常闇の住人と過去のひと
世代というのは廻って、そしていずれは過ぎ去っていくものだ。少なくとも、あたしはそう思うのだ。
母が居なくなったこと、然り。
父がつい先日亡くなってしまったこともまた、然り。これでこの家に居るのはあたしだけになってし
まったがきっと、それもまた然るべきなのだろう。
悲しみにくれていても仕方ないので、あたしは父の本棚を整理することにした。扉から凝った細工が
してあって、彼がいかに神経質なひとであったかが伺える。そんなことに今まで気付かなかったあたし
もあたしだが。くすり、と少しだけ笑むと、室内の、四方の壁沿いにずらりと並べられた本棚を見上げ
る。
父の書庫は、まるで要塞のようだ。誰にも立ち入られない知識の壁で、多分どこか他人に対して一本
線を引いていたのでは無いだろうか。天井に届きそうな高い本棚を見上げて、ふとそんなことを考えた。
自分がちょっとだけ博学になったような気分でその中の一冊を手にとって開く。それには一頁目からい
きなり良くわからないメモが貼り付けてあった。何かの研究書だろうか。行の間にもびっしりと神経質
そうな覚書が並ぶ。
本の内容は全く理解できなかったが、あたしはかまわず頁をめくった。
なんだかこの覚書が、とても暖かに感じられて、それを指でなぞる。父が何のためにこんなわけのわ
からない学術書を持っているのか知らないが、それは多分自分以外の誰かのためなのだろうと思う。友
人が以前、病気の弟のために医学者を目指すといっていたのを思い出す。父は優しいひとだったから、
多分母だか友人だか、そんな大切な人たちのための研究なのだろう。あたしの勝手な予想ではあるが。
内容なんてわからなかった。
ただそこにある父の面影を見るため、あたしは時間も忘れてそこにある本に読みふけっていった。
*
暑い日が続く。空はくどいくらい青く、相変わらずの猛暑にあたしはうんざりとため息をついた。
こんなとき母はよく体温の低い体で抱きしめてくれたものだ。触れた肌がひんやりして気持ちよかっ
たのを覚えて居る。あたしの母というのは隠者で、本来ならあたしを抱けるほど大きくないのだという。
何人かは隠者の友人が居たが、たしかに皆大きくても四十センチ程度の小さな体であった。しかも彼女
たちが言うには普通、隠者や妖精は人族に惚れることは無いのだそうだ。
それもまた、あたしが父を尊敬してやまないひとつの理由だったりする。
母は、どうしていきなり居なくなったのか。父は母が居なくなる少し前に倒れてしまった。珍しい病
気だと真っ青になって父のベッドの傍らで泣いていた母は、きっと本当に父を愛していたに違いないの
だ。
それなのに、いともあっさりと消えてしまった。どこかへ。何も告げずに。
あたしがどうしていいかわからずに右往左往しているうちに、父は帰らぬ人になってしまった。母に
対して、仕方ない奴だなと苦笑しながら。
今はもう、母の思いも父の考えもわからない。中途半端、ハーフのあたしはこうして記憶を辿り母の
行動に正当性を見つけ出して、本棚にある書物――いつの間にかそれは学術書ではなく誰かの手記(無
記名だったため)に変わっていたが――を読み漁って父の考えに近づくことくらいしか、出来なかった
のだ。だって、そうでもしなければあたしも疲れ果ててしまいそうだったから。
手に持ったままだった茶色い革の表紙に視線を落とす。外にまで持ってきてしまったらしい。
やれやれと頭を振って家の戸に手をかけたあたしの背後から、声がした。
「ちょっと、いいかな?」
あたしのものよりも少しだけ低い声。女の人だろうか?
