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第一章

敷物ラグさんとの共作です。

 朝である。まごうこと無き朝である。鋭利に研がれた白光が、質量のある重たいガラス窓を突き刺してまひるの部屋をえぐっている。光の剣もあられと降り注ぐ彼女の肢体は、柔らかにその刃を吸い込み、何の煩悶も無く心静かに眠っていた。けれども朝である。朝は起きねばならない。ふくよかな毛布に暖かくくるまれ、ゆりかごの心地に眠りを浸しているまひるの元にもその朝は訪れている。彼女の閉じられた穏やかたる瞼は開かれる時を待っている。それはもう間もなく、まひるのなめらかな皮膚を震わせる程に轟く筈である。まひるの存在を脅かすほどに鳴り響く筈である。


 天国の朝は鐘の音である。

「おはよう」

「おはようまひる」

「あと誰が来てないの?」

「真吾さんと、朔也もまだだよ」

「あれ、花実さん三つ編みにしてる」

「うん、今日はなんだかそんな気分だったの」

 どこまでもどこまでも響き渡る鐘が、高くまた深く音色をさまざまに鳴らし合わせ、純白の朝に彩を広げている。いくつもの和音調を形成し、歌うように響く天国の鐘は音楽である。真っ白く編まれたなめらかな布を流すように身に纏わせた御使いたちは、その交響を耳に遊ばせながら朝の広間に集っていた。大理石の平たい大机を囲むのは七、八人程かと見られる、その白い装束の描く円が三つ置かれた広間である。流麗な穹窿が重なり高々と開けた石造りのその広間は朝の活気づいたお喋りに賑やいでいた。背後ではいまだ鐘が音楽を躍らせている。

 鐘の拍子をとるようにテンポよく、素足を固い床に遊ばせて駆けて来るのは朔也である。髪の明るい、まだ幼い顔つきをした彼はおはようございますといいながら空いた椅子に滑り込んだ。

「遅いぞ朔也、なに寝ぼけてるんだよ」

「顔を洗いにいったら迷ったんだ、ごめんって」

「はやく慣れなきゃだめだよ朔也」

 和希とまひるにもっともらしく責められてしまった朔也は、しかしその細い腕をぴんと張ってむくれた顔で糾弾者たちを見返した。

「わかってるよ、だって広いんだもん」

「天使たるもの言い訳をしてはいけないよ」

「あ、真吾さん」

「真吾さんおはよう」

「おはよう、また僕が一番最後かな、ごめんね」

 まひるは背が高い。彼女より年長な花実は小柄であるが、真吾は年も大きければ背も一番であった。黒髪の彼はおとなしい動作で椅子を引き、朔也の隣に腰を落ち着けた。そこへ突っかかってゆくのは最年少者の朔也である。

「でも真吾さん、俺まだ仕事もちゃんと覚えられてないんだ」

「ゆっくりでいいから、どれも覚えて働かなければいけないよ」

「わかっているけど、難しいです」

「神はいつも僕達と共にいらしてくださる、まずはその声を聴くことだ」

 だけど、とまだ何か言い足りない様子の朔也が重ねて言葉を発する機会はまひるの嬉しそうな声にさえぎられた。

「あ、ほら、大天使様がいらっしゃった」

 彼女の喜びの目の先には翼が見える。それはそれは大きな翼である。純白の羽は一枚一枚が輝きを発し、真珠色の装束に包まれた身をも含めて眩しい恩光を広間に浮かばせている。自らの燦然たる御光に影を受け、輪郭の明瞭でなくなってしまった大天使の顔つきは分からない。ただその唇のあるあたりが赤く紅を塗られたように浮き出ている。

彼の現れるにしたがって、広間中に響いていた朝の鐘がやんわりと音を静めていった。その最後の余韻が花びらの落ちるようにそっと消えた頃、彼は張り渡る美しい声で御使い達に祈りを言い渡すのである。その言葉の中身は過ぎし日と変わらない。あくる日も変わるまい。

 まひるはその言葉を敬虔に聞いた。彼女の目には今日も光に満ちたすばらしい朝であった。広間の天井を清らかに彩るステンドグラスは陽光を鮮やかに色付け、透明な横窓から取り込まれた朝日は直に大理石の広間を刺す。眩しさの中でまひるははちきれんばかりの幸福を味わっていた。

