第3話 値段の話
石鹸が売れるということは、私がここにいていいということだ。
……なんて、大げさかもしれない。でも、ベルタが仕入れた十個の石鹸が、たった一週間で完売したと聞いた時、思わずそう思ってしまった。
工房を開いて一ヶ月と少し。ベルタの行商ルートを通じて、近隣の村にも石鹸が届くようになっていた。街の市場で買い物をしていると、八百屋のおかみさんに「あんたんとこの石鹸、うちの娘が気に入ってるよ。肌がすべすべになるんだって」と言われた。
知らない人が、私の作ったものを使って、喜んでくれている。
それだけのことなのに、足元がじんわり温かくなるような感覚がある。
◇
その日も、カイは来た。
毎週、決まった曜日の昼過ぎ。質素な上着、口元を覆う布、灰色の瞳。もう三度目の来店だから、さすがに私も顔を覚えた。
「いらっしゃいませ」
「……ああ」
相変わらず言葉が少ない。棚から石鹸をひとつ取り、カウンターに置く。毎回同じ──野花の精油で香りづけした、白い石鹸。
私が値札の銅貨を受け取ろうとした時だった。
「安すぎる」
「……え?」
「この値段は安すぎる」
カイの灰色の瞳が、値札と私を交互に見ている。無表情だった顔に、かすかに眉を寄せた気配があった。
「材料費と手間を考えろ。獣脂、灰汁、精油の蒸留にかかる薪代。それに乾燥の日数。これだけの品質を出すのに、この値段はあり得ない」
(……なんでこの人、原価の内訳まで分かるの?)
驚いた。辺境の青年が、石鹸の製造工程をここまで正確に把握しているとは思わなかった。
「でも、辺境の相場だと石鹸はこのくらいで……」
「相場は品質で決まる」
カイの声は低く、抑揚がない。けれど、断定の力があった。
「これは相場の二倍でも売れる。自分の仕事を安く見積もるな」
──そう言って、銅貨を一枚多くカウンターに置き、石鹸を持って出ていった。
振り返りもしない。いつも通り。
私はカウンターに残された銅貨を見下ろした。
……自分の仕事を、安く見積もるな。
(商売に詳しい人なんだなあ)
そう思った。思ったのだけれど──なぜだろう。その言葉が、思ったよりずっと胸の奥に沁みた。
前世では十二年間、「もっと安くできないか」「コストカットを」「単価を下げろ」ばかり言われ続けた。安くしなければ認められない。安くしなければ使ってもらえない。自分の仕事には、安い値段しかつかないのだと──いつの間にか、そう思い込んでいた。
この世界でも同じだった。公爵家にいた頃、私が開発した香油は公爵家の名前で売られていた。私の名前はどこにもなかった。
なのにこの人は、石鹸ひとつの値段を見て、「安すぎる」と言った。
……変な人。
◇
午後、工房の裏手で石鹸の乾燥棚を整えていると、ベルタが馬車を停めてやって来た。
「クロエちゃん、追加で十五個お願いしていい? 東の村でもう引き合いが来てるのよ」
「十五個! ありがとうございます、来週までに仕上げます」
帳簿を取り出して注文を書き込む。ベルタは石鹸の在庫をひっくり返しながら品定めをしていたが、ふと手を止めた。
「……ねえ、クロエちゃん」
声の調子が変わった。さっきまでの商売人の勢いが消えて、妙に慎重な響き。
「あたし、昔ね。王都の方でも行商をやっててさ」
「はあ」
「その時、公爵家の香油を仕入れてたことがあるんだけど」
──心臓が、ぎゅっと縮んだ。
手が止まる。帳簿を持つ指先が、白くなっていることに気づいた。
「あの香油の精油の蒸留法、すごく独特でね。ラベンダーに野の花を二種類混ぜる、あの配合。あたし鼻がいいから覚えてるの」
ベルタの目が、乾燥棚の石鹸に移る。
「あんたの石鹸の香り、あの時の配合にそっくりなのよ。もしかして……アシュフォードの──」
「いいえ」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「もうその名前の人間はいません」
ベルタが目を見開いた。
「私はただの工房主です。クロエという名の、辺境の石鹸職人です」
しばらく沈黙が落ちた。秋風が乾燥棚の布を揺らす音だけが聞こえる。
ベルタの顔が、ゆっくりと緩んだ。厳しかった商人の目が、温かいものに変わる。
「……そっか」
それだけ言って、ベルタは石鹸をもう一つ手に取った。
「じゃあクロエちゃん、あんたの石鹸をもっと広めるわよ。ただの工房主の石鹸って言ったほうが、あたしも売りやすいしね」
鼻の奥がつんとした。でも泣かない。ここで泣いたら、今の言葉が嘘になる。
「……ありがとうございます」
「お礼は品質で返して頂戴。あたしは品質にしか興味ないの」
にかっ、と笑ったベルタの顔は、前世の営業部にいた先輩にちょっと似ていた。
◇
夜。
工房の奥の小さな机で、蝋燭の灯りを頼りに帳簿を広げた。
カイの言葉が頭を離れない。安すぎる。自分の仕事を安く見積もるな。
原価を書き出す。獣脂──三リーブル。灰汁──一リーブル。精油の抽出にかかる薪と手間──二リーブル。乾燥に七日。梱包。
計算してみると、確かに今の値段は原価の一・二倍程度にしかなっていなかった。前世の感覚で言えば、利益率が低すぎて商品として成立しない水準だ。
(……なんで私、こんな値段つけてたんだろう)
分かっている。怖かったのだ。高い値段をつけて、「誰も買ってくれなかったらどうしよう」と思ったから。安くしておけば、とりあえず手に取ってもらえるかもしれない。そう考えた。
──前世と同じだ。安くしなければ認めてもらえないと、勝手に思い込んでいた。
帳簿の余白に、新しい値段を書いた。今の一・八倍。カイが言った「二倍」には少し届かないけれど、材料費と手間に見合う、正当な金額。
ペンを置いて、しばらくその数字を眺めた。
不思議と、怖くなかった。
(適正な値段を、自分でつけていい。誰かの許可はいらない)
前世では安売りを強いられ、この世界では功績を奪われた。でも今、私は自分の石鹸に、自分で値段をつけることができる。
小さく、笑った。
カイのあの無表情を思い出す。「安すぎる」──あの一言にどれだけ救われたか、たぶんあの人は知らない。
(商売に詳しいだけの人、のはずなんだけどなあ)
それ以上考えるのはやめた。考えたら、ちょっと困る気がしたから。
◇
同じ頃、王都。
夕刻のサロンで、アシュフォード公爵家とかつて取引のあった伯爵夫人が、侍女に顔をしかめて見せた。
「この香油、前のものと全然違うじゃない。香りが薄いし、肌に合わない。別のお店を探して頂戴」
「かしこまりました。……実は最近、同じようなお声が他のお得意様からも」
侍女は言葉を濁したが、伯爵夫人はもう興味を失ったように手を振った。
アシュフォード公爵家の香油が評判を落とし始めていることを、まだ公爵本人は知らない。




