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第四章

 鐘の音が聞こえる。彩豊かに、深く厚く重なり合った音色、幸福の色。清廉なそよ風、安寧の日差し。みずみずしい青芝の感触がまだ足の裏に残っている。愛おしい天国の風景。まひるは目を覚ました。

 だいだいに近い、柔らかな朝の陽が厚い窓ガラスを透り抜け、石造りの堅牢な部屋を光の蜜で満たしていた。きれいだなあ、と思う。細工の施された黒檀の机、磨かれた大理石の床、淑やかな玻璃の水差しに、金細工を散らした扉枠。少ないながらも豪奢な家具を備えた、神の御使いにあてがわれた部屋。ここはまひるだけの部屋だ。まひるのために神様が場所を割いた空間だ。認められた居場所だ。まひるが認められた証だ。その部屋を朝の光が祝福している。陽のあたたかさは柔和な空気に沁み入り、きらきらと細かな輝きの粒が部屋中に呼応する。きれいだなあ、とまひるはもう一度思った。

 感嘆の息を零して身を起し、手早くいつもの白装束に着替えて部屋を出る。大広間にいけばもう花実たちは居るだろう。朔也と和希はまた言い合いをしているかもしれない。真吾はまだ部屋だろうか。はるかに高い天井のアーチから差し込む光の跡を、裸足で踏んで歩いてゆく。ひんやりとした大理石の感触。心は喜びを歌い希望に震えて、まひるは今日の一日の始まりを迎えた。


 ぱらぱらと清らかに今日の勤めへ地上に向かう、天使たちの群とともにまひるも天国の崖を去った。翼を尖らせて降下するまひるの隣に並んだのは朔也である。

「まひる」

「朔也、どうしたの?」

「俺も一緒に行く」

 めずらしいことである。朔也は花実や和希には着いていくこともあるが、まひるとはあまり一緒に来ない。しかし久々の同行を嫌がるようなまひるではなかった。いいよと笑ってまひると朔也は並んで地上界へと向かった。

 地上は今日も賑わっている。人の流れがいつもより激しい。まひるたちはあまり人気のないところを選んでそっと着地した。行こう、という朔也に頷いてまひるはその少年の後に続く。まひるは普段、天使の仕事をするときは住宅街の中を行く。その町に住み、その町に暮らす人々へと神の愛を説くのである。しかしこの日、朔也は住宅街からほど離れた方向へと足を進め先導した。まあ朔也の好きにさせようと大人しくその後に続いてゆく。

「あ、まひる」

 驚いたのはまひるである。

「駒子さん……」

 フリル状になった深緑のスカートにブラウスと上着を合わせている。十七歳にしては大人しい、中学生の少女のような恰好で、駒子は高架下のコンクリ壁に凭れていた。

「わんわん」(こっちに駒子がいると思ったんだ)

 得意げにそう述べる朔也に素直に感嘆して、まひるはこんにちはと駒子に笑顔を向けた。

「こんにちは。今からあのインチキ宗教の勧誘活動なの?」

 怠そうにしながら開口一番駒子の言葉は棘まみれである。

「わう! がうがう!」(インチキはお前らだろ! 駒子だって夜にはキナ臭い儀式をやるくせに)

 そう攻撃し返す朔也に駒子は見むきもせず、またまひるを睨みあげて口を開く。

「ねえ、一度あなたにあの変なボロアパートへ連れて行かれた時から、イザメントは揺らいでしまったんだわ。あんなの全然有効な宗教なんかじゃないのに。彼、最近は儀式をやっても現れない時があるの。あなたのせいよ」

「イザメント、って木下さんですね」

 駒子の催す夜の儀式。火が燃え、駒子とイザメントがキスをするあの儀式。まひるはあれに何をも感じ取ることができなかったのを思い出した。

「もしかしたら、駒子さんのあの儀式に足りないものがあったからではないでしょうか」

 駒子はますます目の端に力を入れてまひるをきつく見上げる。

「どうかお聞きください。私たちは神様の愛を見失ってしまった、哀れな子羊を教え導く道標の役をしているのです。神様の愛に満ちた信仰、その安心があの儀式には欠けていたのではないかと思います。ですから木下さん、あ、イザメントさんはその覚醒がまばらになってしまったのではないでしょうか」

 駒子は黙った。黙って俯いたまま、ぽつりと小さな声で言った。

「儀式に足りないものがあるとしたら、それはあの儀式に必要のないものだわ」

 戸惑いながらまひるは問う。

「それってどういうことなんでしょう、なんだか矛盾しているように聞こえますが……」

 駒子はぱっと顔を上げて怒鳴った。

「あなたのような人の宗教に私は絶対救われないのよ!」

 その権幕にまひるはたじろぐ。駒子の勢いに合わせたかのようにけたたましい轟音が頭上を揺らせた。重たい金属の車輪が線路を走り去ってゆくまでの幾ばくか、コンクリートに厚く固められた高架下の低いトンネルは爆音と激しい振動に満ちた。

 こだまのような余韻がコンクリートの壁同士を反響させている。駒子の纏う気迫はまひるにはとても強いものに思われた。しかしそれは背水である。追い詰められた鼠の発する叫びである。駒子は再び口を開いた。

「夜は私を認めてくれるわ。私はあの儀式のなかに確かに存在している。選ばれし者だけが得られる光の充溢を私はそこに現しているのよ」

 駒子は強い目でまっすぐにまひるを見上げてくる。その潤んだ視線を受け止めきれずにふと朔也を振り返ったまひるに少年は澄ました顔で頷いた。

「わん、わんわん」(でも、俺たちはみんなを救うんだ)

 まひるもそれに同調する。

「そうです、私たちは救済をあらゆるすべての人々に知らせるのが役目なのです。駒子さんの儀式も神はもちろん心広く受け止めてくれるでしょう。けれどもそれでは聖なる信仰の光を得たとは言えません。広く、一体となって神の愛を信じることが大切なのです」

「そうじゃないわ!」

 まひるはまた戸惑った。どうして違うというのだろう。何が違うというのだろう。駒子の頑なさに困惑したまま、もう一度まひるは試みる。

「信じることによって得られる幸せは莫大です」

「その幸せを私は求めていないのよ」

 そう答えた駒子の目はあまりにも冷たく寂しく思えて、まひるはもうその瞳を見ることができなかった。

 しばらく沈黙が過ぎた。遠くに子供たちの騒ぐ声が聞こえる。公園が近いのだろう。反対側は駅沿いの繁華街で、飲食店が立ち並び塾や病院の看板が色とりどりに空間を埋める。ショッピングや仕事に行き交う人々のざわめきがひんやりと膜を隔てた反響となって高架下にも届けられた。のどかな日常。安穏とした土曜日の町。コンクリートの壁面は冷たい安心と薄暗い落ち着きをもたらし、日々の町とはどこか隔てられたような空気をその間に満たした。まひるは考えていた。分からなかった。ひしひしと困惑を感じていた。信仰の幸せを求めない駒子のことが分からなかった。まひるの運ぼうとする神の愛をかたくなに拒むその訳がわからなかった。駒子のやり方は間違っている。素直にみんなと一緒に救いの光を得る、その幸せから何故あんなにも離れようとするのだろう。まひるは自分の幸せが絶対だと信じている。まひるの信仰はそこにある。

