第2話 最初のひとつ
獣脂が灰汁に溶けていく匂いは、前世の実験室と同じだった。
甘ったるくて、少し焦げ臭くて、鼻の奥にこびりつく。でも私にとっては懐かしい匂いだ。この匂いがする場所で、十二年間働いて死んだのだから。
──いや、懐かしがってる場合じゃないんだけど。
辺境の街に来て二週間。崩れかけの空き家を掃除して、壁の隙間を布で塞いで、近くの精肉店で獣脂を安く分けてもらい、薬屋で灰汁を調達した。
今日は三度目の試作。
一度目は灰汁の濃度が高すぎた。手にぴりぴり刺激が来て、「これは洗顔じゃなくて洗剤だわ」と自分でツッコんだ。二度目は獣脂の温度を上げすぎて、分離した。前世なら温度計があるのに、ここにはない。指を突っ込んで「熱っ」と引っ込めて、それで温度を測るしかない。
(……化粧品メーカーの研究室にいた人間が、指で温度を測ってる。上司が見たら泣くわね)
でも、三度目。
灰汁をほんの少しずつ、ほんの少しずつ足していく。木べらでゆっくり混ぜながら、粘度を指先で確かめる。
トレース。
表面に木べらの跡が残る瞬間。前世で何百回と見た、あの兆候。
「……来た」
思わず声が漏れた。
型に流して、布をかけて、涼しい場所に置く。あとは二日間、待つだけ。
二日後。
型から外した白い塊を、手のひらに乗せた。
少し不格好。角が丸くて、大きさもまちまち。でも、水をつけて擦ると──泡が立った。きめ細かくて、きゅっきゅと肌に吸いつくような泡。
裏の山で摘んだ野花から蒸留した精油を数滴。ふわりと甘い、草原の匂いが広がる。
「……うん。今日のは、いい」
自分で作ったものを自分で褒めるのは少し恥ずかしい。でも、いいものはいい。
これは、この世界で私が初めて作ったもの。
最初のひとつ。
◇
石鹸を店先に並べた翌日のことだ。
工房の窓ががたがた鳴っていた。立て付けが悪くて、風が吹くたびに隙間から冷気が入ってくる。秋の辺境は朝晩の冷え込みがきつい。この前は寝ている間に窓が半開きになっていて、朝起きたら唇が紫だった。
(さすがに凍死は嫌だな……前世で過労死して、今度は凍死とか、死因のバリエーションが増えるだけだわ)
木片を隙間に挟んで応急処置をしていたら、外から足音が聞こえた。
玄関のない──というか、扉が開きっぱなしの入り口に、人影が立っている。
あの人だった。
二週間前、荷物を運んでくれた青年。質素な上着に、口元を覆う布。灰色の瞳だけが、薄暗い工房の中をじっと見回している。
そして彼は、片手に工具箱のようなものを持っていた。
「……不便だろう」
低い声。それだけ言って、彼は窓のほうに歩いていった。
「え、あの──」
私が何か言う前に、もう窓枠を外し始めていた。手際がいい。木片を削って、蝶番を調整して、枠を嵌め直す。その手つきは慣れたもので、太い指が意外なほど器用に動いている。
五分ほどで作業が終わった。窓を開けて、閉めて。ぴたりと収まる。隙間風はもうない。
「……できた」
「あ、ありがとうございます」
慌てて頭を下げた。この人、名前も知らないのに。
「あの、お名前を伺っても……」
青年は少し間を置いた。灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ私の顔に留まる。
「……カイ」
それだけ。
工具箱を拾い上げて、来た時と同じように黙って出ていく。引き止める間もなかった。
……不思議な人だなあ。
わざわざ工具を持って来たということは、この窓のことを知っていたということだ。二週間前に荷物を運んでくれた時に、見ていたんだろうか。
(親切な人なんだろうけど……なんで?)
