錬金術師もリラックスが必要
これはこの物語の最新エピソードです。皆さんに楽しんでいただければ幸いです。
ある日の午後、チュビの母が研究室を訪れた。
その名はヘレナ。
ぽっちゃりとした豊満な体つき、包み込むような曲線美、そして圧倒的な存在感。彼女が扉を開けた瞬間、空気の密度が変わったように感じられた。
黒いワンピースに身を包み、指先にはひときわ目を引く黒い指輪。そこには翼を広げた烏の意匠が彫り込まれている。
ミカミとカナトは、彼女を見た瞬間、硬直した。
「……」
「……」
二人の頬が同時に赤くなる。
人生で見た中で、間違いなく一番美しい女性だった。
ヘレナはそれにすぐ気づき、くすりと笑う。
「どうしたの? もしかして……私に恋しちゃった?」
「ち、違います!!」
「そんなわけ――」
慌てる二人を楽しむように、ヘレナは指輪をひらりと見せた。
「残念。私は幸せな既婚者よ」
黒い烏の指輪が、静かに光を反射する。
サクラ、チエミ、チエコ、ヒナタまでもが、その美しさに圧倒されていた。自分たちの存在が急に色褪せたような錯覚。
そのときだった。
ここ最近、六人が連続でやらかしてきた大小さまざまな失敗。その余波は、ついにチュビの内側にまで及んでいた。
突然、チュビの目が虚ろになる。
「……あれ?」
机の上の数式を見つめる。
「なんで……わからない?」
ペンを握る。
しかし、何も浮かばない。
実験器具を触る。
手順が思い出せない。
超知性が、消えている。
チュビは必死に平静を装い、いつも通りに振る舞おうとする。しかしビーカーを落とし、メモを逆さに読み、方程式を足し算で間違える。
ミカミがそっと様子をうかがう。
その視線が、引き金になった。
「頭が働かない!!!!」
突然、チュビが叫ぶ。
「俺の頭が働かない!んだよ!!! 頭が!!! 壊れてる!!! オレは壊れてる!!!」
机を叩き、椅子を蹴り、半ばコミカルに暴れる。
「お前らのせいだ、ミカミ!!! お前らが壊したんだ、ミカミ!!!」
完全に情緒が振り切れている。
ヘレナは慌てず、ゆっくり近づいた。
「チュビ」
「ダメなんだよ!!! 何もできない!!!」
「大丈夫よ」
彼女は息子を優しく抱きしめる。
チャビは暴れながら叫ぶ。
「……抱きしめろ!!!」
「もう抱きしめてるわよ」
「もっと!!!」
研究室は一瞬、静まり返った。
数分後、チュビはようやく落ち着いた。
すると今度は、六人が互いに責任をなすりつけ始める。
「いや、最初にやらかしたのはカナトだろ」
「は? サクラの暴走でしょ」
「ミカミの発言が全部の元凶よ」
「チエミが煽ったのよ」
「ヒナタが止めなかったのが悪いんじゃ」
「……静かに」
チャビが低く言う。
誰も止まらない。
「静かに!!!」
雷鳴のような一喝。
全員がぴたりと口を閉じる。
その沈黙の中で、ミカミがぽつりと漏らす。
「……これでみんな、オレがチャビのお母さんをめちゃくちゃ綺麗だと思ってるのバレたな」
空気が凍る。
「……今、なんて言った?」
チュビの目が細くなる。
「つまり……ミカミはオレの母さんを“めちゃくちゃ綺麗”だと思ってるってことか?」
「いや、それはその、客観的評価というか――」
サクラが即座に燃料を投下する。
「ほらね! 言ったでしょ!? ミカミはフロイト的サイコパスなのよ!!!」
「やめろ!!!」
混乱が再燃しかけたそのとき、ヘレナが手を叩いた。
「はい、そこまで」
その一声で、場が静まる。
「あなたたち、ある存在たちを探しに行きなさい」
「存在たち?」
「人ではないわ。仏教的ヒューマノイド型異星存在――マフタ」
マフタ。
彼らはニルヴァーナ級の精神安定をもたらす種族だという。
「チュビの“イップス”を終わらせるには、彼らの助けが必要よ」
だがその旅は、普通ではなかった。
五次元を超越しなければならない。
ミカミ、ヒナタ、サクラ、カナト、チエミ、チエコ。
六人は意識を解体する。
身体がほどけ、概念になる。
彼らは「友情」「嫉妬」「欲望」「責任」「観測」「静止」という抽象へと変換され、一つの哲学的エッセイを構成する。
さらに五次元――本質の次元を超える。
靴が突然カーペットにならない理由、その根源。
彼らは今度は“言葉”になる。
ヘレナから渡された一冊の本。
その一枚のページへ、六つの単語が吸い込まれる。
そこは、雪原だった。
果てしない白。
「動いてはいけないわ」
ヘレナの声がどこからともなく響く。
「ただ、そこに在りなさい」
やがて、巨乳の遊牧魔女のキャラバンが現れる。
「少年たち、こちらへ……」
ミカミとカナトを誘惑する。
二人は歯を食いしばる。
動かない。
魔女たちは去る。
今度は金銀財宝を抱えた美少年の王子たち。
「永遠の富と愛を」
サクラとヒナタは目を閉じる。
動かない。
王子たちも消える。
長い髭の学者たちが知識を差し出す。
「すべての真理を授けよう」
チエミとチエコは静止する。
学者たちは風に溶ける。
次に現れたのは、宇宙規模の異形。
理性を削る圧倒的存在。
しかし六人は動かない。
やがてそれも去る。
冬が来る。
春が来る。
秋が来る。
夏が来る。
それでも、六人はただ“在る”。
そしてついに、遠くから鈴の音が聞こえる。
マフタのキャラバン。
穏やかな瞳をした仏教的ヒューマノイドたちが、雪原を進む。
彼らは六つの言葉を包み込む。
その瞬間、世界がコラージュのように重なった。
マフタの雪原と、研究室。
二枚の画像を無理やり一枚に貼り合わせたように。
中央で、チュビとヘレナが待っている。
マフタはチュビを円座に導く。
呼吸。
沈黙。
解脱に近い静寂。
やがてチャビは、ふくよかな小さなネズミの姿で、蓮華座を組んで浮かび上がる。
完全なるニルヴァーナ。
だがそのとき。
六人と目が合う。
チャビの眉がぴくりと動く。
「……お前ら」
ニルヴァーナが一瞬で蒸発する。
しかし。
もう壊れてはいない。
超知性は、戻っていた。
チャビは深く息を吐く。
「まあいい。……」
雪は静かに溶け、ページは閉じられた。
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