 ふたたび口を開いて説得を試みようとしたまひるを遮って、駒子はねえ、と言った。

「あなたに光の珠を見せてあげるわ」

 駒子は肩に掛けていたスクールバッグを下ろして両足の間に置いた。行儀悪くその上にしゃがみこんで鞄のポケットを漁る。

「ほら」

 そう言って駒子が出したのは緑色の中にきらきらと幾つもの金紙が埋められたスーパーボールだった。駒子は縋るようにまひるを見た。

「それはスーパーボールですね?」

 小首をかしげるまひるの目は無垢である。純粋なしぐさである。それを見て駒子は言った。

「罪とは自分があるということ」

「え?」

「あなたは選ばれし者じゃないわ。あなたの光が私を包まないように、私の光はあなたに届かない」

 駒子は緩慢に立ち上がるといかにも気だるそうにスカートを払った。

「じゃあね。もう会うことも無いでしょう。イザメントは自分でなんとか呼びもどすわ」

「あ、待って下さい、木下さんに……」

「あっ、いた!」

 まひるの声は遮られた。しかしそれは駒子によってではない。まひる達が動きを止めてその声の方を向けば、眩しい午前の町の陽を背にして女性が立ちふさがっている。

「駒子ちゃんまたそんなこと言ってるの? それよりちゃんとお母さんに連絡しなきゃだめでしょう!」

彼女は二人の動揺を気にもせずそういえば、と言葉を続けた。

「今言った木下って、もしかして木下修のことかしら。あなた木下君のお知り合い?」


 駒子は白木蒼を自分の家庭教師だと言った。

「塾が終わってすぐ家庭教師なのはそりゃ面倒なのも分かるけど、お母さんを心配させちゃだめでしょ」

「先生に直接連絡するつもりだったんです。ていうかなんで私がいる場所分かったんですか。さてはこの前のテストで私の精神電波のサンプリングを得ていたのね!」

「この辺にいることくらい分かるわ、毎回毎回私の授業をサボるあなたを誰が探しに来てると思ってるの。何が精神電波よ、お母さんも嘆いてたわ。駒子の部屋がどんどんオカルトグッズで埋まっていくって!」

「先生にもお母さんにも分からないわ! あなたたちはそんなだからいつまで経っても神の国へ行きつくことができないのよ!」

 まひるは圧倒されていた。駒子と白木のお互い叫ぶような会話は勢いもよくテンポもよく、コンクリートに包まれた静寂はまるでどこかへ行ってしまった。代わりに声が良く響く。言い合いの反響は壁に当たって空気に波打ち、ぐわんと唸ってあたりを満たす。

「あら、そういえば、ごめんなさい」

 まだ噛みつく駒子を置いて、白木がまひるの方を向いた。先の権幕に気おされていたまひるは少し怯み気味である。そんなまひるに白木はにこやかな挨拶をした。

「初めまして、白木蒼です。駒子ちゃんの家庭教師をしてます。学校のお友達かしら」

 あの、とまひるが口を開くよりも早く駒子が反駁する。

「まひるは別に友達なんかじゃないわ。知り合いでもない。他人よ」

「さっきまで喋ってたじゃないの、それも仲良さげに。学校と家での大人しさはどうしたのかしらねえ。あ、すみません。まひるさんっていうのね」

「あ、はい、まひるです」

 まひるはようやくそれだけ言った。後ろでは朔也がぺこりと頭をさげる。白木はまた笑顔になった。

「あら、可愛いわんちゃん! お名前はなんて言うの?」

 あっ、そう思ってまひるは背後を向くと、案の定朔也が半ば怯え半ば怒りの表情で白木に吠えかかった。

「わん、わおーん!」(俺が犬だと? ふざけるな!)

 憤る朔也にまひるはまあまあと声をかける。

「怒らないの。地上界では私達の姿は必ずしも人型をしないって言われたでしょ」

 まだ幼さを残し背も低い朔也は、天使としての能力の未熟さもあるのだろう、地上界では犬に見られることが多かった。花実や和希と一緒に地上界で仕事をすることがあっても朔也だけはよく犬と言われ、そのたびに怒って吠え掛かっている。普段通りの朔也に平生を取り戻したまひるは、頭の上に何故かクエスチョンマークを浮かべている白木にあらためて笑顔を向けた。

「初めまして、あらためましてまひるです。私は天界から、あなたに神の愛を、お導きをお伝えするために使わされた者です。何かお迷いではありませんか? ご安心ください。神は全てを御存知です。神の御許ではみなすべて等しく同一にして在る……」

「待って待って」

 白木が入れたストップに、まひるはきょとんとする。

「どうされました? やはりなにかお迷いなのですね、大丈夫です。私達は神の救済を……」

「まひるはインチキ宗教勧誘なんだよ、先生」

「うーん、たしかに」

「インチキではありません!」

 するどくまひるが叫ぶ。

「神の愛は信仰による救済なのです。それが見えないということが迷いなのであり、私たちはあなたたちを迷いから抜け出すお手伝いをするのです」

 駒子はあからさまにため息をついた。

「先生、行きましょう。まひるの信仰はまひるだけの信仰だわ」

「それはちがいます、駒子さんも体験された通り、神は人々に等しく試練と救済をお与えになるのです」

「あれは部屋の酸素が足りないだけじゃない」

 まひるはなおも反駁しようとした。どうして駒子は神の愛を拒むのだろう。等しく与えられた救済を皆得ようとしないのだろう。しかしその反駁は阻まれた。白木である。

「ねえ、駒子ちゃんどこでそれを体験したの?」

「え、どこって……」

「最近ボロボロの宗教施設に連れて行かれなかったかしら?」

 溌剌とした白木の声が発するその言葉が差すものは明らかである。駒子は是と答えた。

「はい、まひるさんに連れて行かれました。懺悔室とかがある怪しい施設ですよ。怪しいというかキナ臭い施設ですね、閉ざされた聖性というものが欠けています」

「駒子ちゃんのオカルトはいいのよ。それよりもその施設、なんて名前だったかしら?」

 まひるが最近駒子を連れて行った場所、それは決まっている。まひるは嬉々として答えた。

「天界シェアハウスです!」


「今ね、そこに居るんだっていうの、木下くん」

 土曜日の賑やかな町を、まひると駒子と三人並んで歩きながら白木が説明する。

「それでね、話したいこともあるし、それに関係ある場所だし暇なら私も来ないかって誘われたのよ」

「ちょっと待って、どうして先生が木下さんに誘われるの」

「彼は私の恋人よ」

 駒子は厳しい顔をして黙った。白木は澄ましたものである。片側でまひるが熱心に語る説教もふんふんと適当に返事をしている。

「ですから、神は私達に迷える子羊を運ぶ翼をお与えになったのです」

「へえ、すごいのねえ」

「木下さんも同じようにして少し前に運ばれたのでしょう。彼も神の愛に救いをもとめる者だったのです」

「そうかしらねえ」

 そうして少し進んだところでふっとまひるは立ち止まった。振り向いた彼女はにこっと笑顔を向けて白木に手を差し出している。

「では、今から私と朔也がお二人を天界へ運びます。はるか高みへ行くので目を瞑っていただいた方がいいかもしれません」

 白木は笑顔のまひるから目を逸らし、傍らの駒子に小声で尋ねた。

「どういうことなの駒子ちゃん」

 駒子は怪訝な顔で白木に耳打ちする。

「よくわかりません。この前も手を引っ張って連れてかれました」

 白木たちのやりとりが聞こえぬまひるは、その後自らの手におずおずと重ねられた白木の手をしっかりと握り返した。そうして朔也の方を向く。

「朔也は人を運ぶの初めてだよね、大丈夫?」

「わん。うーわんわん」(うん、まかせて。花実や和希が運んでるのだってちゃんと見てたんだ)

「そう、じゃあしっかりね。駒子さんは前にも一度来てもらってるから少しは慣れてると思うし」

「わおーん、わう!」(心配いらないって、俺も一人前の天使だよ!)

