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さようなら、と微笑んだ悪役令嬢の工房日記  作者: 九葉(くずは)


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第4話 生姜と蜂蜜

 くしゅん。


 ──これで今朝三回目だ。


 秋も深まった辺境の朝は、息が白くなるほど冷える。工房の壁は石造りだから底冷えがひどい。カイが直してくれた窓のおかげで隙間風はなくなったけれど、そもそもの気温が低い。


 新しい香油の試作に没頭するあまり、ここ数日はろくに寝ていなかった。蒸留器の前で夜明けを迎えること二回。食事は干し肉とパンの切れ端。


(前世でもこういう生活してたなあ。新商品の発売前は研究室に泊まり込んで、結局身体壊して──)


 いや。あの結末は思い出さないでおこう。


 くしゅん。四回目。


 鼻をすすりながら、蒸留器から落ちる精油の雫を数えた。今回はラベンダーに、辺境特有の白い小花──地元の人が「雪花草」と呼んでいるもの──を配合している。この組み合わせなら、肌の乾燥にも効く保湿性の高い香油ができるはずだ。


 鼻が詰まっていて、香りの確認ができないのが問題だけれど。



 ◇



 昼過ぎ。カイがいつも通り工房にやって来た。


「いらっしゃいませ」


「……」


 棚から白い石鹸をひとつ取り、カウンターに置く。値段改定後の銅貨を、きっちり数えて出す。この人は本当に毎週同じことをする。同じ曜日、同じ時間、同じ石鹸。


 私が銅貨を受け取ろうとした時、カイの手が止まった。


 灰色の瞳が、じっと私の顔を見ている。いつもより長い沈黙。


「……顔色が悪い」


「え? いえ、大丈夫です。ちょっと寝不足なだけで」


「……」


 カイはもう一度、私の顔をじっと見た。何か言いかけるように唇が動いて──結局、何も言わず石鹸を受け取り、出ていった。


 いつもより歩く速度が、ほんの少しだけ遅かった気がする。


(心配してくれたのかな。……いや、気のせいかな)


 どっちでもいいか。石鹸を買ってくれるだけでありがたい。


 くしゅん。五回目。



 ◇



 翌朝。


 工房の扉を開けた瞬間、足元に何かがあった。


 茶色い紙袋。口を紐でくくってあって、中身は──生姜の塊と、小さな壺に入った蜂蜜。


 メモはない。名前もない。ただ、紙袋の口を結んでいる紐が妙にきちんとした結び方だった。


「……え?」


 しゃがんで紙袋を持ち上げる。生姜はずっしり重くて、蜂蜜の壺はまだほのかに温かい。つまり、そんなに前に置かれたわけじゃない。


 通りを見回したけれど、朝靄の中に人影はなかった。


 誰だろう。


 ……いや、思い当たる人は、一人しかいないのだけれど。


 その日の夜、生姜を薄く切って蜂蜜と一緒にお湯に溶かして飲んだ。じんわりと喉を下りていく温かさに、目の奥がぼんやり熱くなった。


 辺境に来てから、誰かに「身体を労われ」と言われたのは初めてだった。言葉では言われていないけれど。



 ◇



 翌週。カイがいつもの時間に来た。


 石鹸を一つ、カウンターに置く。銅貨を出す。


「カイさん」


「……ああ」


「この間はありがとうございました。生姜の」


 カイの手が、ぴくりと止まった。


「……何のことだ」


 灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ横にそれた。


 そっぽを向いたその横顔は、口元の布で表情がほとんど隠れている。でも、耳の先がわずかに赤くなっていた。


(……この人、嘘が下手だなあ)


「お蜂蜜、とても美味しかったです。おかげで風邪が治りました」


「知らない。行商人にでも聞け」


 早口で言って、石鹸を掴んで出ていく。いつもの二倍くらいの速さで。


 扉が閉まった後、一人で小さく吹き出した。


 無口で無愛想で、何を考えているか分からない人だと思っていた。でも、ちょっとだけ──ほんのちょっとだけ、可愛い人なのかもしれない。


(……いや、何を考えてるの私。常連のお客様を「可愛い」って何)


