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短編集

人魚の瞳

作者: 川崎鉄馬

 その湖には人魚がいた。

 冬も厳しくなってきた季節。先日降った雪が辺りの音を呑み込んでいる。静けさが森の中を埋め尽くす。小鳥のさえずり一つしない、全くの静寂。

 森林の中にある湖の畔で、一人の青年が眠っていた。

 ふとくしゃみを一つ盛大にして、青年は起床した。

「さむっ!」

 横目に薪をみるがいつの間にか燃え尽きたらしく、炭となっていた。青年は分厚い寝袋からもぞもぞと這い出すと、一気に背伸びをした。そして手早く身支度を整えると、地図を広げた。

 青年は旅をしている。特にこれといった理由はない。父も母も健在で、それなりの暮らしをしていたが、勉強に疲れたのか平凡な日常に飽きたのか。ふいに何もかもが空しくなった。そして普段から憧れていた旅に出ることに決めた。それから青年は、旅の間にいろいろなものを買っては他の地で少しだけ高く売る商いをして生活している。思いつきで始めた商売は、今のところ意外とうまく回っている。その地でどのような文化が根ざしているかを知れるため、青年はこの商いを楽しんでいた。幸運なことにあまり不自由をしない程度には路銀を稼いで、各地を転々とする生活を営めている。これまで様々な街を巡ってきた。青年の住む場所はヒューマン族がほとんどだったが、旅の途中では耳の長いエルフ族や背の低いドワーフ族などの町があり、どれもが個性的で面白いところだった。時折危険なこともあるが、青年はそのたびに充実感と充足感をひしひし感じていた。

 今日行く街は旅の中でも特に奇妙な街。なんとも珍しい人魚の町という名前。青年はどんな街か想像に胸を躍らせながら道の確認を終えた。

 最後にと、湖を一目見た。昨日見つけたこの湖はなんとも綺麗で、なにより水がおいしかった。なにせ毎晩食べている味気ない即席スープさえもおいしく感じるほどにだ。青年は感謝の意を込めて合掌すると、湖から水の跳ねる音がした。この湖には魚がいたのか、どんな味だったのだろうと少し悔みながら歩を進めようとした。

 背後で大きな水音がした。なんだろう動物でも湖に落ちたのかと振り返った。

 うろこが虹色に光り輝き、ドレスをまとっているように見える。伸びる四肢は妙になめらかだった。どこからどうみても――気持ちの悪い化物だ。頭から体が大きな魚、そこから伸びる四肢は人間。ただただ気持ち悪さしか感じない魚人だった。三年間いろいろなものを見て危険とも接してきたが、これはその範疇を超えている。青年は直感でそう思った。

「ギョ、ギョギョイ」

形容しがたい鳴き声をあげる魚人に対して悲鳴を上げ、逃げようとする。が、腰を抜かしてしまったのか身動き一つできない。そうこうするうちに魚人はこちらへ近づいてくる。

「く、くるなぁ!」

 青年は叫ぶものの魚人は歩みを止めない。青年はもはやこれまでかと目をつむる。冷や汗が背筋を通る。ぺたぺたと足音がなり、突然止んだ。

「ギョ」

 何も起こらないことに不信感を抱いて、目を静かにあけてみた。魚人が目の前にいた。ヒッと情けない声を漏らすが、なぜだか目の前の魚人は襲ってはこなかった。なにやらもう片方の腕に荷物を持っている。青年が持ち物に入れ忘れていた毛布だった。

「これを僕に?」

「ギョ」

 魚人は返事のようなものを返してくると、静かに荷物を置き、湖へと帰って行った。

 青年はただ呆然とするほかなかった。



「旅人さんかい!? おいみんな旅人さんだよ!」

 旅人が珍しいのか、町の案内所に行った矢先に盛大に出迎えられた。各々見るからに何かいいものを持っていないかと物色する目つきだ。悪い気はしなかったが、素直に笑えなかった。

 日が暮れて月が出る時間になると、広場では旅人である青年をもてなす宴が行われていた。

 村一番綺麗という娘と酒を飲みながら楽しく会話を交わしていると、ひげ面をした老人が話しかけてきた。酔った頭を懸命に働かせると確かここの村長である。

「旅人さん。宴はいかがですかな」

「あ、はい。楽しませていただいてますよ。飲み物も食べ物もとても美味しい。何より女性がお綺麗です」

 隣にいた娘の頬が赤らみ、照れ隠しに俯いた。

 村長もいやはや面白い方だと笑った。

 青年は村長や村人から最近他の町はどうなのか、どういうものが流行っているのか等質問をひっきりなしに受けた。そうしてひとしきり質問が終わると、今度は青年がなぜこの町が人魚の町といわれるのかを聞いた。

