表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

男装スパイは護衛対象に恋をする ~貴族らしからぬ二人は恋をまだ知らない~

作者: めそこここ
掲載日:2026/07/02

 この物語は、『ママじゃない~攻略対象の母に転生したので、破滅エンドを潰します~』第62話・第63話から生まれたサイドストーリーです。


 【恋蜜こいみつ】の世界で描かれる、パメラ・ウラノスとガブリエル・ランドンのもう一つの物語をお楽しみください。








「今年、要警護対象者は四名いる。各自担当情報と潜入IDを持っていくように。」


 ここは王家公認国内最大ギルド『ルナエクリプス』のアジト。表向きは紳士淑女が入りにくい大衆酒場『月光亭』としているが、メンバーしか入れないカウンターの先には裏の世界が存在している。


 ルナエクリプスには暗黙のルールがある。


 任務で帰らなかった仲間を誇りに思う。 影は涙を見せず、ただ誇りを胸に次の任務へ向かう。 それがルナエクリプスだった。


 机の上に封筒が並ぶ。

 名前、所属、家系図、交友関係、警護優先度。

 影達は慣れた手つきで資料を受け取っていく。


 私は、一通の封筒を手に取った。


 潜入IDーフィーリア・プリュネル

 所属ー王立学園一年B組

 任務ーランドン伯爵家嫡男 ガブリエル・ランドンの護衛


 思わずため息が漏れる。


(また男装か……。)


 この瞬間からパメラ・ウラノスは存在しない。

 ボクは、フィーリア・プリュネルになる。

 名前も、家族も、素性も全て任務のための偽物だ。



 ◇



 登校初日――。


 胸にさらしを巻き、ズボンの下にカップを装着する。髪は整髪料で固めにゴワゴワにして、表情が目立たないよう目元を隠す。アイブロウを太めに書き、つり目に見えるようにアイライナーで目尻を上げる。最後に、喉にパウダーシャドウで影をつける。


 それだけで、そこにいた少女は消える。

 代わりに現れたのは、どこにでもいる平凡な少年だった。


「やあ。ボクはフィーリア。」


 鏡の中の少年が笑う。


「フィーリア・プリュネルだ。」


 声色を少し低くする。

 歩幅を変え、爪先を外側に開く。

 肩幅があるように見えるよう胸を張り、重心を変える。

 癖を消し、新たな癖を作る。

 そして、フィーリア・プリュネルが誕生する。

 ペン型の特殊警棒をポケットに差す。


「さよなら、パメラ……。」


 ボクは、王立学園に向かった。



 ◇



 校門の向こうでは新入生達が談笑している。

 貴族、商人、騎士の子息。

 誰も自分が影だとは気付かない。


 ボクは、ポケットから資料を取り出した。


 ランドン伯爵家嫡男。

 ガブリエル・ランドン。

 ダークグリーンの髪色に深緑の瞳。

 国内最大ランドン商会の後継者。

 警護優先度A。


 ランドン家は元々商人だった。

 建国戦争の最中、王家へ莫大な資金を貸し出した功績により伯爵位を授けられた一族。

 返済期限なし、利息なしの王国史上最大の投資。

 それ以来、ランドン家は千年に渡って王国経済を支えてきた。


 貴族達は彼らをこう呼ぶ。

 ――『黒のランドン』と。


「ランドン……君もとんでもない祖先を持ったものだ。」


 資料を閉じる。


 ターゲットはすぐに分かった。


 商家や地方貴族の子供達が取り囲んでいた。


「ランドンくん、ぜひ、うちの商会と契約してくれないか?」

「うちの領で取れるシルクをぜひランドン商会で取り扱って欲しいんだ!」

「新素材の布をうちに卸して欲しいの。」


 誰が見ても下心の巣窟。

 その中でも一番胡散臭い顔をしているのが囲まれている本人だった。


「皆さん、落ち着いてください。ビジネスに焦りは禁物ですよ。」


 ガブリエルは、柔らかく微笑む。


「まずは、商品を見せてください。」


 そこにいた全員の顔が明るくなる。

 だが次の瞬間。


「ああ、そうでした!品質。供給量。輸送経路。利益率……」


 笑顔のまま畳み掛ける。


「その全てをご説明頂けるなら、前向きに検討しましょう!」


 全員が沈黙した。

 彼らは、決して仕事に興味があるわけではない。

 ランドンの息子にあったら伝えろと言われた伝書鳩に過ぎない。

 ガブリエルは、微笑んだまま続けた。


「もちろん、今すぐでなくても構いません。」


 全員が安堵する。


「資料をまとめてランドン商会へ提出してください。」


 そして笑顔のまま言った。


「提出がない場合は、商談をする意思がないと判断します。」


 ガブリエルの一言で蜘蛛の子を散らすように慌てる子供達。一瞬で取り巻きがいなくなった。


(へー、いいね。ボンボンのお子様を相手するより、この任務はやりがいがありそう。)


「さすがだね。」


 ボクは拍手しながら、ガブリエル・ランドンに近づく。


「これはこれは、お見苦しいところをお見せしました。」


 作られた笑顔をガブリエルは崩さない。


「おかげで、道が通りやすくなったよ。あ、失礼。紹介がまだだったね。フィーリア・プリュネルだ。」


 ガブリエルの視線が一瞬だけ胸元の校章へ落ちる。制服の仕立て、靴、指先。そして、顔へ戻った。


「プリュネル……。男爵家の。」


(やっぱり、食いついた。)


