第5話 立て付けの悪い扉
看板が折れていた。
昨日の夕方にはあったのに。「アトリエ・クロエ」と自分で書いた、不格好な板の看板。工房を開いて最初に作ったもの。それが、根元からへし折られて地面に転がっていた。
冬の朝の空気が、肺に刺さる。
ベルタの報せから一週間。公爵家の使者──執事長のグレンが辺境に着いたのは三日前のことだった。
◇
三日前。
「クロエお嬢様。レオナルド公がお嬢様のお帰りを望んでおられます」
グレンは七十に近い老人だ。白髪を撫でつけ、仕立ての良い黒い外套を纏い、執事らしい慇懃な佇まいで工房の入り口に立っていた。
公爵家に十年以上仕えた人間だ。私が幼い頃から顔を知っている。
「香油事業の再建には、どうしてもお嬢様のお力が必要でございます。工房をお閉じになり、王都へお戻りください」
丁寧な口調。けれどその裏に、選択肢がないことを前提とした物言いが透けている。
(……来ると分かっていた。でも、実際に目の前に立たれると、さすがにお腹が重いな)
深く息を吸った。
工房のカウンターに手を置く。カイの助言で値段を改定した石鹸が、棚に整然と並んでいる。ベルタの行商ルートで広がった評判。エルザが届けてくれた辺境伯屋敷からの注文。カイが直してくれた窓。
──ここは私の場所だ。
「グレンさん」
「はい」
「私はもうアシュフォード家の者ではございません」
声は震えなかった。自分でも不思議なくらい、落ち着いていた。
「ご依頼でしたら、正規の商取引としてお受けいたします。ですが、製法の無償提供はいたしかねます。私の知識は、私のものです」
グレンの目がわずかに見開かれた。
この老執事は、かつて帳簿の前で俯いていた少女の姿を覚えているだろう。黙って父の指示に従い、夜遅くまで配合表を書いていた子供を。
もうあの子供はいない。
「……お嬢様」
「クロエ、と呼んでいただければ結構です。もう令嬢ではありませんので」
グレンはしばらく黙っていた。
やがて、深く一礼した。
「……承知いたしました。旦那様にはそのように伝えます」
その声に、わずかな苦さが混じっていたのは──気のせいだったかもしれない。
◇
看板が折れていた。
グレンが去った翌朝のことだ。
グレン本人の仕業ではないだろう。あの老執事にそんな真似をする動機がない。おそらく、使者に同行した下級使用人の誰かだ。「断った罰だ」とでも言いたいのか、あるいは単なる嫌がらせか。
(……分かりやすいことをするなあ)
怒りはあった。でもそれ以上に、呆れていた。前世の会社でも退職者の机に嫌がらせする人はいたけれど、看板を折るとは随分と原始的だ。
しゃがんで看板を持ち上げる。板は真ん中で割れているけれど、文字はまだ読める。接ぎ木すれば直せるかもしれない。
工具箱を引っ張り出して、釘を探していた時だった。
馴染みの足音。
顔を上げると、カイが立っていた。いつもの質素な上着。口元の布。灰色の瞳。──ただし今日はいつもと違って、片手に大きな工具箱を提げている。
「……朝一番ですね」
「たまたま通りかかった」
嘘だ。まだ日が昇りきっていない。こんな早朝に工具箱を持って「たまたま」通りかかる人間はいない。
カイは看板を一瞥した。灰色の瞳がすっと細くなる。
怒り、ではないと思う。でも、あの無表情の奥に、何か硬いものが一瞬だけ浮かんで消えた。
「貸せ」
短く言って、カイは私の手から看板を取り上げた。
その時。
「──手」
「え?」
「手を見せろ」
カイの声が、普段より低かった。
私は昨晩、看板を直そうとして釘で指の付け根を切っていた。浅い傷だけれど、乾いた血がこびりついている。
カイは私の手をじっと見た。何も言わない。ただ、その太い指が自分の手袋──左手の革手袋を、ゆっくり外した。
「使え」
差し出された手袋は、驚くほど上質だった。柔らかい鹿革。細かなステッチ。辺境の街では見たことのない仕立て。
「カイさん、これ──」
「作業するなら手を守れ。看板は俺が直す」
それ以上何も言わず、カイは工具箱を開けて看板の修理を始めた。
私は手袋を手にしたまま、しばらくそれを見つめていた。鹿革の裏地には柔らかい布が貼られていて、手を入れるとちょうど良い大きさに指先が収まった。温かい。カイの体温が、まだほんのり残っている。
