第6話 背中の広さ
「お前の勘当は撤回する。帰って来い」
父の筆跡は、昔と変わらなかった。
角張った、力の強い文字。インクの染み一つない、きっちりとした書面。封蝋にはアシュフォード公爵家の紋章が押されていた。
推奨商人の話が辺境伯夫人から出て、三週間ほどが経った冬の朝。ベルタの行商馬車に紛れて、一通の手紙が工房に届いた。
テーブルの上に手紙を広げて、もう一度読む。
『貴女の勘当を撤回し、アシュフォード家への復帰を許可する。ただし、香油事業に関わる全製法を公爵家の資産として帰属させること。これは家門の繁栄のために必要な措置であり、貴女の能力を正当に評価した上での決定である』
(……正当に評価、ね)
笑いそうになった。勘当する時には「ああ」の一言で片づけたくせに。
手紙の裏に、小さな追記がある。
『なお、この要請は殿下のご意向でもある』
殿下。エドワード第二王子。あの人が父に命じたのか。
つまり、公爵家の香油事業の崩壊は、王子の耳にまで届いたということだ。
(……断罪した相手に「戻って来い」って、どういう神経なんだろう。前世の会社でいえば、解雇した社員に「やっぱり戻って来て。引き継ぎがうまくいかなくて」って連絡してくるようなものよね)
あの時も思ったけれど、こういう人たちは「人」を見ていない。見ているのは「機能」だけ。私という人間ではなく、「製法を知っている道具」が戻ればいいと思っている。
便箋を一枚取り出した。ペンを取る。
返信は短くていい。
『お手紙拝受いたしました。ご厚意には感謝申し上げますが、私が開発した製法は公爵家の資産ではなく、私個人の知識に基づくものです。帰属の主張は受けかねます。ご依頼でしたら正規の商取引としてお受けいたしますので、ご検討ください。 クロエ』
書き終えて、インクを乾かした。
指先がわずかに震えている。怒りではない。──いや、怒りも少しはある。でもそれ以上に、この手紙を出したら、もう本当に戻れないのだという事実が、胸の底に沈んでいた。
(……いいの。戻る場所じゃないって、もう分かってる)
封をして、ベルタに預ける分の荷物に添えた。
◇
返信を出して五日後。
昼下がり。工房で雪花草の香油を瓶に詰めていると、表通りから複数の足音が近づいてきた。
重い。揃っている。──軍靴の音だ。
扉が乱暴に叩かれた。
「アシュフォード家よりの使者である。クロエ殿に面会を求める」
扉を開けると、三人の男が立っていた。
先頭は三十代半ばの男。鎧こそ着ていないが、腰に剣を佩いている。騎士だ。その後ろに、体格の良い従者が二人。
あの老執事グレンの姿はない。今度は交渉ではなく、威圧するために来たということだ。
「クロエ殿。レオナルド公より再度のご帰還命令をお伝えする。本状をお読みいただきたい」
差し出された書面は、先日の手紙よりも格式張った文面だった。公爵家の正式な書式。要旨は同じ──帰って来い、製法を渡せ。
(……同じことを何度言われても、答えは変わらないんだけど)
「ご拝読いただけたかな。では、お支度を──」
「お断りいたします」
騎士の目がすっと細くなった。
「先日、お手紙にてご回答済みです。私の製法は私のものであり、公爵家の資産ではございません。繰り返しになりますが、ご依頼は正規の商取引としてお受けいたします」
「これは命令だ。公爵からの」
「私はもうアシュフォード家の者ではございません。勘当された者に、公爵家の命令は及びません」
声は震えなかった。──五回目の使者だぞ、と自分に言い聞かせたわけではないけれど、もう慣れたのかもしれない。慣れたくなかったけれど。
騎士が一歩、前に出た。
「では、やむを得ない。直接お連れする──」
「触るな」
低い声。
私の背後から、ではない。横から。いつの間にか、カイが私の前に立っていた。
質素な上着。口元の布。──でも、その立ち姿は、いつもと違っていた。背筋が真っ直ぐに伸びて、灰色の瞳が騎士を正面から見据えている。