「ボクの家のような地方の貴族も知ってるんだ。さすがは商売人だね。」


 その言葉でガブリエルに隙が生まれた。


「まあ、商人としては当然ですから。しかし、ヴェールに包まれたプリュネル家のご子息にお目にかかれるとは……。」


「ヴェールなんて大袈裟だよ。海外出張が多い父と体の弱い母が社交界になかなか参加できないだけだよ。」


 プリュネル家とはそういう設定でルナエクリプスが何年もかけて作り出した架空の家柄だ。


「そうでしたか。それは、失礼いたしました。」


「ところで、ランドン君はクラスはどこだった?ボクはBクラスなんだ。」


「おや、奇遇ですね。私もBクラスなんですよ。」


「そうなんだ。よろしく。」


 初日は、このぐらいの接近がちょうどいい。

 名前と顔も覚えさせた。

 あとは少しずつ距離を詰めればいい。


 ガブリエルは軽く会釈した。


「こちらこそ、よろしくお願いします。」


 そう言って教室へ向かっていく。

 ボクも後ろを歩き出した。

 急に、ガブリエルが振り返る。


「ところで、フィーリア君。」


 深緑の瞳が細められる。


「私達、どこかでお会いしたことはありませんか?」


 心臓が一瞬だけ跳ねたが表情は崩さない。


「なんだよ、それ?ナンパ?ボク、女の子にしか興味ないんだけど。」


「それは、同意します。」


 ガブリエルは微笑む。


「人違いだったみたいですね、失礼しました。」


 そして歩き去った。

 その背中を見送りながらボクは思う。

 今の発言で、反応を見ていたのだろう。


(ガブリエル・ランドン……侮れないな。)


 一方――、ガブリエルもまた考えていた。


 フィーリア・プリュネル。

 彼に対して、表現できない違和感があった。


(一体、なにを隠している?)


 この時、二人はまだ知らなかった。この出会いが、互いの人生を大きく変えることになるとは――。



 ◇



 友人関係の加減が難しい。

 親しくなりすぎても継続が難しくなるし、こういう警戒心の強いタイプには不信感を持たれたらミッション失敗だ。


 同じクラスなら、共通の話題で近づけばいい。

 例えば、『課題』とか。


「今回は神話の成り立ちについて学んでもらう。」


 教師が教壇に立つ。


「フォレスト国に伝わる神話。その背景や因果関係を調べ、レポートとして提出すること。」


 教室がざわつく。


「なお、二人一組だ。」


 ため息が漏れる生徒。友人同士で声を掛け合う生徒。


 教師が課題のプリントを後ろに回すように言う。

 順番にプリントが回ってくる。

 ガブリエル・ランドンがこちらを向き、プリントを渡す。


「ランドンくん、課題一緒にやらないか?」


 この席は、偶然じゃない。

 王立学園の座席決めはくじ引きだった。そして、そのくじを作ったのはルナエクリプス。

 ガブリエル・ランドンの後ろの席は情報収集と護衛という任務を遂行するのに特等席だった。


「ええ、パートナーを探す手間が省けて助かります。」


 ガブリエル・ランドンは即答した。少なくとも、断る理由はなかったらしい。


 この課題を利用して相手のテリトリーに入り込む。


「今日の放課後、何か予定ある?」


「いえ、特には。」


「放課後、図書館に集合しよう。課題のプリントを忘れないようにね。」


 そう言って席を立とうとした、その時だった。


「この後、体育ですよ。着替えないんですか?」


 ガブリエルは制服のまま教室を出ようとしたボクを引き止めた。


「遺伝性の病気でね、あまり激しい運動ができないんだ。」


 もちろん嘘だ。運動ができない訳ではない。むしろ、体を動かすのは好きな方だ。

 これもフィーリア・プリュネルの設定を守る防衛策の一つだった。男子生徒との近距離接近を避けるために病弱設定は便利だった。


 ガブリエルは何も言わず、黙ってみていた。


 体育の授業では運動場の片隅に座る。

 対象者が視界に入り、敵襲の方角も把握できる位置。

 ガブリエルは何度かこちらを見ていたが、決心したように、こちらに向かって歩いてきた。


「どうした?」


 おもむろに着ていた上着を脱ぐガブリエル。


「風邪なんか引かれて課題に影響が出たら嫌なので、どうぞ。」


(利己的なのか、親切なのか……。)


 上着を見る。任務中に上着を借りるべきではないと分かっている。しかし、太陽が雲に隠れた今日は確かに冷える。ボクはありがたく上着を借りることにした。


「ありがとう。」


「……いえ。」


 ガブリエルは生徒の集団に戻っていく。

 上着に袖を通すと、シトラスムスクの香りがした。袖口から覗く自分の手が妙に小さく見える。



 ◇



 放課後、影への報告に時間が予想よりかかり、ボクは慌てて図書館に向かった。


 ――もしかして、帰ってるかもしれない。


 息を切らして、図書館のドアを開けると、入り口近くの席にガブリエルがいた。


「遅くなって、ごめん……!」


 ガブリエルは席を立ち、側に来る。

 テーブルの上には既に参考資料が積まれていた。

「走って、大丈夫なんですか?」


 てっきり、『時は金なり』とか言い出すかと思っていたのに、ガブリエルは体を心配してくれた。


(思ったより、良い奴なのかもしれない。)


