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採点者

作者: 齊川萌

 背中のリュックサックの中で、不合格の烙印を押された顔写真付きの僕の過去がかさかさと揺れている。薄っぺらいですね。大きなリュックサックとその中身とのギャップについて申し述べられたはずのその言葉は、何より僕自身に一番しっくりきてしまった。薄っぺらいですよね。近い将来一緒にシステム開発をすることになるかもしれない、目が笑わない男に対して、思わず笑ってそう返していた。この後にも面接をしなくてはならない人たちがいますので、とにこやかに退室を促されたので、失礼しました、と扉を閉めた瞬間に、僕はもう二度とここには来ないだろうことを察した。廊下の突き当りの窓が全開だった。そこから見えた満開の桜は、何の感動も与えてはくれなかった。僕は社会から不合格を得ただけだった。

白いイヤホンからは爆音のインディーズ音楽が、次は俺だ私だと次々に這い出して、僕の耳を侵食し続けている。こんな田舎道では運動不足の身体を揺らしながら歩く姿など、転がっている蝕まれた林檎と同様だ。誰の目にも摘まれなかった僕は、何もない世界に取り残されて、腐食するのを黙って待っている。

会社員でなくなってからもうじき一か月が経つ。自他ともに認める仕事が出来るプログラマーだった僕だが、ある時オーバーシュートした。頭がぼん、だ。前兆として様々な故障が全身に及んでいたが、治し方を完全に誤っていた。コンパイルエラーが起こる度にソースコードを書き換え、コンパイルを再度試みるが失敗、書き換え、失敗を何度も何度も繰り返し、遂にソースコードはエラーだらけでどこをどう修正すべきなのかが、誰の目にも分からなくなってしまったという状況に似ている。この憂鬱さと訳の分からない倦怠感、全身を襲う諸症状の根源が一体何なのかを、ぼん、となった頭で毎日毎日飽きることなく考えている。

僕は会社を辞めてから何者でもなくなった。学生でもアルバイトでもプログラマーでもない。社会人とは言えないし、派遣社員でもない。僕は自分がいつかこうなるということを全く想像していなかったこともあって、少なからぬショックを背負っていた。何者でもない自分。何者にもなれない自分。それでも縋れるのは、プログラマーとしての経験だった。

暇つぶしに始めた求職活動で、初めて転職エージェントという制度を使った。プロフィールを入力する画面に必ず現れる「あなたの今の属性を答えてください」という質問には、必ず「その他」を選択するようになっていた。どんな人間が真実として「その他」を選択するのか、僕には未だに分からない。少なくとも真のプログラマーは「その他」ではないはずだ。

「退職理由も勤続年数も持っている資格も、転職するには何の問題もないです。面接をしたいと言ってらっしゃる企業さんがいらっしゃるんですけど、どうですか? 行ってみて雰囲気とかもし合わなそうなら、断ってしまって結構ですので」

 人材マーケティング部部長、小野路と書かれた名刺を差し出した指にはキラキラのネイルが抜かりなく施してあり、薄く面積の狭い紙切れを掴むためにある程度練習を要しそうであった。彼女は企業や業務内容について説明しながら、「始めは練習だと思ってリラックスして受けてきて下さい」と、六回言った。そうして最後には、「最初の面接で合格する可能性は、宝くじが当たるのと同じくらいだって思うと良いですよ」と言った。僕はそのおかげですっかり、彼女が今まで僕に懇切丁寧に教えてくれた内容のほとんどを忘れた。彼女の切れ長の目は一度も笑うことがなかった。そうして僕は、無事に負け戦をきちんと負けて帰還しようとしている。

 畑道を抜けると、少し広い県道とぶつかるT字路に出る。いつもの方向とは反対に向かう。しばらく歩いたところに映画館があることを、僕は知っていた。帰るまでの時間稼ぎが出来れば何でも良かった。今あの狭い六畳のアパートに帰ったら、僕は本当に僕以外の何かになってしまうような気がした。つい先日、公開日にわざわざ観に行ったタイトルをもう一度観ることにした。

 チケットとコーヒーだけを買い、開場を待った。シネコンであるこの映画館の中で一番大きなスクリーンのあるシアターに案内され、僕は予め取得していた席を探し、座る。平日の昼間に映画を観るような人間は、暇を持て余した老人が主だった。彼らにも「年金受給者」という箱が用意されていると、ふと思い当たる。

そうして映画が始まり、僕は気付くと泣いていた。まだ映画は始まったばかりで、主人公はまだ船に酔っただけだ。しかしその後のシーンが涙で曇って頭に入ってこない。

唐突に家に帰りたくなったのだ。理由なんてものはない。きっと本心ではずっとその答えに辿り着いていたのだと思う。人に合わせなくて良い場所、誰とも関係を作らなくて良い場所、僕自身で僕を保たなければならない場所。今帰ってしまったら僕は僕でない何かに成り果ててしまうかもしれない。けれどもしも保つことが出来たなら、僕は「僕」になれるのではないか。もしもそうなれば、自信なんていうものもついたりするのではないかという希望めいたものすら感じる。僕は「プログラマー」ではなく、「僕」になってもいいのだ。心が何とも言えない温かさになって、それを噛み締める。そうして僕は、赤ん坊がこの世に生を受けるときと同じように、時に嗚咽を洩らしながら涙を流し続けていた。

上映が終わって劇場の外へ出ると、見え得るものすべてが、もうすっかりオレンジ色に変わっていた。僕はスマートフォンを開く。小野路さんに、もうしばらく、僕が「僕」になるために時間をください、と送った。返信はすぐに届き、宝くじはいつでも買えます、と書いてあった。僕は明日コーヒーを挽こうと決め、家路を急ぐ。


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