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第二章

 夜である、目が覚める、しかし分かっていた。なぜなら自身は選ばれし者、内から目覚めし者だから。男は一瞬のうちに悟っていた。その天啓においては現状の細々とした事柄など塵に等しきものであった、――例えば二十四才いまだフリーターの親からの仕送りも欠かさないその身の上も、付き合っていた彼女とつまらないことで諍いを起こしていることも、以前は心の糧にしていた公務員試験への見せかけの希望ももはや埃を被っていることも、須らくどうでもいいことである。

 外套を羽織り、深夜二時の公園に行くと、案の定そこには高校の制服の上にローブを羽織った少女がひとり、砂場の前に立っていた。設置された街灯の明かりが辛うじて届くからいいものの、その影は木々や生け垣の静けさに飲み込まれそうに思われた。しかしそれが杞憂であることを、誰もが認めざるを得ないことが起こる。彼女の手から柔らかな光がゆっくりと萌え出てきたのである。それはしっとりとした闇夜の中に、燐光のように黄緑色の光を放出していた。そして彼女は、その光を放つ掌中の珠玉を砂場に埋めようとしていた。

 少女の口から声が零れる。

「あなたの夜はこんなにもあたたかい。わたしがあなたを思えば、あなたの時間は歩むのを止めて立ち止まり、わたしを井戸の底から引き上げてくれる。あなたの温順な夜がわたしを包み、胸中にひとつの輪を描く。その輪はやさしく輝いて、わたしをわたしにしてくれる。あなたは輪廻、あなたは草原、あなたは風塵、あなたはコロナ、あなたは窓辺に置かれた一輪の薔薇、あなたは……」

 いたいけな少女の頬には一筋の月光が青く射し、その光景を優美なものとした。彼女は手にしたラメ入りのスーパーボールを何かのしるしのように、ぽつぽつと砂場の上に落としていった。

 光景に見惚れていた男は我を取り戻すと、彼女の傍に寄って跪いた。

「おい、巫女よ。汝の宝玉を我にも取らせたまえ」

 黒いローブで全身を覆った駒子はそれを見、不気味そうな笑みを与えると嘲るように笑った。

「ふふっ、やっぱり来たのね。野良犬の鼻は鋭いわ」

「神のお導きは唯一人のものにあらずや」

「それもそうだわ、さればあなたにもその庇護に預かれますようにひとつの役目を与えましょう。あなたは神のひかりが安寧の地に住まわれるように、その手で血を洗いなさい」

「無垢へと罪を漱ぐ故。さすればゆかん、十字架の彼岸」

 男は胸に十字を切ると、周りの砂を掻き集め、少女の落としたスーパーボールが見えなくなるように、その上に湿った砂を被せた。その所作を彼が終えると、後にはひとつの山が残り、何でもない深夜の公園が立ち現れた。

「さて、今日も見事な典礼だったわ」彼女はスカートの裾を払った。

「ああ、まったくだ」男はラークに火を灯しながらそれに答えた。閑静な住宅街と孤独な犬の遠吠えと煙があった。「神の国はいまここにある」

 喧騒を閉じ込めた空間の沈静な流れは、物の動きを忘れさせ、記憶の反射的再生を鈍らせた。過去の過ちは遠く離れて、彼らは彼らとして夜のうちにただ在った。しばらく回転ジャングルジムに背を凭せ掛け、雲の隙間に星の瞬きを探ろうとしていた彼女だったが、ふっとそこから離れると彼の前に立った。