「急いで、課題にかかろう!」


「待ってる間にいくつかピックアップしておきました。」


 机の上には、自然。民族。信仰。文化。様々な分野の本が置いてあった。

 ガブリエルが読んでいる途中なんだろう。開かれたページの挿し絵が見えた。


『満月を背負う一本の樹。地上では無数の枝葉を広げ、空へ向かって静かに伸びている。根は

 大地の奥深くへ張り巡らされ、月がどこかにいかないよう繋ぎ止めている。』


「これ、気になりますか?この絵の作者はランドン家の先祖の一人です。」


 ガブリエルはページを撫でる。


「商人が貴族になった時代の人で、当時の貴族達はランドン家を嫌っていました。」


「お金で爵位を買った成り上がりだと。だから彼は反論を絵に残したんです。」


 ガブリエルは本を置く。


「『黒のランドン』と呼ばれることに反発して史実を絵に託した憐れな人です。」


 ガブリエルはそう言いながら悲しそうに笑った。


「課題……建国神話にしない?」


 ガブリエルを見ていたら自然とそう言っていた。

 ガブリエルは驚く。


「……建国神話ですか?意外ですね。」


 ガブリエルは本へ視線を落とした。


「建国神話は政治史に近いですよ。」


 ボクは先ほどの挿絵を見る。


「それでも、ボクはその絵の続きを知りたくなった。」


 ガブリエルは一瞬だけ目を見開いた。

 そして、笑いながら呟く。


「本当に変な人だ。」


 ガブリエルは資料の束から一冊の本を引き抜く。


『フォレスト建国史』


 二人でページを開いた。



【建国神話。かつて、この大陸は一つだった。

 それぞれの地域が陣地を奪い合い、終わらぬ戦いが繰り広げられていた。


 初代国王アンソニー・フォレストの指揮の元、今のフォレスト国が築かれた。

 彼には仲間がいた。ルナ・ウラノス。その人物に関しては解明されていない。

 我々に残されたルナ・ウラノスの足取りは、フォレスト国の国旗くらいだろう。


 フォレスト国の国旗は、太陽と月を重ね合わせた紋章。


 中央には黄金の太陽が輝き、その半身を銀灰色の月が覆う。


  太陽の光芒は外へ向かって伸びているが、月は静かに寄り添うように重なり、決して光を奪うことはない。


 光を統べる者と、影から支える者。

 表と裏、昼と夜。

 相反する二つが一つとなったその意匠は、フォレスト家とウラノス家の建国の誓い『光と影の盟約』の象徴だった。


 決して交わらぬはずの二つは、建国の時、一つの誓いを結んだ。――太陽が照らす限り、月はその影を守る。

 フォレスト国の国旗は、その盟約を今も静かに語り続けている。】



「月は過去と記憶を照らし、樹は現在を生き、根は未来へ続く礎となる……。」


 目に映るのは小さな一本の木。けれど、その下には同じだけの広さを持つ世界が眠っている。


 光と影。空と大地。成長と継承。


 すべてを抱きながら、樹は静かに月夜に立ち続ける。


「ランドンの祖先はウラノスのことも知って欲しかったんだね。」


 ボクは、あの挿し絵を撫でる。


「……そんなにその絵が気に入りましたか?」


「……うん。」


 ボクはもう一度、挿絵へ目を向けた。


 満月を背負う一本の樹。

 空へ伸びる枝葉。

 大地へ広がる根。

 ウラノスが影として消え去らないように。

 どこかへ行ってしまわないように。

 この樹は、月を大地へ繋ぎ止めている。


 実際、「ウラノス」として、その姿に不思議な愛着を覚えていた。

 まるで、遠い昔から続く縁を描いた絵のように思えたのだ。


「この後、うちの商会に寄る時間はありますか?」


「寮の門限に間に合えば構わないけど……」



 ◇



 ガブリエルは商会につくと店の奥からポストカードを出してきた。


 それは、図書館で見た「あの絵」だった。


「この版画は当時、私の祖先が買い物客に配っていた物です。今はプレミアが付いてるので、そこそこの価値になるでしょう。」


「そんな貴重な物……!」


「気に入ったと仰っていたではありませんか?」


「うん、絵にこんなに愛着を持ったのは初めてだ。」


「差し上げますよ。皆、価値の話しかしませんから。」


「一生大事にするよ!」


 ガブリエルは軽く笑う。


「本当の価値が分かる人が持っていた方が、そのポストカードも喜びます。」


 ボクは胸元にポストカードを抱えた。

 不思議だ。任務で近付いただけのはずなのに……どうしてこんなに嬉しいのだろう。


 その日、ボクは初めてガブリエル・ランドンという人間に興味を持った。


 この時のボクは、この時間に浮かれていたんだと思う。

 ガブリエルの事を見ている人物がすぐ側にいたことに気がつかなかったのだから。


 窓の外では夕日が街を黄金色に染めている。

 長い影が二人のいる店の先まで伸びていた。

 そして、その影の先に待つ危険を、この時のボクはまだ知らなかった。



 ◇



 数日後――、課題が提出された。

 今日から二人が図書館に残る理由がなくなった。

 放課後になって、用事がなくなった二人は理由もなく、教室に残っていた。


「商会の仕事って忙しいの?」


 何か話しかけないと帰宅してしまう……そんな気持ちになりガブリエルに話しかける。

 ガブリエルは鞄に荷物を入れる手を止める。


「今は学生の身分ですから、そうでもないです。父に言わせると学園に通うのも将来のためらしいので、学業優先になっています。」


「でも、今日もランドン商会によって行くんでしょ?」


