まがいもの
人生には、何の期待もしていない。
そもそも生きることというのは死ぬまでの暇つぶし、死とは恐怖でもなんでもなく、ただの終着点に過ぎない。
だから、この俺のこの堕落した生活に何の意味も無ければ、一見世間的、社会的に充実したように思う奴の生活も何の意味も得ない。
確かに俺は表向きは社交的だ、友達も多いと言われるし、話だって面白い。
だが結局のところ、それは偽りなのだ。一人の俺は酷くつまらない、暗い、否定的で、捻くれ者なのだ。
色男ならば、少しは充実した人生を遅れたのかもしれない、だが悲しいかな、俺は俺の容姿が決して良くは無いと自覚していた。髪を整えたり、眉をよい形に整えた奴が自らの容姿を否定するのとはわけが違う。そんな事をする気力すらこそぎ落としてしまうほどに俺の容姿は醜いのだ。
大学の講義中でも、太宰治かニーチェを読むだけ。
最も、そちらの方が偽りなのかもしれない、己でもそんなこと分からなくなっている。
ある日のこと、俺は講義が始まる少し前に教室へと入った。比較的人気のある講義のため席の殆どは埋め尽くされており、何時もの様に長机を一人で占拠する事はできそうに無かった。
仕方なく、俺は真ん中より後ろで、尚且つ空いている席を探し、そこに座った。
隣は、黒いシャツを着た男だった、整った顔立ちが鼻につく。否、普段なら鼻につくのだろうが、今回ばかりは少し違う、その男は髪を整えるわけでも、眉を異常なまでに剃っている訳でもない、ただ単純に、その生まれ持った物が整っているだけ、俺は感心してしまった。
普通なら、そう言う男は女や仲間を引き連れて、講義を妨害するものだが、彼は一人だった。
講義が始まり、俺は何時ものようにカバンから文庫本を取り出した。今回に限りそれは太宰治でもニーチェでもなく、世間で少し話題になっていた男同士による同性愛を描いた小説。
「君は」
隣から声が聞こえた、この講義は私語が多い事があるので不自然なことではなく、初めはそれが俺に対して言われているものだとは思わなかったが、一応横を向いておいた。
黒シャツの男が俺の顔を覗き込む、あぁ、俺もこのくらい顔が整っていたらもっと楽しい人生を送れたのだろうか。
「君は、同性愛者なのか?」
突飛な質問。俺は「いいや」と答える。
「ならどうしてその小説を読んでいるんだい?」
男は更に聞く、透き通った声が頭に良く響いた。
「別に、だって面白そうじゃないか」
男は笑って「そう、それなら良いんだ」と言ったきり、何も言わなかった。
それから何週間かほど経って、俺は再び彼の隣に座った。
その日は重要な講義なので教科書を持ってくるよう言われていたが、あいにく家に忘れてしまった。
隣の彼は教科書を広げていた。俺は恐る恐る彼に聞いた。
「ごめんけど、教科書見せてくれない?」
こういう時、断られやしないかと不安になる、もし断られたらその後約一時間どうやってその席で過ごせというのか、それに、それ以上の敗北感を感じることになる。
彼は俺を見ていいよと小さく言い、教科書を俺のほうへと滑らせた。
授業が終わった後、俺は彼に昼食をご馳走させてくれと提案した。最も、俺は断られると思っていたのだ、彼のような男が、俺のような男と昼食を取っていることが想像できなかった。昼食を共にする友達ならいくらでも居るだろう。
ところが意外なことに、彼はこれを了承してくれた。食堂で俺は普段友達に対してそうするように彼に冗談を言って見せた、彼は馬鹿笑いこそしないが、小さくクスクスと良く笑った。
そしてそれ以降、俺はこの曜日には彼と昼食を共にするようになったのだ。
再びそれから数週間ほど経って夏の長期休暇前、その日は授業の初めから彼は浮かない顔をしていた。
そして昼食の時、彼は神妙な顔で言った。
「僕は、こんな扱いをされるのに値しない」
