婚約破棄は感情的にならず、冷静に。でも最後は泣いてもいいですか…
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# 婚約破棄は感情的にならず、冷静に。でも最後は泣いてもいいですか…
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雨音が私の決意を洗い流そうとする。
手紙一枚で済ませるべきことを、こうして自ら足を運んでしまった。
灰色の空が、今は容赦なく私の全身を濡らしてくる。
クローフォード家の邸宅に立つと、足がすくんだ。
『帰れ』と心の奥が囁く。でも、エディにはきちんと自分の口から伝えなければ。それが最低限の礼儀だと思った。
門の呼び鈴を鳴らすと、すぐにクローフォード家の使用人が出てくる。
私も見覚えがある使用人だ。彼は驚いた顔で私を見つめる。
「レディ・エレノア?こんな天気に…」
「クローフォード家当主とお会いしたいのです」
震える声を抑えようと、背筋を伸ばした。
「至急の用件です」
後ろに下がる余地を自分に与えないよう、きっぱりと告げる。
使用人の彼は困惑した様子だったが、すぐに私を屋敷へと案内してくれる。
玄関に着くと、執事が驚いた表情で私を迎えた。
「レディ・エレノア!? こんな天候の中、お一人で…」
「申し訳ありません。急用でしたので」
取り繕うように微笑んだが、ずぶ濡れの姿はその場の緊迫感を高めるばかり。
「すぐに温かい飲み物をお持ちします。どうぞ応接室へ」
執事はメイドたちに目配せをする。
「メアリー、レディ・エレノアに乾いた衣服を準備しなさい。マーサ、温かいタオルを」
メイドたちが急いで散っていく。
「ウィンターズさん、お気遣いありがとうございます。ですが…」
その気遣いに、私は首を横に振った。
「クローフォード様には今すぐにお会いしたいのです」
執事は少し困った表情を浮かべた。
「当主は現在、来客中でして… 少々お時間を……」
その言葉に胸の奥がざわつく。
きっと当主は私との対面を避けているのだ。クレイトン家の窮状は、もう社交界に知れ渡っているのかもしれない。
「わかりました」
静かに頷いて応接室へと向かう。
高級な調度品が並ぶ部屋に一人取り残され、震える手を見つめる。
これが最後だ。私の家、すなわちクレイトン家の没落は決定的になった。もう引き返せない。エディとの婚約も終わらせなければならない。
本来なら当主に伝えるべき話なのに…
部屋の壁に掛けられた時計の音が、私の鼓動と重なる。
5分、10分と過ぎていく。不安と緊張で胸が締め付けられる。
私は座ることもできず、部屋のドアを見ていた。
急いだ足音が廊下から聞こえてくると、すぐにドアが開いた。
「エレノア!?」
私の婚約者、エディが息を切らせて部屋に飛び込んできた。
「どうして一人で?こんな雨の中…」
心配そうに駆け寄るエディを見て、胸が痛む。予想していなかった相手に戸惑う。
「メイドを呼びます。乾いた服を…」
「エディ、大丈夫です」
彼の腕を軽く掴み、制した。
「座っていただけますか。少しお話があります」
エディの表情が硬くなる。私の声音が普段と違うことに気づいたのだろう。
「何があった?」
彼は座らない。私が立ったままだからだと思う。
その目には純粋な心配の色が浮かんでいた。
深呼吸をして、準備してきた言葉を口にする。
「クレイトン家は… もう立ち行かなくなりました」
言葉が喉に引っかかる。
「父の古い工房は閉鎖され、職人たちは都市の工場へと流れていきました。財産の多くも手放すことになりました」
エディの顔が青ざめる。
「もう、どうにもならないのかい?」
彼の言葉に胸が痛んだ。これまでもクローフォード家からの支援の申し出を、クレイトン家は何度も断ってきた。エディの父が裏で見えない形で支えてくれていたことも薄々感じていた。
そのことが、今の私をさらに苦しめる。
「クローフォード家にこれ以上迷惑をかけられません」
言い切るまでに何度も言葉を飲み込みそうになった。
「どうか、婚約を破棄させてください」
