第五話
真白は自宅に駆け込む。そして彼女の腕の中でぐったりしている仔猫を自室の座布団に寝かせると、炊事場に急ぐ。
ややあって牛乳を人肌に温めたものを持って戻り、仔猫の小さな身体を抱きかかえると、それを布に染み込ませて少しずつ飲ませた。
仔猫は最初、実に弱々しく布の端を齧って乳を啜っていたが、勢いがついてきたのか、徐々にその力は強くなっていった。
そして一通り乳を飲み終えると、安心したようにごろごろと喉を鳴らす。
真白はそこでようやっと大きく息をついた。
――助けることができたのだ。
「間に合ったな」
後からやってきた藤樹がほっとした表情で真白に声をかける。
男の言葉に途端に安堵とやりとげた実感が湧いてきて、彼女はぼろぼろと涙をこぼした。
「藤樹、私、できたよ」
「ああ、よくやった」
真白は藤樹に思わず抱きついた。彼も固く抱擁を返す。両者はしばらくきつく抱き合っていたが、不意に子猫が鳴いた。
二人は、はっとして、慌てて距離をとる。
はじめこそ顔を赤らめて照れていたが、真白はなんだかこの状況が可笑しくなってきて、思わず笑ってしまった。
「とんだ聖夜になっちゃったね」
「その仔猫にとっては奇跡の一夜になったがな」
両者の視線を浴びた仔猫は、何のことかと鳴いてみせる。さっきまでの弱々しさは薄れ、彼は自分の足で立とうとしていた。
その様子に真白は目を細める。
「偉いな。懸命に生きようとしてる」
彼女の言葉に、そうだな、と頷くと、藤樹は仔猫に近づいてその頬をそっと撫でた。
「真白が繋いだ命だ」
真白は目を見開いた。そしてまたみるみるうちに涙ぐむ。
「――藤樹、私、やっぱり貴方が好き」
藤樹は、うん、と頷いた。そして真白を振り返る。
「真白、俺はお前が大切だ。今のお前の好きと、俺の好きは、同じだと思う」
唐突な告白に真白は目を瞠った。藤樹は衝撃に沈黙している彼女に近づくと、その手を握る。
「でも、だからこそ、お前の想いには応えられない」
藤樹の言葉に喜びと悲しみが連続して押し寄せてきたので、真白は当惑して口を開閉した。どうやって息をしていいかわからない。
「――どうして?」
やっとの思いで二の句を継ぐと、彼女は困惑を持って藤樹を見上げた。
男は表情を翳らせると、ゆっくり俯いた。
「俺には、お前に想われる資格はない」
「何の話?」
話が見えず眉を顰めている真白を見つめると、藤樹は徐ろに口を開いた。
「俺はずっとお前を裏切ってきた。お前のことを実妹だと思っていたときからずっと、俺は一人の女としてお前を想ってきた。表面上では清廉潔白な兄を演じながら、その腹の中はお前への欲望でいっぱいだったんだ」
そして彼女から視線をそらすとか細い声で呟くように言う。
「こんな汚い男が、お前みたいな綺麗な人間の傍に居ていいはずない」
藤樹がそう打ち明けると、真白は口を引き結んで息を詰めた。
彼は、自分を想ってくれていた。けれどその間、ずっと妹同然の人間に恋情を抱く罪悪感と闘い続けてきた。その心の痛みが如何ばかりかと思うと、苦しくてたまらない。
何より、自分が無遠慮にも一方的に想いを伝えてきた影で、藤樹一人がその罪を背負ってきたことが、真白は申し訳なくてならなかった。
藤樹の顔が見たい。大丈夫だと伝えたい。真白は藤樹の頬を両の手で挟むと、こちらを向かせて彼の視線を自分に無理やり合わせようとした。しかし藤樹は尚も彼女から目を逸らそうとする。
真白は心を決めた。
彼女は自らの唇を、半ば強引に藤樹の唇にぶつけた。
男は突然のことに数秒固まったが、我に返ると焦って女から離れようとした。しかし彼女は彼を逃すまいと、きつくその身体を抱きしめる。