「ねえ、キスをしましょう」駒子は言った。

 煙草の煙を吐いた彼、イザメント・ヴァークリはそれを脇に捨て、その火を靴で踏み消してからゆっくり彼女を抱きしめた。そして誓いの接吻をした。


 木下修はイザメント・ヴァークリの精神と共に身体に同居していて、そのことを既に了解していた。その記憶は水面に映るゆめのようにおぼろげで、シャボン玉のように掴もうとすれば忽ちに弾けてしまうものであったが、それは決して不可視ではなく心の視野に拡がっていた。昼に布団の中で微睡みながら彼はぼんやりと考えていた。深夜ときたまに目が覚めると自分は啓示を握り、楠駒子という少女に会いに出かける。そこで彼女は何かを執り行なっていて自分もそれの一端を担い、その典礼に参与するのだ。それは彼女の接吻によって終わりを告げ、夜は普通の夜となる。感覚はそこで途絶える。気がつくと自分は布団の中に眠っている。初めはただの夢なのかもしれない、と木下は安易に捉えていた。しかし回を重ね、外套についた木の葉や汚れを見るに、当座の光景のリアリティを思うに、それは現実としか言えないものとなって彼の心に巣食うのであった。そして今や彼は、それを所与のものとして受け取っていた。イザメント・ヴァークリの時の心の指針がどう触れるか想像するには能わぬが、どう触れたかは木下の元にも実感として残っていて、彼はそれを非現実なものとしてむしろ好意的に眺めるのだった。木下が布団から身体を起こすと、カーテンから漏れる陽は平和で、通りからは自動車の音が聞こえ、目覚し時計は十三時を指していた。

 木下は、ウィダーインゼリーを胃に流し込み、グラスに注いだコーラを一杯飲むと、外に散歩に出かけた。玄関からアパートの階段を下りると、十一月の季節を思わせる木枯らしが空に駆けていった。

 アーケードの商店街は午後の人出で賑わっていた。主婦が子供の生涯設計や、実父には在宅介護か施設のどちらがいいかとか、今晩の食事のバランスはどのように整えようかなどに知恵を傾けながら、自治体で出会った隣人の同じくらいの年の同じような境遇の主婦と会話を紡いでいる。彼は肥えた主婦らを片目に彼女らの娘を想像した。そして娘と自分が運命的偶然的宇宙論的な邂逅を果たすことはあるのかと夢想した。彼は自動販売機の前で談笑する三人のうちの一人に目を向けた。

 あの中年女性独特の趣味の悪さを露呈する紫色のセーターを着た女性の娘もやはりこの町で産まれ、反抗期を経巡りながら、この町を愛し、この町で死ぬことになるのだろう。彼は俯きがちな髪の長く、線の細い女性をイメージする。今は大学生だろうか、それとも専門学校を終えてこの町のどこかで働いているのだろうか。多分、生徒時代は地味で目立たず、自分のうちに悩みを隠す子供だったのだろう。しかし年を取るに従って、周りのことが分かってきて、恐怖や万能感を相対化させ、自らを柔軟にひらかせることを習得し、その快活な魅力を身に纏わせているに違いない。そして今は、勘違いしたようなファッションに身を包み、キャスケットなんかを被ってスケートボードを小脇に抱えた大学生と別れて、ペットのプードルと水槽の熱帯魚を癒しにして、雑貨屋のバイトかなんかをして過ごしているのだ。髪も今は短く整えられている。そして家に帰ると、母親と父親の他愛もない会話に相槌を打ちながら、テレビのバラエティ番組を見て笑い、部屋に戻ると一人前の孤独なんかを嗜みながら、それでも眠りに落ちるのだろう。おそらくそうだ。そうに違いない。その生活は閉じられ、収束している。そこに横槍として僕が介入する。僕は彼女と出遭い、恋に落ち、そして未踏の感受に身を浸すこととなり、誰もが経験しないであろう生活の轍を切り開いていくのだ。それはくだらなくも愛おしき、二人だけの軌跡だ……、と思いながらハローワークをやり過ごし、彼はマクドナルドに入った。チーズバーガーを食べながら、淡い想像から身を引き剥がすと思い起こされるのは、現実性に即した一人の女性のことだった。起きた時に確認したが、今も白木蒼からの連絡はない。毎日交わしていたメールもコールも、水に昇る土煙のように立ち消えてしまって以来、形を取り戻すには至っていない。

 途端に彼は現実の海に溺れたように、悲しみを抑えきれなくなった。脳には次々と白木と過ごした日々がフラッシュバックし、その甘美さと温度のある弾みが彼を四方八方に貫いた。もう永遠に自分は独りなのではないかと湧き出る落涙を押し殺して、彼は味のしないチーズバーガーを咀嚼した。