 ガブリエルは放課後、必ずランドン商会に顔を出していた。


「帳簿の流れはこまめに確認する必要があるので……習慣みたいなものです。」


「面白い?」


「楽しいですよ、数字は嘘をつきませんから。」


「……嘘か。」


 ガブリエルは不思議そうにこちらを見た。


「何か言いましたか?」


「いや、何でもないよ。」


 ボクは笑った。


 フィーリア・プリュネルは存在しない。

 プリュネル男爵家も。

 遺伝性の病気も。

 フィーリアの過去も。

 全部、任務のために作られた嘘だ。


 ボク達は護衛と対象の関係だ。


 それなのに、この数日間だけは特別な気がした。


「そうだ、フィーリア君。」


「ん?」


「もし良ければ、今日は一緒に商会へ来ませんか?」


「行ってもいいの?」


「今日、輸入品が届く予定です。まだ、この国にないものをランドン商会が取り扱うんです。」


 ガブリエルは目を輝かせた。


「行きたい!」


 即答した。まだ、この放課後続けたかったし、ガブリエルが何を楽しみにしているか知りたかった。



 ◇



 ランドン商会は王都でも一際目立つ建物だった。

 白い石造りの外壁。大きなガラス窓。正面には太陽と樹を組み合わせた商会の紋章が掲げられている。

 荷馬車が絶えず出入りし、商人達が慌ただしく行き交う。学園とは違う熱気がそこにはあった。


「今日は一段とすごいな……。」


 思わず声が漏れる。


「そうですか?前回は課題の後でしたからね。この時間は、こんなものですよ。」


 ガブリエルは慣れた様子で歩いていく。


「働き蟻の巣に迷い込んだ気分になるよ。」


「商人にとっては、店は戦場ですからね。あながち、間違っていませんね。」


 そう言って笑う。

 中へ入ると帳簿を抱えた職員達が忙しそうに走り回っていた。


「ガブリエル様、本日到着分はこちらです。」


 一人の職員が書類を差し出す。


「ええ、お疲れ様です。」


 ガブリエルは自然な動作で受け取ると、その場で目を通し始めた。

 視線が数字を追う。

 まるで本を読むような速さだった。


(本当に好きなんだな……。)


 少し感心する。その時だった。


「……。」


 ガブリエルの手が止まった。


「どうしたの?」


「少々気になることがあって……。」


 帳簿を見つめたまま答える。


「輸入品の運送費がおかしいんです。」


「運送費?」


「ええ。」


 ガブリエルは一つの数字を指差した。


「箱の大きさは同じなのに、この荷札だけ輸送費が高い。」


 荷札番号――0X4X23X。

 ボクも帳簿を覗き込む。


「間違いじゃないの?」


「他は知りませんが、ランドン商会の従業員に限ってはありえませんね。みんなプロなので。」


 ガブリエルは首を傾げる。


「現物を見てみましょう。」



 ◇



 倉庫には今日届いた荷物が並んでいた。


 外国産の香辛料。

 見慣れない布地。

 輸入品の薬草。

 木箱が整然と積まれている。


 ガブリエルは荷札番号を確認しながら歩く。


「0X4X23X……ありました!」


 目的の木箱の前で立ち止まった。

 見た目は他と何も変わらない。

 従業員が蓋を開ける。

 中には香辛料の袋が詰め込まれていた。


「他と同じだね。」


「……。」


 だが、ガブリエルは納得していなかった。

 箱の側面を叩く。

 コン。

 次に底を叩く。

 コツ。

 音が違う。

 ガブリエルの眉が動いた。


「これ、二重底です。」


 従業員達がざわつく。


「そんな馬鹿な……。検品を通過したっていうのか。」


 ガブリエルは工具を借りると固定板を外した。

 木材が外れる。


 その瞬間だった――。

 ボクの背筋に冷たいものが走る。

 嫌な予感がした。

 最近、海外で新型兵器が開発されたという情報が入っていた。

 もし、それがここにあったとしたら――。

 ガブリエルが中を確認する。


「これは……。」


 箱の奥には黒い金属製の武器が並んでいた。

 ボウガン。

 しかし、普通の物ではない。

 歯車に金属製の固定具、複雑な機構。

 見たこともない構造だった。

 顔から血の気が引く。


(オートボウガン……。)


 弓矢が主流の現在、このボウガン自体が軍需品扱いだ。一般人は存在すら知らない。

 しかも、これは人が構えなくても発射できる改良型。


 もしこれが闇市場に出回れば、この国はどうなる?

 テロ。暗殺。要人襲撃。

 使い方次第では戦争の形すら変わる。

 こんな物が密かに国内へ流入している。

 それだけで十分に国家の危機だった。


 ガブリエルも、その危険性を理解したようだった。


「誰がこんな物を……。」


 その時だった。


「ガブリエル様!」


 倉庫の扉が勢いよく開く。

 息を切らした若い職員だった。


「どうしました?」


「先ほどの荷物を運んできた運送業者がいません!」


「いない?」


「休憩に出ると言ったまま連絡が取れなくて……。」


 ガブリエルの表情が変わる。

 職員は続けた。


「荷受け担当も『見慣れない顔だった』と。」


 倉庫の空気が凍り付く。

 ボクは木箱の中のオートボウガンを見る。


(まずい!)


 ガブリエルが気付いた。

 つまり――相手も気付いたということだ。


「ランドン君!ごめん、急用を思い出した!」


(ルナエクリプスに知らせないと!ランドン商会が危ない!)


