プロローグ
十一月の空は、どこか湿り気を帯びていた。
栗田長親、三十歳。都内の中堅企業に勤める会社員だ。営業職として日々数字に追われ、上司の指示に従い、取引先に頭を下げる。仕事は嫌いではないが、心の奥底では「自分は歯車の一つに過ぎない」と感じる瞬間がある。そんな彼のささやかな楽しみは、週末に歴史映画を観たり、歴史シミュレーションゲームで遊んだりすることだった。
特に映画『忍城』は、彼に強い印象を残した。天然のカリスマで人を動かす成田長親。だがゲームでは能力値が低めに設定されている。その落差に、栗田はいつももどかしさを覚えた。しかも自分の名字は「栗田」で、成田とは一字違い。勝手に親近感を抱き、彼の存在を特別に感じてしまうのだった。
「忍城?ほんと好きね」
休日の朝、彼女は笑いながら言った。呆れ半分、茶化し半分の声色だ。
「映画の舞台なんだ。石田三成が水攻めのために築いた堤も残ってる」
「ふーん。“のぼう様”って人でしょ?ゲームじゃ弱いんでしょ?」
「そうそう。でも映画だと人を惹きつける。俺の名字が一字違いだから、つい親近感湧いちゃってさ」
彼女は肩をすくめて笑った。その笑顔を見て、栗田は「これが現実の幸せだ」と思いながらも、歴史の世界への憧れを抑えられなかった。
――
埼玉県行田市。忍城。
遺構はほとんど残っていないが、田園の中に「石田堤」が静かに続いている。かつて城を水没させようと築かれたその土の盛り上がりは、今ではただの風景に溶け込んでいた。
栗田は堤を歩き、近くの公園のベンチに腰を下ろした。缶コーヒーを飲み干し、背もたれのざらつきを感じる。冷たい風が頬を撫で、まぶたが重くなる。映画の記憶とゲームの数値が頭の中で交錯し、現実の風景に重なっていく。
意識がゆっくりと沈んでいった。ベンチの硬さが背に食い込み、遠くで水の音が低く響く。眠ってはいけないと思いながらも、体は抗えず、うとうとと夢へ落ちていった。
――
目を開けると、肩に湿った布の重みがのしかかっていた。足袋の薄さに地面の冷たさが直に伝わる。周囲には甲冑姿の男たちが立ち並び、誰かが「のぼう様」と呼んだ。
――のぼう様。映画で見たあの呼び名。どうやら自分は成田長親の立場にいるらしい。
栗田は息を呑んだ。映画で見た世界が、目の前に広がっていた。