 白木は隣町に住む活発で溌剌した女性だった。木下と白木は小学校以来の高校までの同級生で、そこから木下は私立の大学へ白木はイラストの専門学校へと進路を異としたのだが、その間も二人の親交は続き、今に到っていた。一時は白木のアパートに彼が寝泊まっていたこともあったのだが、このところ白木は木下を避けようとする動向を見せ始め、二人が会わない日が二週間は経とうとしていた。こんなに長い間、接触の機会がないのも初めてだったので彼は沈鬱の思いに浸るのであった。彼は白木の麗らかな背骨と、小鳥の啄みのごとき憂いを知らぬ囁きを想起した。それがもう二度と自分の手に触れられないことを予感して、世界から阻まれ、四面楚歌状態な心地が深まるのであった。自分が立っている地面に亀裂が入り、精神は無底の闇に吸いこまれていく……。

 彼はトレーを戻して包装紙なんかを捨てて、呆然とした身体を引き摺って店を出た。駅前は急ぐ人で依然華やいでいたが、彼はそれになんの触発も受けず、時折空を眺めながら引き返しの道を辿った。空は灰色で青く突き抜ける夏の空の不在を表していた。しかし耳元で突然大きな声が鳴ったのに気がついて、彼は一瞬足を止め、視線を傾けてそちらを見た。その声は凍てついた記憶に問いかける嚆矢のごとき印象を与えるものだったのだ。彼の期待した眼の先には、駅前の外れの通りで一人の女性が通行人に物問う光景があった。

「神の国は到来します」と彼女は何の憂愁も込めずに言った。「煩悩を浄化することは簡単です! 私たちはそれを導く者たちの集いです。本当の幸福をただ見つめるために人々の色眼鏡、バイアスフィルターを取り除くことができます。人は道標のなさに戸惑って、ただそのことだけで不幸に身を窶してしまいます。そんな病を患ってしまうことこそ、不幸です。しかし神の前にあれば、どんな衆生もみな平等に自らの罪と向き合うことができます。そして神の御加護に身をひらくことができるのです!」とその女性は言い放っていた。

 その女性はベージュの明るい色の服装をして、手に提げる紙袋にはパンフレットや小冊子が詰め込まれている。女性が手に持って勧めているのも多分同じものだろう。木下はやれやれと首を振り、足を踏みだした。彼がそれを後にするときに、通行人が彼女に面白がって論駁するのが耳に入った。

「君の神も相対化された人形だろう。君がそれを信じて実際に何が変わるのか、ましてや僕が。それよりはユニセフに小銭を寄付した方が有益なんじゃないのか。大体君は僕の足を止めたことで生じる金銭価値を償えるのか。そんなこともできないで、何が神だ、何が幸福だ、足元を見たまえ。その覚束ない足元を」

「し、しかし信心がですね。それにそんな物質に捉われた物の見方は煩悩が生み出す幻覚であり――」

「ならば君は死んだらいい。何も食べずに、感謝の意のまま死んだらいい。そうしたら、少しはこの地上の惨状から目を背けたままでいれるだろう」

 宗教勧誘でこの世の中が変わるものか、と木下も落胆し、二人を横切ってまた道に目を向けた。あの女性も健気そうではあるが、ただの馬鹿に過ぎない。ただの怪しい団体に扱き使われて、それをアイデンティティと信じ込んでいる哀れな子羊の一匹でしかない。アスファルトは雨が降りそうなくらいに、煤けた面を広げている。

 白木蒼のことを思って、彼は再び憂鬱の波に飲まれた。

 その夜も木下は寝床を抜け出し、廃ビルの一室に出かけた。道程は記憶にあまり痕跡を残さないが、目標地点は自明に体感している。暗闇に足を進めるたびに、日中眠っていた意識が呼び覚まされ、新しい流れが神経回路を埋め尽くし、彼はすっかりイザメントになる。木下修という人物像は地上から退けられ消えてしまう。不浄なものとして、不正なものとして。

 彼が辿り着くと、窓ガラスが粉々に砕けたコンクリート打ちっ放しの部屋で彼女は来たる典礼に備えていた。

「来たわね、泥棒猫」

「にゃんにゃん」

 駒子は部屋の中心に立って、いつも通りに地床から湧きたち、心に生起した聖なる真言を念誦し始めた。声にも表情にも情感は窺えないのに、なぜかその仕草からは愛に充ちているように思えてしまう。

「汝の御心に我らの種子を宿らせたまえ。全ての良心の源泉よ、我々を歓喜の洪水で洗い流し、汝の涙で粗雑な罪を清めたまえ。息吹は今こそ一になり、鐘の響きは福音となって、あらゆる生命の琴線は震えさざめくこととなろう。予期しない悦びに、彼方からおとなう光明に。そして衆生は被服を脱ぎ去りて、内より充たされることとなろう。唯一の御魂に安らおう。永遠の風の中に、久遠の音律に」

