第8話 名前のない紅茶
「カイ様って、辺境伯閣下のことですよね?」
エルザの声が、妙に遠く聞こえた。
工房のカウンターで、エルザと一緒に石鹸の包装をしていた午後のことだった。他愛のない世間話の流れで、エルザが何の気なしに口にした一言。
「この間、お屋敷であたしが石鹸の納品報告してたら、閣下が『あの工房の石鹸か』って仰ったんですよ。匂いのこととか、値段のこととか、すごく詳しくて。カイ様って、辺境伯閣下の──」
エルザの顔が、途中で凍った。
「──あ」
私の顔を見たのだろう。どんな顔をしていたのか、自分では分からない。
「え、あの、クロエさん? もしかして知らなかった……?」
カイ。
辺境伯。
──辺境伯閣下。
手袋のイニシャル。KとL。カイの、K。ルクレールの、L。
名代じゃなかった。本人だったのだ。
「クロエさん、ごめんなさい! あたし、てっきりもう知ってるものだと──」
エルザの声が遠い。耳の奥で、血の巡る音がしている。
「……大丈夫。大丈夫だから」
大丈夫じゃなかった。
手の中の石鹸を包む紙が、くしゃりと潰れた。
◇
エルザが青い顔で帰った後、一人で座っていた。
整理しなければ。
カイは──カイ・ルクレールは、この辺境伯領の領主だ。辺境伯夫人の息子。推奨商人の認定を出した側の人間。使者を「領地法違反だ」と追い返した権限を持つ、この土地の最高権力者。
窓の修理。値段の助言。行商人の紹介。手袋。看板。背中。
全部、辺境伯としての権限と情報網があったから、できたことだ。
(……また、か)
胸の奥で、古い傷が疼いた。
前世。十二年働いた会社。「君の研究成果は素晴らしい」と上司に言われて、嬉しかった。私の力が認められたのだと思った。でも実際は、成果を吸い上げるための甘言だった。私が作ったものは会社の名義になり、使い終わったら私だけが捨てられた。
公爵家。「クロエは優秀だ」と父に言われたことがある。一度だけ。でもそれは「優秀な道具だ」という意味だった。帳簿を管理し、製法を生み出し、用が済んだら勘当。
二つの人生で、同じことが起きた。能力を認めてくれたと思った人が、実は立場を利用して近づいていた。
──カイも、そうなのか。
辺境伯として、辺境の産業を育てるために。優秀な石鹸職人を自分の領地に囲い込むために。だから窓を直し、販路を紹介し、使者を追い返した。全部、領主としての投資。
(……違う。カイさんはそういう人じゃない)
頭では分かっている。
あの人が生姜と蜂蜜を置いてくれた時の、耳の赤さ。泣いた後の私に何も聞かず、黙って棚を作ってくれた手。値段を指摘した時の「自分の仕事を安く見積もるな」という声。
あれが演技だったとは思えない。思いたくない。
でも──信じた相手に裏切られるのは、もう三度目だ。
三度目は、立ち上がれない気がする。
◇
翌日。
カイがいつもの時間に工房の扉を開けた。
私はカウンターの向こう側に立っていた。
「……いらっしゃいませ」
「……」
カイの灰色の瞳が、私の目を見た。何かを察したのだろう。いつもの動作──棚から石鹸を取る──をせず、立ったまま静かにこちらを見ている。
「カイさん。一つ、聞いてもいいですか」
「……ああ」
「あなたは──ルクレール辺境伯閣下、ですか」
沈黙。
長い沈黙。
カイの瞳が揺れた。口元の布の奥で、唇が引き結ばれるのが分かった。
「……ああ」
否定しなかった。
覚悟していたはずなのに、その一言が胸に落ちた時、息が詰まった。
「なぜ、黙っていたんですか」
声が震えなかったのは、奇跡だったと思う。
「……お前が自分の力で立ち上がるのを、見ていたかった」
カイの声は、いつもより低かった。
「辺境伯の庇護だと知れたら、お前の実力が否定される。あの石鹸も、あの香油も、お前が自分の手で作ったものだ。それを『辺境伯の後ろ盾があったから売れた』と言わせたくなかった」
……分かる。その理屈は、分かる。
前世の会社でもそうだった。上司のコネで仕事を取ってくる同僚は、どれだけ優秀でも「自力じゃない」と陰で言われていた。実力を証明するには、看板なしで戦うしかない。カイはそれを理解していた。
でも。
「それでも」
声が、掠れた。
「嘘だったことに、変わりはありません」
カイの瞳が、一瞬だけ揺れた。
「窓を直してくれたのも。販路を紹介してくれたのも。使者を追い返してくれたのも。生姜と蜂蜜も。……全部、辺境伯としてのあなただったんですね」
「……違う。それは──」
「分かっています。分かっているんです。でも、今は──今は、もう少し一人でいさせてください」
カイは、何も言わなかった。