俺は彼の言っていることが理解できなかった、俺が彼に対してそう思うのなら分かる――事実、最近俺は彼に対して申し訳ないと思っていた――が、どう考えても彼はそのような事を考える必要はないように思えたのだ。
そして彼は節目がちに続ける。
「僕は、同性愛者だ」
冗談を言っているのかと思った、俺が思っている同性愛者のイメージと彼とでは大きな差があったから。
だが、彼の今にも泣きそうな表情を見ていると、それが冗談ではないことが良くわかる。
「僕はずっと君を騙していた、何時か言わなければ、何時か言わなければとは思っていた。だけど、気付けば毎週君と会うことが楽しみになっていたんだ。許してくれ、僕を許してくれ」
彼は手の平で涙を拭う。
俺は正直なところ、そんなことどうでも良かった。
それどころか彼にも俺と同じアウトローな部分があるのかと嬉しさすら覚えたのだ。それに、この時代同性愛者であることがそれほどのハンディキャップになるとも思えない。
彼ほどの容姿を持つ男がどうして一人なのかも分かった気がした。彼は己が同性愛者である引け目をずっと感じていたのだろう。発言や行動に覇気がなかったのもこれが原因かもしれない。
「別に俺はそんなこと気にしないけどね」
「許してくれるかい」
「許すも何も、そもそもカミングアウトしなかったことに何の怒りも覚えないし、君がゲイだろうがなんだろうがどうも思わない」
彼は安堵の表情を浮かべたが、すぐにまた不安そうな表情になって言う。
「これからも、この関係を続けてくれるだろうか。その、何と言うか、友達って奴を」
「君が迷惑じゃないならね」
彼は笑った、それまで見たことがないほどの満面の笑みだった。
それから、俺は彼との友人関係を半年ほど続けた。別にこの関係が恋愛関係に続くような漫画みたいなことは起こりえない、俺は容姿が醜いのだ。
風が体温を奪い、年も変わろうかと言う頃、俺の携帯電話に彼から連絡が来た。内容は明日部屋を訪ねて欲しいと言うもの。彼が下宿していることは知っていたが部屋に招かれるのは初めてだった。
翌日、俺と彼は最寄の駅で落ち合い、ランチを共にしてから彼の住んでいるアパートへと向かった。
彼の部屋はこれでもかと言うほど殺風景だった。生活必需品のみが点々と置かれ、それらも黒やグレーなどの落ち着いた色。ベットの掛け布団が膨らんでおり、こんな奴でも抱き枕を使うのかと感心した。
俺は小さな机を挟んで彼と向かい合うように腰を下ろした。
「今日は、相談事があるんだ。長くなるけど、いいかい?」
彼は半年前と同じ位、否、それよりも神妙な表情で言った。より神妙に見えるのはそこに異様なまでの真剣さが垣間見えるからだ。
「あぁ、良いぜ」
「まずは、僕の人生から話さないといけないんだ」
その時、彼の目の光が失われたような錯覚を覚えた。彼は何か、とんでもない事を言おうとしているような予感がした。
「僕は――」
突然、彼が苦しそうに顔を歪め、えづき始めた。俺は驚いてかなり混乱したが、何とか彼を便所に連れて行って、背中をさすった。彼は昼間胃袋に入れたものを恐らくすべて吐き出し、それでも尚息は荒く、時折胃液を吐き出す。
彼は何を言おうとしているのか、少なくとも俺は何かを告白する時にこのような事になった記憶はない。
「おい、無理すんな」
彼は息も絶え絶えに続ける。
「ごめん、でも言わないといけないんだ。申し訳ないけれど、ここでも話してもいいかい?」
「俺は構わん、でも無理だけはするな」
「ありがとう、君は優しい」
彼はトイレトッペーパーで己の口を拭う。
「僕は、物心ついたころに、父親に犯された」
胃液が便器にぶち撒かれる、彼の背中をさする俺の手はその時止まっていた。
嘘だろ。と言いたかったが、苦しむ彼の前でそのようなことは言えず、むしろ彼の苦しむ姿はそれが真実であることの何よりの証拠に思え、言葉を失った。
