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さようなら、と微笑んだ悪役令嬢の工房日記  作者: 九葉(くずは)


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第10話 いい香りだ

 報告書は、乾いたインクの匂いがした。


 王家の紋章入りの封蝋を割り、中身を広げる。領主会議から一ヶ月。待っていた書面が、ようやく届いた。


 工房のテーブルに報告書を置いて、一行ずつ読んでいく。


『第一項。アシュフォード公爵家の正式帳簿を調査した結果、故アシュフォード公爵夫人エレノアの持参金三万リーブルが、公爵家の香油事業に無断流用されていたことが確認された。遺言状に基づき、持参金およびその運用益はクロエ・アシュフォードに帰属する』


『第二項。婚約破棄の根拠となった「聖女マーガレットに対する虐待」の証言について調査した結果、当該証言はマーガレット・ホーリーの侍女による捏造であったことが判明した。侍女は聴取において事実を認めた』


『第三項。マーガレット・ホーリーの治癒魔法について、聖女認定時に申告された上級治癒の能力は、複数の医師の再検査により中級相当であることが確認された。効力の誇張が認められる』


 淡々とした公文書の文体。感情のない言葉の羅列。でもその一行一行が、あの夜会の大広間で私に叩きつけられた断罪を、静かにひっくり返していた。


『処分。エドワード第二王子は虚偽の断罪に加担した責任を問われ、外交委員会議長を解任される。アシュフォード公爵家には持参金全額および慰謝料の返還命令。マーガレット・ホーリーの聖女認定を取り消す。公爵家の嫡男への家督相続は、返還完了まで凍結とする』


 報告書を最後まで読み終えて、テーブルに両手をついた。


 ──終わった。


 深呼吸した。冬が終わりかけた工房の空気は、まだ少し冷たい。棚に並んだ石鹸の匂い。雪花草の香油の甘い残り香。ここに来てからずっと嗅いできた、私の工房の匂い。


(……復讐じゃなかった)


 そう思った。


 あの夜会で「さようなら」と微笑んだ時、復讐を誓ったわけじゃない。父に勘当された時も、使者に帰れと言われた時も、看板を折られた時も──一度も、「あの人たちを罰してやろう」とは思わなかった。


 ただ、自分の工房を守りたかった。自分の作ったものを、自分のものだと言いたかった。母が残してくれた盾を、正しい場所で使いたかった。それだけのことだ。


 結果として──嘘は嘘だと証明された。帳簿は正しく読まれ、捏造は暴かれ、誇張は検査された。制度と証拠が、静かに仕事をした。


 報告書を丁寧に折り畳んで、棚に置いた。カイが作ってくれた、あの小さな棚。最初の石鹸の隣に。


 窓の外を見た。


 春の光が、通りに差し始めている。



 ◇



 工房の扉に「臨時休業」の札をかけて、外に出た。


 何も考えなかったと言えば嘘になる。領主会議の後、ずっと考えていた。花の絵のこと。紅茶の茶葉のこと。窓を直してくれたこと。看板を直してくれたこと。手袋のこと。生姜と蜂蜜のこと。値段が安すぎると言ってくれたこと。背中で庇ってくれたこと。泣いた後に何も聞かなかったこと。


 全部。


 一つ一つ思い出すたびに、胸の奥がきゅうっと締まって、そのくせ温かくて、名前のつけられない感情が積み上がっていった。


 ──名前は、もう分かっている。分かっているけれど、言葉にするのが怖かった。


 でも。


 あの人は、十年以上も花の絵を持っていてくれた。正体がばれて、拒絶されても、紅茶の茶葉を三日間置き続けた。領主会議で一言も口を挟まず、私が自分の言葉で戦うのを信じて待っていた。


