父上、母上
これはこの物語の最新エピソードです。皆さんに楽しんでいただければ幸いです。
――言うまでもないことだったが、
千恵子先生は旅立つ前に、ミカミと別れた。
それは劇的な別離ではなかった。
静かな午後、風の通る部屋で、
彼女は淡々と言った。
「あなたを縛りたくないの」
その関係は、愛がなかったわけではない。
だが根底にあったのは、彼女自身の恐れだった。
――年老いて、独りになることへの恐怖。
その恐怖が、ミカミを必要としていた。
だが彼女はもう理解していた。
恐れから生まれた結びつきは、
流れの中でやがて淀む。
「あなたは自由でいて」
そう言って、彼女は微笑んだ。
そして去った。
時は流れ――
千恵美は小説を書き始めた。
題材はもちろん、
『迷路の中にいるネズミたち』の主人公たち。
迷宮のように絡み合う人間関係。
多元宇宙。
観測と存在。
愛と執着。
成熟と自己中心性。
哲学的で、内省的で、
それでいてどこか温かい物語。
ミカミはその原稿を読み、
黙って頷いた。
「……描かせてくれ」
彼は挿絵を担当することになった。
千恵美の言葉に、
ミカミの線が命を与える。
文章と絵が重なり、
物語は形を得ていった。
ある夜。
締切に追われたあと、
二人はようやく肩の力を抜いた。
言葉は少なかった。
ただ自然に、
唇が触れ合い、
そして同じベッドに横になった。
それは衝動ではなく、
確信に近い静かな選択だった。
六か月後。
事態は少しだけ騒がしくなる。
千恵美の父――浩一が、
なぜか拳銃を手にしてミカミの前に立っていた。
もちろん本気ではない。
どう見ても芝居がかっている。
「責任を取れぇぇぇぇ!!」
と叫びながらも、
指はしっかり安全装置にかかっている。
千恵美は呆れ、
ミカミは苦笑した。
そもそも――
ミカミは千恵美を愛していた。
結婚を拒む理由など、最初からなかった。
だがこの茶番は、
ある種の儀式のようなものだった。
こうして二人は結婚した。
三か月後。
新しい命が生まれた。
だがそれは、人間の赤子ではなかった。
病院で、看護師が千恵美とミカミのもとへ一冊の本を運んできた。
装丁は深い青。
タイトルは銀の箔押し。
『迷路の中にいるネズミたち』。
千恵美がずっと書きたかった小説。
ミカミが挿絵を描いた物語。
二人の思索と感情と時間が凝縮された結晶。
ページが、ふわりとめくれた。
そして、どこからともなく声がした。
「はじめまして、お父さん。お母さん」
二人は顔を見合わせ、
そして笑った。
その本は、生きていた。
まるで無数の物語が詰まった小さな宇宙のように。
それは――
千恵美とミカミの子供だった。
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