表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
さようなら、と微笑んだ悪役令嬢の工房日記  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/10

第3話 値段の話

 石鹸が売れるということは、私がここにいていいということだ。


 ……なんて、大げさかもしれない。でも、ベルタが仕入れた十個の石鹸が、たった一週間で完売したと聞いた時、思わずそう思ってしまった。


 工房を開いて一ヶ月と少し。ベルタの行商ルートを通じて、近隣の村にも石鹸が届くようになっていた。街の市場で買い物をしていると、八百屋のおかみさんに「あんたんとこの石鹸、うちの娘が気に入ってるよ。肌がすべすべになるんだって」と言われた。


 知らない人が、私の作ったものを使って、喜んでくれている。


 それだけのことなのに、足元がじんわり温かくなるような感覚がある。



 ◇



 その日も、カイは来た。


 毎週、決まった曜日の昼過ぎ。質素な上着、口元を覆う布、灰色の瞳。もう三度目の来店だから、さすがに私も顔を覚えた。


「いらっしゃいませ」


「……ああ」


 相変わらず言葉が少ない。棚から石鹸をひとつ取り、カウンターに置く。毎回同じ──野花の精油で香りづけした、白い石鹸。


 私が値札の銅貨を受け取ろうとした時だった。


「安すぎる」


「……え?」


「この値段は安すぎる」


 カイの灰色の瞳が、値札と私を交互に見ている。無表情だった顔に、かすかに眉を寄せた気配があった。


「材料費と手間を考えろ。獣脂、灰汁、精油の蒸留にかかる薪代。それに乾燥の日数。これだけの品質を出すのに、この値段はあり得ない」


(……なんでこの人、原価の内訳まで分かるの?)


 驚いた。辺境の青年が、石鹸の製造工程をここまで正確に把握しているとは思わなかった。


「でも、辺境の相場だと石鹸はこのくらいで……」


「相場は品質で決まる」


 カイの声は低く、抑揚がない。けれど、断定の力があった。


「これは相場の二倍でも売れる。自分の仕事を安く見積もるな」


 ──そう言って、銅貨を一枚多くカウンターに置き、石鹸を持って出ていった。


 振り返りもしない。いつも通り。


 私はカウンターに残された銅貨を見下ろした。


 ……自分の仕事を、安く見積もるな。


(商売に詳しい人なんだなあ)


 そう思った。思ったのだけれど──なぜだろう。その言葉が、思ったよりずっと胸の奥に沁みた。


 前世では十二年間、「もっと安くできないか」「コストカットを」「単価を下げろ」ばかり言われ続けた。安くしなければ認められない。安くしなければ使ってもらえない。自分の仕事には、安い値段しかつかないのだと──いつの間にか、そう思い込んでいた。


 この世界でも同じだった。公爵家にいた頃、私が開発した香油は公爵家の名前で売られていた。私の名前はどこにもなかった。


 なのにこの人は、石鹸ひとつの値段を見て、「安すぎる」と言った。


 ……変な人。



 ◇



 午後、工房の裏手で石鹸の乾燥棚を整えていると、ベルタが馬車を停めてやって来た。


「クロエちゃん、追加で十五個お願いしていい? 東の村でもう引き合いが来てるのよ」


「十五個! ありがとうございます、来週までに仕上げます」


 帳簿を取り出して注文を書き込む。ベルタは石鹸の在庫をひっくり返しながら品定めをしていたが、ふと手を止めた。


「……ねえ、クロエちゃん」


 声の調子が変わった。さっきまでの商売人の勢いが消えて、妙に慎重な響き。


「あたし、昔ね。王都の方でも行商をやっててさ」


「はあ」


「その時、公爵家の香油を仕入れてたことがあるんだけど」


 ──心臓が、ぎゅっと縮んだ。


 手が止まる。帳簿を持つ指先が、白くなっていることに気づいた。


「あの香油の精油の蒸留法、すごく独特でね。ラベンダーに野の花を二種類混ぜる、あの配合。あたし鼻がいいから覚えてるの」


 ベルタの目が、乾燥棚の石鹸に移る。


「あんたの石鹸の香り、あの時の配合にそっくりなのよ。もしかして……アシュフォードの──」


「いいえ」


 自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。


「もうその名前の人間はいません」


 ベルタが目を見開いた。


「私はただの工房主です。クロエという名の、辺境の石鹸職人です」


 しばらく沈黙が落ちた。秋風が乾燥棚の布を揺らす音だけが聞こえる。


 ベルタの顔が、ゆっくりと緩んだ。厳しかった商人の目が、温かいものに変わる。


「……そっか」


 それだけ言って、ベルタは石鹸をもう一つ手に取った。


「じゃあクロエちゃん、あんたの石鹸をもっと広めるわよ。ただの工房主の石鹸って言ったほうが、あたしも売りやすいしね」


 鼻の奥がつんとした。でも泣かない。ここで泣いたら、今の言葉が嘘になる。


「……ありがとうございます」


「お礼は品質で返して頂戴。あたしは品質にしか興味ないの」


 にかっ、と笑ったベルタの顔は、前世の営業部にいた先輩にちょっと似ていた。



 ◇



 夜。


 工房の奥の小さな机で、蝋燭の灯りを頼りに帳簿を広げた。


 カイの言葉が頭を離れない。安すぎる。自分の仕事を安く見積もるな。


 原価を書き出す。獣脂──三リーブル。灰汁──一リーブル。精油の抽出にかかる薪と手間──二リーブル。乾燥に七日。梱包。


 計算してみると、確かに今の値段は原価の一・二倍程度にしかなっていなかった。前世の感覚で言えば、利益率が低すぎて商品として成立しない水準だ。


(……なんで私、こんな値段つけてたんだろう)


 分かっている。怖かったのだ。高い値段をつけて、「誰も買ってくれなかったらどうしよう」と思ったから。安くしておけば、とりあえず手に取ってもらえるかもしれない。そう考えた。


 ──前世と同じだ。安くしなければ認めてもらえないと、勝手に思い込んでいた。


 帳簿の余白に、新しい値段を書いた。今の一・八倍。カイが言った「二倍」には少し届かないけれど、材料費と手間に見合う、正当な金額。


 ペンを置いて、しばらくその数字を眺めた。


 不思議と、怖くなかった。


(適正な値段を、自分でつけていい。誰かの許可はいらない)


 前世では安売りを強いられ、この世界では功績を奪われた。でも今、私は自分の石鹸に、自分で値段をつけることができる。


 小さく、笑った。


 カイのあの無表情を思い出す。「安すぎる」──あの一言にどれだけ救われたか、たぶんあの人は知らない。


(商売に詳しいだけの人、のはずなんだけどなあ)


 それ以上考えるのはやめた。考えたら、ちょっと困る気がしたから。



 ◇



 同じ頃、王都。


 夕刻のサロンで、アシュフォード公爵家とかつて取引のあった伯爵夫人が、侍女に顔をしかめて見せた。


「この香油、前のものと全然違うじゃない。香りが薄いし、肌に合わない。別のお店を探して頂戴」


「かしこまりました。……実は最近、同じようなお声が他のお得意様からも」


 侍女は言葉を濁したが、伯爵夫人はもう興味を失ったように手を振った。


 アシュフォード公爵家の香油が評判を落とし始めていることを、まだ公爵本人は知らない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