 白の御使い達は各々祈りを唱え、大理石に何時ともなく現れていたパンに手を伸ばした。毎度のことである。キリストはパンと葡萄酒を与えたが、大机にはチーズとハムも載っていた。彼らが祈りを唱える間に大天使は消えている。上の天へ戻ったのである。大きな光源を失った彼らは再び賑わいを取り戻した。パンにチーズを乗せながら御使い達はにわかに喋り始める。

「ねえ、和希はいつ天使になったの?」

 ハムを挟んだパンを頬張りながら上目使いに朔也は尋ねた。二、三日前にこの共同体へ入れられた彼にとって同じ生活者の情報を得ることは死活である。とはいえ当の和希は眉を寄せ上機嫌とは言い難い態度で一言、知らないとそれに応じた。

「和希はこのテーブルにいる人達の中では多分一番あとに来たんじゃないかなあ」

 扱いづらい空気が朔也に伝わる前に言葉をやわらかく挟んだのはまひるである。

「俺、まひると同じくらいかと思ってた」

「ここには季節も日にちも曜日もないから、そういうのはよくわからなくなっちゃうんだよ。けどほとんど一緒だと思うなあ、ねえ和希?」

「覚えてないけど、少なくとも俺はお前よりいろいろ覚えるの早かったからな、朔也」

「俺だってちゃんと覚えてるし!」

「こら、食事しながら和希と張り合わないの、朔也」

 パンのバスケットの向こうから優しくいさめる声は花実である。隣のまひるはパンをちぎりながら真吾と楽しそうに喋りはじめていた。

「だけど、真吾さんは天使の仕事が好きなんだね」

「そうだな、僕も御使いの分際でいろいろ考えてた時もあったんだけど、悩むべくもないことだったよ。僕は天使にしてもらえて良かったと思ってる」

「魂として神の御許にやすらぐより?」

「僕はこれまで、天使にされた魂としての課題に、ずっと囚われていたから」

「あ、ちょっと、「やり残し」の話はやめようよ」

 ふと和希が口をはさむ。それまで朔也とじゃれていた笑みが渋く変わってしまっている。それを気にせずか朔也は彼と反対に真吾の言葉に喰いついた。

「俺、「やり残し」ってわかりません。どうしたらそれができるの?」

「君は神に召される前にまだ経るべき事柄があったから、魂として安らげずに天使になって神のおつかいをする役目を与えられたわけだろ。この一番地上に近い天国で」

「はあ」

 ハムを取りかけていた手を止めて朔也は曖昧な返事を返す。それはもう一度聞いているという顔である。真吾は構わず続ける。

「それが何であるのか、どうやって終わらせられる僕達の課題なのかは一切分からない。地上にいたときの記憶もないから手がかりもさっぱりだ。だからね、まずは天使として、神に仕えながらよく自分を浄化しないといけない」

「浄化できるとどうなるの?」

 ここへ入り込んできたのは意外なことに和希である。視線は手元のグラスを彷徨いながらもその声はしっかりしている。真吾はこれにもすぐ答えた。

「そういう全てがどうでもよくなるんだ」

「だめじゃねえか!」

 朔也がすぐさま食って掛かった。和希はといえば、真顔で視線を真吾にひたすら注いでいる。

「だめじゃないよ、枷に囚われていたらいつまでたっても自分のことしか考えられない。人間と一緒だ。僕達は天使なんだから、神様の元にいることだけ考えていればいいんだよ」

「えー、けどそれじゃいつまでも天使じゃん」

 ふくれた朔也に真吾は、それでも御魂と同じくらい安らいでいられるんだと優しく笑んだ。まひるはもうずっと真吾の顔ばかり見ている。少し潤んだ丸い目を陶酔気味にまっすぐ真吾に向けている。その顔に浮かぶものは憧憬である。また安心である。自分もこのまま敬虔を積めば幸せになれるという安堵である。がぜん仕事への意欲が湧いてきた彼女は最後のパンをかじった。

「じゃあ、私先に行くね」

 まひるに先駆けて葡萄酒を飲みほした花実が立ち上がった。待って、俺もと声を掛け次いで椅子を引くのは和希である。二人はじゃあまたとテーブルに言い残し、連れ立って朝日の昇るほうへ広間を横切っていった。気が付くと他の大机でも椅子を引く音が目立ち始めている。挨拶が飛び交い幾人かの御使い達が硬い床を素足で歩き去ってゆく。広間は行くものと食事を急ぐものとに分かれた。まひるは無論急ぐものである。葡萄酒を最後の一滴まで舐めとるように飲み、ようやく彼女も立ち上がった。朔也はまだ食べている。急ぎ気味にパンを咀嚼する彼にゆっくりでいいよと声を掛け、ほぼ同じタイミングで席を立った真吾と共にまひるは広間を出た。