エディとの婚約は、クロフォード家が、我が家クレイトン家を救済する政治色が強い婚約だった。だから、ちゃんと告げなけといけない。これ以上、迷惑はかけられない。
エディが静かに私を見つめる。その瞳に怒りではなく、深い悲しみが浮かんでいた。
「エレノア」
彼は静かに私の名を呼んだ。
「これは迷惑ではない。二人の家族にとって、より良い道を一緒に探せるはずだ」
優しい声で諭すように言う彼に、心が揺れる。
「私たちの婚約は両家の都合で決まったもの。今となっては、その意味も失われました」
冷静さを装うのが、こんなにも難しいとは思わなかった。
「君との婚約は、確かに両家の取り決めだ。そのうえで、僕は君のことも、君の家族のこと、家の皆を大事に思っている」
彼も冷静に話そうと努めてくれている。
「みんなにとっていい道を探そう。エレノア、君のつらそうな姿は見たく…」
「クローフォード家の方々には感謝しています。でも、クレイトン家の没落を留めることはできません」
話を遮った。彼の気持ちを聞いたら、きっと決意が揺らぐから。
「長姉の嫁ぎ先も支援を申し出てくれましたが、断りました。もう誰にも頼れません…頼るべきではないのです」
私は少し距離を取った。
「エレノア… 僕では君の力になれないのかな」
彼の真っ直ぐな眼差しに、心が痛む。
「エディ様。本当にありがとうございました」
敬語で応じることで、心の距離を作ろうとした。
でも彼が、私の手を掴む。
ダンスへエスコートするかのように、彼は私の手をやわらかく掴む。
私を見てくれる彼の瞳はいつも温かい。
あらためて、私の手を掴む彼の手を見つめた。こうして手を携えて歩む人生もあっただろうか。
でも、クローフォード家まで共倒れにはできない。
私は彼の目をまっすぐに見つめる。
その機会に、勢いよく身を乗り出し、エディの唇に自分の唇を重ねた。
一瞬の衝撃に彼が固まる。
「さようなら」
一言だけ告げると、彼の手を振り払って、部屋を飛び出した。
「エレノア!」
背後からエディの叫び声が聞こえたが、振り返らなかった。
ずぶ濡れの服を引きずりながら、玄関から外へ飛び出した。
降りしきる雨の中、ただひたすら走った。
追ってくるエディの声が聞こえる。彼が追いつく前に、人混みの中へと紛れ込んだ。
どのくらい走り続けたのだろう。
街の路地を曲がり、曲がり、ダウンタウンにある小さな借家の前に辿り着いた。
そこには、既に暇を出されたはずの元メイド、ルーシーの姿があった。
「お嬢様…!」
私の姿を見て、ルーシーが驚きの声を上げる。
「どうしてここに…?」
言葉を最後まで紡げなかった。
ルーシーが駆け寄り、私を抱きしめる。
「ルーシー…!」
彼女の胸に顔を埋め、声を上げて泣いた。
『どうしてこんなことに…!』
『みんな不幸に…!』
『誰も守れなかった…!』
絶望の言葉が雨のように溢れ出る。
ルーシーは黙って、ただ私の背中をさすり続けてくれた。
「もう大丈夫ですよ、お嬢様」
その言葉に身を委ねた。
これが私のクレイトン家令嬢としての最後の涙だった。
***
それから月日が流れた。
クレイトン家は最後の財産も手放し、私はかつて使用人が住んでいた地区の小さな下宿で日々を過ごすようになった。
冬の訪れは早かった。
この日も、厳しい寒さが街を覆い、教会の炊き出しを求める人々の列に並んだ。私もその一人。もはや誰も私を貴族令嬢とは呼ばない。
行列の中で震えながら待っていると、ふと思い出した。
エディの温かい手。彼の本当に優しかった眼差し。あの日、雨の中で私が振り払った手。
父の頑なな表情も思い浮かぶ。産業革命の波に乗れなかった選択が、すべてを奪った。
「もう一度人生をやり直せるなら、違う道を選べただろうか…」
ようやく順番が回ってきて、手に入れたスープを一口すすると、突然、体から力が抜けていくのを感じた。
床に倒れる瞬間、最後の願いが心をよぎる。
『今度は… 一緒に......』
(おわり *エレノアの一度目の貴族令嬢人生)
こんにちは。坂道と申します。
「二度目の貴族令嬢~エレノアは産業革命に抗わない~」
https://ncode.syosetu.com/n8943kf/
という話も書いていますので、宜しければそちらも楽しんでもらえると嬉しいです。