辺境伯の正装。深い紺色の外套に、銀の留め具。口元の布はない。初めて見る、隠すもののない顔。
灰色の瞳が、一瞬だけ私を見た。
何も言わなかった。ただ、視線が交わった。それだけで──不思議と、手の震えが少しだけ収まった。
◇
「製法返還要求について、公爵家側の主張を述べよ」
カイの声が議長として広間に響いた。低くて、平坦で、感情を一切載せない声。あの工房で聞いていた声と同じ音なのに、まるで違う人の声に聞こえた。
公爵家の法務官が立ち上がった。
「アシュフォード公爵家は、クロエ・アシュフォードが公爵家在籍中に開発した石鹸および香油の全製法について、公爵家の知的資産であると主張いたします。これらの製法は公爵家の設備と資材を用いて開発されたものであり、開発者が家を離れた後も、その帰属は公爵家にございます」
整然とした論旨。準備されてきた主張だ。
「つきましては、クロエ・アシュフォードに対し、全製法の書面化と公爵家への引き渡しを求めます」
(……前世の退職時と同じ論理だな)
会社の設備で研究したから、成果は会社のもの。何度聞いても腹が立つ理屈だけれど、向こうには向こうの法的根拠がある。だからこそ──私にも、私の根拠がいる。
「商人代表クロエに発言を許可する」
カイの声。議長としての、公平な宣言。
立ち上がった。
椅子を引く音が、静まった広間に響いた。十数人の視線が私に集まる。
(……大丈夫。私は、私の言葉で話す)
「発言の機会をいただき、ありがとうございます」
声は震えなかった。
「公爵家の主張に対し、三点を申し上げます」
◇
「第一に、製法の独自性について」
テーブルの上に、持参した道具を並べた。小さな鍋。獣脂の塊。灰汁の瓶。木べら。精油の小瓶。
領主たちの目が、道具に集まった。
「この場で実演いたします。私の製法は、魔法を一切使用しておりません。油脂と灰汁の化学反応──けん化反応と呼びます──のみで石鹸を製造する技術です」
灰汁を少しずつ獣脂に加えながら、木べらで混ぜる。温度は指先で測る。前世の実験室と同じ、体に染みついた手順。
「この技術は、私が独自に──個人の知識に基づいて開発したものです。公爵家の設備も人員も使用しておりません。現にこの場で、鍋と木べらだけで再現できます」
トレース。
表面に木べらの跡が残る。あの日、工房で初めて見た兆候と同じ。
広間がざわめいた。魔法を使わず、原始的な道具だけで石鹸を作る──この世界の常識では、ありえない光景なのだろう。
法務官の顔色が変わった。「公爵家の設備で開発された」という主張の前提が、目の前で崩れている。
「第二に、母の遺言状の写しを提出いたします」
羊皮紙を広げた。
「故アシュフォード公爵夫人エレノア・アシュフォードの遺言状です。原本は王都の公証役場に保管されております」
代書人の名前と、公証役場の登録番号を読み上げた。
「遺言状には、以下の通り記されております。『持参金の運用益はクロエに帰属する』。そして──『製法は私の娘のものであり、公爵家の資産ではない』」
法務官の目が見開かれた。隣のエドワード殿下の側近が、わずかに身じろぎした。
「公証役場に保管された原本が健在である限り、この遺言は法的に有効です」
「第三に──帳簿の不整合について申し上げます」
ここが、一番怖かった。証拠書類そのものは公爵家にある。私が持っているのは記憶だけだ。
でも、私はあの帳簿を十年間管理していた。何頁に何が書いてあるか──暗記している。
「アシュフォード公爵家の正式帳簿、第七巻の第四十三頁に、母の持参金三万リーブルの流用記録がございます」
法務官の顔から血の気が引くのが見えた。
「流用先はアシュフォード家の香油事業の設備投資です。母の持参金は、遺言状に明記された通り私に帰属するものであり、父がこれを公爵家の事業に流用した記録が帳簿に残っています。──監査官閣下にご確認をお願いいたします」
沈黙。
長い沈黙の後、エドワード殿下の側近が立ち上がった。
「些事だ。帳簿の確認など──」
「些事ではございません」
別の声が遮った。
監査官だった。白い髭を蓄えた壮年の男が、静かに、しかし断固とした声で言った。
「リチャード第一王子殿下より、王家の財務規律に関わる問題については厳正に対処せよとのご指示を受けております。公爵家の正式帳簿に持参金流用の記録があるとの証言は、看過できません」
側近の顔が強張った。
「本件について、帳簿調査を命じます」
その一言が、広間に落ちた。
法務官が何か言いかけて、口を閉じた。監査官の背後にある王家の権威に、公爵家の代理人は逆らえない。