 そういう人に対して、怖いからという理由で黙っているのは──もう、やめにしたい。


 領主館の門をくぐった。



 ◇



 書斎の扉を叩くと、リュカが開けてくれた。


「クロエ殿」


「リュカさん。……閣下は、いらっしゃいますか」


 リュカがかすかに微笑んだ。


「中にどうぞ」


 書斎に入った。


 カイは窓際に立っていた。辺境伯の正装ではなく、いつもの質素な上着。口元の布はしていない。花の絵が掛かった壁の前に、腕を組んで、窓の外を見ている。


 私の足音に気づいたのだろう。振り返った。


 灰色の瞳。


 あの日──辺境の街に着いた日に、私の荷物を黙って持ち上げた人の瞳。何も言わず、名乗りもせず、ただ私を見ていた、あの灰色。


「……来たのか」


 低い声。工房で何度も聞いた、あの声。


「はい」


 手の中に、紙包みを握っていた。今朝、工房で作ったばかりの石鹸。野花の精油と雪花草の香油を練り込んだ新作。一番自信のあるもの。


「これを──渡しに来ました」


 差し出した。カイは黙って受け取った。太い指が、紙包みを丁寧に開く。白い石鹸が現れた。


 カイが石鹸を手に取り、鼻先に近づけた。


 長い沈黙。


「……いい香りだ」


 その一言で、涙が出そうになった。


 たった四文字。でもあの人がそう言ってくれるだけで、私がこの工房で作ってきた全部が──前世で死んでからこの世界に来て、断罪されて、勘当されて、辺境で一人で始めた全部が──報われた気がした。


「もう一つ、お願いがあります」


「……なんだ」


「あなたの分の紅茶を、これからも淹れていいですか」


 カイの灰色の瞳が、大きく揺れた。


 長い沈黙。


 あの人は言葉が少ない。最初に会った時からそうだった。窓を直す時も、看板を直す時も、手袋を渡す時も、いつも一言か二言。感情を言葉にするのが苦手な人なのだと、もうずっと前から知っていた。


 だから、待った。


 カイの瞳が揺れて、唇が開いて、閉じて、もう一度開いた。


「……ずっと」


 声が、かすれていた。


「ずっと、そう言ってほしかった」


 ──ああ。


 泣いてしまった。今度はこらえなかった。


 カイの手が、ぎこちなく伸びて──私の頭に、触れた。


 不器用な手。窓を直し、看板を直し、棚を作った、あの太い指。硬くて、温かくて、少しだけ震えていた。


 花の絵の前で、二人とも泣いていた。



 ◇



 工房の前のベンチに、並んで座った。


 春の風がゆるく吹いて、看板が小さく揺れる。添え木の跡が白く残った、カイが直した看板。「アトリエ・クロエ」の文字が、夕日に照らされている。


 さっき作った石鹸を、カイの手の中で眺めた。白くて、きれいな形。最初に作った不格好な石鹸とは、もう全然違う。


「……随分上手くなったな」


「当たり前です。何個作ったと思ってるんですか」


「……ああ」


 カイがもう一度、石鹸の匂いを嗅いだ。目を細めて、ほんの少しだけ──笑った。


 この人が笑うのを見たのは、初めてかもしれない。口元の布をしていないから、よく見える。不器用な、でも温かい笑顔。


「いい香りだ」


 同じ言葉。でも、さっきとは違う声だった。柔らかくて、穏やかで、ずっとこう言いたかったんだと伝わってくるような声。


 私は笑った。


 カイの手が、私の髪にそっと触れた。指先が、毛先を掬うように滑る。それだけ。


 それだけで、十分だった。


 工房の中に戻ると、棚の上に二つの石鹸が並んでいる。カイが置いた最初の一つ。不格好で、香りの飛んだ、売り物にならなかった石鹸。その隣に──今日、カイに渡したのと同じ新作を一つ、私は並べた。


 始まりと、今。


 扉の横に、カップを二つ置いた。あの茶葉で淹れた紅茶を注いで、一つをカイに渡す。


 立て付けの悪い扉を開けると、春の風が工房の中を通り抜けていった。石鹸の香りと、紅茶の湯気が、一緒に揺れる。


「……クロエ」


 名前を呼ばれた。カイが私の名前を呼んだのは、これが初めてだった。


「はい」


「…………ありがとう」


 低くて、不器用で、それでいて温かい声。


 私は微笑んだ。あの夜会の大広間で浮かべた微笑みとは違う、自分のための笑顔。


「こちらこそ」


 看板が、春風に揺れていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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組織全体がまだ良かったことも大きい
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