2. 進み出す
ダンジョンの最深部、強敵『夜叉』の目前で、瀕死の少女に口づける少年。
リリアの顔色はあっという間に真っ青から朱に染まっていく。すでに夜叉の毒は解毒できたようだ。
しかし、レノは唇を離さない。
リリアの身体に生気が戻り、レノを突き放そうと腕を割り込ませるが、その手はレノによって掴み上げられた。
「ぷは、はーはふほほ。こへふぁ―――」
一瞬だけ唇を離し、
「そういう呪いでしたか………ついでに、解呪します」
それから、さらにレノはリリアの唇を深く貪る。うぐうぐと彼女の唇を食み、僅かに隙間を作ると、長い舌を滑り込ませる。
「ひょっほ、ははんひへふははいへ」
レノは、喉まで届くほど長い舌で、彼女の口内を蹂躙する。
リリアは、次第に瞳を潤ませ、小さく痙攣するが、レノに捉えられていた腕は、いつの間にか意志を持って彼の背中に回されていた。
自ら動かし始めた彼女の舌を、レノの舌がクルっと一周弄んだあと、引き摺るように側部に這わせたところで、リリアが声を漏らした。
「―んあっ。」
「っちゅ……もう、大丈夫ですね。これ以上は、意味合いが違っちゃいますから」
レノが余韻もなく唇を離すと、リリアは口を半開きにして、彼の舌を追おうと僅かに口外に伸ばした舌を、恥ずかしげに慌てて引っ込めた。レノはリリアに目もくれずに、再び魔神へ向き直る。
「さて、お見苦しいところを御見せしました。ですが、ここからは、少しお楽しみ頂けるかと。」
「終焉、次で伏せる」
随分と待たされた魔神が、痺れを切らしたように大剣を振りかぶる。フロアどころか、ダンジョンそのものが破壊されてもおかしくないような一振りを放つその刹那、
「薔薇の園………」
それは、このダンジョンに初めて響いた声だった。
魔神が大剣を振り下ろすよりも僅かに先んじて、フロア全体に強靭な結界が生成される。
バキンッ―――
壊れたのは、振り下ろされた大剣だった。
無論、レノもリリアも無傷でそこに立っている。
「不可思議、我の剣をもって届かず、しからば―――」
「あの、動かない方が…」
レノの忠告は一歩遅かった。最強と名高いパーティ『超越の翼』を一瞬にして壊滅に追い込んだ、魔神「夜叉」の身体は、バラバラに切断されていた。
薔薇の園―――敵意を持って触れたもののみを傷付ける特殊結界だが、通常はかすり傷程度、この破壊力は異常だ。
「やっぱりこの味は、大樹の民でしたか…」
レノが、口元に付着した彼女の唾液を舐める。レノが夢魔の先祖返りであるのと同様、リリアは大樹の民の先祖返りであった。大樹の民は、人間族よりも圧倒的に結界魔法の適正に優れた種族である。しかし、本来、「その根源なる大樹」から離れることの出来ない種族だ。
「その大樹から離れることを許されたリリアさんは、代わりに声を奪う呪いを受けた…さながら、人魚姫ですね。」
「…わたしは―――」
「今日のことは、お互い忘れましょう。僕は………まあ、何も変わらないでしょうが、リリアさんは、声さえ戻れば新たにパーティに所属することもできるでしょう。おめでとうございます。」
「………」
今回のように、臨時パーティメンバーとなるものは、何かしらの問題を抱えている場合がほとんどだ。リリアであれば、話せないことによるコミュニケーションの弊害。レノの場合は、性質そのものが嫌悪されていることが原因である。レノの状況は、どうにもならないことだが、リリアは声を取り戻し、問題は排除された。これから、普通に冒険者として暮らしていくことも可能だろう。
「リリアさんも僕も、なんとか魔神から逃げ果せて、恐怖によるショックであなたの声は戻った。大樹の民であることは隠して、優秀な結界魔導士として暮らすと良い。幸い、帰先易でもバレずに済んでいたんでしょうから。」
この世界では、10歳を迎える全ての少年少女が『帰先易』を受けることを義務とされる。帰先易とは、精霊の力を借りて祖先を暴き、適正のあるものには祖先の力を授けるための先祖返りを強制的に施すものだ。先祖返りが施されるのは、わずか1%に満たないと言われ、その二人が今日こうして邂逅したのも奇跡的な確率である。
ほとんどの場合、先祖返りは各国から、その力を重宝され、それが例え人類と敵対する魔族のものであっても、王国・協会・学園のいずれかの庇護を受け育てられる。その、唯一の例外が、レノの先祖返りである夢魔だ。
夢魔は、下級悪魔であることから、戦闘力も低く、戦闘面以外でもこれといった有益性に乏しい。さらには、人間族の女性を手あたり次第襲うことから、姦淫の罪を助長するため、嫌悪・憎悪の対象となる。人間族以外の先祖返りにとって頼みの綱である庇護機関も、姦淫は大罪であるため、冷ややかだ。
そして、その影響は家族にまで及び、「大罪の娘の血族」として差別・迫害される。
だから、レノは全てを失った。
大樹の民が、この国でどういった扱いになるのかは不明だが、持て囃されるにせよ、迫害を受けるにせよ、リリアが望まないことは想像できる。
「もちろん、出口まではご一緒しますが、外に出たら、お別れです。」
そう言って、リリアの脇を抜けようとして、レノの袖が掴まれる。
「…責任、とって。」
レノが向き直ると、リリアは顔色一つ変えずにそう告げた。
「…それは、リリアさんの命を救ったということで、チャラにはなりませんか」
「違う、生かされた。責任、とって。」
リリアはまっすぐにレノを見る。
「あなたに、押し付けられた、返したい。」
命を。
「…じゃあ、僕のために、ここで死にますか?」
レノが、リリアに殺気を向けるが、彼女は表情を変えずに、
「違う、あなたのために、生きる。」
「それは、困りましたね…」
ここはダンジョンの最深部。依然袖を掴んだままのリリアの手を、振り払う訳にも行かず、レノはゆっくりと彼女の手を引くように出口へ向かって進む。
夢魔は吸血族であるため、人間族とは時間の流れが違う。だからずっと、寄り添えなかった。
大樹の民は美男子を大樹に引きずり込み、一日で数百年の時を過ごさせるという言い伝えがある。
「僕の、止まったように見える時間を、あなたは動かしてくれるのでしょうか。」
「一緒に生きよう、レノ。」
レノは、袖を掴んだままのリリアの手を静かに取って、出口に向かって歩み出す。
なんか、すっかり強者の気分でいたけど、僕、土下座して、無理矢理チューしただけだったなと、思いながら。