 ボクは慌てて店を出た。

 その時だった。通りの向こうから一台の馬車が猛スピードで突っ込んでくる。


「キャー!」


 通行人達が慌てて道を開ける。

 荒々しい馬車はランドン商会の前で急停止した。

 嫌な予感がした。

 次の瞬間――。


「ガブリエル様!」


 後方から悲鳴がした。


「ガブリエル様!ガブリエル様が拐われた!」


 その声に思わず振り返る。

 男達がガブリエルを荷馬車に押し込んでいる。


「くそっ!」


 ボクは来た道を引き返し、走り出す。

 コードネーム『フィーリア』の緊急信号合図の制服のボタンを引きちぎる。

 通行人を装う男に渡す。


「月光亭へすぐに行け!」


 男が目を見開く。

 ボタンを見た瞬間に表情が変わる。

 男は頷くと次の瞬間、そのまま雑踏へ消える。


(あとは、ボクが時間を稼ぐだけだ。)


 ボクは、勢いよく走り出す馬車に飛び乗った。


「フィーリア!何やってるんだ!逃げろ!」


  そう言ったガブリエルが男に殴られ意識を失った。


 ボクは両手を上げる。


「乱暴は止めてくれ。この制服を見て分かるだろ?人質は一人より二人の方が大金が稼げるんじゃないか?」


 ボクはわざと相手の目的を外して言う。

 男達の目が細くなる。


(反応した!やっぱり金目当てじゃない。)


 彼らは手慣れている。

 誘拐目的の素人じゃない。

 きっと、店で見た「オートボウガン」が関連している。


「ゴホッ、ゴホゴホ。」


 ボクはあることを確認するため、咳をした。


「このガキ、病気か?」

「放っておけ。」

「ランドンの取り巻きだろ。」


(やっぱり……調べていたのか。)


 これは、最初からガブリエル・ランドンを狙った犯行だ。課題で数日行動を共にしていたボクのことも調べていた。


 金銭が目的ならおかしい。ランドン商会には金も商品もあった。

 それなのに連中の目的は、ガブリエル・ランドンだけだった。


 荷台には男が三人。御者が一人。

 ……だが、それだけじゃない。

 ボクの病弱設定を知っていた。

 ランドン商会の荷物の流れも知っていて、オートボウガンの密輸日に犯行を実行している。

 偶然ではありえない。

 これは、組織的犯行だ――。


 馬車は王都を離れ、人気のない森へ向かっていた。


 馬車が曲がった回数は八回。体の揺れでは三回右折した後、直進した時間が長かった。途中から石畳の振動が消えた。王都を出たのは間違いない。

 その後、左折右折が一定に繰り返されたことと、体の傾きを考えれば平地ではない。


(山道か……。)


 候補は、ブリーズ王国方面の山岳地帯。

 あるいは北部の鉱山跡地。

 まだ断定はできない。

 やがて馬車の速度が落ち始めた。

 ガタガタと激しく揺れていた荷台が静かになる。


「止まるぞ。」


 男の一人が呟いた。

 ボクは目を閉じたまま耳を澄ませる。

 軋む木製の門。砂利を踏む複数の足音。遠くで鳥の声がする――森の中だ。

 馬車が完全に停止する。


「降ろせ。」


 扉が開いた。

 眩しい光が差し込む。

 男達に引きずり出されると、目の前には古びた納屋があった。

 かつて農業用に使われていたのだろう。壁の木材は色褪せ、屋根の一部は修繕された跡が残っている。


 周囲は木が生い茂り、人の気配はない。

 男達はガブリエルとボクを納屋の中へ放り込んだ。

 乱暴に扉が閉まる。

 ガチャリと鍵の音が響いた。

 薄暗い納屋の中には藁の束と農具が転がっている。

 ボクは拘束されたまま周囲を見回した。

 窓は高い位置に一つだけ。

 木枠が外せれば抜け出せる。

 扉は鍵がかかっている以上、無理だろう。

 外には見張りがいる。


(行動するなら深夜だな……。)


