戦果十倍盛り
漢籍の史書における戦果は十倍に盛られている、というような噂には出典がある。三國志魏書十一國淵傳には次のような話がある。太祖が関中に出征した際に河間で反乱があった。その際に居府長史であった國淵はこれを鎮圧した。淵は太祖に首魁以外の助命を請い、太祖はそれに従ったため多くの命が救われた。なお、反乱鎮圧を功賞のために記録する際に淵は実数を書いた、当時は賊軍討伐の際には戦功を十倍で書くのが慣習であったにも拘わらず(破賊文書舊以一為十)。太祖は何故そうしたのかと淵に問う、淵曰く「遠征で功を盛るのは戦果があったことを民に誇示するためにすることです。此度は反乱の鎮圧で功があったとは雖も封域の内でのことだと思うと恥ずかしいでしょう」と答えた。太祖は彼の心を良しとし、魏郡太守に遷した。
さて、國淵字子尼は青州は樂安の人である、河の口のところだ。鄭玄に師事していたとのこと。学問の才を世に広く認められ、また筋の通った人物だった。正面から直言をするような人柄だったが論議が終わればそれらのことを私情に持ち込まなかったらしい(每於公朝論議常直言正色退無私焉)、そのため当代の他の直言居士と異なり諍いがあったという記述はない、気持ちのいい人だったのだろう。あるとき、太祖のもとに誹謗の投書が届いた。淵はその投書をまず秘匿させた、そして内容を精査し二京賦(張衡の著作である、衡は地震計である地動儀を発明したり、月食の原因について現代科学と違わぬ理解していたり、天体の運行を観測を良い精度で行い一年が三百六十五日より少し長いことを見出したり、円周率について三百一十六寸という近似値を得ている)からの引用が多いとガタイで分析。太祖は淵を功曹(人事官であり、官吏の軍事や学問などの能力を査定する)とする。淵は三人を見繕い、二京賦に詳しい学者を探して講義を受けてこいと命ずる。その中で学者の筆跡を改め件の投書と一致するものを見出す、その学者を案問し、遂に情理を得た。
ちなみに、漢籍の和訳が単純に間違って戦の人数が増えていることもある、一軍の兵数が時代によって変わるからだ。孫子の魏武駐に「司馬法曰萬二千五百人為軍」とある。ちなみに司馬法の現存している部分にこれに該当する部分はない。司馬法は「周代は徳が衰えており賞罰で兵を動かす」と書いてあるような非常に古めかしい兵書である、或いは春秋時代の会戦の作法の史料とすら言える。わざわざ魏武が「昔は一軍萬二千五百としていた」と書いていたのは何故だろうか。諸葛誕の乱の例をあげよう。魏書王基傳には寿春を包囲した際に城の東と南の二十六軍を督した(基督城東城南二十六軍)、としている。諸葛誕傳には司馬文王は二十六万の兵を起こした(大將軍司馬文王督中外諸軍二十六萬衆)としてある。戦車が廃れた結果、この頃は一軍は五千程度に減っていたのではなかろうか。唐代の通典によると一軍は三千二百としてある。