長い沈黙の後、静かに踵を返した。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
一人になった工房で、カウンターに両手をついた。
泣かなかった。泣く気力もなかった。ただ、胸の底に鉛を呑み込んだような重さがあって、しばらく動けなかった。
◇
翌朝。
工房の扉を開けると、足元に何かがあった。
小さな紙包み。中身は──茶葉。紅茶の葉が、ひとつかみほど。
メモはない。名前もない。
あの生姜と蜂蜜の時と、同じだ。
鼻先に持っていくと、ほのかに甘い香りがした。上等な茶葉だ。辺境の市場では買えないような。
(……カイさん)
紙包みを持ったまま、通りを見た。朝霧の中に、人影はない。
二日目の朝。
同じ場所に、同じ紙包み。同じ茶葉。メモなし。
三日目の朝。
同じ。
三日間、毎朝。カイは工房に来なかった。代わりに、扉の前に紅茶の茶葉を置いていく。何も書かない。何も言わない。ただ「ここにいる」とだけ、行動で伝えている。
(……中に入ってくればいいのに)
そう思って、でも、自分から扉を開けることはしなかった。
三日分の茶葉を棚に並べた。カイが作ってくれた、あの小さな棚の横に。
棚の上に──何かが載っている。
石鹸だった。
小さくて、少し不格好で、角が丸い。色はくすんだ白で、香りはもう飛んでいる。でも──見覚えがあった。
私が最初に作った石鹸。売り物にならなかった、あの最初のひとつ。
いつから、ここにあったのだろう。
(……カイさんが、置いたの?)
あの日。棚を作った日。私が背を向けていた間に。
──この人は、私の出発点を覚えていてくれたのか。
石鹸にそっと触れた。表面はもうざらざらで、泡は立たないだろう。でも形はちゃんと残っている。私が初めて型から外した時の、あの不格好な形のまま。
胸の奥が、きゅうっと締まった。
怒りでも、悲しみでもない。名前のつけられない感情が、紅茶の茶葉の甘い香りと一緒に、鼻の奥まで染み込んでいった。
◇
三日目の夕方。
ベルタが工房に来た。今日も情報を持ってきた顔をしている。
「クロエちゃん、二つ話があるの」
「はい」
「一つ目。王都でね、マーガレット聖女の治癒魔法が効かなかった患者が、また出たらしいの。今度は二人。宮廷の医師団が正式に疑問を呈し始めてるって話よ」
マーガレットの治癒魔法。前にも、効果不足の噂をベルタから聞いた。それが、さらに広がっている。
「エドワード殿下の判断力に疑いの目が向き始めてるって。聖女を選んだのは殿下の政治判断だったから、その根拠が揺らぐと……」
「殿下自身の立場も揺らぐ」
「そういうこと」
因果応報とは思わない。でも、嘘はいつか辻褄が合わなくなる。母の遺言状を胸に握りしめた夜に思ったのと、同じことだ。
「二つ目は──はい、これ」
ベルタが差し出したのは、封蝋のある書面だった。
差出人は──辺境伯領の領主会議事務局。宛先はクロエ、アトリエ・クロエ代表。
「領主会議の正式な招待状よ。商人代表として出席してほしいって。あんた、推奨商人だからね」
開封した。
文面は簡潔だった。日時、場所、議題一覧。議題の中に──
『アシュフォード公爵家によるクロエ・アシュフォードへの製法返還要求について』
──私の名前があった。
「これ、誰が……」
「リュカっていう侍従が持ってきたの。辺境伯閣下の指示じゃなくて、領主会議の慣例に基づく正規の招集だってさ」
リュカ。カイの侍従。
カイの指示ではない、とベルタは言う。でも──カイがこの領地の領主であることは、もう知っている。
招待状を見つめた。
出るべきか。出ないべきか。
あの場に立てば、公爵家と正面から向き合うことになる。母の遺言状を。帳簿の記憶を。全てを晒すことになる。
──でも。
棚の上の石鹸を見た。最初のひとつ。不格好で、香りの飛んだ、売り物にならない石鹸。
その横に並んだ、三日分の紅茶の茶葉。
カイが信じてくれたかどうかは、まだ分からない。でも、この工房を作ったのは私だ。この石鹸を作ったのは私だ。値段を決めたのも、使者を断ったのも、全部──私だ。
辺境伯の庇護があったとしても、なかったとしても。
私の手で作ったものは、私のものだ。
「……出ます」
「え?」
「領主会議。出ます」
ベルタが目を丸くして、それから、にやりと笑った。
「そう来なくちゃ。あたしの見込んだ子だよ」
招待状をテーブルに置いた。
扉の向こうに目をやる。もう日は暮れていて、通りは暗い。カイの姿はない。
(……明日の朝も、茶葉はあるのかな)
あったら──もしかしたら、私はお茶を淹れるかもしれない。二人分。
まだ、分からないけれど。