 イザメントはそれを傍で眺めているものの、いつからかその出来事に引き込まれていく心地になっている。月明かりも入らない闇の中で、彼は自身をなくしていく。

 彼は彼女の言表に取り込まれ、それと自然に一体になる。意識は融雪のように崩れ落ち、冷たい刃物のように冴え冴えとする。まるで誰かのもののように。あるいは夜を希釈して、人と物の区別をなくしてしまうように。

 駒子は胸に十字を切ると、静かに懐から取り出した燐寸を擦って、床に設置された一本の蝋燭に火を付した。すると一瞬にして、無機質な部屋は幻想的なゆらめきの内に捉えられることとなった。

「ああ、永遠だ……」イザメントは息を漏らした。

「そう、旋律のリフレイン」駒子も感嘆した声で応えた。

 今や万象の精神が眼前に現象化したようだった。それも比喩とは遠いところで。蝋燭の周りには、様々な色彩が様々な紋様を描き出していた。床にはあらかじめ多くの色のペンキが撒き散らされていたようで、その赤や黄や緑の独立した、あるいは重なった染みたちが、火の揺れに呼応する形で、大きさやその様態を、まるでジャグリングされるかのように変状させていた。その光景は二人の心さえも溶けあわせ、微小の運動へと向かわせる力を持っていた。これが天啓のなすところだ、と彼は思った。神の国を示す美しさと儚さ。

 その幽玄さに身を任せて二人は唇を重ねる。そっと、そっと。


 朝が来て、鬱になる。火は消える、祝いは枯れる、と彼は布団の中で思った。信仰は途絶え、飛沫は終わる。

 外に出ると、息が白く濁り、冬の完全なる侵略を人々に思わせた。町はざわめき、電柱は聳え、信号はトートロジーの波、黒猫は不吉めいて、コカコーラに凍える季節、嘲笑する広告、ランドセルの潔癖さ、そんな彩りの中で木下は生きていた。駅の喫茶店に入り、湯気の立つカプチーノを啜っていると、彼は自身が夜を望んでいることに気がついた。早く夜に町が飲み込まれ、多くの雑踏が途絶え、多くの電柱が見えなくなり、多くの笑顔が消えればいいのに。そしたら孤独の影も失せ、全てが幻想の元に輪郭を戻すことになる。そんなことをなんとなく彼は思った。しかしそんなことは無明のゆえの煩悩だということも知っていた。なんとなくの愚行、なんとなくの妄想、それは中学生の夢日記。彼は3104丁目のダンスホールに思いを馳せる……。

 目の前の席では、煙草を喫みながら、黒いシルクハットを被って正装した二人の老人が何やら高らかに談笑している。テーブルの横には両者のステッキが置かれていた。格好は似ているが、片方は頬のこけた痩せぎすの男でもう一方は腹の出た肥えた男だった。肥えた男は暖房が効き過ぎるのか、額に四つ折りのハンカチを当てて汗を拭いている。

「いやはや肉体ももう飽きましたな、と言って精神も受動的になるのが自動年齢性のつらいところ」

「いやまさに。不可視の電波は行き交っているはずなのに、熱は収まるところを知りませんな。ヒートアイランド礼賛国に鞍替えでもしたんでしょうか。まあ歴史の系譜においては行ったり来たりの人生ゲームかな」

「それは不可避で、つまりテトラグラマトンの四字すなわちYHWHから反宇宙論が生まれ、スコラ哲学があり、科学のなんやかんやの果てに、進化論の冒涜、IPSに原子力発電のエンパワーメント戦略がジャンジャンあるわけで、自動車は蠅のよう、相対性理論はPOPに、永劫回帰を願っちゃったりなんかして、超人の聳立したる携帯電波の工作員は陰謀説に夢中チュッチュなわけですからな」

「しかし、モバイルテレクラたるアイフォンが全人類に普及し、全人類子供化計画あるいは全世界保育園化プログラム、こりゃハルマゲドン後の暇潰しですな。無知の知と騒ぎ出す愚民共に同情してたら殺されるご時世、まったく世知辛いったらありゃせんですよ。三密の身口意トレーニングだって、プシュケをアレテーにモディファイするのだって、アプリ化されるんちゃいますの」

