白身魚のカルパッチョ
お洒落なバーだとまだ気を使う。小洒落た個室の居酒屋が、私たちにはちょうど良かった。付き合って6年目の彼はけしてイケメンと言われる部類ではないし、どちらかといえば野暮ったい雰囲気だ。でも、まじめで価値観も合う。
「ん? どうかした?」
ぼうっとそんなことを考えていると、彼が困ったような笑顔をみせた。
「あ、いや。やっぱりここおいしいなーって思って」
お通しで出てきた白身魚のカルパッチョを食べて、にっこりと笑った。添えてある玉ねぎもまた、ほどよく酸味が効いていて美味しい。
「うん。なんだかんだで常連さんだよね」
彼も同じようにカルパッチョをつついて笑う。と、突然びくりと体を震わせた。なんだ、と思うと胸ポケットからスマホを出した。どうやら着信のようだ。
「あれ、出なくていいの?」
彼は着信相手の名前を確認すると、スマホをカバンの中へしまった。
「ああ、また帰ってかけ直すからいいんだ。それより、大事な話があって」
箸を置いて、じっと私を見つめた。付き合いたてはニキビでざらり、としていた彼の肌は、社会人になってから落ち着きつるりとしている。そんな彼の肌を見ながら、なんだろ? と私も箸を置いた。
「俺たち付き合ってもうすぐ6年経つだろ?」
うん、と私が頷くのを見て、彼が話を続ける。
「互いの両親に挨拶にも行って、結婚するんだろうなって漠然と思ってたし、したいと思ってた」
嫌な予感がした。彼の顔が話しながら段々と歪んでいく。
「回りくどい言い方はやめよう。ごめん。別れて欲しい」
「なん、で?」
掠れた声でそれだけ言うのがやっとだった。地上に無理やり連れてこられた魚のように、息ができない。
「社会に出て色々な人に会う中で、いいなと思う子ができたんだ。別に付き合っているわけじゃないし、そこまで考えてるわけじゃない。けど、彼女を見てると、結梨と結婚するのは違うんじゃないかって思って。一度思ったら、もうだめだった。ごめん」
今にも泣き出しそうな顔で彼が言う。凄く痛そうな顔だった。カバンにしまわれたスマホ。さっきの着信はもしやその惹かれている相手からだったんだろうか。
泣き叫ぶ、罵る、色々頭に浮かんだ。でも、どれもこれも25歳になった私にはできそうになかった。10代の頃だったら、どかーん! と怒りを爆発させれたのに。今では、周りのことばかり考えて、外だから泣くことも怒鳴ることもできやしない。
「ゆーり?」
甘く伸ばして呼んでくれる、その言い方が好き。頭が割れそうに痛くて、何も考えられなくなった。カバンを持って、なんとか立ち上がる。
「ごめん、また。電話で」
「駄目だ。ごめんな。もう付き合えないんだ」
立ち上がって行こうとする私の腕を掴んで、低くしっかりとした声でそう言われた。
「何も考えられないの!」
手を振り払って、そのまま店を出た。駅前のタクシー乗り場まで走り、すぐに乗り込む。息があがり、そこで泣いていると初めて気がついた。
「〜までお願いします」
運転手のおじさんは、気まずそうな顔をして運転を始めた。タクシー運転手という立場から、泣いている客にはなれていると思いたい。
カバンからハンカチを取り出して、乱暴に顔を拭った。薄ピンクの可愛いハンカチに、茶色のシャドーと黒いライナーの汚れがべったりとついた。
スマホを開くと彼から連絡が入っていた。
(荷物は今度取りに行くから。そのときにまた話そう。急にごめん)
どうやら本当に振られるらしい。
10代の終わりから付き合って今まで。6年間一緒にいた人から。私は明日からどうすればいいのだろうか。
ああ、25歳にして急に独り身か。
婚活しよ。そう思うと急に笑えてきた。婚活、今まで考えてもなかったフレーズが振られてすぐに浮かぶのが面白かった。
ふふ、と笑うと、運転手がぎょっとする気配がした。まぁ、いいでしょう。明日から忙しくなるのだ。どうやって婚活するかよくわからないけど。でも、明日から新しい人生をスタートさせるんだ。
車の窓越しに外を見ると、何となく真っ暗な街並みもいつもと違って見えた。もちろんまだどん底だけど。少しだけ、やるべき事が分かってて気が楽になった。
「ねぇ、運転手さん。婚活ってどうやって始めればいいのかしら?」
ええ! という運転手の声に、くすくすと私の笑い声が重なった。