第1話 さようなら
「クロエ・アシュフォード。貴女の罪を、ここに宣告する」
千の蝋燭が灯る大広間が、一瞬で冷えた。
エドワード殿下──私の婚約者だった人が、壇上から見下ろしている。その隣に寄り添うようにして立つ聖女マーガレット様の瞳が、潤んでいた。まるで「私を庇って」と言わんばかりに。
お見事、と思った。
「聖女マーガレットを虐げ、その名誉を傷つけた罪により──この婚約を破棄する」
ざわり、と広間が揺れる。貴族たちが扇の影でひそひそと囁き合う気配。けれど誰一人、私のほうを見ようとはしない。
……知ってた。
こうなることを、薄々は知っていた。エドワード殿下がここ数ヶ月、夜会のたびにマーガレット様を伴い、私の席を一つずつ後ろに下げていったこと。侍女たちが私の悪評を吹聴して回っていること。私が弁明の場を求めても、「調査中だ」の一言で引き伸ばされ続けたこと。
全部、知っていた。
知っていて──何もできなかった自分が、一番惨めだ。
「クロエ・アシュフォード、弁明はあるか」
弁明。
ああ、形式だけは整えるのか。夜会の公衆の面前で、数百人の視線の中で、何を言えというのだろう。
(……ああ、これ、前にもあったな)
不意に、脳の奥がちかりと光った。
白い蛍光灯。段ボール箱。「お疲れさまでした」と言われて、デスクの私物を詰め込んだあの日。十二年働いた会社から、たった一枚の紙切れで追い出された日。
あの時も、こんなふうに周りは目を逸らしていた。
(──結局、どこの世界でも同じか)
おかしい、と思った。泣きそうなのに、胸の奥で笑いがこみ上げてくる。
前の人生では過労で死んだ。目が覚めたらこの世界の公爵令嬢で、物心ついた頃から帳簿と香油の配合に明け暮れて、婚約者には空気のように扱われて──それで最後がこれだ。
人生ままならない。本当に……ままならない。
でも。
前の人生で学んだことが一つだけある。解雇通知をもらったら、泣いても事態は好転しない。やるべきことは一つ。次の仕事を探すこと。
私は背筋を伸ばした。
「──いいえ。弁明はございません」
静かに言うと、広間がしんとなった。
エドワード殿下の整った眉がわずかに動く。泣き叫ぶか、縋りつくか、そういう反応を期待していたのだろう。マーガレット様も、涙を拭う仕草の手が止まっている。
(残念ね。台本通りには動かないの)
「皆さまのお幸せを、お祈り申し上げます」
私は微笑んだ。練習したわけでもないのに、自分でも驚くほど穏やかな笑みが浮かんだ。
「さようなら」
スカートの裾を丁寧に摘んで、一礼。
踵を返して、歩き出す。背中に数百の視線が突き刺さっていた。足が震えそうになるのを、爪を掌に食い込ませてこらえた。
──泣くのは、一人になってからでいい。
大広間の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
◇
翌朝。
アシュフォード公爵邸の書斎は、いつも通り重厚な樫の香りがしていた。
父──レオナルド・アシュフォード公爵は、執務机の向こうで腕を組んでいた。銀の混じった髪。厳めしい眉。この人の顔をまともに見るのは、いつ以来だろう。
「勘当する」
短い。
昨晩、一人で思い切り泣いて、目が腫れていることは分かっている。それでも私は真っ直ぐ父を見た。
「承知いたしました。つきましては、母の持参金の返還をお願いいたします」
「……何を言っている」
父の眉が跳ねた。この人は私がおとなしく出ていくとでも思ったらしい。
「母の持参金三万リーブルは、血族法により私に帰属する権利がございます。返還をお願いいたします」
「馬鹿を言うな。あれはとうにアシュフォード家の事業に充てている。返す金などない」
(……やっぱり)
知っていた。帳簿を管理していたのは私だ。母の持参金がどこに流れたか、何頁の何行目に記載されているか、全部覚えている。
