愛する母の余命宣告から亡くなるまでの怒涛の物語り
寝ずに働いて寝ずに遊べ。
海賊みたいな大酒飲み大食いヘビースモーカーな母の口癖でした
長野県の山奥の一軒家で
父、母、姉2人の三姉妹末っ子で生まれ育った
家は父方のお爺さんの古い持ち家を譲ってもらい暮らしていた為、小学生の私は友達にオンボロの家を知られるのが恥ずかしかったから好きな男の子には隣のレンガの綺麗なお家がワタシんちだと嘘をついていた
飯だよ!!
母の夕飯の号令で三姉妹が居間のちゃぶ台に集まる
大皿で出てくる野菜炒めに唐揚げに天ぷらと鍋ごと出てくる具だくさんの味噌汁と一升だきの釜ごと置かれた炊きたてのお米
うちの家族はみんな大食漢だった
加えて母はいつもキッチンドランカーで必ず毎日500mlのビール6缶を呑んでから寝る
夜21:00を超えた頃やっと父が帰ってくる
玄関からノソノソとゆう感じに
嫌な予感がする時はだいたい消防団の集まりか会社の飲み会で父に酒が入っている時
そうゆう時は我々が発言に気を付けなければ
父が母に手を出してしまう
私が保育園児の時、姉とくだらない喧嘩をして部屋をかけ走ってる時に酔っ払った父が帰ってきて
「こんな子供に育ったのはお前のせいだ!!」
とその言葉を何度も叫んで母の顔が血塗れになるまで殴っていた
止めに入っても子供の力じゃ大人の男には勝てないんだとその時にまざまざと味わった為
父にお酒が入っていると感じたら私は家の電話をスグに取れる環境にしてスグに警察に電話をして助けを呼ぶんだと予行演習を何度もした
でもあの怒鳴り声を出された瞬間身体が震えだし動けなくなってしまう。そしていつも暴行が終わると私はストーブに温まる母の横に行きごめんなさいごめんなさいと泣きながら謝る
「あんた達は何も間違った事してないんだから何も悪くない」と笑顔で撫でてくれる
何故いつもこちらが慰められているのだろうと、とにかく悔しさで涙が止まらなかった
次の日の朝はだいたい父は昨日の記憶が無い
だから娘3人はずっと父を怨むように生きてきてしまった
シラフの父への態度は汚物を扱う感じに
ご飯を食べるのも別、テレビを見るのも別、
喋る事なんて殆ど無い、目を合わす事も避ける。
その反動が飲酒した時に暴行になるとゆう負の連鎖
でも、私達子供に手を出す事はなかった
母にだけだった
どうして母は離婚しないのだろうかといつも思っていた
中学2年生の時わたしは陸上部で陸上にしか目がなかった
その日は社会体育で帰りが遅く帰り道1時間以上歩かなきゃいけない夜道を早足で帰っていた
学校から市役所を通過した暗い廃車修理工場みたいな所に大人が2人いて
「ヘイ!ヘイッ!!」
と声をかけられ、よく見たら黒人と中国人みたいな男性2人だったから何か道案内かな?と「どうしました」と近付いてったら虚ろな目でこちらを見ている。酒臭い。
その瞬間足を引っ張られ股間に顔をうずめて来ようとする黒人、逃げようと暴れた瞬間に中国人が私の左頬を何度も引っぱたき身体の力が抜けて動けなくなる 廃工場の裏影に運ばれていきデカめの砂利がしかれてる所に仰向けになってる私に黒人のデカい肉棒が馬乗りになって私の顔面にくる
咥えろとねじ込んでくる、このでかいものはなんなんだ?っと理解に苦しむくらいのサイズのチンコで往復ビンタをされビンタを喰らった左頬がズキズキと痛む。キンタマか竿か分からない皮の部分を噛もうとしたら首を締められながらまたビンタをされた。そのまま顔に黒人の唾や小便をかけられたまま中国人の方はパンツをズラし挿入してこようとしてるのがわかった。砂利が膣に入ってるのか酷い痛みだ
暴れて頭を石かコンクリートに打ち付けすぎて頭から血が出てるような温もりを感じた
ガタガタ全身の震えが止まらない