首を傾げたけれど、深く考えるのはやめた。
窓を開けてみる。ぴたり。閉める。ぴたり。
少しだけ、口元が緩んだ。
◇
石鹸を店先に並べて、一日目。
客は来なかった。
二日目。
通りかかった老人が、ちらりと看板を見て、素通りした。
三日目。
朝から晩まで、工房の前に座って待った。誰も来ない。街の人たちは珍しそうに覗くけれど、足を止めはしない。辺境の街に突然現れたよそ者の女が作った、見慣れないもの。警戒されて当然だ。
わかっている。わかっているけど。
(前世だって、新製品の初週は売上ゼロなんてざらだった。棚に並べて三ヶ月、やっと一つ売れた日のことを覚えている。あの時も胃が痛かった)
でも前世には会社があった。給料があった。今の私には、この石鹸が全てだ。
三日間客ゼロ。
夜、工房の奥の狭い部屋で毛布にくるまりながら、天井を見上げた。木の節目が顔みたいに見える。
……また、報われないのかな。
前の人生で必死に働いて、体を壊して死んで。この人生で必死に帳簿を整えて、婚約者に捨てられて。そしてまた、必死に作った石鹸は誰にも見向きもされない。
──いや。
目を閉じて、首を振る。
あの石鹸は良いものだ。泡立ちも、香りも、肌触りも。前世の研究開発部で培った知識をこの世界の素材に落とし込んだ、私にしか作れないもの。
それを知っているのは、まだ私だけ。
なら、知ってもらうところから始めればいい。それだけのことだ。
◇
四日目の昼過ぎ。
工房の前に、馬車を引いたがっしりとした女性が立っていた。
赤銅色の髪を頭の上でぐるぐると巻いて、日焼けした顔に人懐っこい笑み。背中には行商人特有の大きな荷を背負っている。五十は過ぎているだろうに、腕の太さが私の倍はある。
「ここ、新しいお店? 石鹸って書いてあったから寄ってみたんだけど」
「はい、石鹸を作っています。よろしければ──」
「触っていい?」
返事を待たずに、女性は棚の石鹸を手に取っていた。ひっくり返して、匂いを嗅いで、爪で表面を軽く引っ掻く。品定めの動きが手慣れている。
「水、もらえる?」
急いで桶を持ってくると、女性は石鹸を水につけて、両手で泡立て始めた。
もこもこと盛り上がる白い泡。きめ細かくて、弾力がある。
女性の目が、ぐっと見開かれた。
「……なにこれ」
「え?」
「この泡立ちと香り……」
女性は泡のついた手を光にかざした。きらきらと虹色に光る、きめの揃った泡。
「王都級だわ。いや、王都の石鹸よりいいかもしれない」
私は息を呑んだ。
「あたしはベルタ。この辺りを回ってる行商人よ。ねえ、あんた」
ベルタと名乗ったその人は、泡だらけの手のまま私をまっすぐ見た。
「これ、十個仕入れていい?」
……え。
十個。
仕入れ。
つまり、売ってくれるということ。この石鹸を、誰かのもとに届けてくれるということ。
鼻の奥がつんとした。泣きそうになるのを、唇を噛んでこらえた。
「──はい。喜んで」
声が、ちょっとだけ震えた。
ベルタはにっと笑って、「じゃあ明日取りに来るわ。包装は簡単でいいからね」と言い残し、馬車のほうへ戻っていった。
一人になった工房で、作業台の上の石鹸を見つめた。
不格好で、角が丸くて、大きさもまちまちの──でも、私が作った、最初のひとつ。
(……やっと、認めてもらえた)
誰かのためじゃない。誰かに命じられたわけでもない。私が作りたくて作ったものを、「いい」と言ってくれた人がいる。
窓から差し込む秋の日差しが、石鹸の表面をやわらかく照らしていた。
◇
同じ頃。
王都、アシュフォード公爵邸の地下。
香油工房の作業台には、この二週間で失敗した試作品が山積みになっていた。色が濁り、香りの飛んだ、売り物にならない代物ばかり。
職人頭のハンスは、壁に掛けられた今月の納品予定表を見上げて、額の汗を拭った。
王妃への献上用香油。伯爵夫人への特注品。いずれも、クロエお嬢様の配合表がなければ再現できない。
「ハンスさん」
若い職人が小声で言った。
「お嬢様のメモ、どうしても読めません。この記号、うちの誰にも分からなくて……」
「……分かってる」
ハンスは製法メモの束に目を落とした。暗号のような数字と記号の羅列。十年以上一緒に働いてきたのに、お嬢様の頭の中だけにあった知識を、自分たちは一度も理解しようとしなかった。
いや──理解する必要がなかった。お嬢様がいつもそこにいて、全部やってくれたから。
今月の新規注文は、昨年の同月より三割減。苦情は五件。
ハンスは誰にも聞こえないように呟いた。
「……勘当なんて、しなけりゃよかったのに」