私は、立ったままだった。
膝が少し震えていた。でも──声は、最後まで震えなかった。
◇
会議が終わった後、領主たちが席を立ち、広間がざわめきに包まれた。
何人かの領主が私のところに来て、石鹸について質問した。実演を近くで見たいという人もいた。でも、頭の中は半分ぼうっとしていて、何を答えたかよく覚えていない。
ベルタが広間の隅から手を振っていた。傍聴席にいたらしい。にかっと笑って、親指を立てている。
カイは──議長席から立ち上がり、広間を出ていった。一度も、私と目を合わせなかった。
(……最後まで、口を挟まなかったんだな)
あの人は議長だった。発言を制する権限があった。法務官の主張を棄却することだって、立場上はできたはずだ。
でも、しなかった。
私が自分の言葉で話すのを、黙って聞いていた。
それが──信頼、なのだろうか。
まだ、分からない。でも、あの灰色の瞳が一瞬だけ私を見た時の光は──冷たいものではなかった。
◇
広間を出ようとした時、声をかけられた。
「クロエ殿。少々お時間をいただけますか」
振り返ると、三十代くらいの男性が立っていた。端正な顔立ちに、きちんと整えられた短い髪。物腰は柔らかいが、背筋がぴんと伸びていて──仕える者特有の佇まいだった。
「リュカと申します。閣下の侍従を務めております」
リュカ。招待状を届けてくれた、カイの侍従。
「閣下の書斎に、お寄りいただけますか。お見せしたいものがございます」
「……閣下の、ご指示ですか?」
リュカはかすかに微笑んだ。
「いいえ。私の独断です。閣下に知れたら叱られるかもしれませんが──クロエ殿に見ていただきたいものがあるのです」
◇
書斎は、領主館の二階にあった。
思っていたより質素だった。大きな机と、壁一面の書架。窓から差し込む午後の光が、埃の粒子を照らしている。
リュカが壁の一角を示した。
「あちらを」
書架と書架の間の、小さな空間。そこに──額装された絵が掛かっていた。
小さな絵。手のひらほどの大きさの紙に、色とりどりの花が描かれている。上手とは言えない。子供の絵だ。花びらの形はいびつで、茎は曲がっていて、色は紙からはみ出している。
でも──見覚えがあった。
足が止まった。
「これ……」
「閣下が、ずっと持っておられたものです」
記憶が、脳の奥から浮かび上がってきた。
七歳の頃。公爵邸の庭。泣いている男の子がいた。私より少し年上の、痩せた男の子。使用人の子供だったのか、執事見習いだったのか──はっきりとは覚えていない。ただ、泣いていた。
どうして泣いていたのかも分からない。でも、私は自分が描いた花の絵を差し出した。
「これ、あげる。泣かないで」
男の子は泣き止んで、絵を受け取った。何も言わなかった。ただ、目が赤くて──灰色の瞳が、じっと私を見ていた。
灰色の、瞳。
「……あの子が」
声が掠れた。
「カイ、だったの」
「閣下は当時、ルクレール家の遠縁として公爵邸で執事見習いをしておりました」
リュカの声は穏やかだったけれど、その奥に、長い年月を見守ってきた人の温度があった。
「あの絵を、十年以上──」
「はい。王都を離れ、辺境伯を継いでからも、ずっと。書斎に掛けたのは最近ですが、それまでは机の引き出しに大切にしまっておりました」
絵に手を伸ばした。触れるのが怖くて、指先が額縁の手前で止まる。
十年前の私が描いた、下手くそな花の絵。あの子が泣いていたから、泣き止んでほしくて渡した、それだけの絵。
カイは──あの男の子は──それをずっと持っていた。
辺境伯になっても。工房に通い始めてからも。正体がばれてからも。
紅茶の茶葉を、三日間、扉の前に置き続けたあの人が。窓を直し、看板を直し、手袋を渡し、棚を作ったあの人が。一度もこの絵のことを言わなかった。
(……なんだ)
涙が、頬を伝った。
(ずっと、そこにいたんだ。ずっと──私のことを、見ていてくれたんだ)
恩返しだと思っていた。領主としての投資だと思っていた。でも、違う。あの人は──あの日泣いていた男の子は──花の絵をもらった日から、ずっと。
「……馬鹿」
泣きながら、笑っていた。
「言えばいいのに」
リュカが、静かに書斎の扉を閉めた。
一人になった部屋で、花の絵を見つめた。下手くそで、いびつで、色がはみ出した、七歳の私の絵。
──あの人に、会いたい。
その気持ちに名前がつくのは、もう少し先のことだ。でも今は、胸の奥がじんわりと温かくて、涙が止まらなくて、そして──不思議と、怖くなかった。