痛い、寒い、臭い、
ぁー、死ぬのか
って本当に走馬燈とゆうかビジョンを見ながら目を閉じて多分気を失った
意識を取り戻して気が付いたら
黒人と中国人はいなくなっててまだ外は夜中で
身体中痛いし汚いし臭いし冷たいし口の中砂利と血塗れだしで地獄な状態なのに
泣くでも怯えるでもなく妙に脳みそがクリーンな状態になっていて
冷静にそのまま家まで歩いて帰った
家に着いたのは多分0:00~1:00の間
玄関の戸をカラカラと開けると父と母が血相を変えて迎えてくれた「どうした!?」と
玄関にある姿見で自分を見たら顔はパンパンのセーラー服はボロボロで思ってる倍の悲惨さで笑ってしまった
「なんか、レイプされた。外人2人に」
とヘラヘラと私が言うと母は泣き崩れており
父はまさかの想像と違う発言をしてきた
「警察沙汰にするなよ!!お前がそうゆう色を出してるのがいけないんだ!!」
え??とまさかの父の言葉
小さい村で私がレイプで警察沙汰にでもなったらずっと言われちゃうものね、昔から世間体ばかり気にしてましたものね
私は笑いが止まらなくなった
「すげー事いうな!最初から言うつもり無いわ!風呂入る!」
その頃からか本当に人に怒る時は笑いながら、思ってもない強がりな事を言うようになった
私はへっちゃらでーす。と言わんばかりに
大好きな母に心配させるのが嫌だったんだ
母の悲しむ顔を見るのが嫌だったんだ
それから私はグレたのとSEX依存になった
強くなろう、自立しようとお金を稼ごうと
家にあった古いパソコンを使って姉のもう着ない制服を売ったり援助交際をしたり
悪い先輩悪い大人と繋がるのは早い。
吸った事が無くそれが違法と知らず大麻栽培をしたりその為に大阪の大麻仙人みたいな人の所で修行させられたり、コカインなのかシャブなのかよく分からない粉をパケに詰め熱いコテみたいなので蓋をするバイト、悪い大人の家に行く時はたまに男の遺体か半殺しの状態とかあったが気にせずその横で鍋とか寿司とか食べて「その片付けやったら金やる」って言われるから遺体ある時はラッキーと思ってた。学校では勉強したくないからひたすら陸上だけをやってた陸上の結果さえ出せば誰も文句言わないかなって中学二年の時ハードル100mで全中4位まで行った
サボり癖、ネガティヴ、不器用、地味だった私はレイプをきっかけに覚醒した感覚があった
急に金髪にしたり化粧をしたり香水をつけたり
生活指導に呼ばれる度チョけてチョけて丸め込む自信しかなかったし、なんなら少しでも色目で見てくる先生や大人がいたらスグにコチラから仕掛けてはヤリまくっていた
教師の性犯罪報道を見る度に、この人もきっと女生徒に迫られたんだろうなぁって思ってしまう
高校生
私は女子校に入った
どんな学校とかどうでもいいから女子校がいい!!と本能で思ったのは覚えている
ブレザーの制服を着て母に見せると
「コスプレみてえだな!」って嬉しそうに煙草をふかしなが喜んで笑って写真を撮っていた
入学式の日だった
朝、新しいブレザーを来て浮かれながらめざましテレビを見ていた時
女の人の悲鳴が外からした気がした
その数秒後に 家の近所に住む従兄弟の家族の長女が裸足で唇を震わせながら「助けて助けて」と従兄弟の住む一軒家に来いと手招きをして
私と母と父は何事かと急いで行くと
従兄弟の家の玄関横のベランダのような広い場所に麻縄で首を吊っている父の兄
私の叔父さんが自殺をしていた
目、口、鼻、股間、からは色んな体液や汚物が少し垂れ流しになっていた
大柄な男性を縄から降ろすのは女の数じゃどうにもならなくて
近所中の男手を集めやっと降ろすことができた
大人達がザワついていると
親戚か近所の誰かが「入学式に行きなさい
1人でも」っと圧をかけて言ってきた。