 その時だった。


「……う。」


 隣から小さな声が聞こえる。

 ガブリエルだった。


「ランドン君!」


 ガブリエルはゆっくりと目を開く。


「……ここは。」


「誘拐犯のアジトらしい。」


「そうですか……。」


 思ったより落ち着いていた。

 普通なら取り乱してもおかしくない。

 しかしガブリエルは状況を整理するように天井を見上げる。


「人数は?」


「確認できたのは四人だけ。」


「少ないですね。」


「え?」


 ガブリエルは少し考え込む。


「人目が多い時間帯に店に押し入って誘拐するのは、よほどの馬鹿か組織ぐるみの犯行でしょう。」


「それに……」


「数週間前、ブリーズ王国国境付近へ大量注文が入ったんです。」


 ボクは顔を上げた。


「大量注文?」


「生活用品と保存食です。」


 ガブリエルは淡々と話す。


「狩猟の時期ではありませんし、開拓事業の話も出ていない。それなのに十人分の注文が入ったから、おかしいと思ったんです。」


 ボクは眉をひそめた。


「十人……。」


「ええ。」


 ガブリエルは頷く。


「しかも、一週間や二週間ではありません。最低でも一か月以上は生活できる量でした。」


 納屋の空気が重くなる。


「つまり――前から準備していたってこと?」


「でしょうね。」


 ガブリエルの表情が険しくなる。


「この誘拐は突発的な犯行じゃありません。かなり前から周到に計画されていたということです。」


 ボクは納屋の壁へ視線を向けた。

 オートボウガンの密輸。

 ガブリエルの誘拐。

 そして十人規模の隠れ家。

 点と点が繋がり始めている。


 もし、この場所が本当に十人規模で運営されているなら、見張り四人だけというのは不自然だ。

 今見えている連中は一部でまだ他にいる。

 早くこの場所をルナエクリプスに知らせないと……。


 ボクは左肩を壁に何度も打ち付けた。


「ぐっ……」


 痛みで声が出そうになる。


「フィーリア!何やってるんだ、止めろ!」


 ガブリエルが止めようとするが拘束され、うまく立ち上がれなかった。


 左肩を脱臼させて縄から抜け出す。


 レッグホルスターからナイフを取り出し、ガブリエルのロープを切った。


「フィーリア……君は一体……」


「ランドン君、後にしてくれないか?とりあえず、ボクの左腕を支えて。」


 ボクは片手で口を塞ぎ、脱臼した肩をはめる。


「っ……!」


 左手をゆっくりと開いては閉じる。


「ランドン君、そこで台になって。」


「……。」


 ガブリエルは窓の下の位置で四つん這いになった。ボクはガブリエルを台にして窓枠に手を掛ける。窓を音を立てないように開け、着けていたイヤーカフを取り外し、屋根の上に投げる。あのイヤーカフには煙幕が仕込まれている。


 その時――。

 納屋の外から複数の足音が聞こえた。

 ひとつ、ふたつではない。

 少なくとも六人以上。


「ランドン君、ロープを持って縛られた振りをして!」


 男達の笑い声が近付いてくる。

 そして、納屋の鍵が回った。


 ガチャリ。

 ギィ――と重い音を立てて扉が開く。

 外から差し込む夕日が逆光となり、人影を浮かび上がらせた。

 先頭に立っていたのは三十代半ばほどの男だった。

 上質な旅装束だが腰には剣を携えている。

 商人にも兵士にも見える不思議な男だった。


「お目覚めか?」


 男は納屋へ入る。

 その後ろには武装した男達が並んでいた。

 数は六人。

 馬車で見た連中を合わせれば十人を超える。


(十人分の生活用品……。)


 ガブリエルの言葉が頭をよぎった。

 やはり、この場所は前から準備されていた。

 男は藁の上へ腰を下ろした。


「自己紹介は必要か?」


 ガブリエルが睨む。


「誘拐犯の名前に興味はありません。」


 男は笑った。


「そうか。」


 その視線がガブリエルへ向く。


「だが、こちらは興味があるんだよ。ランドン商会の次期当主殿。」


 ガブリエルは何も答えない。


「君は優秀だとは聞いていたが、荷物に気付くとは思わなかったよ。それも帳簿から見破られるとはね……。」


 ガブリエルの目が細くなる。


「最初から私を狙っていたんですね。」


「ああ。商会でこいつと親しくなる様子も、全部見ていた。」


 男はこちらを一瞥する。


「お前らが図書館へ通い、放課後に商会へ来ることもな。だから今日が好機だと判断した。」


「ランドン商会はフォレスト国最大の物流網だからな。商品も人も情報も流れる。」


 男はあっさり認めた。


「オートボウガンの密輸も、そのためですか?」


 ガブリエルは静かに言う。


 男の口元が僅かに上がる。


「……賢いな。別に我々は戦争を起こしたいわけじゃない。」


 納屋の空気が重くなる。

 男は立ち上がった。


「むしろ逆だよ。国の安泰を求めている。」


「誘拐犯の言葉とは思えませんね。」


 ガブリエルが吐き捨てる。

 男は意に介さない。


「フォレスト国は豊かだ。食料もあれば、技術もある。我々とは大違いだ。」


 男の目に怒りが宿る。


「弱い国は利用される。貧しい国は見捨てられる。それでも、我々は祖国を愛している。」


 男は続けた。


「交渉の席で発言権を持つには何が必要だと思う?」


 その問いに誰も答えない。


「力だ!他国への牽制。国内の結束。そして交渉力の強化。」


「オートボウガンは、その象徴に過ぎない。」


 男は拳を握る。


「我々はフォレスト国に屈しない!我々にも未来を切り開く力があると示すのだ!」


 ガブリエルは静かに男を見つめた。


「なるほど、それで密輸するのですか?だから、ランドン商会を利用するのですか?そこで得た武力という力で他国の民を傷付けるのですか?」


「大変立派な正義ですね。」


 男の表情が歪む。


「黙れ。」


 納屋の空気が張り詰めた。


「お前に何が分かる?豊かなこの国に生まれ。何不自由なく育った貴様に!」


 ガブリエルは視線を逸らさない。


「ちっとも分かりませんねー。」


 男が眉を動かす。


「ですが――。力で得た発言権は、いずれもっと大きな力に奪われます。それは、歴史が証明している。」


 ガブリエルは真っ直ぐ男を見る。


「あなた方がやろうとしているのは、交渉ではなく脅迫です。」


 男達の顔色が変わる。

 だがガブリエルは止まらない。


「あなた達が本当に守りたいのが祖国なら、今やっている行為は、その未来を壊す第一歩だ!」


 男の拳が震えている。

 怒りか、迷いか。


「へぇ。ランドン君って、結構カッコいいこと言うんだね。」


 全員の視線が集まる。

 ガブリエルが呆れた顔でこちらを見る。


「今、そういう状況ですか?」


 ボクは肩を竦める。


「だって時間稼ぎだろ?」


 ボクは納屋の高い窓を見上げた。


 人影が一つ。また一つ。

 屋根の上を音もなく横切る。


(来た!)


 男達は気付いていない。

 ガブリエルだけがボクの視線を追った。


「フィーリア?」


 ボクは小さく笑った。


「ほら。」


 窓から差し込む月明かりを見上げる。


「月が綺麗だ。」


 その瞬間だった。

 ドォン――!!