「そういえばさっきの話の続きなんだけど、まひる、僕は君がなんで天使になってるかわからないんだよ」

 真吾は隣を歩くまひるを慈愛の籠った目で見おろしながら、ふと述べた。きょとんとする彼女に小さく笑いかけて言葉を続ける。

「君は天使の仕事も優秀だし、性格に難も無く、信心深い神の御子だ。どんな「やり残し」があって、そして何故まだそれを終えられていないのか、まったく想像がつかない」

 真吾の本心であった。彼の目にまひるは何の問題もない、敬虔な優しい子であった。神のすぐ下に愛されてしかるべき魂が何故天使になっているのか、愛されているから天使にされたのか、真吾にはその訳がわからない。これはまひるも分かったことではなかった。しかし彼女はその身の運命になんの不満も抱いていない。

「私もよくわからない。けど、それを見つけられるまでは天使としてはたらいていこうと思ってるの」

「そうだね、神は全てをご存じだから」

「うん、それに私、天使の仕事好きだし」

「僕もだよ。神に仕えられるならずっと天使でいい」

「それに、ここでみんなと一緒に暮らせるの、楽しくて」

 まひるは真吾の方を見て嬉しそうに笑顔をこぼした。

「私、花実さんとか真吾さんとかと友達になれて、和希とも喋れて、すごく楽しいの。朔也も入ってきて、みんなと毎日仲良く暮らせてほんとに幸せだと思う」

 暖かい柔風が彼らの頬をさらった。磨かれた石の床が素足に心地よく、正面に見える朝の景色にまひるの心は安らぐ。廊下とも回廊ともつかぬ、ただ高く壮大な石造りの建物は、その柱と柱の間をまっすぐゆけばつきあたりに壁は無い。弧をはるか上までくりぬかれたアーチの向こうは光っている。朝の光である。また天国の光である。幾人もの白い御使いたちがばらばらと一様にその光を目指して歩く背中をまひるは眺める。際までついた天使たちが、そこだけ大きくひらかれていた白い装束の背中から、次々に羽を出していった。なめらかな皮膚が盛り上がり、ぐいぐいと翼が広がってゆく。その風景は清廉であった。最後の柱の向こうに屋根は無く、床も途切れている。途切れた先には一段下がって硬い岩肌が少し伸び、その崖ふちから次々と天使たちは飛び出していった。飛び交う天使たちの間をひらひらと柔らかな羽が舞い落ちていた。やがてまひるも屋根の下を出た。左右の柱がなくなって一気に視界が開けた。遠くまで広がり尽くす、果てのない天国の世界。薄い黄緑の草原が花を生やし蝶を飛ばし、どこまでも続いている。上から降り注ぐ日光は差別なくあらゆる域を暖め、広がる空を時折白い翼が横切っていった。朝日の方向では天使たちが羽ばたきながら讃美歌を奉唱している。澄んだ朝靄のなかに神を讃える歌声が羽毛のようにやわらかく流れた。清らかな天国の風景である。清白な空と原である。まひるは大理石の床を降り、素足を固められた土の上へ静かにのせた。泡雪のようになめらかな足を抱いた土は数歩先で途切れている。隣で真吾が翼を出した。流麗な衝撃に散った白羽がまひるの頬をかすめた。次いでまひるも翼を空へ広げた。無数に植わった羽がまひるを崖の縁から飛び出させる。

その身が落ちると同時に浮かんだ隣には朔也がいた。まひるは目をまるくして翼をはためかせ、体勢を整えながら朔也に向き合う。その背後を真吾が下っていった。それじゃあ、という真吾の声に頷きつつ、まひるは朔也にどうしたのと尋ねた。