 そうねと笑ってまひるは今度は駒子の方へと向き直る。

「では駒子さん、朔也が運んでくれますから、しっかりと手を離さないようにしてくださいね」

 ひきつった顔で頷く駒子に笑顔で朔也の手を握らせる。

「もしなにかあったらちゃんと私を呼ぶんだよ朔也」

 まひるは片手で朔也の明るい茶色の髪を撫でた。

そこは駅から十五分ほど歩いた先の駐車場である。人気のないこの場所をまひるは以前に見つけていた。今回もそこから飛び立つのである。白木の手をしっかりと握ったまま、まひるは目を瞑った。背後で朔也がばさりと翼を出した。それに続いてまひるも翼を出す。白木が息を飲む気配がする。まひるは目を開け、白木の手のぬくもりを握り直すとそこから一気に飛翔した。まひるたちは地上界を去った。

それから五分も経っただろうか、まひると朔也はそれぞれ白木と駒子を連れて天界の青芝の上に降り立った。目の前は天界シェアハウスである。朔也は緊張が解けたのか、おおきくため息をつくと真っ先にその芝生の上を駆けて行った。

「あ、ちょっと朔也」

「わんわん!」(俺先に行ってくる!)

 まったくもうと呟いてから、まひるは白木達に眩しい笑顔を向けた。

「ここが天界シェアハウスです、ようこそ」

 天使が飛び讃美歌が響く天国の空。はるかに続く青芝、暖かなそよ風に運ばれる神の息吹。神の御使いたちが集うその建物に白木は圧倒されていた。一度来た筈の駒子もあらためてそれを見上げている。やわらかな昼の日差しが包み込むように建物を照らし、あたりの芝も光に祝福されている。その極光に惹かれるようにしてまひる自身もそれをふり仰いだ。きれいだなあ。なんてきれいなんだろう、そうため息をつく。それからあっと声をあげてはにかんだ。

「すみません、私が天国に見とれていてはいけませんね。では参りましょう。木下さんももう中にいらっしゃるようですし」

 ええ、と頷いた白木を引き連れて進みかけたまひるは、駒子が立ち止ったままじっとこちらを見ているのに気が付いた。

「どうしました、駒子さん。天国はまたあとでも見れますから。神の御許にはもっと素晴らしい景色がありますよ」

 小首を傾げてやわらかに笑む、そのまひるに声をかけられて、駒子は言葉を吐き捨てた。

「ここは偽物の天国だわ」

 そんな、とまひるは反駁する。

「本物の天国ですよ。光の充溢はここにあります」

 それに対しても駒子が同調することはなかった。少女は代わりにぽつりと呟いた。

「私にその光は見えないもの」


 大理石の階段を上り、磨かれた廊下を歩みながらまひるは説明を続けた。

「そうして信じることによって、私たちは神の光を得るのです。すべては信仰です。神はその下に存在し、そして私たちはその神の下に存在するのです。そこに愛が……」

 白木と駒子はまひるの声を聞かなかった。白木は時折相槌を打ちはしたが、それよりも彼女たちは一方の壁面からぼんやり聞こえてくる会話に注意を向けていたのである。それは壁越しでいささかくぐもってはいたが、確かに木下の声だった。

「それで花実さん、その瓶に入った白くて怪しげな粉は一体何なんですか?」

「ポカリスエットの粉よ」

「……かーらーの?」

「MDMAだったりー」

「それって……」

 花実が息を吐く気配がした。

「神との親交を図ってるの。私達はこれがないと天界がはっきり見えないのよ。二階で引きこもってる真吾は部屋中でマッシュルームがマジックしてるわ」

 すると和希の声も混ざる。

「あいつはもうちょっと慎みを覚えた方がいいと思うぜ俺は」

「あなたもよ和希」

「俺はちゃんと働いてるしさ。あれ、なんだ朔也じゃねえか。帰って来たのかな。ちょっと俺庭出てくる」

「ここは、ドラッグハウスかなにかですか?」

 再び木下の声が戻ってきた。それに応えるのは花実の声である。

「あら、これは神と天界と一体化するため、信仰の元にあるのよ。……ああ、でもね、まひるは違う。あの子はクスリもアルコールもいらないわ。そんなものが無くても、私たちには羽を、このボロ屋には天国を見るのよ」

 しばらく沈黙が続く。

「……それは、とても良いこと、なんでしょうか」

「そうね。ラクそうだしお金もかからないし、便利で羨ましいわ」

 それぎり木下の声は途絶えた。白木と駒子は思わず顔を見合わせる。まひるはそれに気づかない。二人の様子にも、壁の向こうの声にも、まったく気が付かない。代わりに明るい声をあげた。

「神の御子を連れてきました!」

 まひるは広間の大扉を開けて二人を招き入れた。アーチになったステンドグラスの天井は、昼の日光を鋭く通しそれは大理石の床に刺さる。石造りの大机にも光は反射して、広々とした空間のなかに光同士が眩しく呼応していた。まひるの声は食事時と違って閑散とした石の広間によく響いた。ぺたぺたと裸足で石の上を跳ねるようにして駆ける、その様子は二人の客を連れてきたのだ、といかにも嬉しそうで、その明朗さに広間の清廉は一層増すのであった。

「花実さん、帰ってたんだ! ただいま!」

 まひるは中央の大机に花実の姿を認めて破顔した。おかえりとそれに返す花実の声にも愛おしさがあふれている。天の御使いたちの家は真昼の陽に祝福されていた。

「あのね、この前来ていただいた駒子さんと、それから白木蒼さん」

「初めまして。今日は木下君が来てると聞いて」

 花実の向かいに座っていた木下は安心したような顔を白木に向けた。

「よく道が分かったね。急だったし、来ないかと思ってた」

 それに、と木下は付け足す。

「駒子も? 君たち知り合いだったっけ?」

 駒子はむくれた声で小さく白木が自分の家庭教師だと説明した。

「あー、なるほどね。なるほどなるほど。それで、蒼。君はこの関係を最初から知ってた訳だね?」

 あら、と平然と白木は答えた。

「私と駒子ちゃんが知り合いで、私とあなたが付き合っていて、そうしてあなたが駒子ちゃんといちゃいちゃしている。それを知っていたからってなんで責められなきゃいけないのかしら」

「責めてるわけじゃない。ただ僕は君と駒子が知り合いって知らなかったから驚いてるだけさ」

 駒子も黙ってはいない。

「あんたこそ最近来ないのは彼女ができたからだったのね。ねえ、イザメントはどこに行っちゃったの? 木下修は浮かれポンチになっちゃったの?」

「そういうわけじゃない。僕達は前からずっと付き合ってる。まあ確かに夜に行けなくなったのは少し影響があるかもしれないけれど……」

 まひるはぽかんとこのやりとりを見ていた。花実はもう自分の方にかかりっきりで、和希もとっくに庭へ出ている。はっと我を思い出したまひるは、勢いに負けてはならぬと間に割って入った。