……この人の目を、こんなふうに見たのは初めてだ。冷たいのではない。静かに、けれど明確に怒っている目だった。
「この方は辺境伯領の推奨商人だ」
カイの声が、通りに響いた。
「推奨商人への威圧行為は、辺境伯領の領地法に抵触する。これ以上の強要は、領地法違反として記録される。──退去せよ」
騎士の顔が変わった。
「……貴様、何者だ」
「辺境伯の名代だ」
短い。けれど、その一言には有無を言わせない重さがあった。
名代。辺境伯の代理として権限を行使できる立場。この辺りの領地で、それは領主に次ぐ権威を意味する。
騎士は明らかに動揺していた。辺境伯の名を出されれば、公爵家の使者であっても容易には逆らえない。ここは辺境伯の領地なのだから。
「……承知した。本日のところは引き上げる。だが、この件は公爵にお伝えする」
「伝えればいい」
カイは微動だにしなかった。
三人の使者が踵を返し、通りの角を曲がって消えるまで、カイは私の前に立ったまま動かなかった。
その背中を見ていた。
広い。
──この人の背中は、思ったより広い。
質素な上着の下に隠された肩幅。工具を振るう時とは違う、剣を知っている人間の背筋の張り方。あの騎士が一歩退いたのは、カイの声だけではなく、あの立ち姿を見たからだ。
(……誰なんだろう、この人)
使者がいなくなって、カイが振り返った。灰色の瞳が、さっきまでの冷厳さから少しだけ和らいでいる。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
「でも──なぜ、あなたにそのような権限が? 辺境伯の名代って」
カイの瞳がわずかに揺れた。
「……辺境伯に、信頼されている」
それだけ。
嘘ではないのだろう。でも、全部でもない気がした。
(辺境伯に信頼されている名代。上質すぎる手袋。商売の内情に詳しい。朝一番に工具を持って来る。……なんだろう。何か、大きなものを見落としている気がする)
聞きたいことは山ほどあった。でも、さっきこの人が私を庇ってくれた背中の温度を思い出すと、問い詰める気にはなれなかった。
今は、「ありがとう」だけでいい。
◇
夕方。
ベルタが工房に顔を出した。今日はいつもの行商ではなく、情報を持ってきた顔だ。
「クロエちゃん、さっきの使者、見たよ。大丈夫だった?」
「はい。知り合いが助けてくれて」
「知り合いねえ……」
ベルタが意味深な笑みを浮かべたのは気にしないことにした。
「それよりね、王都で面白い噂が出てるのよ」
「噂?」
「マーガレット聖女様の治癒魔法、効かなかった患者が出たんだって」
手が止まった。
「治癒魔法が?」
「うん。聖女認定の時は上級治癒って話だったのに、実際に重い怪我人を診たら『効果が不十分』だったらしくて。今のところ表立った問題にはなってないけど、宮廷付きの医師が首を傾げてるって話」
マーガレット聖女。あの夜会で、エドワード殿下の隣に立っていた人。潤んだ瞳で「私を庇って」と無言で訴えていた人。
あの人の治癒魔法に、綻びが出ている。
(……因果応報、とまでは言わないけれど)
私が何かしたわけじゃない。ただ、嘘はいつか辻褄が合わなくなる。それだけのことだ。
「ベルタさん、教えてくれてありがとうございます」
「うん。あんたは自分のことだけ考えなさい。石鹸、来週も三十個ね」
にかっと笑って、ベルタは帰っていった。
一人になった工房で、カイが渡してくれた手袋を棚の上から取った。
鹿革の感触。細かなステッチ。名代の手袋にしては上質すぎる。辺境伯に信頼されていると言うけれど、信頼だけでこんなものは持てない。
手袋の内側に指を滑らせると、裏地に小さな刺繍があった。イニシャルだろうか──「K」と「L」。
K。カイのK。
Lは──何だろう。
(……考えすぎかな)
手袋をそっと棚に戻した。
窓の外では、冬の最後の光が山の稜線に沈もうとしていた。工房の中は、雪花草の香油の匂いが温かく漂っている。
あの人の背中を、まだ覚えている。




