9話
濁流は田畑を呑み込み、村々を水底へ沈めていった。だが忍城は沈まなかった。城は小高い丘に築かれ、周囲の水を受けてもなお浮かぶように立っていた。
「長親殿、城は持ちこたえております!」
正木丹波守が声を上げた。驚きと安堵が入り混じった響きだった。彼は冷静に敵の堤の構造を見極め、どこを崩せば効果的かを考えていた。
「しかし兵糧は限られております。水に浸かった米俵はもう使えません」
柴崎和泉守が険しい顔で告げる。民の口をどう養うか、彼の頭から離れない。
栗田は城壁から水面を見下ろした。
――映画で見た通りだ。忍城は浮き城として沈まない。だが現実に目の前で水が渦巻くのを見ると、ただ恐怖が募る。
――もし排水ポンプや水門の操作システムがあれば、流れを制御できるのに。現実は桶で水を汲み、必死に堤を崩そうとするしかない。
――もしヘリコプターがあれば、孤立した民を救い上げられるのに。現実は舟を漕ぎ、命がけで渡るしかない。
――もしニュース速報や防災アプリがあれば、状況を一目で把握できるのに。現実は伝令が泥にまみれて走るしかない。
甲斐姫は水に濡れながらも民を励ましていた。
「恐れるな!この城は沈まない!」
その声は凛々しく、民の心を支えていた。映画ではこの場面で彼女が長親に寄り添うはずだった。だが現実の彼女はただ民を守ることに全力を注ぎ、殿を振り返る余裕はない。
酒巻靱負は舟を操り、孤立した民を救い出していた。血と泥にまみれながらも、必死に声を張り上げる。
「のぼう様の城は沈まぬぞ!」
その叫びは鬨の声ではなく、必死に自分を奮い立たせる誓いだった。
正木丹波守は戦術を練り、柴崎和泉守は兵糧を守る。二人の現実的な声が、頼りない殿を支えていた。
栗田はただ立ち尽くし、濁流の音に呑まれていた。
「……ライフジャケットがあれば、少しは安心できるのに」
場違いな呟きが、水音にかき消された。