「みなさん、喧嘩はやめてください。どうして神の御子たる、神の御下に平等な方々が諍いを起さねばならないのでしょう。私達はみな一つなので……」

「一つなんかじゃないわ!」

 叫ぶように声をあげたのは駒子である。

「私たちは一つなんかじゃない。木下修だってイザメントと半分こよ。一人の人間すら二つになるのに、最初から私たちがまとめて一つなんて、そんなの絶対に間違ってる」

 それは、と反駁しようとするまひるを押しとどめて駒子は続けた。

「私達はもとから一つなんじゃないのよ。一つになること、その過程に聖なる信仰の光があるの。そうでしょ、イザメント」

 駒子の視線はまっすぐに木下を射った。まひるも木下を向いている。白木は困惑して二人と同じ方向を向いた。

「僕はまだイザメントじゃないからな、言っておくけど」

 諦めたように肩をすくめてそう答えた木下に、白木は問いかけた。

「どういうことなの、木下くん」

「それを話したくて呼んだんだ。まさかほんとにここで話すことになるとは思わなかったけど」


「僕はね、木下修であるとともに、イザメント・ヴァークリの精神と同体なんだ」

 広間の大机を四人が囲む形となった。花実はまた天使の仕事に戻っている。まひるは共用の水差しからグラスに水をついで各人の前に置くと自分も着席した。

「本当はこれは駒子以外の誰かに言うべきじゃないんだ。まひるさんは成り行きで知ることになっていたけど、蒼には話そうかどうしようか大分迷った」

「それでも話してくれるのね」

 ああと頷いて木下は続けた。

「君は現実世界を生きる者だ。イザメント・ヴァークリは夜陰の者、君とは決して交わらない筈だ。だけど、僕は現実に生きる君と一緒に生きて行きたいし、かといってイザメント・ヴァークリを捨てることは出来ない」

「私にはその、イザメント・ヴァークリ、が何なのかまるでわからないのだけど」

「うん、だから直接見て欲しいんだ」

 それを聞いて駒子が弾けあがった。

「ちょっと、それって私達の儀式を見せるってこと?」

「そうだよ」

 冗談じゃないわと駒子は憤る。

「あなたは、あなたはそれじゃあ……」

 駒子は言葉を詰まらせた。きっと少女は何が何でも反対したがるだろう、木下はそう思った。しかしこれだけは許してほしかった。白木がイザメントと駒子の秘儀を完全に理解し得ないことは殆ど確実だ。駒子が白木のような現実的かつ知人の介入を拒むのも納得できる。それでも木下は白木にただ知って欲しかった。イザメントとして執り行う駒子との儀式は木下にはどうしても必要なものである。それを白木に、ただそれとして見てもらうだけでいい、知っておいて欲しかった。

「このシェアハウスを見てからだと、少しは蒼もイザメントのことを分かってくれるんじゃないかなって、そう思うんだ」

 まひるとこのシェアハウスと出会って、駒子は静から動になった。そしてそれは駒子だけではなかったのだ。

「わかったわ」

「え?」

 木下は思わず不審の声を上げた。それを睨み付けて駒子は続ける。

「わかったって言ってるのよ。先生、あなたに神の国が到来するかは分からないけど、特別に許可してあげるわ」

 それが何なのかも分からぬ白木はただはあ、と返すしかない。駒子は言葉を重ねた。

「私はイザメントとひとつになるの、そこに光の充溢を見出すのよ。一度先生も見てみればいいわ」

 駒子は迷っているような厳しそうな、そんな顔をしている。それを見て木下はありがとうと小さく笑った。

 あれよという間に今夜零時と時間が決まり、白木と駒子が話を始める、その様子までをすっかり、まひるは呆然と視界に流していたのだった。まひるにはよく分からない話だった。また必要のない話の筈だった。しかし引っかかるものがあった。なぜだろう。彼等は何故自分のわからぬ話をああまで真面目にするのだろう。まひるは揺らいだ。散々駒子につつかれた自分のヒビが疼いているようだった。あの儀式。いつかの夜を思い出す。まったく理解も感銘もできない、意味のない焚き火。駒子とイザメントが見たのは神の国なのだろうか? いやそんな筈はない、神の国は信心のもとに到来する。あれは違う。では彼等の神の国はなんなのだろうか。自分は、何かを見逃していたのだろうか? 何かを見ずに来たのだろうか? 思考がぐるぐるとまわる、これまでのまひるにそんなことはなかった。慣れない熟慮の渦に、まひるはすっかり飲まれてしまった。そうして思わず口走る。

「私も儀式に参加させてください」


 オレンジの西日が斜めに射る町をまひるはとぼとぼ歩いた。地上界に降りて駅の前まで花実とともに彼らを送って、さらにこれから天使の仕事だという花実と別れると、まひるは完全に一人になった。このあとは夕餉に間に合うよう一度天界へ帰ってから、再び地上界へ降りる許可をもらうのである。それまでは再び天使の仕事をすることになる。まひるは未だなにかを引きずっていた。それは夕日に伸ばされた影と同じく、町を歩くまひるの足をずるずる重たくさせるのだった。この違和は何なのだろう。私はどうなってしまったのだろう。いつもの信仰に満ちない己を自覚してまひるは戸惑った。こんな気分は天使になってから未だかつて無いものである。頭のなかがぐるぐるする。

 ふと顔を上げると住宅街のさ中である。しまった、ここはどこだろうとあたりを見回せばどことなく記憶に覚えがあることを知った。そのおぼろげな記憶に頼って足を運ばせることにする。そうしていくつか角を曲がり、いくばくの道を経た先にまひるがたどり着いたのは図書館の駐車場であった。土曜日の夕方とあって閉館間際の出入り口はいろいろな人でにぎわっている。車はもう殆ど出ているようだった。そのなかでも閑散とした隅っこへ行き、その塀に背中をもたせてようやくまひるは落ち着いた。ここは駒子がいた場所であった。初めてあの少女に邂逅した塀であった。

「私は愛されてるんですか?」

 鼓膜に直接ささやくように、駒子の声がよみがえる。

「私、どうして何もできないの?」

 まひるは色んなことを覚えない。多くの記憶を落してゆく。疲労は寝るまで、それと同様に嫌なことはたちどころに忘れてしまう。それなのに今、なまなましいほどに鮮やかさを伴って、駒子の言葉を思い出している。ああ気分がわるい。まひるはあの時の駒子と同じように両手を後ろにまわした。目の前が回っているようだ。朱い夕日が眩しくアスファルトに熱を投げかけ、一方でそれを受けれなかった黒い小石たちは濃いどろどろした影に呑まれてゆく。その影を母親に手をひかれた幼い子供が踏んでゆく。

 神様、私を安らがせてください。まひるは祈った。やり残しってなんですか。いつまでこうしていればいいのですか。信心に生きてはいけないんですか。私は間違っていたんですか。

 駒子の記憶に触発されて、嫌な、触れたくないような、そんな気味の悪いなにかがまひるの脳裏に呼び醒まされていくような気がした。あの懺悔室に籠っているときのように恐ろしい不気味な感覚。記憶の箱に触れてはいけない。まひるはなおも浮き上がってくる重い蓋をそっと押し戻した。