私は1人で高校の入学式に行った
皆、保護者と一緒に教室に入る中
1人で座席を確認し教室に入り、担任が挨拶を終える。担任の先生に保護者がいない事情を話し入学からいきなり葬式などで休みを貰いますすいませんと淡々と話していた
入学式から帰宅してお通夜の手伝いでせわしなかった。 父方の親戚は固くて厳しくて世間体ばかりを気にするような連中で幼少期から苦手だったのだけれど
葬式の本人 叔父さんは好きだった。
いつも飄々として優しくて役所に務めてて
従兄弟の家族を見てても皆その叔父さんを父親として尊敬していて、うちの父とは違って人として大好きだった
叔父さんが死ぬ前の日に
うちの近くに唯一あるスーパーによく来るキッチンカーで売られている たい焼きを買い
簡易的に設置されてるベンチに座って食べていたら
そこにパチンコの景品を持った叔父さんがたむろしに来た、ビール臭くてたくさん呑んでる様子で赤丸の煙草に火をつけた
そこではたまに私と叔父さんがたむろする事があったが
その日は家族に止められているパチンコも酒も煙草も全部やってきた様子でニコニコしていた
どうでもいい話、昔話、武勇伝とかダラダラして叔父さんが最後に去り際「弟はどうしようも無い親父だろうが頼むな」って笑いながら言ってきた
死ぬ前に終活してたんだアレは
お通夜と葬儀の準備、親戚中に連絡をしたりで忙しい亡き夫の奥さんは1日で髪の毛が真っ白になっていきドンドンやつれていった
朝カーテン開けたら宙ぶらりんの旦那の首吊りが出てくるんだもん
そんな精神状態の人に、死ぬ前日に叔父さんと色々話した、とか余計な事かなって思って言えずに黙っていた
ずっと誰にも言わなかった
叔父さんの死をきっかけに
私は悪い大人達との連絡を断ち
バイトをたくさん掛け持ちした
働くのは大好きで色んなバイトをした
お惣菜作り、コンビニ、居酒屋、スーパーレジ打ち、パチンコ屋、ガソリンスタンド、ラブホ清掃員、年齢誤魔化してコンパニオン、キャバクラ、厨房、
色んなバイトする度楽しくて楽しくて
母親にも全部話していたからキャバとかやっても怒られはしなかった
高校卒業して就職も進学もせずフリーターでやっていこうとしてた私に心配して言ってきた「専門行かないん?」
「進学とか就職よりフリーターバリバリやってる方が稼げて家に金入れられるじゃん」と飄々として返したが母は曇り顔だった
私は昔から美容部員に憧れがあって
テレビでエステの事とかやってる度にエステティシャンなりたいなりたいとこぼしてたから、そうゆう専門にいれてやりたかったんだろう
求人サイトを見ているとエステティシャン未経験可とゆう募集を見つけた
専門いかなくていいし働けるし1番いいじゃん!ってそこに入った
よく分からないバイトばっかしていた私がエステの就職先に就いたら
異常な程に母が喜んで自慢しまくってたのを覚えている
その頃、オーストラリアに住んでいる母の妹とその旦那さんと子供達が1年くらい日本に滞在をしていた
母と叔母は仲良しで親友みたいな感じで私達も舞い上がってた
ある日、私が仕事終わり家に帰ると
居間のコタツに色んな書類が広がってて
殆どに中央病院〜、と書いてある
台所から叔母が気まづそうにして何かを言いたげだったが母がそれを塞ぐような少しカラ元気に見えるがいつもの様子で
オウ!飯作るからな待ってろ!
ご飯を食べ終えて叔母が帰り
ポツポツと母が言い出す
「お母さん乳癌だと。抗がん剤治療と向き合ってくんだと。めんどくせ〜」
いつもの母のテンションすぎて理解が追いつかない
乳癌って単語だけが頭に入ってぐるぐるしてたら
「飯食ったしお母さん寝る!おやすみ」
って言っていつもの様子で秒でイビキをかき出して寝る母
何このテンション?死にはしないって事?