「僕が何歳の頃かは覚えていない、だが僕はあの悪魔がビルから落ちて死ぬまで何度も何度も性的に虐待された。それだけは確かだ」
「それはお前、母親は――」
「母さんは僕を生んだ時に死んだ、むしろ死んだからこそ父親は僕を犯した。僕は母親似なんだ」
彼は右手で思い切り壁を殴る。そのような事をする彼を見たのはその時が始めて。
狭い便所に彼の怒声が響く。
「だから僕は同性愛者が憎い、心の底から憎い、殺してしまいたいほどに憎い」
彼の言うことには、不可解なことがあると思った。彼だって同性愛者なのだ、だが俺はそれを飲み込んだ。否、飲み込む前にその問いに彼が答えたのだ。
「だけど、皮肉にも僕は同性愛者だった。あの糞親父の、よりにもよって最も不必要な遺伝子が僕の中にある。そして不幸なことに、僕には同性愛者が擦り寄ってくる。この顔の所為なんだ、この顔の所為で僕の周りは同性愛者と女ばかり擦り寄ってくる、思い切りこの顔を傷つけてやろうかと思ったこともあるが、僕には出来なかった、この顔は母親なんだ」
彼はもう一度トイレットペーパーで口と鼻を拭うと、もう大丈夫と言って便所を出る。彼は強がっていたが、目には涙が浮かんでいた。
何か声をかけねば、声をかけねばならぬと口を動かしたが、俺のような人間が彼にかけて良い言葉が浮かばなかった。
「僕の愛に答えてくれる奴は、僕がこの世で最も憎んでいる存在なんだ。だけど、ついに見つけたんだ、ついに見つけたんだよ、この問題を、この矛盾を解く答えが」
彼はそう言ってベットの掛け布団を捲った。その下には一人の裸の男。筋肉質で、顔も整っているが、顔色が悪い。
その時、俺は気付いた。気付いたが信じたくなかった。そんなこと信じたく無かったのだ、それを認めると、俺の居た日常がすべて崩れる、これまでギリギリ現実だったものが不意に崩落。地面を失う。
その男は、生きていないのだ。
目の前が真っ暗になる、何とか平静を保とうとするが、足が震えて仕方が無い。何か言おうとするが、だらしなく空けられた口からは荒い息しか漏れない。
「彼は、同性愛者だった。だけどもう同性愛者じゃない」
彼は男の肌に顔を寄せる。
「僕は最も憎い同性愛者に復讐を果たし、同時に相思相愛の相手を見つけたんだ。だけど、彼には欠点がある、腐敗するんだ。色々試したんだけど、どうやっても駄目なんだよ」
どう見てもその男は腐敗していない、死んでからそれほど経っていないのだろう。
ならばどうやって試したのだ、何を試したのだ、誰で何を試したんだ。
「僕だけの力じゃ駄目なんだ、だから君の力を貸してほしい、君を友人、親友と見込んでお願いしたい。僕は彼の剥製を作りたいんだ」
彼の目はらんらんと輝いていた、映画で見たことがある、恋をしているうら若き少女の目。仕方ないのだとは思う、彼からしてみればやっと適った恋、ようやく掴んだ幸せなのだから。だが、狂ってる。
俺は考えさせてくれとだけ言って、彼の部屋を後にした。殺されると思ったが、彼は何もしなかった、ただただ無垢な瞳で「二日以内に返事を頂戴、砒素だから一週間は持つと思うけど」と言った。
彼のアパートを早歩きで離れながら俺は思った。
彼は、何を思ってこれまで生きてきたのだろうか。
己の存在自体が、己が最も毛嫌いするものだったのだ、それだけ考えて、俺とよく似ているなと思った。
俺は走った、年甲斐も無く思いっきり走った。
違う違う違う違う、違うのだ。
俺なんて狂ってもなんでもない、見せ掛けの狂気なのだ、己の無力、己の努力不足を己で嫌っているだけ、否、本当は嫌ってすら居ない、そうしておけば何かで失敗しても傷つかなくてもすむから、そうしておけば誰かが優しい言葉を投げかけてくれるかもしれないからそうしているだけ、卑怯、心の底から卑怯、偽りの狂気、見せ掛けの達観。