振り返ると、声の主はどちらともいえない姿をしていた。その美しさに、暫し絶句する。
「な……何、ですか?」
どぎまぎしながら、片言で答えた。相手が女の人だったら馬鹿らしいけど、こんな綺麗な人相手に話
したことなんて無かったから。そもそも最近は、友人とさえ禄に話していない気さえする。
「うん。ちょっと道がわからなくって。良かった、人が出てて」
そう言ってそのひとは整った顔に柔らかい笑みを浮かべる。あたしはこの田舎の風景に不釣合いな光
景に少しだけ戸惑って、それから先を促そうと思って彼だか彼女だかに向き直った。
「地図あります?」
「うん」
そのひとはあたしが喋らなかったのが不安だったのか、ほっと胸を撫で下ろしてバックパックをあさ
る。見つけられないのか、ちょっと待ってと言いながらその手は中をかき回していた。
改めて見て思う。
綺麗なひと。
真っ黒な髪は後ろで束ねられて、白い肌を強調しているようで。けど男の人にしては輪郭が女性的で、
だからといって女の人にしては肩幅も広く、逞しいような気がする。
やっと地図を見つけ出したのか、彼女 (ということにしておく)はぱっと顔を輝かせ、無邪気にも見
える笑みであたしにそれを広げて見せた。
「あった。ここって、この印のところだと思うんだ」
そう言って彼女が指差したのは、明らかにここではない地名。
……というか、それ以前にもしかして。
あたしは首を傾げて違和感の元を探ると、国名を見て再び絶句する。
「これ……違う国のですよ?」
「え、嘘。――あ!」
彼女は素っ頓狂な声を上げてこっちを見る。ちょっと泣きそうな顔になってあたしの顔を覗き込むけ
ど、そんなことされたって。
不覚にも愛嬌のある仕草にどきどきしながら、一歩下がる。
「な、泣かないでくださいよ」
「古い友達に会いに行くんだ。じゃあ、道戻らないと……」
あたしは困ったな、ともう一度地図に視線を落とす。すると、驚いたことに良く見るとこの地図、国
名は違うのに地形はここと全く同じなのだ。
なんで?
その国名と地名、それから国境の線を指でなぞっていると、奇妙な思い付きをした。
そういえば、あたしはこの地名を知っているのだ。父の書庫にあった誰のものともわからない手記の
中に、たしかこれと同じ地名があった、ような気がする。………ん?何で?
「あれ……これって」
「なに?」
「これってもしかして、もう二十年くらい前のじゃありません?」
彼女ははっと顔を上げ、あたしのほうを凝視した。
「あ―――!」
彼女――訂正しよう。
彼は、取りあえず今夜ここに泊まる事になった。二人で地図とにらめっこしているうちに時間が大幅
に過ぎていたのもあるけど、彼が言うにはここを目指してきていたらしいのだ。
こんな辺境に?
あたしがそう聞くと、彼はあの優しげな笑顔でにっこりと笑った。
「ご両親は元気?」
思わず、とんがった耳が上下にぱたぱたと揺れる。母親譲りのこの耳といったら、顔より素直に感情
を表してしまうのだ。
それより、彼はなんと言ったのだろう。
”ご両親”?ということは、父と母の友人?