って思ったら後日主治医と話すた時には遅く
転移してて長く頑張って持てば、あと10年と
実感は無かった
その年に東日本大震災があり
従姉妹家族も叔母さんもオーストラリアに緊急で帰っていった
乳癌と知ってから母は発掘の仕事をやめて少し楽で時間の融通が効く銭湯の清掃員になり髪の毛もまつ毛も無くなっていった
長女は結婚して長男を産んだ
次女は小中高までガチ引きこもりで学校にも行かない人間だったが、ホテルの従業員の就職を決めた
私はというと
母に好き放題させようと叔母のいるオーストラリアに2週間旅行に行って豪遊させようと思い
エステティシャンをしながらデリヘルで働いた
17歳の頃に姉の身分証明書をちょろまかして少し働いた事もあるがその時は黙ってても若いし出勤しときゃ稼げるだろみたいなノリだったからリピーターなんて付かず新規客のみで店から干されて終わったのである
でも状況は違って、稼ぎたい!!って気持ちがどんなホス狂いよりもヤクザの女よりも強く
仕事として1番ストイックに働いたのが風俗嬢だった
エステの仕事が週5で夜は週6.7でデリヘル。
男が好む服、下着、メイク、カラコン、ヘアースタイルを選び、待機所にいたベテランの人にフェラチオ、素股のやり方をめちゃくちゃ聞いたりもした
今では皆が当たり前に書く写メ日記や御礼日記を書き始めた
あの時はそんな物は無くお店のHPの店長ブログみたいな物がある程度
閑散期と呼ばれる時期に私が店長ブログこう書いた方がいいと言って例を見せて実際載せてみたら問い合わせが如実に上がったのである
それから店長ブログを私が書くようになりお店からも少しボーナス出るし楽しくなり過激な内容にも飽きてきた頃
お客様への御礼日記を一人一人に書いちゃえ
って少しタブーかもしれない雰囲気の中それを書き続けたら大反響
今では御礼日記って当たり前かもしれないが
アレをやり始めたのは自分だといまだに調子よく人に話す時がある
私は250万貯めた
母とオーストラリアの旅行2週間の為の
航空券を取った
それまでに主治医となんども打ち合わせして薬をあーするこうすると説明を何度も受け
エコノミー症候群になりやすいからなるべく広い席にしようとビジネスは高すぎて手が出せないが少し高めのプレミアムエコノミーにしたり準備は万全にした
1月の極寒の長野から常夏のオーストラリアに着きメルボルンの叔母の家に着いた瞬間に母はもう何か重い呪縛から解き放たれたようにハシャギまくる
日本にいると、煙草もお酒も病人だから駄目だとゆう目がありコソコソとやっていたのが
堂々と瓶ビールを昼間っから浴びるように飲んで庭にあるブランコとトランポリンで遊び少女のようだった
叔母さんが、一服しようよ〜
っと庭の一角にある喫煙所に手招きしてるので私と母は鞄から煙草を取りだしそこに落ち着くと叔母さんは慣れた手つきで乾燥した葉っぱとフィルターを紙に包みジョイントを作って火を着けていた
「すげぇコッチだと煙草は自分で巻くんだ」
って私が言うと
「ウィードだよ!コレは大麻!吸う?」
って叔母さんが差し出してきたので
開放感MAXな我々は
ファーストシットでジョイントを親子で回したのだ
中学の頃に栽培はしてはいたが仕事でやってる物だしクセェから吸いたくないと思っていたが
吸ってみると何でこんな素晴らしい物の接種を避けてきたのだろうかと後悔した
吸い込んで息を止めてゆっくり吐き出して恐ろしくむせた後はひどく喉が乾いてオーストラリアの薄いビールを母と死ぬ程の量飲んで
トランポリンを飛ぶだけで子供みたいにゲラゲラ笑い転げた
次の日は買い物、次の日はカジノ、次の日は海、次の日は動物園、山登りにロッククライミング、バンジージャンプにスカイダイビングもやって、叔母さんの旦那さんの家族の豪邸に泊まって庭にあるプールで泳ぎBBQをして酒を飲んだり
楽園だった
2週間
病気の事、余命の事なんか忘れてた
お金も250万全部つかった
むしろ全部使って欲しかった