「藤樹が汚いなら、私だってずっと汚いんだから。というか、子どものときから好き好き騒いでた私の方がよっぽど最悪じゃない」
「お前の好きは、無邪気な妹のそれだったろう。俺のは違う。ずっと実の妹に懸想していたんだ」
そう言うと藤樹は自嘲するように顔を歪める。
「軽蔑するだろう」
「――藤樹の馬鹿」
真白はだんだん腹が立ってきた。確かに幼い頃の自分の気持ちは恋心ではなく兄を慕う思いの延長だったかもしれない。だが、そんな昔のことはどうだっていい。
真白にとって大事なのは今の自分たちの心であった。汚いだとか何だとか、知ったことではない。
「妹のことが好きだったら何だって言うの? それだけ私が魅力的だったったことでしょう」
「――は?」
斜め上を行く真白の発言に藤樹は面食らう。真白は、ふん、と鼻を鳴らすとふんぞり返った。
「まあ確かに、私は美少女だったし今も美女だから藤樹が子どもの頃から骨抜きになっても無理ないよね」
「お前な――」
人が真面目に懺悔しているというのに、滅茶苦茶なことを言い出す真白に藤樹は困惑した。
だが真白は俄に真面目な顔になると、藤樹を再び、今度は優しく抱きしめた。そしてそっと囁く。
「そっか、藤樹はずっと私のことが好きで、それで苦しんできたんだね。――ずっとごめんね」
「――お前が謝ることは何もない」
二人はしばらくそうしていたが、不意に真白は藤樹を見上げる。
「私ね、お母さんとお父さんの実の子じゃないって聞いたとき、すごく悲しかったの。お母さんと藤樹とは血が繋がってるってわかっていても、縁を失ったような気がしてすごく怖かった。でもね、藤樹があの時、『これからもお前は従妹でも俺の妹だ』って言ってくれたことが本当に嬉しかった。そのときだよ、藤樹に本当に恋をしたのは」
――結局、そうなると妹じゃ困るから従妹の立場に拘ることになっちゃったけど、と真白は笑う。しかし急に泣きそうな顔になると、声を震わせる。
「藤樹は、あのときどんな気持ちで私にああ言ってくれたのかと思うと、今は苦しいな」
「真白――」
真白は藤樹の胸に顔を埋めた。彼の温もりと匂いが優しく胸を満たす。
「藤樹、好きだよ。汚くなんかないよ。この家にたどり着いた日から今日まで、藤樹がいてくれてずっと幸せだったの」
彼女は再び顔を上げると、潤む紫水晶の瞳で慕う男を見つめた。
「だからこれからも傍にいてよ」
藤樹は何かに突き動かされるように、堪らず真白に口づけた。そして二人は息をつく間もないほどお互いの唇を求め合う。全身が熱い。これがどちらの熱なのかわからないほど、溶けるように二人はきつく身体を寄せ合った。
そのまま床に倒れ込んだところで、衝撃に怯えた仔猫がにゃあと鳴く。
二人は我に返ると慌てて離れる。――幸い両親は旅行で不在にしているがここは自宅だ。
ややあって藤樹が目を上げると、顔を赤らめてもじもじしている真白がいた。それがたまらなく愛おしくて、彼は目を細めて彼女を眺めると、そっとその髪を梳いた。
「可愛いな」
「――えぇ」
今までのそれとはまったく意味合いの異なる甘い台詞に真白はますます赤くなった。
「俺は、これからもお前の傍にいていいんだな」
藤樹は真白の指にすべらせるようにして自分の指を絡める。彼女は頬を赤らめて恥ずかしそうにしつつもおずおずと手を握り返した。
そして蕩けるような笑みを浮かべると幸せそうに頷いた。
「うん、ずっと一緒だよ」
二人は互いの瞳をじっと見つめると、今度は優しく口づけを交わす。
外は白んで、やわらかな陽光が窓から差し込んできていた。
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