(この手袋、すごく上等だけど……大事なものじゃないのかな。親の形見とか)
聞きたかったけれど、カイはもう黙々と釘を打っている。あの横顔に質問をぶつけるのは、なんだか悪い気がした。
三十分ほどで看板は元の場所に戻った。割れた部分に添え木をして、前より頑丈になっている。
「……ありがとうございます」
「壊す奴が悪い」
短く言って、カイは工具箱を拾い上げた。
ふと、足を止める。
「……あの連中、もう来ない」
「え?」
「来ないようにする」
それだけ言って、去っていった。
(……来ないようにするって、何を)
疑問は残ったけれど、あの声の低さは冗談を言っている人の声ではなかった。
手袋の中で、傷ついた指がじんわりと温かい。
◇
数日後。
エルザの案内で、辺境伯夫人の茶会に招かれた。
領主館の一室。白い壁に、淡い花の模様のカーテン。テーブルには焼き菓子と紅茶が並び、近隣の領地から集まった五人ほどの貴族夫人たちが、和やかに談笑していた。
場違い感がすごい。
(元公爵令嬢のくせに場違いもないだろう、と自分でも思うけれど──正直、こういう席は得意じゃなかった。公爵家にいた頃も、社交は苦手だった)
「皆様、本日ご紹介したい方がいらっしゃいますの」
辺境伯夫人は穏やかな声の、銀髪の女性だった。エルザから聞いていた通り、柔らかい物腰で、でも芯のある方だ。
「こちらの街で石鹸と香油の工房を営んでいらっしゃるクロエさんです。先日、うちの屋敷に納品いただいた石鹸が大変素晴らしくて」
「は、初めまして。石鹸と香油を作っております、クロエと申します」
ぎこちないお辞儀をすると、夫人たちの目が私の手元に集まった。
「まあ、石鹸ですか? 見せていただけます?」
エルザが気を利かせて、事前に預かっていた石鹸を夫人たちに配る。野花の精油と、雪花草の香油を練り込んだ新作──エルザと一緒に調整したものだ。
一人の夫人が匂いを嗅いだ瞬間、「あら」と小さく声を上げた。
「この香り……上品ですわね。それに肌触りが柔らかい」
「辺境の冬は乾燥しますでしょう? この石鹸は保湿性を高めた配合にしていまして」
「まあ、保湿! それは嬉しいわ」
話し始めると、止まらなかった。
成分の話、使い方の話、香りの好みの話。前世の研究開発部にいた頃に培った「商品説明」の技術が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
気づけば、五人の夫人全員から注文を受けていた。
茶会が終わりに近づいた頃、辺境伯夫人がカップを置いて、静かに言った。
「クロエさん。あなたの石鹸を、辺境伯領の推奨商人として正式にご紹介したいのですけれど」
──え。
推奨商人。
それは辺境伯領の公的な認定を受けるということ。領主のお墨付きがあるということ。
「お屋敷の衛生改善にも大きく貢献していただいていますし、何より品質が確かですもの。いかがかしら」
「……光栄です。ぜひ、お願いいたします」
声が、かすかに震えた。今度は緊張ではなく、別の理由で。
帰り道、エルザと並んで石畳の坂を下りながら、深呼吸した。冬の空気が冷たくて、肺が澄んでいく。
「クロエさん、すごかったです! 夫人たち、みんな目がきらきらしてましたよ」
「エルザさんが準備してくれたおかげだよ」
「いやいやいや、あたしは石鹸を配っただけですって。説明したのはクロエさんですからね」
工房が見えてきた。カイが直した看板が、冬の夕日に照らされている。添え木の跡が白く浮き上がって、少し不恰好だけれど──前より、しっかり立っている。
鞄の中から、カイの手袋を取り出した。返さなければ。でも、もう少しだけ──。
(……この手袋、やっぱり上等すぎるんだよなあ。辺境の青年がこんなもの持ってるって、普通じゃないよね)
疑問は胸の隅に引っかかったまま、答えは出なかった。
──推奨商人。
公爵家の使者が来ても、もう私は「どこの誰か分からない余所者」じゃない。
辺境伯領に認められた、石鹸職人だ。
看板の下を通って、工房の扉を開ける。
立て付けの悪い扉が、今日は一度で開いた。




