第7話 母の遺言
手紙は、ラベンダーの香りがした。
──いや、気のせいかもしれない。辺境の冬は乾燥がひどくて、郵便物に香りが残ることなんてほとんどない。でも、封を切った瞬間にふわりと鼻先を掠めたのは、確かにラベンダーだった。
母が好きだった花の、匂い。
◇
その手紙が届いたのは、推奨商人の認定式から三日後のことだった。
認定式は想像していたよりずっと短かった。辺境伯夫人が正式な書面を読み上げ、私の名前と工房の名前が辺境伯領の公的な台帳に記録される。それだけ。
でも「それだけ」の重みは、想像以上だった。
認定証を受け取った時、辺境伯夫人が小さな声で言った。
「クロエさん。これからは、この土地があなたを守りますからね」
その言葉に、危うく泣きそうになった。こらえたけれど。
認定証は工房の壁に飾った。カイが使者を追い返した時に言った「推奨商人だ」という言葉が、これでようやく正式な意味を持つ。公爵家がどんな手紙を送ってこようと、騎士を何人送り込んでこようと──もう、辺境伯領の法がこの工房を守る。
安心した。ようやく、足元に地面がある感じがした。
◇
そして、手紙。
差出人の名前は知らない人だった。王都のリンデン通り三番地、代書人エミール・フォルスト。
懐中時計の蓋裏に刻まれていた住所。あの細かな文字を、辺境に来てすぐ──明るい窓辺でようやく読めた時、心臓が跳ねた。代書人の名前と住所。母がわざわざ蓋裏に刻ませた、誰にも気づかれない場所に。
すぐに手紙を書いた。「故アシュフォード公爵夫人の娘クロエです。母が貴方に何かを託していたなら、教えてください」
返事が来るまで、二ヶ月以上かかった。もう届かないのだろうと半ば諦めていた。
封を開ける。
中には二枚の紙が入っていた。一枚は代書人の手紙。もう一枚は──古びた羊皮紙。
代書人の手紙を先に読む。
『クロエ様。長らくお探しだったと存じます。奥方様は十年前、ご逝去の半年前に、この文書をお預けになりました。「いつか娘に必要になる時が来る。その時まで預かってほしい」と仰いました。本文書は正式な遺言状の写しであり、原本は王都の公証役場に保管されています。ご確認ください』
指先が震えていた。
もう一枚の羊皮紙を広げる。
母の字。丸みのある、柔らかい筆跡。この字を見るのは──何年ぶりだろう。十年。母が死んでから、十年。
『アシュフォード公爵夫人エレノア・アシュフォードの遺言状(写し)
一、わたくしの持参金三万リーブル及びその運用益は、娘クロエ・アシュフォードに帰属するものとする。アシュフォード家の事業への投資分についても、運用益はクロエのものである。
二、クロエが公爵家にて開発・考案した一切の製法・配合・技術は、クロエ個人の知的財産であり、公爵家の資産ではない。
三、本遺言は王都公証役場に原本を保管する。何人もこれを無効とすることはできない』
文字が滲んだ。
──涙だった。
紙の上にぽたりと落ちて、初めて自分が泣いていると気づいた。
お母さん。
お母さんは、知っていたんだ。父が持参金を流用していたこと。私の功績が「公爵家のもの」として扱われていたこと。それが、いつか私を傷つけることを。
だから、死ぬ半年も前に──まだ身体が動くうちに、代書人に遺言状を預けていた。公証役場に原本を残していた。懐中時計の蓋裏に、代書人の住所を刻ませていた。
誰にも気づかれない場所に。父にも、後妻にも、誰にも。
ただ、私だけが見つけられるように。
(……ずっと、守ってくれていたんだね)
声にならなかった。
テーブルに突っ伏して、泣いた。声を殺して、肩を震わせて、ひとりきりの工房で。
前世で死んだ時、誰も泣いてくれなかった。この世界で母が死んだ時、私は八歳で、泣き方すら分からなかった。それ以来ずっと、泣くのが怖かった。泣いたら、もう立ち上がれない気がして。
でも今は──泣いていい。
この涙は、悲しいだけの涙じゃない。
十年前に死んだ母が、十年後の娘のために残してくれた盾。それを今、手のひらの中に握っている。
一人じゃなかった。ずっと、一人じゃなかったんだ。
◇
翌日。
目が腫れていることは分かっていた。冷たい水で顔を洗ったけれど、あまり効果はなかった。
午後、カイがいつもの時間にやって来た。
棚から石鹸をひとつ取り、カウンターに置く。銅貨を出す。いつも通り。
でも、カイの灰色の瞳が私の顔で止まった。
腫れた目を見ている。何か気づいたはずだ。
……聞かないでくれるといいな。
「……」
カイは何も言わなかった。
代わりに、石鹸を受け取った後、工房の隅を見回し始めた。壁を手で触り、柱の位置を確かめている。
「……ここ」
「え?」
「棚がいる。ここに、作る」
「棚?」
カイは工具箱を開けた。今日も持ってきていたらしい。この人はいつも、工具箱を持ち歩いているのだろうか。
板を測り、釘を打つ。無駄のない動き。二十分ほどで、壁に小さな棚ができた。手のひらほどの大きさの板が、ちょうど目の高さに取り付けられている。
「ここに何か飾れ」
「何か、って……」
「好きなものでいい」
カイはそれだけ言って、工具箱を閉じた。
「……ありがとうございます。でも、なぜ急に?」
「……なんとなく」
嘘だ。この人の「なんとなく」は、いつも「なんとなく」じゃない。
でも、今日は追及しなかった。泣いた顔を見ても何も聞かなかった人に、これ以上の説明を求めるのは野暮だ。
「手袋」
「え」
「返す。洗って──」
「いい。使え」
また。この人はすぐ「使え」で片付ける。
「でも、上質なものですし」
「手を守るためのものだ。使われない手袋に意味はない」
カイの声が、一瞬だけ柔らかくなった。ほんの半音。他の人には分からないくらいの変化。でも私は──もう何ヶ月もこの人の声を聞いているから、気づいた。
「……ありがとうございます」
「ああ」
カイが扉に向かう。
その背中を見送りながら、ふと気づいた。棚の上に、何か置いてある。
──いや、気のせいかもしれない。カイが出ていく背中に目が行っていて、よく見えなかった。
「カイさん」
呼び止めた声に、カイが半歩だけ振り返る。
「今日も──来てくれてありがとうございます」
カイの灰色の瞳がわずかに揺れた。口元の布の奥で、何か言いかけたように唇が動いた気がした。
「……ああ」
いつもの一言。でも、今日のそれはいつもよりほんの少しだけ、温かかった。
扉が閉まる。
工房に一人。
遺言状を、もう一度手に取った。母の字。柔らかな筆跡。
この紙が、私の武器になる。
父が奪った持参金の記録。帳簿の何頁に何が書いてあるか、全部覚えている。この遺言状と合わせれば──公証役場の原本が健在なら──証拠になる。
(お母さん。あなたが残してくれたものを、使わせてもらうね)
遺言状を丁寧に折り畳み、懐中時計と一緒に、工房で一番安全な場所にしまった。
棚の上に視線を向ける。
──何も、ない?
いや、暗くてよく見えない。明日、明るいうちに確認しよう。
窓の外では、冬の最後の月が細く光っていた。




