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AI絵師に対する現状の所感と意見という名のお気持ち表明

矛盾点や不都合な点があったら修正すると思います()


 巷で言うところのAI絵師が創り出したデジタルイラストをAI絵師が描いたと言えるのかという議論に意義があるとしたら、それはそのイラストを"描いた"と定義するとそのデータはAI絵師による著作物であるといえ、そこに権利が生じる可能性が出てくる点も含まれるだろう。

 ただ、そうであるならばAIによって生み出されたデータが"出力されたもの"であるか、"描かれたもの"であるかは、もはや議論すべき事柄とは言えない。

 議論すべきであるのはAI絵師によって生み出されたデータ、イラストにどこまで権利が存在するのかである。なぜなら、明確な定義が存在しない"描いた""出力した"という二つの概念の定義を争うのであれば自然言語的意味合いで争われる現在の議論に於いては一切の結論が出せるはずもないからだ。

 この結論を出すには論理学的な定義を必要とするだろうし、例えそれらを定義したとしても現状の背反的前提を用いた主張及び議論には意義を見出せない可能性がある。それを以下に示そう。

 ここで、計算機の例を用いる。純数学的観点から、我々が白紙の上に計算式とその結果を出力するのと、プログラムによって液晶体に計算の結果を出力する計算機の二つを比べた時、人が紙の上に出力した数学的に確かに成り立つ計算の結果導かれた数字と計算機の出力した数字の間に数学的な差は存在しない。

 であれば、過程の差こそあれど結論は同じであるのだから、これは計算機と人間、どちらも計算をしたと定義されるはずだ。

 これは自然言語的観点からも支持される結論と言えるはずであるからそれを示そう。計算機を用いて計算をした問題について、計算機が出力した計算結果を「計算機がプログラムに則って出力した数字」と言い表す人間に少なくとも筆者は出会ったことがないし、そもそも上の文章で計算機によって出力された数字を計算機が計算を行った結果という意味で計算結果と言い表している時点で筆者は計算機が計算をしたという文章を自然言語的に処理できている。そして、そう解釈した読者も同じ処理をしているはずだ。

 人間が計算を行う過程で、同じ計算問題であっても、筆算を用いるものがいれば因数分解を利用する者もいる様に、計算をする上で過程は計算という行為の定義に何ら影響を与えない事は明白である。

 始点と終点のみに注目するのであればAIの出力したイラストデータと人間の描いたイラストデータは過程に差があれど、どちらも描かれたものと言えるはずである。

 また、AIの創り出した作品が"描かれたものである"という事象をP1,"出力されたものである"という事象をP2としたとき、P1とP2が背反な事象でP1とP2が同時に起こりえないとは証明されていない。

 計算機によって液晶体に映し出された数字は計算機が「計算機がプログラムに則って出力した数字」と言い表す事は自然言語的処理の面に於いては兎も角、物理的に起きた事象を言い表すために用いるのであれば間違っているとは思えない。

 また上で論じたように計算したとも言い表せるはずだから、P1P2が同時に満たされる事はないという命題は偽であると言えるはずだ。

 故に、AIによって作り出されたイラストデータはP1orP2という命題は真であるが、P1とP2は背反であるという命題は偽であり、偽である命題を仮定とした、AIによって作り出されたイラストデータはP1またはP2を見たし、P1P2は排反であるという命題に於いてP1またはP2が正解であるという主張をする事は既に偽であると言える。

 この時、少なくとも筆者は命題の中で間違った仮定を前提とした証明の為に議論する事が意義のあること。即ち論じるべき事柄であるとは思えない。

 この前提をもってして、話し合うべきなのはAIによるデジタルデータにどこまでの権利が存在するのかであると主張する理由を以下に示していく。


 筆者はここまでAIがイラストデータを作り出す事象をAとした時、Aには少なくともP1P2がAの要素に含まれるということを示した。

 議論の意義についてP1であれば著作物としての権利が生じる可能性があり、この命題は法学的観点から間違いなく真である。だが、AIの生み出した著作物についての権利は、人間による創作活動によって生み出された著作物とは僅かに異なる点が存在する為、AIによる著作物の範囲は人間による著作物の持つ権利と同値でないのではないかというのが筆者の主張である。

 現状の法に則って言うならばAIの創作に於いて以下の条件を満たさない限り人間による創作活動によって生み出された著作物とAIによる創作活動によって生み出された著作物の権利はほぼ同値である。

 しかし、その条件を満たすAIによる創作活動によって生み出された著作物が存在する為、筆者はそれらの権利が及ぶ範囲について議論すべきであると主張しているわけだ。

 その条件とは、AIが創作活動によって他者の権利を侵害し得ることである。

 以下の話はデジタルイラストの範囲における話であり、他の著作物については但し書き等が存在することに留意して欲しい。

 現状の法学的定義ではAIによる創作物の著作権が他作品の権利を侵害しているのかという議論に於いて人間と同様の判断基準が設けられている。筆者の主張に於ける議論すべきである事柄というのはこの判断が本当に中立的であり、AIの創作活動による著作物が人間同様に扱われる事に問題があるのではないかという点である。