 納屋の外で激しい爆発音が響いた。

 同時に白煙が噴き上がる。

 天井が砕け、木片が降り注ぐ。

 黒装束の影が一人。

 また一人。

 屋根から舞い降りる。


 ボクはガブリエルへ飛び付いた。


「伏せろ!」


 ガブリエルを床へ押し倒す。


 シュッ――。


 男達の足元へ短剣が突き刺さった。


「なっ!?」


 喧騒の中で、至近距離でガブリエルと目が合う。

 深緑の瞳に映っていたのは、いつもの病弱な少年ではなかった。

 危険を前にしても臆せず、状況を計算する冷静な眼差し。

 そして――。そこには、ガブリエルの知る病弱なフィーリア・プリュネルはいなかった。


「フィーリア……君は誰なんだ?」



 ◇



 戦闘は数分で終わった。


 ルナエクリプスによって誘拐犯達は制圧され、ブリーズ王国への武器密輸計画も未然に防がれた。

 けれど――、ボクにとって本当の問題は、その後だった。


「フィーリア・プリュネル。」


 ルナエクリプスリーダーが低い声で呼ぶ。

 その瞬間、周囲のルナエクリプス達が一斉に膝をついた。


「任務ご苦労だった。」


 空気が変わる。

 今まで友人として話していた少年はいない。

 そこにいるのは王家の影。

 隠密ギルドの一員だった。

 ガブリエルの瞳が揺れる。


「……任務?」


 ルナエクリプスリーダーがガブリエルを一瞥する。


「ランドン伯爵家嫡男ガブリエル・ランドン。王立学園卒業までの護衛任務だ。」


 ボクは目を閉じた。

 いつかは来ると思っていた。

 フィーリア・プリュネルが終わる日を。


「つまり……。」


 ガブリエルの声は静かだった。


「最初から全部……任務だったんですか?」


 答えられなかった。

 任務だったのは事実だ。

 けれど、図書館で過ごした時間も、二人で話したあの課題も、あの絵を見た時の気持ちも、放課後の輝かしい時間全て……嘘だったとは思えなかった。


「そうですか……。」


 ガブリエルは小さく笑った。

 初めて見る笑顔だった。

 どこか寂しそうで諦めたような顔だった。


「……初めて出来た友達だと思ったんですがね。」


 その言葉だけが、胸に深く突き刺さった。

 ボクは何も言えなかった。



 ◇



 あの日から、ガブリエル・ランドンは変わった。

 いや、変わったのはボクの方かもしれない。

 放課後、一緒に図書館へ行くこともない。

 課題を口実に話しかけることもない。

 商会へ誘われることもない。

 隣にいるのに遠くなった。

 王立学園の廊下ですれ違う。

 食堂で見かける。

 教室で言葉を交わす。

 それでも、そこには以前のような関係性はなかった。


 『護衛と保護対象』


 それ以上でも、それ以下でもない。

 なのに――どうしてこんなに苦しいのだろう。



 ◇



 翌日の放課後。

 なぜか、図書館へ向かっていた。もう行く理由なんてないのに、それでも足は自然とそこへ向かう。

 扉を開くと、ガブリエルが座っていた。

 以前と同じ席。以前と同じ本。以前と同じ横顔。


「……。」


 目が合った瞬間、ガブリエルは小さく会釈した。


「こんにちは。」


 胸の奥が少し痛んだ。

 ただの挨拶だ、間違ってはいない。

 それなのに――。

 フィーリアと呼ばれないことが、こんなにも寂しいなんて思わなかった。


「……。」


 それ以上、会話は続かなかった。


『その本、面白い?』

『課題、一緒にやろうよ。』

『帰りに商会へ寄ってもいい?』


 以前ならそんな何気ない話がいくらでもできたのに……今は何を話せばいいのか分からない。

 気まずい沈黙だけが流れていた。



 ◇



 数日後。

 食堂でガブリエルを見かけた。

 以前なら隣の席へ座っただろう。

 けれど今は違う。

 ガブリエルの周囲には商家の子息達がいた。

 ボクも何も言わず離れた席へ座る。

 それだけだ。

 ただ、それだけのことなのに胸が苦しかった。



 ◇



 別の日。

 図書館へ行った。

 いつもの席を見るが誰もいない。

 しばらく待つことにした。

 一時間、二時間……。閉館時間を告げる鐘が鳴った。

 それでもガブリエルは来なかった。


 彼がここに来る理由はもう終わったのだ。

 残されていたのは静かな図書館だけだった。



 ◇



 ある日。

 ランドン商会の前を通った。

 店の前まで来て立ち止まる。扉を開ける理由がない。


『寄っていきませんか?』


 以前はガブリエルがそう言ってドアを開けてくれた。

 しばらく立ち尽くした後、踵を返した。客でも友人でもない、ただの護衛には理由がなかった……。



 ◇



 その夜――。

 机の上には、戻ってきた建国神話のレポートが置かれていた。

 手元には、ガブリエルから貰ったポストカードがあった。

 満月を背負う一本の樹を指先でそっとなぞる。

 放課後の図書館。

 二人で調べた建国神話。

 何気ない会話。

 夕暮れの帰り道。

 穏やかな時間。


 あの日に帰りたい――。


 そう理解した瞬間だった。

 ぽたり、と雫が紙の上に落ちた。


「あ……。」


 そこで初めて気付く。

 自分が泣いていることに。

 ボクは初めて泣いた。

 任務で人が死ぬこともあった。

 仲間が帰ってこないこともあった。

 別れも喪失も、この世界では当たり前だった。

 宿命なのだと受け入れていた。

 けれど……

 彼と過ごした日々の喪失だけは違った。

 あの日に戻りたい。

 そう願わずにはいられなかった。