買い物も食費も交通費も全部私が湯水のように出すから母が大丈夫?と言ってくるが大丈夫大丈夫副業キャバ嬢稼いでるから私!とか言ってた
私が副業で風俗をやってるのはキャバだと言っていたが本当は勘づいてただろう。
でも何も言ってこなかった。とにかく少しの心配とかせずに有意義に全部使って欲しかった
日本に帰るとまたいつもの通院と闘病生活と旅行の為に止めていた強めの抗がん剤治療の再開
また髪の毛が抜けた母
いつも頭はタオルの上に帽子でいた母に
ちょっと値段の高いカツラを買ってあげた
最初抵抗があったが着けてみたら気に入って喜んで毎日着けるようになった
主治医に呼ばれ、娘さんの旅行のおかげで凄い調子よさそうですね
と言われた時は泣きそうになったがこらえた
母が乳癌と知ってから、私は多分1度泣きでもしたら張り詰めてた物が一気に崩れて精神崩壊してしまうと自分で分かっていた気がする
春になり母のお母さん
私のお婆ちゃんが病気で亡くなった
膵臓癌が発見されてから早かった
母方の親戚は皆面白くて大好きだった
手伝いやらで忙しく私は人前で泣く事が無理で
母もそうゆうタイプでお通夜も葬儀でも親戚達が帰った後でも泣く事は無かった
一通り葬儀を終えて家に帰り疲れて居間で寝てしまうと夜中に台所から換気扇の音と煙草に火をつける音と
母の啜り泣く音が聞こえた
それを聴いてやっと私もおばあちゃんが亡くなったと実感が出てきて泣ける事ができた
おばあちゃんの四十九日の準備の時だった
おばあちゃんの一軒家は母の兄が独身で1人で家にいる状態で
男1人の家ときたらゴミ屋敷に近くなるものだ
それを身体の調子がいいと言って母が1日かけて掃除をした
四十九日を終え
母が高熱をだした。
スグに主治医に診てもらうと、
肺に菌が入って1度抗がん剤治療を止めて熱の方の治療をしなければならない
と言われるがままに
高熱は下がりスグに回復し
また抗がん剤治療の薬に戻し回復したように見えたので家に帰るが
またすぐに身体中が痛いと辛そうにする母
痛みには物凄い強い女がここまでの表情を見せるのは珍しくスグに緊急外来にいった
やはり一瞬だけでも抗がん剤治療を止めたのが
一気に広がり一気に衰弱したのだ
その時母は55歳
最初の余命では60歳までいけそうと言っていたのに
何で四十九日の掃除を元気で健康な私がやらなかったんだ
何であのおじさんもゴミ屋敷になるまで散らかしたんだ
何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で
あんなにやり場の無い怒りが止まらなくなったのは人生で初めてだった
怒りで鼻血が出てきてさすがにびっくりして
落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせていたその時いた病院の廊下の景色も鮮明に覚えている
1泊入院させて
私と父が主治医に呼ばれた
「1週間もてばいい方だと。本人は家に帰りたがっている為 意識のあるうちは家にいさせてあげましょう。薬物投与の強い痛み止めを使います。家に帰って痛み止めの作用で興奮状態になったり痛みで昏睡状態となったらスグに連絡を下さい」
話を聞いている父も衰弱しきっていて淡々と流れる先生の話に涙を堪えるのに必死な状態だった
私がちゃんとしなきゃ。
と使命感が強まり瞬きもせず先生の話を一語一句集中したせいか今でも会話全て鮮明に覚えている
家に着いて介護ベットに寝かせると
強い薬のせいか凄い落ち着いて寝ている
その顔を見ていると
よかった。1週間以上まだ生きれるでしょ
と思わされる程だった為
姉2人は葬儀に向け家の掃除や買い出しに出た
介護で寝てなくてヘトヘト状態の私は母と一緒に寝た
だがほんの少し30分くらいすると
痛い痛いと力のない声から苦しそうな声になり
介護ベッドの策を強くにぎりガタガタと暴れだし
痛いよ!痛いよー!!と叫ぶ母を
抱き抱えさすると
嫌だよー!死にたくないよー!
死にたくないよー!死にたくないよー!