 村長曰く、その昔まだこの町ににぎわいがあった頃。民には笑いが絶えなかった。王族が支配していたが、それも平和な統治が続いていた。

 あるとき、王族の姫君が村のはずれにある湖に行った時のこと。女ながらに弓を使い、獣を狩る腕は一流だった彼女は、湖で水を飲む一匹の鹿をしとめた。死んだ体は湖に沈み、流れる血は湖を赤く染めたという。姫君はその日、そこで宴をした。湖で釣った魚を専属の料理人が焼き、召使い達は音楽を奏で、食事をしていた。するとどうだろう。姫の体は見る見るうちに魚へと姿を変えたのだ。驚いた料理人や召使たちは逃げて帰った。王様たちはその話を信じず、湖に赴いてみると姫の姿はなかったという。

 それ以後、姫の姿を見た者はいないらしい。

 村長は、語りを終えると微笑んだ。

「あの湖は奥に行くほど水底が深くなっておりましてな。溺れる者も少なからずいたのでしょう。湖に迂闊に入らないよう先人たちが作ったお伽噺でしょうなぁ。この話のおかげで人魚の町とほかの村では呼ばれているようですな」

長く蓄えた髭をなでつけながら村長は笑った。すっかり話に夢中になっていた青年はぽつりと一言漏らした。

「今朝見ましたよ。頭が魚で四肢は人間でした」

 一瞬、場が静まった。その奇妙な間に悪寒が背中を走る。暖まっていた体が一気に冷えた。

 一人が笑いを漏らすとそれを皮切りに、村長一同は盛大に笑った。

「いやはやほんとうに旅人さんはご冗談がお好きですな。私は長年あそこの周りで狩りをしていますがそんなもの見たことがありませんよ」

「いや、しかし今朝僕が忘れていた毛布を彼女……は、渡してくれましたし」

「夢でも見てたのでしょう」

 村長は微笑んだ。

 その日は村人の厚意から空き家を一つお借りした。宴で疲れた体をベッドに預けると、まどろむ意識は静かに眠りへと落ちて行った。

 何か話声がする。何をしているのかと窓を覗いた。一気に目が覚めた。

 村人達が皆一様に手に鎌包丁鍬に鉈に弓矢、それと松明を手に大挙していた。がやがやと騒いでいると先ほどの村長の声がした。

「皆! 伝承にある通り、忌まわしき呪われた姫、魚人が姿を現しおった! このままでは村に災厄が降りかかろうとしている! 我らが手でこの村の安寧を守ろうぞ!」

 応!と一様に呼応した。その気迫はいつぞや青年が見た都市の騎士団に勝るとも劣らぬもの。また、今度は村一番の娘の声がした。

「先ほどの旅人はどうしましょうか」

 村長の笑い声が村に響いた。

「あの面白い旅人さんかね。あの方のおかげで災厄に気付けたのじゃ。お礼をせねばならんが……まぁ、しかし災難だが魚人と関わってしまったようじゃからの。呪いが伝染してしまうかもしれんのでな。討伐した後丁重に弔ってやろう」

 青年は体中に冷や汗をかきつつも荷物を手早く片付けると、逃げる準備をした。魚人の巻き添えを食らうのは御免だった。しかしふと今朝のことがよぎった。毛布など捨てておけばいいものを丁寧に持ってよこしたあの魚人が災厄など悪いことを引き起こすようなものにはみえなかった。青年は逡巡した末に、魚人のいる湖へと村人に気付かれないよう走り出した。

 一人、今朝たどってきた道を全速力で戻っていた。これまで道を進むことはあれどこうして振り向き、戻ることはなかった。常に前を向いて明日のことを考えていた。それでよかったし、そうすれば万事上手くいった。未来に待つ楽しい出来事を考えるだけで心は踊った。しかし、今は全くそんな気持ちになれなかった。ただ単に焦燥感と緊張感だけが青年を包み込んでいた。

走っているとちらほら雪が降りだした。体中を切るような寒さが襲う。朝には心地よい寒さと美しい銀世界を見せていたが、今では白一面の世界は不気味でおぞましささえ感じられる。無音なのがかえって自身の心臓の音を耳に残した。逸る鼓動にせかされて青年はひたすらに走った。

 湖に着くと少し息を整えてから叫んだ。

「おい魚人! 今すぐここから逃げろ! 村人が大勢でお前を殺しに来るぞ!」

 少し待つが、一向に返事が返ってこない。再度呼びかける。またも返事がない。

 青年は焦りを募らせ、悪態をついた。次いで苛立ちを含みながら声を張り上げた。

「君は昔どこぞの姫様だったんだろ! 何の因果でそう言うことになったのかは知らないけれど命は大切にすべきだ! なんならこんなところから逃げ出せばいい! 今の君の姿は受け入れがたい姿をしているが、世界にはいろいろな人や場所がある。受け入れてくれる人達だって必ずどこかにいる!」