 まひるは天使である。神の御使いとして、その愛を救済を迷羊に伝える役目がある。あの塀を離れたまひるは気を取り直して仕事をしようと、再び町へ繰り出していた。

「何かお迷いではありませんか? 大丈夫です、神はいつでも私達のことを御存知です」

「こんにちは、私はあなたに神の愛を伝えに来ました。神の国は訪れます」

「私達は迷います、しかしそれは神の与えた試練。試練と愛はいわば表裏なのです」

 道行く人々に声をかける、まひるの笑顔は憔悴していた。それでも神に使わされた、その仕事をやらねばならない。天使の、天の御使いの仕事をやらねばならない。そう言い聞かせてまひるは歩く。声をかける。そうして駅前の道も終わりまで来ようとしていた頃である。迷い羊に声をかける、そのまひるにかけられた幼い声があった。

「ねえねえ、あなたはだあれ?」

「……」

 瞬間、まひるは立ち尽くした。いつものように、神の御使いだと、そう答えることができなかった。その言葉すらまひるの頭には浮かばなかった。ただ空白の衝撃に思考を喰われた。

「あ、すいませんすいません。ほら行くよ。変な人に声かけちゃだめでしょ」

 黄色いキャラクターの上着を纏った小さな女の子は、そのまま母親らしき女性の手に引かれて去って行った。女の子の上着のフードには可愛らしい耳がついていて、歩くたびに上下にぴこぴこ揺れるのが遠目にも分かる。親子連れは駅の方へ歩いてゆき、後ろ姿は小さくなって、やがて途中で曲がってしまった。

 そうしたのどかな夕方の風景は、一切まひるの視界に入らなかった。まひるはただ立っていた。冷や汗がこめかみを伝う。脳内に子供の声がリフレインする。あなたはだあれ。あなたはだあれ。私は誰? 

 あっ、と小さく叫んでまひるはその場に膝をついた。左肩に燃えるような痛み感じた。背中にじわりと熱が籠る気がする。

「ああっ」

 まひるは更に悲痛に叫んだ。駅前の通りの果て、人気のない駐車場の前の道路で、まひるは夕焼けに染まるアスファルトに倒れ込んだ。じゃりっと音を立てて片頬に当たる、アスファルトの小さな黒い塊は暖かな熱を帯びている。その固く優しい暖の上にまひるは悶えている。そっと右腕を伸ばし手で左の肩に触れた。えぐられるような熱を感じる、その肩甲骨のあたりを何度も何度も掌で撫でる。まひるの目に涙があふれた。翼が無い。片翼が無い。まひるの翼は落ちてしまった。

 崩れた体を抱えながらまひるは天界に帰った。よろめく飛行を片翼で、なんどもバランスを崩して落ちかけながら、ようやくの思いでたどり着いたシェアハウスに泣きじゃくりながら入った。

「どうしたの、まひる!」

 和希と朔也が駆け寄ってくる。まひるは自分の不具をしゃくりあげながら説明した。

「真吾さんの部屋にいってみよう。真吾さんならどうすればいいか分かるかもしれない」

 そう促し慰める和希に頷いて、まひるは真吾の部屋へと、大理石の廊下をよたつきながら進んでいく。つめたい、大きなその廊下を見て進む。まひるは自分の跡には流れ出た血が尾を引いているのではないかと思った。

「真吾さん、まひるがね……」

 ガラス窓から差し込む赤い陽が真吾の横顔を照らしていた。反射する夕日が眩しくて、部屋の中はよく見えない。ただ真吾のやさしい声が、涙で視界のおぼつかないまひるをそっと包んだ。

「どうしたの、まひる。こっちにおいで」

 まひるは一気に自分が幼くなった気がした。真吾さん、真吾さん、と子供のように名前を呼んで縋る。真吾さん。あたたかな真吾さん。まひるはいつしか眠りのゆりかごにくるまれているのを知った。忘却の川水に思う存分身を浸そうと、まひるは眠りの中へ堕ちていった。


 目を覚ますとそこはいつものまひるの部屋であった。暗い、夜の裾がすっかり光を喰い尽くしている。か細い月が僅かな光を差し述べる以外に暗を裂くものはない。磨かれた石壁も反射すべき光の無くてはただ闇に燻ぶるばかりである。静寂と薄墨の青暗さがひんやりと空気を凍らせているようだった。夜の冷たさが肌に沁みこんでくる。冷静な夜。冷たく静かな夜。

 まひるは霞む思考を抱えたまま身じろぎした。天井の暗さから目を逸らしたくて、横を向く。部屋の四隅は闇に塗りつぶされていた。その隅の一角、つやの無くなった黒檀の木机の前に一人座る影がある。真吾である。

「起きたのかい、まひる」

 まひるは頷いた。喉はへんに張り付いてしまって掠れた空気が通っただけであった。真吾の顔は夜に紛れてしまってまひるからはよく見えない。その影は言葉を続ける。

「付けてごらん。僕のお古で悪いんだけど。君ならきっと、それを使って飛べるから」

 細い指がとんとん、と木机の上を叩いた。影は立ち上がる。

「僕達の信仰は信じることによって成り立っている。罪とは自分があるということだ。忘れるなよ、まひる」

 ぼんやりとした意識のまひるが僅かながらも頷いたのを確認して、影は部屋を出て行った。厚い木製の扉がカチリとか細い音を立てて閉まる、その余韻が夜の冷たい部屋に響いた。まひるはそっとシーツを抜けた。

 夜の大理石は素足にぞっとする冷たさを与える。朝の、あのみずみずしい冷たさではない。爪先からそれは伝わってやがて体が凍えてゆく。足音すら吸収する夜の静寂を歩いて木机の前に座ると、その上に置いてあったのは白い羽であった。翼であった。まひるは感嘆の声をあげた。その目に輝きの光が灯る。まひるは音も荒く立ち上がって早速それを付けた。嬉々として白い手が翼の根本のゴムを片腕に通し、肩にはめる。嬉しさに弾むまひるの顔は夜にも明るく、すっかり元気を取り戻して幾度も背中の片翼をふりむいた。これはおもちゃの翼である。天然羽毛を使った子供用の天使の羽、その片翼である。少しくたびれ、先が黒ずんでいるおもちゃの翼。それはまひるの目には純白であった。清廉な白、厚い羽の重なり。肩に付ければそれはもう自然に背に馴染み、まひるの思うままに動いて部屋にそよ風を起した。まひるは足どり軽く部屋を出た。

「あ、まひる、もう大丈夫なのか?」

 広間には和希と朔也が座っていた。まひるは明るく笑みをこぼして大きく頷く。まひるの喜びに触発されたのか広間の燭台は一層灯りを活発にし、光があたたかく大机を照らした。

「真吾さんが羽を付けてくれたの。これから地上界に行ってくるね!」

「ならよかった。気を付けて行って来いよ」

 まひるを見る和希の目はやさしい。それにますます嬉しくなってまひるは笑んだ。

「まひる」

 朔也である。呼ばれてどうしたの、と問い返すまひるを、朔也は深い青藍の瞳でじっと見つめた。そうして視線を逸らさぬままぽつりと言う。

「ねえ、まひるはやり残しを終えたの? だから羽が無くなったの?」

 しかしまひるは首をかしげてほがらかに応えるだけだった。

「羽はもう付いたじゃない」

 そして続ける。

「真吾さんも言ってたでしょ、やり残しに囚われてちゃいけないって。私達は信に生きてこそ光を見つけられるんだよ」

 青の目で視線をぶつけるように向けながらも黙り込んでしまった朔也と、椅子に座っている和希に笑顔でいってきますと言って、まひるは大広間を出て行った。

 涼しい天国の夜風がまひるの髪をさらった。夜の静かな讃美歌が遠くの空に美しく響いてる。さらに上の天から聞こえてくるのだろう。薄暗い中にも天国の草原は爽やかにそよいで、ほのかな草花の匂いがまひるの心を柔らかくした。はるか先まで続く原の先は闇に呑まれているとはいえ、そこに絶望は無く、夜の安らぎと来る朝の予感が控えているだけである。