とホロホロと涙をこぼしながら連呼する
薬で多分自我があまり無い状態で
やっと私に本音を吐き出して泣いてくれた母をみて
優しく抱きしめ、強く触ると痛がるから
優しく優しくさするように抱きしめた
母は痛みで気を失った
脈はありかすかだが声が時折こぼれる状態
父の運転で後部座席に私と母が乗り
一言も言葉を発する事なく
母をずっとさすりながら病院にむかった
車椅子に乗せ、主治医が手招きする部屋まで母を運び 私と父は締め出されドアが閉められた
看護師が「今から薬を投与して病室に移ります。峠を迎える連絡を親族に」とキリッとした表情と口調で言ってきた
看護師はスゲェなぁ。人間の峠の状態を何度も見てそんな中で仕事して本当にスゲェなぁ。
とか何故か他人事な事も考えてたのも覚えている
家の片付けをしている姉2人にすぐ来いと電話をして
姉2人とその少し後にオーストラリアの叔母さんが駆け付けた時に
心電図の数字が数少なくなっていき
息を引き取った
「意識はあったんだなぁ
みんな揃ってから逝ったわ」
って私が言うと姉2人が泣き出し母に擦り寄りその様子をなぜか傍観していた
親戚、友人が病室に集まりだし
看護師さんが葬儀の準備、、、と言いたそうにしているから私から「こうゆう段取りってどうすればいいですか?」と聞いてせっせと葬儀屋に連絡をしたり身の回りの荷物の片付けを始めた
何かしてないと崩れそうになるんだ
何でもいいからやる事をくれ
動いてないと壊れてしまいそうになるんだ
それからお通夜、葬儀と一睡もせず動いた
死化粧は私がやった。顔色をよく見せるようにチークをいれ、はにかんでるように口角を上げて口紅をさし、抗がん剤治療で無くなった眉毛をアイライナーで1本1本フサフサに見せるように書き、鼻が低い家系だったから少し鼻筋にもハイライトを入れた
おかげで親戚中がまだ生きてるみたい!
と絶賛の死化粧だった為に酒が入った葬儀ではお前はメイクさんになれ!っと豪語された
葬儀が終わって父が娘3人を居間に呼び出した
ずっと人前で泣かなかった父が涙をこぼし
「ごめんな、駄目な方の父ちゃんが残っちまって」っと言った瞬間に
幼少期から父と目も合わせてこなかった娘達が父と目を合わせた
「また、四十九日、一回忌、三回忌とか色々、家の事も大変だけど4人で頑張っていこう」
とたどたどしく喋る父に私は吹きだした
「頼りねぇな!」って言うと
姉2人も泣き笑いした
母の介護も無くなり
仕事でちょうど東京の転勤が決まり
長野の山奥で育った田舎もんが
いきなり東京の新宿に上京するなんて
上京半年感は研修期間で死ぬ程忙しいのに
金も無いから昼職はエステと夜は新橋のキャバクラで働いた
忙しい方が有難かった
東京生活も慣れた頃
左耳の裏に母の西暦と誕生日のタトゥーを彫った
痛みでも忘れたくないと思ってた私は痛みが欲しかったのだが全然痛くなかった
家に帰って鏡でタトゥーをずっと見ていたら
ポロポロとかじゃない
ダーーーっと涙がでてきた
母が乳癌と知ってから死んで葬儀が終わってからも1度も泣いてなかったことに気が付く
実感が湧き感情が溢れて首の後ろが熱くなり
涙が止まらない
部屋でお母さんお母さんお母さんお母さん
と声を出して何時間も泣いた
やっと泣けた
軽く脱水症状になりかけそうで冷蔵庫にあったコカ・コーラを飲んだら止まらない程美味しすぎたのを覚えてる
美味すぎて今度は笑えてきた
久しぶりに腹から笑った
スグ人前で泣く人間をなんとなくウザったいとゆう考えだったが
泣かないと進めないんですよね
辛さをちゃんと受け止めてる証拠なんですね
たくさん笑う人はたくさん泣いてきた
とかよく言うがその意味がわかりました
寝る間もなく働いて遊んで色んな事を吸収して喜怒哀楽が物凄く出る人間になってきた
寝ずに働いて寝ずに遊べ。
の母の口癖を
ヤダ寝てたいよって否定してきたけど
実際はそれをやっている
本能かしら
母の血が流れてるんだなと嬉しくなった。