でも今、それを突きつける力は私にはない。証拠を手元に持っていないのだから。
「……左様ですか」
それだけ言って、口を閉じた。
ここで食い下がっても無駄だと分かっていた。前の人生で学んだもう一つのこと──勝てない交渉の場で消耗するのは、時間の無駄だ。
「荷物をまとめます。今日中に出ますので」
「……ああ」
父は目を逸らした。気まずそうに、ではない。もう用は済んだ、という顔だった。
十九年。この家で帳簿を整え、香油の配合を改良し、社交の裏方を務めてきた十九年が、「ああ」の一言で終わる。
──笑える。ほんとに、笑える。
書斎を出て、自室に戻った。荷物は少なかった。そもそも自分のものと呼べるものが、この家にはほとんどなかったのだ。
母の形見の懐中時計。小さな銀のブローチ。着替えが数枚。
懐中時計の蓋を開けると、裏側に細かな文字が刻まれている。母の字だ。でも小さすぎて、今は読めない。いつか、明るいところでちゃんと見よう。
それだけ鞄に詰めて、私は屋敷を出た。
振り返らなかった。
◇
乗合馬車に揺られて、七日。
王都の喧噪が嘘のように、辺境の街は静かだった。
石畳ではなく土の道。背の高い針葉樹が街を囲み、空気は冷たくて澄んでいる。木の香ばしい匂いが、肺の奥まで染み込んでいく。
──いい場所だ。
誰も私を知らない。「アシュフォード公爵令嬢」ではない、ただの女が一人、古い鞄を抱えて街道を歩いている。それだけ。
不動産屋で聞いた空き家は、街外れの小さな建物だった。壁は煤けて、窓は割れかけている。でも屋根はあるし、裏手に水場もある。
ブローチを質屋で売った金が、ちょうど三ヶ月分の家賃になった。
母さん、ごめん。でもきっと、持っているだけより使ったほうがいいよね。
鍵を受け取って、空き家の前に立った時だった。
「……重そうだ」
低い声。
振り返ると、質素な身なりの青年が立っていた。
私より頭一つ分は背が高い。日に焼けた肌。短く切り揃えた濃い茶色の髪。顔の下半分をマフラーのような布で覆っていて、表情がよく見えない。
ただ、目だけが見えた。暗い灰色の瞳が、私の荷物と、私の顔を交互に見ている。
「あの……」
言い終わる前に、青年は私の鞄を持ち上げていた。軽々と。片手で。
その時、彼の指が私の手に一瞬だけ触れた。硬くて、乾いた指先だった。
「……どこだ」
「え?」
「荷物。どこに運ぶ」
「あ──この、家の中に」
青年は頷くと、そのまま歩き出した。名乗りもしない。私が追いかけるように小走りでついていくと、彼は玄関の前に荷物を下ろし、一度だけ振り返った。
灰色の瞳が、ほんの一瞬、私をじっと見た。
何か言いかけたように口元の布が動いて──けれど結局、何も言わずに踵を返した。
「あ、あの──ありがとうございます! お名前は……」
青年は振り返らなかった。土の道を、長い足で歩いていく。その背中が角を曲がって消えるまで、私はぼうっと見送っていた。
……不思議な人。
冷たい風が吹いて、我に返る。目の前には、古びた空き家。掌の中には、真鍮の鍵。
私は鍵を握りしめた。金属の冷たさが、じわりと体温で温まっていく。
「ここで、始めよう」
声に出したら、少しだけ本当のことになった気がした。
◇
同じ頃、王都。
アシュフォード公爵邸の地下、香油工房。
職人頭のハンスは、作業台に広げたメモを前に、青い顔をしていた。
クロエお嬢様が残した製法メモ。配合比、蒸留の温度、精油の抽出手順──全てが独自の記号と数式で書かれている。
「……読めない」
呟いた声が、薄暗い工房に落ちた。
隣の職人が覗き込み、同じ顔をする。
「ハンスさん、これ……お嬢様にしか分からないんじゃ」
「……分かってる」
手が、震えていた。来月の王妃への献上品の納期が迫っている。あの配合を再現できなければ、アシュフォード家の看板に傷がつく。
しかし、メモは沈黙したまま──何も語らなかった。