「地上の行き方が分からないの?」

「ちがうよ。聞きたいことがあるんだ。これは、みんなに聞いて回ってるんだけど」

 硬い宝石が埋まっているようにきらめく濃い青藍がまっすぐにまひるの目をみつめた。

「まひるは、いつからここにいるの? いつまでここにいるの?」

 そんなこと? と言わんばかりに小さく首を傾げた彼女は微笑した。

「いつまでなんて分からないよ。それに、いつからここにいるかなんて、覚えてないや」

 まひるは同じ種類の笑みを期待した。しかし朔也は笑わない。その代わり直進した視線を心持ち下にずらしたのだった。

「この獄の人達は、忘れるのばっかり得意なんだ」

 それはいばらのような声であった。硬い芯とはかない悲痛がまざり合ったような声であった。しかしそのするどさはまひるに届かなかった。天国の風が音を立てて彼らの間を通り抜けた。眉をひそめて心配の声を掛けるまひるを空に浮かばせたまま、朔也はふっと体制を変えるとそのふくよかな翼をとがらせて、落ちるように急激に降下していった。まひるはぼうっと浮かんでいた。翼の下をあたたかい天国の風が支えていた。朔也はなぜ悲しそうだったのだろうと、わからぬ愁いを物案じながら、やがてまひるも向きをかえて、あたたかい空気の中を下っていった。


「こんにちは。あなたは何かお迷いですね?」

 天使が街に降り立った。裸足で道路に着地した。ほがらかな午前中の住宅街に、まひるの声が爽やかに鳴った。紺のスーツをスレンダーに着こなした、三十前後かと思われる男性は心なしか目を見開いている。まひるは続けた。

「子羊は迷います、けれど大丈夫。神様はいつもあなたと共にあらせられるのです。私は天界から、あなたが神の声を聞くお手伝いをするために遣わされました」

 近くの塀を鳩が飛び立った。厚みのある羽ばたきがまひるの背後を去ってゆく。彼女はにこやかに笑んだ。それは温容な笑みであった。しかし笑顔を正面に置かれた男性は寛容をもって彼女に応えることはしなかった。彼は一礼をするとまひるの横を音を立てる勢いに通り過ぎていった。

「何かお困りではありませんか、煩悶に取りつかれてしまってはいませんか」

 歩き去ろうとする彼の背中にまひるはなおも声を掛ける。それでも男性は駆け足に、彼を追おうとするまひるを振り切って、住宅街の角路地に姿を消してしまった。まひるは毎度のことながら、何故かれらは自分の声が届かないのだろうと、その哀れな身を思いやって小さく心を痛めた。

 しばらくそのまま午前の温和な空気の町を歩いたまひるの、その後の邂逅も上手くはいかなかった。彼女は三、四の人間に声を掛け、しかしその声は伝わらなかった。まひるは優しい悲しみを抱えながら街の中にいた。

ようやく彼女の声を聞く人間の現れたのは、午後も近しという頃であった。飛び去る雀たちとすれ違った角を曲がったところで、まひるは一人の少女と行き会った。黒いセーラー服を纏い同じく黒のスカーフを胸元に結んだ高校生である。

「こんにちは。あなたは何かお迷いですね?」

 まひるは善行の機会に嬉しそうに彼女に問いかけた。照りの無い黒く細い髪を肩で揃えた少女は呆けたような顔をしている。彼女がこれまでの人々と異なったのは歩いていなかったことである。声を掛けられる前に移動を停止していたことである。まひるの曲がった角の先は図書館の駐車場であった。その塀ぎわに、セーラーカラーのはためきを壁で押さえつけるようにして凭れていたのが彼女である。

「子羊は迷うものです。しかしそれはあなたに課せられた大切な試練。神様はいつでも信じる者をお救い下さいます。私は天界から、あなたが神の声を聞くお手伝いをするために遣わされたのです」

 まひるが清らかな笑みを湛えて続けた言葉を、少女は逃げもせず大人しく聞いていた。そして逡巡の後、訝しげな揺らめきを含みつつも縋るような目で、少女はこの日まひるが巡り合ったなかで初めてまともな口をきいた。

「私、普通の浄土真宗の家ですけど」

 その時のまひるの喜びは、彼女の周りにちいさな光の鱗片が音を立てて広がるのが見える程であった。彼女は尚も歓喜をもって少女に答えた。

「心配しないで。あなたが天にまします私達の神様を信じれば、これまでの宗派のような小さな事柄は問題になりません。私はあなたが神様に愛されていることを教えにきたんだもの」