 法には不遡及性があるため、現状のAIによる創作物が権利を有している事に問題はない。筆者が言うのは、AIが学習をする上で許された現状の著作権を侵害し得ないと定義された範囲。これに問題があるとしているわけだ。

 人間もまた公的に公開されたイラストを観察、模写などを通して学習する事はある。しかし、AIと人間ではこの情報処理速度に隔絶された差が存在している。人間に許された範囲の著作物に対するダウンロードという行為は、人間であればこの様な学習が他者の著作権を脅かすほどの行為になり得ないからではないだろうか。

 人間に他者の描いた絵画などに直接触れる事で色彩パターンを完全に把握、学習する能力があればこの世の絵画に権利など発生し得ないだろう。何故なら、絵画という著作物は、触れる事で学習、分析されてしまい、ありふれた表現となり下がる。そうなれば著作権で言うところのありふれた表現は著作権の侵害になり得ないという文言が取り出されるからだ。

 イラストデータなどの著作権は著作物が盗作などを通して著作物としての価値を失わない為に、著作物の価値を保護するためにあると言う事を前提とした上で次の様な話を考えたい。

 極論であるが、全人類がAIによるイラストデータの創作が可能となったとするならば、著作物に本来存在した「ありふれた表現でない」という前提が失われる訳であるからその著作権は消滅する。これはつまり、AIに他者の著作物を学習させると言う行為が現状著作権を脅かさないと判断されているのは、AIによるイラストデータの学習を促す人間が少ないからであり、決してAIが他者の著作物を学習する事自体が著作権を脅かさないわけではない根拠ではないだろうか。

 故に筆者はAIの学習に於ける他者の著作物を現状の著作権を侵害しない範囲を再定義すべきであると主張する。


 人間に許された著作権を侵害しない範囲とAIに許された著作権を侵害しない範囲が同値であることに問題があると主張する根拠について、AIの学習は人間の行う学習とはもはや別物であると主張をした。これに関する話で、著作権の侵害を判断する要素となり得る「表現上の本質的な特徴を直接感得出来るか」と言う判断基準はAIによる創作物が著作権の侵害をしているかの基準として不十分でないかとも主張したい。

 学習後に作り出される創作物は複数の著作者の複数の著作物を学習して生み出された配色パターンのデータである。そして、これが任意の個人が描いた任意の作品と類似しなければ表現の本質的特徴を直接的感得する様なことにはなり得ない。しかし、AIは学習を通して確実に他著作者のイラストを学習し、それに従った配色をデータとして生み出すわけであるからこのイラストにはそれを生み出した人間の著作者が有する独自のアイデアがふんだんに散りばめられており、その作品はそれでいて尚「表現上の本質的な特徴を直接感得出来ない」のだからAIの作り出したイラストデータをこの視点から評する事は不可能と言える。

 また、AIの学習イラストを特定の個人の作品に絞り、そのパターンを学習すればAIはその特定の個人の画風を真似した上で、その個人が既に生み出した作品と「表現上の本質的な特徴を直接感得出来ない」程度の範囲で作品を無数に作り出す事が出来る。この時AIは特定の個人のイラストのみを学習している為、ここで生み出されるイラストデータは学習元となった人間の著作者による新作の様なものとなるわけである。

 画風は著作権の侵害に当たらないため、学習元の人間の人間の新作に見えることだけでは著作権の侵害には当たらず、既出のイラストとの類似性には注意を払い生み出された作品が大量に生み出されると言う事象が学習元となる人間の権利を害さないとでも言うのだろうか。


 筆者の主張を総括すると、AIによるイラストデータの創作が"描いた"と表現されるか、"出力した"と表現されるかの議論に意義はなく、これまで語った様に、AIによった創作活動からうまれたイラストデータに何処までの権利が許されるのかを議論すべきであり、現状の法的定義は著作者の有する権利を守るのに不十分であると言うものになる。

 私は、かつての携帯電話がほぼすべての国民が利用可能となり高性能化したように、AIも普及、高性能化した未来に於いてこれらの基準、範囲には変更が加わると考えている。そして、AIによるイラストデータが、描かれたものであるか出力されたものであるかと言う議論をするぐらいならばその変更について案じた方が有益ではないかと意見し、この文章を締めくくらせてもらいたい。



 筆者は自閉スペクトラム症に見られる不均一な発達によってか、手先の不器用さには磨きがかかっており、絵を描く事は不得手ですから、AIが使いやすくなって欲しいと思う面も結構あります()

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