あるいて来た崖際から背後を仰ぎ見れば天界シェアハウスの堅牢な建物が高くずしりとそびえていた。大理石は深夜に眠り、朝には光をたっぷり含む。天の御使いたちが住む建物は荘厳たる総大理石である。ここがまひるの家である。まひるの暮らす天国である。静かなその上をさらに仰げば、深い群青がなめらかに空をうずめ、広がる悠久の先にまひるは思いを馳せた。この天の上にまた天がある。さらに上にも天がある。九、十、と数を超えたその先に莫大な光源、私たちの神様がいる。天の間を埋めるは清らかな魂の数々。両翼を大きく広げた美しい純白の天使たち。まひるは思わずため息を漏らした。なんてきれいなんだろう。清廉なものに埋め尽くされた獄。美しい天国の風景。きれいな、眩しい、とろけるような光の充溢。

 最後にもう一度天国の我が家を見て、まひるは崖に向き直った。約束は守らねばならない。駒子たちの儀式を見て、何を感じるともしれない。けれど、と思う。私の信仰は本物だ。大丈夫。そう頷いて片羽を出すと、もう片方の新たな翼と一緒にそれをはためかせて、まひるは地上界へ向かった。


「あら、あなたもちゃんと来たのね」

 深夜の中学校の時計は丁度零時を指している。その正面の公園に、駒子たちは居た。以前の秘儀の時と同じく、黒いセーラー服の上にまた黒いローブを羽織っている。白木は公園の隅の滑り台に凭れ、ちらちらと駒子を見ては不審そうな顔をしていた。

「まひるさん、こんばんは。今日は片翼の天使なのね」

 その白木の問いにまひるは笑顔で両翼ですよと答えた。

「まあ先生はそこでまひると見ててよ」

 その頃にはもう木下修の意識はすっかりイザメント・ヴァークリの精神となっていて、彼が口を開くたびに、またもや白木はまじまじと視線を送っている。

「汝らも素質があるならば、この場にいるだけで神の到来を体感できるだろう」

「ふふん。イザメント、あなたに神のお導きがありますように。さ、はじめるわよ」

 まひるは黙った。駒子たちの様子一切を見守る、その目は安定を得ていた。まひるはもう何故自分がこの儀式へ来ているのか、その理由を覚えていない。ただ約束を違わぬために姿を現したのだと思っている。何か不穏があったかもしれない、けれどそれももう心配いらぬと考えている。そう構えて、ただぼんやりと彼等の為すことを見守っているのであった。

駒子はどこから探し出してきたのか、太い枝を抱えるようにして公園をぐるりと歩いている。枝の先はがりがりと砂を掻いて駒子の跡に線を引いていた。市営の小さな公園とはいえ、まひるたちの立つ公園の端を掠めるようにして描いてゆくのだからその円は大きい。一周目が終わるとまたひと間隔をあけて次はその円の内側に、駒子は大枝で曲線を引いていった。何かを呟きながら歩いているようだったが、まひるにその声は聞こえてこない。白木にも届いているか怪しいところだろう。一周が終わるごとに線の始点と終点の際で駒子は何かを唱えている。それをまた中に引いてを繰り返す。ではイザメントはといえば、駒子の歩みの中央、それぞれの円の中心点でただじっと正座をしていた。やがてどんどん半径を狭めていった駒子の描く円はイザメントのすぐ間際まで接近した。その円が接着されると駒子は声たからかに叫ぶ。

「エンピレオ、第十天に満ちる天上の純白の薔薇よ、この世を動かす神の愛をたたえよ!」

 そうしてかたわらに正座するイザメントがもたもたと手を動かすのを小さく叱咤した。

「ほら、なにやってんのよ、はやく」

 イザメントが正座するその膝の上に載せられていた、四角い機械のようなものには側面にハンドルが付いている。イザメントはそのハンドルを猛スピードで回した。するとしばらく経って箱の上にはめ込まれた二十ワットの電球がかすかに白く発光する。

 駒子は何かをまた唱えて、それからしばらくはじっとその光を見ていた。イザメントが腕のスピードを徐々に弱め、やがて電球の光は消える。駒子は口を開いた。

「至高天は我が心中にあり、よ」

「ああ、見神の域だ……」

 そうして描かれた円の中央で二人が唇を合わせるのをまひるたちは黙って見ていた。

 やがて二人は話しながらまひるたちの元へ戻ってきた。イザメントは歩きながらライターを出して口にくわえたわかばに火を着けている。

「やはり素晴らしい典礼だったな」

「ええ、ベアの導きは私達には必要ないわ」

 まひるはぼんやりとただそこに立っていた。白木だけが二人の元に駆け寄って行く。

「白木蒼、見ていてくれたか」

 イザメントが口を開いた。

「見てたわ。えっと……、あなたは木下君って呼ばないほうが良さそうね。私には木下君なんだけど」

「我はイザメント・ヴァークリ。木下修の精神と居を同じくする者だ。しかし汝に理解までは求めぬ。知っていてもらえばそれでいい、そう木下修は考えているだろう」

 白木は難しい顔をする。そこへ駒子が問いかけた。

「先生、どう。何か感じた?」

 駒子の目は複雑な色合いをしていた。期待が見られなくはない。ただその上に現実の色が大きく重ねられているのだった。

「あれは天国ね?」

 駒子は驚いた。そうして破顔する。

「そう! そうよ! 私達は天上の天に到達したのよ!」

「けど残念ながら私にそれは感じられなかったわ」

「え?」

「知識として知っていただけよ。私はベアトリーチェの案内無しに天国を覗き見ることは出来ないみたいね」

 諭すようにそう述べる白木の言葉を聞いて、刹那表情をこわばらせた駒子はそう、とだけ呟いた。白木はイザメントに向き直る。

「イザメント、あなたも神の国の到来を体感したの?」

「ああ。しかし汝には分からぬだろう。それは汝にその必要が無いからだ。ただ、あの共鳴を必要とする我イザメントを含んだ、木下修を必要としてくれればいい」

 白木はそんなの、と笑って答えた。

「今更よ」

 まひるは一人彼等のやりとりをぼうっと聞いていた。今回の儀式にもまひるは何も感じ得なかった。それに納得することは出来る。しかし何故駒子たちは、まひるに見えぬ信仰を得ることができたのだろう。どうしてそこに神の愛を見出しているのだろう。そしてなにより信じがたいのは、

「天国は現れていません」

 公園の端から上がった声に三人ともが振り向いた。まひるは続ける。

「神の愛は平等に私達に降り注ぐ、その源たる天国は天にあるのです」

 駒子はぱっと反応した。

「いいえ」

 細かに揺れ動くまひるの目を見据えながらはっきりと言いきった。

「天国はここにあったのよ。まひるが見えていなかっただけだわ」

「では、それは偽物です、幻覚です!」

 まひるは痛々しく叫んだ。それになおも言い返そうとする駒子を遮ったのは白木である。白木はそっとまひるに近づいた。まひるは何故自分がこうも動揺してしまうのか分からなかった。ただ内側から揺さぶりかけられているのを感じた。その様子が傍目にも分かるまひるの前に立った白木は透き通るような声で言った。