「ダイモニオンのレセプターしかノーフューチャーってわけですな、結局」

「駱駝『然り』」

「そりゃクリティカルだ」

 二人はワッハッハと哄笑し、それに耳を傾けていた彼は、ふと駒子に会いたいと思った。駒子はもはや世界と自身とを繋ぐ最後の紐帯なのではないかと彼は不安に駆られたのだった。

 彼は店を出ると、近くにある古く小さな教会に向かった。ミサもやっていなかったので、見学者は疎らに見えたが、殆ど数はいなかった。ホールに入ると、彼を親しみ深い静寂が蔽い隠した。ステンドグラスのバラ窓からは虹色の光が差し込み、マリアや使徒や動物を象ったものや、トレサリーの精微な装飾が聖堂の雰囲気を厳粛に、そして柔らかく包み込んでいた。身廊を進み、内陣の手前まで来ると、そこが外界とは全く異なった位相であることがはっきりと分かるのだった。彼の先には、左側に講壇を兼ねた聖書台があり、右側に十字架を掲げる祭壇が鎮座していた。彼は目を瞑り、耳を澄ませた。そこにはシンメトリーな喜びや悲しみがあり、ざわめきや紛糾といったねじれは存在しなかった。雑念がぽろぽろと表皮から剥がれ落ちる思いがし、またあるいは何かしっかりした自らを繋ぎとめる楔が地平から抜けかける不安も感じられた。自分はどこにいるのだろう、と彼は思った。

 目を瞑っている間、上部に取り付けられたターコイズブルーのステンドグラスから碧く透き通った斜光が入り込んで、木下の足元を音もなく照らし出していた。

 教会を出て、彼は駅前の道を引き返した。彼は無限連鎖思考の渦中にあった。全ての事象が頭に迫り来て遠ざかってまた迫り来た。白木蒼の影法師、楠駒子の残像、白木蒼の声、楠駒子の仕草、それらは隕石となって降り注ぎ、悪夢のように神経を蝕んだ。自分は何かを為し得たのだろうか、いまだに何かを期待しているのだろうか、まだ救われたいなどと思っているのだろうか。――何に? 何にだろう? 美というものに? 聖なるものに? 偏狭な思考イメージに? 偏見に自身を浸して、何かを迫害したいのだろうか。何かをこの手で汚したいのだろうか、それを正当化する存在を求めているのだろうか、それをまた正当化したいのだろうか――。

 弾き語りをしているパフィー似の二人の前を通り過ぎたあたりで、思考停止した脳を携えた木下にひとつの紙切れを差し出す者がいた。

「神の国は到来します!」

 彼が顔を上げると、そこにはこないだ見かけた聖書の冊子を渡す女性の目があった。その女性の顔はくすみひとつなく明澄で、現実のものに対する恐れや諦めを丸っきり抱いていないようであった。彼女は問うた。

「あなたは愛する者のために身を捧げていますか?」

「僕は……」

 足を止め、地面に視線を落とす彼の目を彼女は覗き込んだ。

「心が汚れると機運も落ちます、溌剌さも欠けてしまいます。神から離れると人はダメになるのです。人は愛を知ることで魂を漱ぎ、そうして初めて罪を赦されることができるのです。しかし多くの人はそのことを知らず、誤謬の海に捉われています。我々はそれが掬われるように導きたる者です」

 彼女の言うことは彼の心には届いていなかった。彼はその女性を見て、違うことを考えていたのだ。彼には煤けた世界しか見えていなかったけれど、それでも越境の線路に突破口を見出したかったのだ。

「ねえ、君」声をかけると彼女はすぐにそれに応えた。

「なんでしょう、信じる者よ」

 木下は考えながら発言した。

「僕たちも秘儀を執り行なって、それに参加したりもするんだ。無論自発的にね。それは君たちから見れば邪教と映るかもしれないけれど、人間はアプリオリに複数的な圏を跨いで存在するからある意味では仕方ないんだ。それで、君から指導を承りたいのだが、一度僕たちの典礼に謁見してはいただけないかな」

 彼女は首を少し傾げた後、すぐに向き直ってにっこりと笑った。

「もちろん! 全ては神の子供ですから!」


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