 気付けばポストカードの樹を指先でなぞっている。



 ◇



 一方――。

 ガブリエルもまた苦しんでいた。

 裏切られたのか、利用されていたのか。

 フィーリアは仕事をしただけだ。

 憎しみや被害者感情などない。

 そんなことは、もうどうでもよかった。


 辛かったのは別のことだ。

 放課後になれば図書館へ向かい、課題が終われば商会へ寄る。

 そんな当たり前が続くと思っていた。だが、フィーリアはもう隣にはいない。


 あの日々は自分にとって特別だった。

 フィーリアにはフィーリアの事情があった。それは理解している。

 それでも……胸の奥がひどく痛んだ。

 自分の滑稽さと、名前の付けられない感情が波のように引いては押し寄せる。



 ◇



 以前は好きだったスパイ小説に手を伸ばす。

 しかし、途中で閉じた。

 任務のために偽りの友情を築く主人公に、自分を重ねてしまったからだ。

 代わりに手に取ったのは、普段なら決して読まない恋愛小説だった。

 なぜ選んだのか、自分でも分からない。

 一行、また一行……。

 物語の言葉が胸の奥へ静かに落ちていく。

 まるで、自分でも名前を知らなかった感情の答え合わせをするかのように。


 本を閉じる。

 窓の外では夕日が沈みかけていた。


 『会いたい。』


 ただ、それだけだった。

 あの日から胸を締め付けていた感情の名前を初めて知った。

 これが――恋なのだと。



 ◇



 フィーリアではなく、パメラとして彼の元に向かう。

 彼がいるかも分からない店へ。

 もし今日、会えたなら、今度こそ全部伝えようと思いながら。

 自分が何を失ったのか分からない。ただ一つだけ分かることがある。このまま終わるのは嫌だということだ。

 息を切らしながら店の扉を開く。

 そこには、ガブリエル・ランドンがいた。


 どこかで期待していた。

 いつもの柔らかな笑顔を。

 フィーリアへ向けられていた優しい表情を。

 けれど――。

 そこにいたのは友人ではなかった。

 商人の顔をしたガブリエル・ランドンだった。

 涙がこぼれる。

 どうして泣いているのか分からない。

 ただ。

 それを止める方法も知らなかった。


「どうされましたか、お客様。」


 完璧な営業用の笑顔で彼が言う。


 その瞬間、私は理解した。

 自分が失ったものが何だったのか。


「あなたが欲しい!」


 涙が溢れる。


「友達だった時間も……。」


 声が震える。


「一緒に笑い合えた思い出も……。」


 ずっと胸の奥へ押し込めていた言葉が溢れ出す。


「出来れば……。」


 彼女は生まれて初めて、自分自身の願いを口にした。


「これからも、あなたの隣にいさせて欲しい。」


 沈黙が落ちる。

 やがて、ガブリエルは静かに笑った。

 あの日と同じ。

 優しく柔らかな笑顔で。


「私は、この国最大の商会を継ぐ者です。」


 一歩近付く。


「お客様のご要望にお応えできなくては、商人の名折れですから。」


 パメラの瞳から涙が零れ落ちる。


「……。」


「ただし!」


 ガブリエルは少しだけ悪戯っぽく笑う。


「クーリングオフは効きませんよ?」


 思わず笑みがこぼれた。

 涙でぐしゃぐしゃになりながら。

 彼はそっと手を差し出す。


「こちらこそ。」


 私はその手を取った。


「これからも隣にいさせてください。」


 夕日が二人を照らしていた。

 影として守るだけではなく。

 隣を歩くために。

 二人は同じ未来へと歩き始めた。


「そういえば――。」


 ガブリエルが少し困ったように笑った。


「これから君を何とお呼びすればいいのでしょうか。」


 パメラは一瞬だけ目を丸くする。

 そして、ふっと笑った。


「ボクは……。」


 首を横に振る。


「ううん。」


 もう隠す必要はない。


「私はパメラ……」


 ガブリエルの手を握り返す。


「パメラ・ウラノス!」


「パメラ……。」


 ガブリエルはその名前を確かめるように繰り返した。

 初めて呼ばれた本当の名前が、胸の奥に温かく響く。


 二人は顔を見合わせて笑った。

 その穏やかな空気の中、ガブリエルが思い出したように口を開く。


「実は、あの後、大変でしたよ。」


「え?」


「密輸組織の件で父も王家も大騒ぎでしたから。」


「その話、聞きたい!」


 夕日に照らされたその笑顔は、もうフィーリア・プリュネルではなかった。

 そして――、差し出された手を握る二人の姿は、どこかあの絵に似ていた。


 満月を背負う一本の樹。

 月はもう影ではなく。

 今度は、その隣に並んでいた。




 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


 読者の皆様から「読みたい」という声があったわけではありません。それでも、この二人の物語を書きたいと思い、筆を取りました。


 本作は、本編から派生したスピンオフ作品です。本編で描かれた劇中作品を一つの物語として描く試みでもあるため、ヒロオカトモエ名義ではなく、「めそこここ」名義で公開しています。


 本編を読まれた方には、「あの小説はこういうことだったのか」と感じていただけたなら嬉しいですし、本作から読まれた方は、ぜひ本編『ママじゃない~攻略対象の母に転生したので、破滅エンドを潰します~』にも遊びに来ていただけたら幸いです。


 最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