「私も天国は見えなかったわ。けれどあなたの天国も、私には見えなかったの」

 まひるは頭の奥からぼうっと霞んでゆく気がした。白木は言葉を紡ぐ。

「それでもなんとなく分かったのよ。木下君に、女子高生といちゃいちゃする儀式は必要なんだわ。同じようにローブを着る駒子ちゃんには学校で送る鬱屈が必要だし、あなたにも朔也くんとフリスビーをやる時間が必要なんじゃないかしら」


夕焼けの道をとぼとぼ歩いていたのは夕方のまひるである。夜の今、まひるはあの時と同じ道を今度は逆の方向へとぼとぼと歩いていた。時刻も時刻、ばれないうちに布団へ帰るという駒子達と別れ、一人駅の外れの駐車場を目指す。まひるの心中は混沌としていた。その混沌は思考の表面に浮かび上がってくることはなく、ただぼんやりとその煩悶を感じた。まひるは言い聞かせる。信仰は生きている。私のなかにそれはある。天国は鮮やかに、翼はやわらかに。神の愛はすべてに注がれ、その杯は一つとなる。大丈夫よ。迷っている子羊をすべて一人の御使いが救うのは難しい。けれど神様はちゃんと御存知だから。帰ろう。私は私の信仰を捧げるために。あの美しい天国へ帰ろう。罪とは自分があるということ。

 駅前の道を黙々と辿り続けたまひるの耳に雑多な人声が聞こえだした。なんだろうと歩きながらその方向を注意して見るといつか駒子とまひるが会ったコンクリートの高架下である。幾人かがあつまってそこに騒いでいる。まひるの胸は騒いだ。頭に危険信号がともって、見ないようにと足を速める。ここまでがまひるの無意識である。明確な思考の上には、もし喧嘩でもしているようなら、自分は神の御使い、是非とも止めねばならぬとびくびくしているのであった。そうして数歩進むと、高架下の片方の壁面に五、六人の男性が騒いでいるのが分かった。あと数歩先でその集団の正面になる。まひるの無意識はその目を斜め下へと逸らした。暗い道路を見ながら足早に歩く。しかしあと少しで彼らの丁度前を通るという時、飛ぶような掠れた悲鳴がまひるの耳に入ってきた。

「すいませっ、ごめんなさい!」

 震える足が止まった。しかしこれはまひるの信仰の仕業ではなかった。喧嘩を仲裁すべく強い意志のもとに立ち止ったのではなかった。まひるの目は見開き、すっかり怯えきった眼球が空気に触れる。鼓動が一気に速まってゆく。まひるは顔を上げた。人が沢山いる、その方向へと体ごと向く。

 なんてことない、とまでは言えなくとも、夜の駅前には珍しいものではない。一対多数の喧嘩である。少年とも青年ともつかない男性が倒れて他の人間に囲まれているのが見える。罵り声をあげて足を蹴りあげる人や、しゃがんで頭部を鷲掴みする人、また少し輪を外れて笑っている人。繁華街から一歩引いた暗い高架下は格好の場所であったろう。街灯の白光も届かぬコンクリートの下で彼らは騒ぎ合っていた。倒れた人物は先からうめき声や低い悲鳴をあげている。周囲の人間はそれを笑う。暴力であった。

その光景を把握したまひるの唇から、頭で考えるよりもはやく弱々しい声が零れ出た。

「どうしてそんな酷いことするの?」

 気が付くとまひるは高架下の地面に倒れ伏していた。こめかみに当たるコンクリートは固く冷たい。闇が壁も天井も殆どを覆い、いつのまにかまひるを囲む、その人たちの顔はまるで見えなかった。ただぼうっと彼らを見上げる。色々な声が口ぐちに物を言っている気がする。思考に膜を張っていた霞はますます濃くなって、まひるはもう何も考えられなくなっていた。頭の奥が痛い。罵られるがまま、叫ばれるがまま、誰かの靴が白く柔らかなまひるの頬をつつこうとも、されるがままに身に受ける。まひるはすっかり疲れ切っていた。それは体の労苦ではない。しっかり乗せたはずのあの重たい記憶の蓋が、力を強めて浮き上がってくる、それを抑える疲労である。まひるはもう精一杯だった。はやく眠りたかった。天国のまひるだけの部屋で、光に祝福されたあの部屋で、なにもかも忘れ去って眠ってしまいたかった。

「なにこれ、おもちゃの羽?」

 男の一人がまひるの背に手を伸ばす。あっ、とまひるは一瞬意識を明瞭にした。いけない、羽が。

「触らないで!」

 勢いよく振り向き起きたまひるが手を伸ばす、その直前におもちゃの古いゴムは切れてまひるの背から翼は奪われた。それを無理にひったくる。激した男たちが怒鳴って、足をひとつ蹴りこむ。まひるは真吾のくれたおもちゃの羽を強く両腕で抱え込んだ。これは帰ったらまた付けてもらえばいい。大丈夫、羽は直る。大丈夫。私は天使なんだ。

 体をなるべく丸めて、地面に身を寄せるようにして、外からの攻撃に耐えようとした。たしか時折腹部をえぐりにくる爪先が一番痛いから、それを避けるため壁面に向かないと。痛い。痛みが一番怖い。太い拳が当たれば筋肉が無理にへこまされ、骨をいため、神経が引きつる。血が溜まる。内臓を蹴られるのは絶対に嫌だ。ああ、はやく終われ。眠り込みたい。安らかな布団に入りたい。はやく終われ。

 まひるは、あれ、と思った。この耐え方を知っている。体が防御を覚えている。あれ? ふと背中に厚い筋肉の重みを覚えた。頭を撫でられ、首筋を節ばった手が這う感触がする。まひるはさっきから一度殴られ一度蹴られただけである。あとはただ罵られたり、卑猥な言葉を投げつけられたり、今みたいに体をまさぐられただけである。暴力の渦に飲みこまれていたわけではない。それでも一瞬、激しい殴打と蹴りの中にもみくちゃにされているような気がした。なんだろう。ものすごく頭が痛かった。コンクリートに押し当てているこめかみよりも、頭の中央がきしんだ。

「おねえさんいいの? このままだとヤられちゃうよ?」

 はやす声が沸き立つ。カメラだろうか、携帯の電子音もコンクリートの壁に響く。ひとりの体つきの大きな男性が見せつけるようにして、まひるの顔の前の地面にどすっと拳をおしつけた。

「殴られたくなかったら叫ぶなよ、なァ?」

 まひるは目を見開いた。ぱっと鮮明な記憶が咲く。何度も小さな自分の体をえぐる拳。目の前の少年を殴る男の手。曲げられた指のかたちも、出っ張った節も、その硬さもよく覚えている。いや、思い出した。体をこわばらせ、すっかり青ざめたまひるの頭蓋骨の間をなつかしい声が反響する。

「お前のお母さんは天国にいるんだよ、まひる」

 あっ、とまひるは掠れた声をあげた。小さく叫んで地面に悶える。未だ背中には男の体がまたがり、いくつかの手がまひるの胸際やふくらはぎにあることを、まひるは感じる余裕もなかった。身を捩って熱を発する右肩を片手で掴む。まひるは涙を零した。

