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「私もね…、一時期鬱になったことがあるの。私ね、5年前に結婚して子供を産んだんだけどね、その時産後うつになっちゃって…」
えへへ、と泣きそうな顔で笑う。
「初めての育児は思ったより大変で、夜もろくに寝られなくて…、夜泣きする赤ちゃんにイライラして怒鳴ったこともあったなぁ。…自分が産んだ大事な子供なのにね」
「…」
「誰かに手伝ってもらいたかったけど、旦那さんは仕事で忙しいし、両親も体が悪かったから遠慮して手伝ってなんて言えなくて…。誰にも頼れなくて、でも、自分一人で子育てもできないことが悔しくて許せなくて。赤ちゃんを一人育てるのは本当に大変で…。…気づいたら鬱になってた。最初に気づいてくれたのは旦那さん。その時だけ両親に子供を預けて一緒に精神科に行ったのは今でもよく覚えてるよ。自分が鬱になったなんて初めは信じられなかった。私"お母さん"なのに、赤ちゃんを育てられないんだよ。…自分に心底絶望して、大変な時期なのに、みんなに迷惑かけてしまうことが申し訳なくて…。だからこそ、余計に弱音が吐けなかった。それでどんどん悪化していって。…あの時は辛かったなぁ」
莉子ちゃんの瞳に涙がたまる。
「物凄く荒れててね、旦那さんの言葉も全然聞けなくて、毎日怒鳴って泣いてた。…そしたらね、旦那さん、会社にお願いして休みをとってくれたの」
笑った莉子ちゃんの瞳から涙が零れた。
「それから育児とか家のこと、旦那さんや両親が手伝ってくれて…。…本当にいろんなことがあったけど、旦那さんに両親に、いろんな人に支えてもらって今の私がいる」
「莉子ちゃん…」
「もちろん今もすごく幸せなんだけどね。あの時を振り返って、自分の気持ちとちゃんと向き合ってたらよかったなぁって、そしたらもっと違う未来があったんじゃないかなって今でも思うの。だからね、そう言う後悔を、依ちゃんにしてほしくなくて…」
お節介でごめんね、と莉子ちゃんは言った。
そんなことないと否定したいのに、うまく言葉が出ない。
「依ちゃん、もう一度、自分とちゃんと向き合ってあげて欲しいの。本当はどうしたいのか、どう思ってるのか。…正直な自分の気持ちと、ちゃんと」
私たちが喫茶店を出る頃にはすっかり日は暮れていた。
喫茶店の前で莉子ちゃんとはお別れをした。
莉子ちゃんは別れ際、「ゆっくりでいいからね」と私の両手を包みこんで優しく笑った。
まだ心の中はモヤモヤしているけれど、家を飛び出した時よりはスッキリとした気分だった。
家に着いて、何だか気まずかった私は隠れるように自分の部屋に籠る。
その日は夕食は食べなかった。
私はあれからずっと莉子ちゃんに言われたことを考えている。
「自分と、向き合う…。自分の正直な、気持ちと…」
でも、考えても考えても分からない。
「んーー…、自分のことなのに、自分がどうしたいのか、全然分からない…」
何日も何日も部屋から出ることなく考え続ける。
そのせいで、いつの間にかご飯は扉の前に置かれるようになった。
お母さんもきっと私に遠慮しているんだろう。
「向き合うってどうしたらいいんだろう…」
今の私にとって、自分と向き合うことは簡単なことじゃなかった。
そもそも、自分と向き合うなんて今まで考えたことがなくて、どうしたらいいのか答えが見つからない。
「はあ…、死にたい」
・・・。
あれ、今私、なんて言った…?
「し、にたい…?」
それはきっと、今まで聞こえることはなかった無意識の自分の本当の気持ち。
初めて、聞こえた。
「そっか…そうなんだ…」
鼻の奥がツンっとして、もう何度目かも分からない涙がこぼれ落ちる。
「私、死にたかったんだ…っ」