本当に自らが狂気じみているのだと言うのならば、彼の気持ちになれるのか、なれる訳ない。母はおらず、父に犯され、己自身は己が最も嫌っている同性愛者。狂う、狂ってしまう。嫌だ嫌だ、俺は狂いたく無い。
駅前について、俺は交番に駆け込んだ。警官達は初めは信じなかったが、同性愛者について言うと少し真顔になって腰を上げた、同性愛者の行方不明者が何人か居るのだろう。
三人の警官を後ろに従え、俺は彼の部屋のインターホンを押した。
ドアから顔を出した彼は初め俺を見て笑顔を見せたが、警官に気付いた瞬間俺に飛びかかり、両手で俺の首を絞める。彼の目は釣りあがり、口はへの字、それは彼ではないのだと思った、彼の皮をかぶった獣。入れ替わったに違いないのだ、彼がこんな表情をするわけない。
警官の内二人が彼を俺から引き剥がし、壁に押し付けた。だが彼はそれでも暴れたので今度は地面に組み伏せられる。
残った警官が彼に部屋に入り、ベッドの上に置かれているであろう死体に気付いて短い悲鳴を上げたとき、彼は叫び声を上げた、この世のものとは思えない、獣のように雄たけびを上げた。やはりそれは彼ではない、彼であって欲しくない。
やがて、彼は何かをつぶやいた、何度も何度もつぶやいた、そしてそれは段々と音量を上げた。
「ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとう」
彼はなんどもそれを続け、それが叫び声、絶叫に等しくなると今度は俺に対して言う。
「怖かった、自分でも止められなくて怖かった。感謝している、君に感謝している。君ならこうしてくれると思っていたんだ、君ならバケモノである僕を止めてくれると。警官さん、もっと僕を押さえつけてください。この手が自由になれば僕は彼を殺してしまう。僕の中のバケモノが唯一の友達である彼を殺してしまう。もはや僕は誰でも殺してしまう。死刑にしてください、僕を死刑にしてください。決して僕に対して有利は証言をするな。もし僕が再び世に解き放たれれば、僕は友達を殺す羽目になる。彼が僕の事をどう思っていても、僕は彼を友達だと思っているんです」
彼は泣いていた、涙が廊下を濡らす、そして俺の涙も同様。
なぜ彼がこんな目にあわなければならないのか、何が間違っているんだ、何がおかしいんだ。これは夢だ、夢なんだ、夢に違いないんだ。
「違う形は無かったのか? 君と俺がもっと違う形で出会うことは無かったのか?」
「君は優しい、優しいよ。でも無理、無理なんだ。之を止めたければ、何百年も過去に行って、それでも駄目かもしれない、あのクソ親父だって悪気は無かったのかもしれない、だからここで終わらせるべきだったんだ。でも僕も親父たちと同じだったんだ。自分で蹴りはつけられず、化け物に飲まれた。本当に君が居てくれてよかったんだ。誇りの思っていい、君は自分を誇りに思っていいんだ」
やがて、サイレンの音が聞こえた。
彼の事件はそれほど世間に取り上げられることはなかった、同性愛と言うある意味でタブーの問題と、彼が殺めた人数がそれなりに洒落にならなかったのだ。
僕も彼の唯一の友人、否、親友として証言台に立つことになった。僕は彼の身の上を包み隠さず話した。死刑にならないからと彼は止めたけど、如何しても許せなかったのだ。だが何が許せなかったのかは未だに分からないでいる。
結果、彼は精神障害と認定され死刑を免れた。だが最後の最後まで彼は認めなかった。
やがて、彼が自ら命を絶った事を知る。自殺。
結局、最後の最後に彼は打ち勝ったのだ。自らの中の獣、バケモノに。バケモノが望まなかった自らの死によって。
俺は、出来る限り生きてみようと思う。別に彼の分まで生きるとか、そんな綺麗ごとを今更吐く気になんかなれない。
だけど、仕方ないだろう。俺は狂ってなんか居なかったのだから。偽りの狂気だったのだから。
普通に、生きて、普通に、死ぬさ。