「お義父さん……」


 見回りの警官が来たと、一気に雑多になったざわめきは嵐のようにそのまま向こうへ去って行った。実際にその見回りが高架下まで来たのかどうか、まひるは知らない。誰かが呼んでくれたのかも分からない。ただふらふらと、おもちゃの羽だけを強く抱きしめてまひるは道路へ出た。涙が止まらなかった。

 まひるは母の連れ子である。幾つの時にあの家に来て、幾つのときにその母が死んだか、それはまひるの記憶にはない。養父と彼の連れ子である六つ年上の真吾との生活には暗い影が差しこんでいた。それでも養父の振るう暴力は、酔ったときだけ消えた。まひるは養父が酒に浸かることを好んだ。

「真吾のお母さんも、まひるのお母さんも、天国にいるんだ」

 やさしい声が記憶によみがえる。

「天国ってどんなところなの?」

「きれいなところだよ。神様が見守ってくれる、きれいな優しいところだよ」

 真吾が部屋に籠りがちになっても、デリヘルとして来た高校生の花実が目の前で犯されているのを見ても、まひるは酒を飲む養父に懐き続けた。ただ殴られる恐怖に憑りつかれることだけはどうしようもなかった。一度、大学を中退するという真吾と悶着した養父から、今までで一番酷く殴られ通したことがある。天国が目の前をちらつき始めたのはその頃からである。養父が酒に倒れた時にはもう、まひるの目に天国は本物だった。部屋に籠って聖書を読みつぶしていた真吾は天界シェアハウスの看板を掲げた。

 なにもかも全て思い出した。思い出してしまった。歩きながらまひるは泣き続けた。まひるの両翼は折れてしまった。まひるの天国は消えてしまった。天使は堕ちたのである。

 涙がとめどなく頬を伝う、滲む視界に夜の空は暗い。都会の光をはね返す赤い雲すら写らない。上を仰いだその先に、もう天国は無いのだと思うと、まひるの睫毛からはまた涙が滴った。

 やがて足はすっかり来慣れた静かな駐車場にたどり着いた。思わずひしとおもちゃの羽を抱きしめる。数本の街灯が寂しく白光を纏い、薄暗い中に自販機のライトがまぶしく四角にくりぬかれていた。肌寒い風が吹いた。アスファルトはすっかり冷たく、今は闇に沈んでいる。まひるはまた空を仰いだ。もう背中に翼はない。ここから飛び立つことは出来ない。再びまひるの瞳を透明な雫が覆いかける、その時に不意に背後から幼い声が掛かった。

「僕、君の帰り道を知ってるよ」

 ぱっ、とまひるは振り向いた。つられて髪が寒空にはためく。その視界に認められたのは男の子であった。濃い茶色の髪をした、深い緑の水晶を夜のなかに輝かせる子供であった。まひるはこの少年を知っている。しかし彼は消えた筈である。あの懺悔室、あのテープレコーダーに刻まれた音の記録の筈である。まごつくまひるに小さく笑んで、その少年は駆けだした。

「こっちだよ」

 住宅街には夜の気がみずみずしく満ちている。少年はすこし駆けては立ち止り、歩くまひるが追いつきかけるとまたその先へ駆けてゆく。裸足でかろやかにアスファルトの上を踏む子供のあとを不思議な、好奇心に近い怖れをもって追いかけ続けると、五分も歩いた頃には天界シェアハウスと書かれたた古びた町内会館の前へたどり着いていた。

街灯も無くすっかり暗い夜のもと、まひるは家を見上げる。何年ぶりかに帰ってきたような気がする。ボロボロになった二階建ての我が家。果たしてこんなに柵は錆びていただろうか。養父と暮らしていたあの家はたしか改装したばかりで、これより大分綺麗だった筈だ。それでも、と思う。夜の住宅街のなかにあっさり溶け込んでしまうほど古く朽ちていたとしても、この建物は間違いなくまひるの家だった。なつかしいまひるの家だった。今まで暮らした天界シェアハウスだった。

 ふと傍らの少年を見ると、彼もまひるを見上げていた。深い緑色をした宝石のような瞳は、まひると目が合うとにこっと笑った。そうしてまひるが何を言う間もなくぱっと駆け出してゆく。一度だけ途中で足をとめ、振り向いた子供はちいさくバイバイをした。そのあとは再び駆けて行って、もう後ろを返らなかった。

 まひるはそっと家の扉をあけた。鍵はかからないから、閉めるときも大した音はしなかった。家は静まり返っている。しんとした空気を崩さないように廊下を進んで、階段をあがる。ところどころにあるくぼみは養父が辺りかまわず殴っていた時のものだ。静かな、暗い夜の家にはなつかしい匂いが籠っている。この壁紙はこんなにはがれていただろうか。この階段はこんなに急だったろうか。体は覚えていてもまひるの目には一々新しく写った。それは悲しいことでもあったし、やさしいことでもあった。二階の廊下もすっかり閑散としている。花実も和希も、きっと真吾ももう寝ているのだろう。暗闇になれた目をたよりにまひるは自分の部屋を探した。それは勿論豪華な金細工の施された、分厚い木扉などではなかった。他の部屋と同じ、ベニヤの張られた軽いドアを、なるべく音をたてないようにゆっくりとあける。

 そこはたしかにまひるの部屋であった。ツヤを無くしたフローリングに足を滑らせるようにして入る。真吾がくれたおもちゃの羽をそっと机の上に置いた。部屋のなかはひっそりとして薄暗い。夜明け前の部屋は青い静けさに満たされていた。ひんやりとして澄んだ墨色に、カーテンの無いガラスの窓から住宅街の薄明かりがじわりと沁み込んでいるだけの暗さ。

 玲瓏とした部屋の空気にはまひるの呼吸すら反響する。まひるはゆっくりと、睫毛の音すら立てないようにまばたきをした。薄青い自室は清廉だった。夜に沈む家具の上には、きらきらと細かな星の粒が撒かれて光っている気がする。夜が夜に反射しあった、小さなきらめきが満ちている。きれいだなあ、とまひるは思った。きれいだなあ。

そっと閉ざした瞼の裏に、もう無い天国の美しい風景がよみがえる。それは目を開ければたちどころに消える。これからどうすればいいのか、まひるには分からない。シェアハウスのことも、駒子たちのことも、きちんと分かってはいない。けれど天国にいた時と同じ、澄んだみずみずしい冷気はまひるの中から消えてはいなかった。まひるはまだ現実に押しつぶされてはいない。

足音に気を配りながら、ゆっくりと部屋の窓に近づいた。かたかたと少し荒い音をたてるそのガラス戸を引いて開ける。一層澄んだ冷たい風が部屋に舞い込んだ。身をすくめながら半ば身を乗り出すようにして正面の空を見上げる。背の低い住宅街は殆ど闇に沈みながらも、奥に並ぶ山あいはもう白み始めている。濃い青になりつつある山の峰からふと視線を上げれば、まだ群青とも黒ともつかぬ空をはためく白い翼が見えた。鳶でもなく鷺でもないその純白の両翼はどんどん上へと昇ってゆく。小さな点となったそれが空に呑まれて消える前に、まひるは視界を正面へ戻した。遠くの山の端がゆっくりと明るんでゆくのを静かに見つめる。手前の雲はもう紫になっている。庭で朔也が小さく吠えた。朝が来る。

(了)


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