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#4 歌詞で語る恋のカケラ

カラオケボックスの一室。

人工的な空気がゆっくりと流れ、空気清浄機の低い唸りが絶え間なく続いている。

外の気配はまるで感じられない。今が何時なのかもわからないまま、時間だけがぼんやりと過ぎていく。


けれど――この部屋だけは、まるで別世界だった。


誰もマイクを握っていないのに、やけにうるさくて、やたら楽しそうな空気。

テーブルの上には飲みかけのグラスと空のお菓子の袋、ポップコーンのかけらが散乱し、リモコンは誰かのひじの下に押しつぶされかけている。


BGMに流れているアイドルソングなんて、誰も気にしていない。

ただ会話だけで、空気がびっくりするくらい盛り上がっていた。


(これ、店員から見たらどう思われてんだろ)


音羽は、ストローを指でくるくるいじりながら、そんな他人事のようなことを考えていた。

――と、そのとき。


「――はいっ、というわけで!」


突然、千歳の元気すぎる声が室内に響き、空気を一瞬でかき回す。

立ち上がる動作まで勢い任せで、すでに空気を掌握している感じがあった。


「出た……」


あかねがストローを噛んだまま動きを止め、手で顔を覆う。

ひまりは拍手しかけた手を中途半端に宙に浮かせて固まっていた。


音羽はこめかみを押さえ、小さく息を吐く。


(また来た。この“というわけで”に、良いことがあった試しがない)


千歳はみんなの視線を集めたことに満足げに頷き、謎のドヤ顔を決めた。


「ここらで、恋バナ新企画を発表しまーす!」


あかねが「はいはい、いつものやつね……」と諦め顔で呻く。

こういう展開にはすっかり慣れた様子。

ひまりは無邪気に目を輝かせて拍手。

騙されているというより、純粋に楽しみにしているらしい。


「なにそれ、気になる!」


美咲は椅子をずりずり前に寄せ、興味津々で身を乗り出す。もはや観客ポジションで、千歳の“次の一手”を楽しみにしているようだった。

そして――千歳が満面の笑みで、堂々と宣言する。


「題して! 『恋の曲で語れ! 歌詞解説バトル〜〜!!』」


「だっっっっっる!!!」


悲鳴のような声が響いた。叫んだのは、もちろんあかね。

その声がスピーカーにまでビリついて、グラスがカタッと震える。


「なにその、めんどくさい企画!?

 なんで恋バナするのに歌詞分析とか必要なの!?

 てか“バトル”ってなに!? 勝敗とかつくの!?」


あかねは身を乗り出し、手でテーブルをバンバン叩きながら全力で抗議している。

その姿は本気で止めたい人のそれだった。

その隣で、美咲が腕を組み、やたら悟ったような顔で口を開いた。


「感情をね、言葉じゃなくてメロディに乗せて表現しようっていう……つまり、ポエジーよ」


ポエジー?