 青年がひとしきり叫ぶと、湖面に波紋が浮かび上がった。そしてざばぁと水音を立てながら件の魚人が出てきた。今朝は怖じ気づいて逃げ惑ったその容姿が見れて今は心の底から嬉しかった。青年は思わず笑顔になって手を差し伸べた。

「さぁ、ここから逃げよう!」

 魚人は静かに体を左右に振った。行かない、と。青年は愕然とした。ここまで言って逃げない道理があるのかと欺瞞を胸に募らせた。魚人はその様子を見て静かに湖から上がってきた。

 魚人の足には水草が鎖上にくくりつけられていた。鎖の先は暗い水底につながっている。魚人は再度、無言で体を左右に振った。青年はわけのわからない状況に顔を歪ませた。助けたいのに助けられない。魚人はここから抜け出せられない。どうするどうする。

 必死に青年が頭を悩ませていると、がやがや声が聞こえてきた。村の方向を見ると無数の松明の火がゆらゆらとこちらへ近づいてきている。もう、時間はない。どうしようもできない状況と死ぬかもしれないという恐怖。寒さと疲れで、青年は今にも倒れそうだった。

 ふと青年の頭の中で一つの閃きが起こった。何故今になってこれが浮かばなかったのか不思議に思うほど簡単な答えだった。本当に至極簡単なこと。逃げることができないならば、逃げなければいい。今まで避けて来た道だが、もはやこの際止む終えないだろうと自分に言い聞かせて鞄を下ろした。青年は嗜虐的な笑みを浮かべると、鞄から鉄砲を取り出した。旅の途中で手に入れたそれは、まだ一回も人を撃ち抜いたことがなかった。彼らは外界から疎外された人々だ。獣をかっているとはいえ、文明と隔絶されている。力を携えた人間とは対峙したことがないだろう。なに、撃ち殺すことはない。一発二発鳴らせばこの圧倒的な力を嫌でも肌で感じるだろう。なんなら腕や足を撃ち抜いてしまえば恐れのあまり脱兎の如く逃げ出すはずだ。

銃を片手に村人のほうへ歩みだそうとすると、手をつかまれた。振り替えると魚人がじっとこちらを見ていた。表情はかけらもないが、なぜだか悲しんでいるようにみえる。青年の瞳を黒い瞳が覗く。それは優しく、気品が漂い、何かに疲れたような瞳だった。

 村長のお伽噺に出てきた姫。本当に、この魚人はそうなのではないかと思った。

 するとすぐ近くで声がした。

「もうすぐ湖だ! 皆、心してかかるんじゃぞ!」

 村人たちがそこまでやってきている。殺しもダメ、ともに逃げるのもダメ。生き延びるには、一人で逃げるしかない。しかしその選択肢はあまりにも……。

 青年は歯を食い縛った。鉄砲を持つ手に力を込め、村人の方へ向いた。

 引き留める魚人の腕を振り払い、駆け出した。

 魚人の黒い瞳はずっと青年のことを見ていた。


 青年が意識を戻すと、朝になっていた。やけに静かだった。

 青年は、魚人と自分の身を守るために鉄砲を撃ち鳴らした。村人達の大半はそれで逃げたが、それでも数人は半狂乱になって襲いかかってきた。腕を撃つ。脚を撃つ。肩を撃つ。撃ち漏らした村人が青年に鍬で斬りかかる。死んだ。確かにそう思っていたのにこれはどういうことだろう。青年は体を起こすと、周りを見渡した。何もなかった。ただ昨日と変わらない静かで美しい白銀の世界が広がっていた。

 そうだ。魚人はどうなったのだろう。寒さで軋む体に鞭を打ち、湖に脚を向けた。

「おーい、大丈夫か?」

 またも返事は無かった。少し心配になってまた叫ぶ。幾度となく叫ぶ。しかし一行に返事は帰ってこなかった。

 まさか、そんな。青年の血の気が引き、膝をついて項垂れた。頑張ってもどうにもならないことはあると、頭では分かっていても直面するとどうにもならなかった。今頃、村人達は宴会でもしているのだろうか。なぜ助かったのも気になる。村へ行ってみよう

 青年は置いておいた荷物を担ぎ上げて旅路を先に進めた。


 村には誰一人いなかった。それどころか村は荒廃していた。まるで数十年、数百年経っているようだった。雪が降り積もり、家は虫に食われて半壊しているものすらある。まるで昨日の事がすべて夢幻、お伽噺のような気持ちだった。

 空から雪が降る。

 冬も厳しくなってきた季節。先日降った雪のせいで周りの音が呑み込まれていた。静けさが森の中を支配する。小鳥のさえずり一つしない、全くの静寂。

 風が優しく頬を凪いだ。

 春の訪れを思わせる暖かな風だった。


制作にまつわる裏話等は活動報告まで。

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