「私は愛されてるんですか?」

「ええ、勿論。だから迷うことなんてありません。あなたは神の声を信じればいいのです」

 少女は壁に身をもたせたまま、じゃあ、と述べ出した。

「それなら、私、どうして何もできないの?」

 まひるは首をかしげて無邪気に少女を見た。少女はその視線を受け止めずに、陽光を黒光りに照り返すアスファルトの地面ばかりを向く。

「私、みんながきらい。だいっきらいです。だけど私はばかじゃないから、他の人達より自分が優れてるなんて思えません。でもみんなきらいなんです」

 少女は俯いたままいらいらと唇を噛んだ。そのもどかしさを感じ取れないまひるは丸い目を陽の光に潤めかせ、紅潮したやわらかい頬に挟まれた小さな口を開いた。

「そんな、あなたはあなたで特別だよ。神様の御許へゆける日を待ち遠して幸せに暮らさなければいけないんだから、兄弟となる人々と仲よくしましょう? 大丈夫、私達は神の下には一つなのです」

 幸福にきらめくまひるの目に少女の視線は合わなかった。依然として墨色の地面を睨み付ける少女が唇の締め付けを和らげ何か言おうと逡巡している間に彼女たちの方へ色とりどりな声が掛かったからである。

「駒子、おまたせ!」

「駒子も来ればよかったのに」

「てかさあ、めちゃくちゃ広かったよね」

 まひるをちらちらと気に掛けつつも、そして不審がりつつも、セーラー服たちは少女へ仲良さげに喋り、近寄ってきた。彼女らがまひるを気にしてか少し距離を置いたところへ立ち止っても何も不自然にならなかったのは、駒子とよばれた塀に凭れていた少女がバネ仕掛けの人形のように驚く勢いで顔を上げ、笑顔を向け、背中を浮かせてサッと駆け出して行ったからであった。まひるは見向きもされなかった。少女の軽い体はあっというまにセーラー服の中に馴染んだ。

「遅いよ、おかえり! ねえ行こう」

「ごめんって、だから駒子も来ればよかったのに」

「あ、ねえ、いいの? なんか話してなかった?」

「いいよ、知らない人だもん。なんかの宗教の人みたい」

「え、聖書とかもらったの?」

「もらってないよそんなの。欲しかったら図書館にいっぱいあるんじゃない?」

「あ、そういえばn大の赤本とか置いてあったよ」

「でも私たちじゃ使わないよねえ!」

 少女たちは初めは遠慮しつつもちらちらと、物珍しげにまひるに向けていた視線を外し、もはやすっかりただの楽しげな女子高生たちとなって、まひるが何と言う間もなくその場を去って行ってしまった。それは本当にどこにも隙の見えない完璧な集団であった。ぽつんと立ったままそこへ一人残されたまひるは少女たち同士の強い引力に気おされてすっかりぼうっとしていた。彼女が再び足を動かしたのは町の小学校が昼の鐘を打った頃だった。


 すっかり疲れてふらふらと天国の草原に姿を現したまひるは、温厚な朱色に染められた空の下をやや猫背気味に歩いていた。素足をくすぐるみずみずしい草の感触にも朝ほどの清廉な気に満ちて笑むことはしなかった。人間界に行くたびに甚大な精気を奪われて帰ってくるのはいつものことである。その日の労苦も明日になれば全て忘れている。ふたたび朝の澄み切った信心のなかに忘れてしまう。まひるの疲労は寝るまでである。

 その寝所のある建物を目指して、鳥のように天使たちが舞い飛び帰宅している空の下を一人歩くまひるの、背後からその声は掛けられた。芯の固い声であった。子供であった。

「僕はね、君のほんとうのしあわせを願っているんだ」

 まひると呼ばれて振り返った彼女にその子供は突然それだけを言った。濃いブラウンの髪が天国のあたたかな柔風になびいている。まひるは、不意を突かれた理解の困難な言葉にまごついてしまって、ただその深い緑の瞳孔へ、自分の茶色い瞳の黒い点をぶつけるようにして見つめ返すことしかできなかった。少年は反対にその視線を瞬く間もなく逸らしてしまい、一歩足を引いたかと思うとそのまま踵を返して向こうへ歩いていった。途中、呆けて彼を見つめるまひるの方を一度振り向いた。寂しそうに眉を寄せて小さく笑み、低い位置に手のひらでバイバイをしたのが見える。そしてもう一度向こうへ直った彼は背中に彼の体の倍ほどもある、大きな、汚れ一つない純白の翼を惜しみなく広げ、あっと言う間に天国の朱い空へ飛び去っていった。まひるはしばらくそこに立ちすくしたまま、潤った純真な瞳をきらめかせ、口をつぐんでじっとその白い点を見つめていた。


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