 首を振って、作業に戻った。



 ◇



 さらに数日後。


 カイが「行商人の知り合いがいる」と、二人の商人を工房に連れてきた。辺境の東側を回っている商人で、石鹸を見て「これは東の領でも売れる」と目を輝かせていた。


 注文帳に書き込む数が、一気に倍になった。


(嬉しい。嬉しいけど、一人じゃ追いつかない……)


 そんなことを考えていた矢先。


「ごめんください」


 工房の入り口に、見覚えのない若い女性が立っていた。亜麻色の髪を三つ編みにした、にこにこと人懐っこい顔の娘。年は私と同じくらいだろうか。


「辺境伯のお屋敷に仕えておりますエルザと申します。奥方様のお使いで参りました」


 辺境伯のお屋敷。この辺りを治めている領主の──。


「こちらの石鹸がとても良いとお聞きしまして。もしよろしければ、お手伝いに伺ってもいいですか? それから、お屋敷への納品もご相談できれば」


 面食らった。辺境伯の屋敷といえば、この辺りで最も格式の高い場所だ。そこに石鹸を納品する──ということは、辺境伯夫人がうちの石鹸を認めてくれたということ。


「もちろんです! ぜひ」


「わあ、よかった! 実はあたし、前にベルタさんから石鹸をもらって使ってみたんです。そしたらもう、肌がつるっつるになって」


 エルザは話し始めると止まらない人だった。


 石鹸の使い心地、お屋敷の奥方様の好み、辺境の冬の過ごし方、市場の美味しいパン屋の情報。矢継ぎ早に繰り出される話題に最初は圧倒されたけれど、気づいたら私も笑っていた。


 ──この世界で、同年代の女性とこんなふうに笑って話したのは初めてだ。


 公爵家にいた頃、同年代の令嬢たちは私を避けていた。「悪役令嬢」の噂があったから。前世でも、研究室にこもりきりで友人は少なかった。


「クロエさん、これ、奥方様からです。辺境の冬は乾燥がひどいから、お肌に良い香油も作れたら嬉しいって」


「あ、ちょうど新しい香油の試作をしていたんです。雪花草を使った保湿用の」


「雪花草! あれ大好きなんです、あたし。いい匂いですよね」


 エルザの笑顔につられて、自分の頬が緩んでいるのが分かった。


 友人。


 この人が、辺境で初めてできた友人になるかもしれない。そう思ったら、胸の奥がじんわりと温かくなった。



 ◇



 夕方。


 エルザが帰った後、帳簿を整理していると、表通りから馬車の車輪の音が近づいてきた。


 ベルタだった。いつもの行商馬車だけれど、今日はいつもと様子が違う。いつもは馬車に山と積まれた荷物を担いでのんびりやって来るのに、荷台から飛び降りるようにして工房に駆け込んできた。


 息が切れている。赤銅色の髪が汗で額に貼りついていた。


「ベルタさん? どうしたんですか」


「クロエちゃん」


 ベルタの目が、いつもの商人の目とは違っていた。慎重で、でも温かい。


「東の宿場町で聞いた話なんだけどね」


 そう言って、ベルタは声を低くした。


「王都から、公爵家の使者が辺境に向かってるって」


 ──心臓が、一拍だけ止まった。


 公爵家。


 つまり、父の──レオナルド公爵の。


「……何の用で?」


「分からない。でも、執事長が動いたって話だから、公爵本人の指示ってことだよ。一週間くらいでこっちに着くんじゃないかな」


 紙袋の中に残っていた生姜の欠片を、無意識に握りしめていた。


 ようやく見つけた場所。ようやく回り始めた歯車。ベルタの仕入れ、カイの助言、エルザの笑顔。少しずつ、少しずつ積み上げてきたもの。


 それを壊しに来るのか。


 ──いや。


 深く、息を吐いた。


 握りしめた生姜を、そっとテーブルに置く。


「……ベルタさん、ありがとうございます。教えてくれて」


「大丈夫?」


「大丈夫です。逃げません」


 逃げない。もう、逃げる場所を探す人生は終わりにした。


 窓の外では、秋の夕日が辺境の山並みを赤く染めていた。カイが直してくれた窓は、今日もぴたりと閉まっている。


 一週間。準備の時間は、ある。

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