第1章 第1項 終電逃しの公園で、限界社畜が異界の毛玉と邂逅し、人生最大の悟り(物理)を開く話
第1章 社畜、涅槃へ至る
第1項 終電逃しの公園で、限界社畜が異界の毛玉と邂逅し、人生最大の悟り(物理)を開く話
プシュッ。
深夜一時過ぎの公園に、缶チューハイを開ける音が虚しく響いた。
佐藤ケンジ、二十八歳。職業、ダンジョン探索者。
といえば聞こえはいいが、実態は悪徳探索会社「ブラック・ホールディングス」の三次下請け社員だ。月給は手取り十五万、残業代なし、装備は自腹。ボーナス? 何それ、新しいモンスターの名前?
「……はあ。終電、また逃したな」
ブランコに腰掛け、ケンジは夜空を見上げた。都会の空は明るすぎて星など見えない。あるのは、不気味に赤黒く光るダンジョンのゲートの燐光だけだ。
一〇年前に突如世界各地に発生したダンジョン。人々は富と名声を求めて潜ったが、そこは弱肉強食の地獄だった。そして、リスクを負いたくない大企業が、ケンジのような捨て駒を安く買い叩くシステムが出来上がった。
「明日は朝五時集合で、埼玉のD級ダンジョンか……。黒川部長、あのハゲ、絶対俺のこと殺そうとしてるよな」
今日の業務中、ポーションの配給が一人分足りなかった。黒川は笑いながら「お前なら気合で治せるだろ?」と言い放ったのだ。
アルコールが空っぽの胃袋に染み渡る。だが、酔えない。疲労とストレスが限界を超えすぎて、脳の芯が冷え切っている感覚だ。
「……もう、消えてぇなぁ」
ふと、本音が漏れた。
死にたいわけじゃない。ただ、朝起きるのが、満員電車に乗るのが、黒川の顔を見るのが、オークの棍棒に怯えるのが、たまらなく嫌なだけだ。
スッと消えて、無になりたい。
その時だった。
視界の端、砂場のあたりに「それ」は現れた。
最初はゴミ袋が風で舞っているのかと思った。だが違う。
直径三十センチほどの、白い毛玉。目も口もない、ただのフワフワした塊が、重力を無視して浮遊している。
「……幻覚か。ついに焼きが回ったな」
ケンジは自嘲し、チューハイを煽った。
だが、毛玉はスルスルと近づいてくると、ケンジの肩に乗った。重さは感じない。ただ、ほんのりと温かい。
そして次の瞬間、毛玉の表面がぱっくりと割れ、ケンジの頭部を「あむっ」と甘噛みした。
「うわっ!?」
痛みはない。代わりに、脳髄から「何か」が引きずり出される感覚があった。
今日の理不尽な叱責、将来への不安、積み重なった疲労、そして先ほど呟いた「消えたい」という希死念慮。
それら黒く淀んだ感情が、ジュルジュルという音を立てて毛玉に吸われていく。
『――うま。これ、極上の鬱だわ』
頭の中に、直接声が響いた。
驚く間もなく、ケンジの意識が白く染まる。
ドクン、と心臓が跳ねた。
視界がクリアになる。夜の公園の輪郭が、驚くほど鮮明に見える。身体が羽のように軽い。いや、肉体という枷が外れたような浮遊感。
脳内に、金色の文字のようなイメージが炸裂した。
《現世即浄土》。
《一切皆苦からの解放》。
「……あ、そうか」
ケンジはぽつりと呟いた。表情から険しさが消え、仏のような穏やかさが浮かぶ。
「部長に怒鳴られるのも、オークに殴られるのも、全部ただの『現象』なんだ。俺がどう感じるかは関係ない。全ては空。なるほどねぇ」
肩に乗った毛玉――後にモフ助と名付けることになる存在――が、ゲップをした。
どうやらケンジは、社畜としての限界を超え、異界の神の捕食を受けたことで、解脱してしまったらしい。