「……若すぎる」
あたしの独り言が聞こえてしまったのか、彼は苦笑する。
「そう?」
両親はもう居ないと伝えると、彼は悲しそうに俯いた。
「…………そう。遅くなっちゃったんだね」
彼はそう言って顔を上げ、悲しげに笑む。それで思い出してしまう、父が、母がもうここに居ないこ
と。そう思うと何だか、途端にあたしまで寂しくなった。
居なくなってしまった二人の感情が、あたしには何もわからない。今際の際の父を、母がただ見捨て
たと思いたくなくて、うだうだと考え事をしては父の本を読み漁る日々。唐突にそれを虚しく思った。
「君のお父さんは、本をたくさん持ってなかった?残ってるなら、見ていいかな」
「好きにしてください。あたしは良くわからない本ばっかりですから」
「そう。ありがとう」
彼はあたしの心情を察したのかそれ以上は何も言わず、書庫の扉の向こうに消えた。
*
青年は、懐かしむような目でそれを見ていた。その記述。自分が確かに彼らと歩んだ日々が、忠実に
そこに描かれているのだった。
救いようも無くひねくれて、救いようも無く視野の狭かった自分と、それでも傍に居てくれた仲間た
ち。特に思い入れがあるのはそこにことさら細かく書いてある、巨漢の話。あの日々を愛しいと思える
のは恐らく、彼と出逢ったからこそ。そう思うと、共に老いて死ぬことのないこの体が、いくらか切な
くなった。
せっかくの再会もここでは果たすことは出来なかったし、むしろ待っている”彼女”にこのことをど
う伝えようか、そのことばかり考えていた。
読みふけって大分時間がたった頃、ノックの音に顔を上げると、この家に住んでいる少女が戸の隙間
から顔を覗かせているのが見えた。
「夕食作ったんです。食べませんか?」
この馬鹿丁寧な話し方が誰譲りのものなのか気にならなくも無いが、ともかく彼は笑顔で頷く。
「ああ。少ししてから行くよ。ごめんね」
「じゃ、待ってていいですか」
「ああ」
彼の返答を聞くと、少女は肩の上で外側に跳ねている深緑の髪を弾ませながら青年の傍らに走り寄る。
椅子も机も無い部屋の中で床に直に座って本を読みふける彼の隣に腰を下ろし。
「判りますか?内容」
「うん。懐かしいね」
「あたしにはさっぱりです」
「お父さんのことじゃないの?」
「でも、結構高齢で出来た子ですから、あたし」
そう言って、彼女はそっぽを向く。青年は苦笑しつつも本に視線を落とした。
「彼は、友達のために必死なひとだったよ。だから、滅多に落とせない良い女を掴まえたのかもね」
「でも、母さんは」
青年は最後まで聞かず、少女の頭を撫でる。彼女は身を捩ってそれから逃れようとしたが、ふと彼を
見上げて下を向いた。抵抗する気も失せたようであった。
あるいは、何故か父を重ねてしまったのかも知れない。
ともかく静かになった室内で青年は話を続ける。
「お母さんは、来たよ」
「来、た?」
「うん。死にそうな顔で、おれに会うなり胸倉掴んで。変わらないな、気が強いのも」
「それで?」
「握ってた薬草を全部おれに渡して、その場で倒れてしまった。疲れたから、休んでる間にさっさと行
けって。連れて行ってやろうかって言ったら、むべも無く断られたよ」
「なんで?」
「人間形で居すぎて体にがたが来たんだって。このままじゃ隠者の姿に戻っても動きつづけたら死んで
しまう。力を取り戻すための時間は最低でも四、五年。そんなに待たせたらあいつが死んじゃうって」
少女の、真円の瞳が揺れる。その真っ黒な目が真っ直ぐに青年を見上げた。
「おれはそれを見てものすごく、『愛しい』って、思ったよ」
彼女の目は彼を信じるかどうかを迷っていたが、青年は言い終えるとさっさと立ち上がってしまう。
それから少女に優しい翠の目が向けられる。
「お腹すいたね」
*
父が帰らぬ人になって、もう四年になるだろうか。あたしは実際、彼を信じていいものか迷っていた。
だって、そんなの嘘かもしれない。実際は母は、もう戻る気なんか無いのかも。
そんなあたしの迷いをよそに、彼は夕食を食べ終わったところだった。
「信じてもいいんですか?」
「ん?うん」
彼は一瞬迷ってからふっと笑い、頷く。
「じゃああたし、どうしたらいいんだろう・・・・・・」
「それは自分で考えること」
言っていることは少しだけ厳しい、でもその表情は変わらず悠然としていた。厳しいことを言った自
覚が無いのか、プレッシャーをかけまいとしているのか。あたしは母を待っているべきなのか。
でも、次に貌をあわせたとき、なんと言えば?今まで誤解して、捨てられたとばかり思っていたのに?
そんなあたしの表情に気づいてか、彼は苦笑してのぞき込んできた。
「そうだね。おれは、喜べばいいと思うよ」
ふと。
なぜだか、悲しくなった。喜べばいいと言われてすぐで悪いと思うが。でも、そう。たぶん涙が出る
のだから悲しいのだと思う。この感情はなんなのか、実のところあたし自身にも量りかねた。
悲しいというか、なんだか肩が軽くなったような。何を背負っていたのか、ただ、たぶん、それをこ
のひとは無くしてくれたのだろう。
「大丈夫、あの人は誇り高いから。君が泣けなかったのなら、きっと一緒に泣いてくれるよ」
思い出す。父が死んでしまった日。
そういえば、あたしは泣いただろうか?どちらかというとその事実に愕然として、涙を流すことさえ
忘れていたのだ。事実を受け入れられずに、弱い心が折れないように、過去の思い出に縋って。
とたんに、世界に色が戻った。
家の壁。こんなに暖かな茶色をしていただろうか。そんな風に考えて、それからふと彼を見上げる。
「あなたは何……?」
答えずに苦笑する。
懐かしいと言った。無記名ではあったが父が記したのであろうあの手記を見て、恐らくは二十代も前
半であるに違いないこの人は、懐かしいと言ったのだ。あたしに。
不意に、言い知れない恐怖が襲う。
だって、死んでしまった父だって、五十をとうに過ぎていて、書いてあったのは恐らく二、三十年は
前のこと。では目の前の彼は、何故父を知っていて、あまつさえこれを見て懐かしいと?
あたしがそれを問う前に、彼の手が頭に載った。撫でる手は暖かく。
「おれは、ちょっと複雑な事情の体なんだ」
「複雑?」
聞き返すと、彼は今までより少し上等な笑みで、首を傾げた。
「過去に縛られるって、実際やってみないと判らないものですよね」
「うん?」
夜、二人で月を眺めながら。あたしは不思議と、そんな事を口走っていた。
屋根に乗った足が、今までより少し軽い気がする。
「父の手記……日記かな。あれに、過去にとらわれた男の子の話が出てくるんです。あたし、今までそ
れだったんだなあ……結構、指摘されなきゃわかんないもんですね」
それを聞いて、彼の目が少しだけ見開かれた。何を驚いているのか、そのままの表情で暫く固まって、
それからあたしを見て、苦笑した。
月影に照らされた肌の白さが、やはり女性的な雰囲気を持っていて、あたしは茫然と、我を忘れてそ
れに見入った。その瞳の翠が、深いこと。
「そうだね……。自覚するのは、とても難しいから」
月の下で、それを見上げる姿になにか惹かれるものを感じたが、そんな考えを振り切って俯く。
彼は恐らく明日にはここを出るのだろう。
あたしはそんな事を考える自分がちょっとだけ馬鹿らしくなって失笑した。
「あたし、母さん待つことにします」
「そう」
「気長にね。不完全とはいえ隠者ですから、村に降りれば役にも立つでしょう」
「うん」
「で、友達いっぱい作って、母さんに紹介するんです」
「うん。きっと喜ぶ」
あたしの話を聞く彼は、心底楽しそうに、そして少しだけ寂しげに微笑っているのだった。
*
子守唄を唄いながら子供たちの頭をなでる。ありふれていて、のどかな光景、田園の風景。あたしは
今、この村が一等好きだ。
――そう、「今」。
父の書物は大切に取ってあるし、母のことを考えては後ろ向きな気持ちにならなくも無いが、他の人々
と接している間に空虚な気持ちも紛れるものだと知った。あたしが、自分が思っていた以上に多くの知
識を託されていたのを、村人たちと暮らすようになってからわかって、自分の中に両親の影を見つけて
目頭が熱くなった。
だから「今」、ちゃんとあたしがここにいて、母を待っている。きっと、少女のようなひとだから、
あのいつまでも若々しい少女のような笑みを浮かべ、帰ってくるのだろう。
そのときあたしは、たぶん笑って迎えられるに違いない。そう信じて。