詩人か哲学者かってくらいのトーンだったが、内容はまったく頭に入ってこない。

音羽は半眼になって、ぼそっと返す。


「うん、わかったようで全然わかんない」


なのに――なぜか隣の美咲から満面の笑みが返ってきた。


「でしょでしょ? 音羽なら通じると思った!」


「いやいや、通じてないって言ったよね!?」


ツッコミもむなしく、美咲には一ミリも届いていない。毎度のことながら、感覚のズレがすごい。

すると今度は、千歳がバンッとテーブルを叩き、強引に仕切り直した。


「ルールは簡単です!」


目を輝かせながら、楽しげに宣言する。


「今から一人一曲、恋の歌を選んで、歌って、語ってくださーい!」


「いや選ぶな語るな!!」


音羽が思わずテーブルを叩いて叫ぶ。歌うだけでもハードル高いのに、語れってどういうことだ。

すでにこの部室――もとい、カラオケルームの空気は、ほとんど企画会議というよりも、公開処刑会場の様相を呈していた。


音羽はげんなりした顔で、千歳に向かって口を開く。


「というか、歌うのはまあいいとして……なんで語らなきゃいけないの?」


千歳は待ってましたと言わんばかりに目をキラキラさせて即答する。


「そっから恋の深層心理が見えてくるんよ! ほら、歌詞って“自分を映す鏡”って言うし」


もはや完全に企画MCの顔になっている千歳に、音羽はじわじわと頭痛を感じる。

その様子を見ながら、あかねがじっと千歳を指さす。


「てか、千歳はやらないわけ?」


問い詰めるような目に対し、千歳は胸を張って堂々と答える。


「私は審査員でMCなんでっ!」


「出た〜〜〜〜〜〜!! 一番安全なポジション!!」


あかねが天を仰いで叫ぶ。悔しげに肩を震わせながら、椅子の背にもたれかかってのけぞる。


「なんかもう、罰ゲームやってる気分なんだけど~……」


その横で、ひまりがぽそっと呟いた。


「……楽しそう……」


テンション差がすごすぎて、音羽は思わずストローを見つめて目を細めた。


「じゃあもう、千歳の気が済むまで付き合うしかないんじゃん……」


音羽は観念したようにドリンクへ手を伸ばし、ソファの背に深くもたれかかった。

どう足掻いたって、この空気は止まらない。だったらもう、巻き込まれるしかない。


(“恋の歌で語れ”って……なにげにハードル高くない?)


自分の思い出や感情を、歌詞に重ねて語るなんて。考えただけで胃が重くなる。

そのとき、千歳が勢いよくリモコンを高く掲げた。


「はいっ! ではトップバッター、美咲でいこうか!」


即決すぎる。誰がやるかなんて話してすらいないのに、当然のように名前が呼ばれた。


「……わたし!?」


指名された美咲は、わざとらしく目を丸くする。でも、その顔はすぐにニヤリと歪んだ。

あの“スイッチが入った顔”――音羽は、もう知っていた。


「……いいわ。じゃあ、本気でいくわね」


その一言で、空気が変わる。

冗談めいていた空気が、ふっと引き締まった。

音羽も思わず背筋を伸ばす。気づけば、他のメンバーも同じように姿勢を正していた。


リモコンのボタンが押され、イントロが流れ出す。


スピーカーから流れたのは、思ったよりも情熱的なラブバラードだった。

どこかで聴いたことがあるような、でもちょっと古めかしいメロディ。

音羽は無意識に耳を傾ける。


「♪君がいない夜を〜いくつ越えれば〜」


マイクを握った美咲の声は、しっとりと柔らかい。

高すぎず、低すぎず――ちょうど心に触れる温度だった。

言葉のひとつひとつに、妙にリアルな感情がこもっていて、思わず聞き入ってしまう。


「なんでちょっと昭和感あるの!?」


最初に耐えきれず声を上げたのは、あかね。

ソファから半分起き上がる勢いでマイクを見つめ、目を見開いていた。


「なんでこのチョイス……?」


すかさず、ひまりが画面と美咲を交互に見比べて目を丸くする。

懐かしさのあるメロディに、どこか笑いをこらえるような顔をしていた。


「なんか……泣きそうになってきた……」


思わず口をついて出た言葉だった。

冗談のつもりだったのに、出てきた自分の声が、ちょっとだけ本気っぽくて、音羽は内心ぎょっとする。


テーブルの上には、スナックの袋と、グラスが雑に置かれていた。

モニターには、さっきまで美咲が歌っていた切ない歌詞がそのまま残っている。


誰もツッコミも笑いも挟まずに、美咲の歌をただ静かに聴いていた。

そのせいか、いつも賑やかな部屋の空気が、いつの間にか澄みきっていた。


――美咲の“気持ちの乗り方”が、それだけガチだったからだ。


曲が終わると、美咲は静かにマイクを置いて、ゆっくりと語り出す。

その表情は、普段の飄々とした雰囲気とは違って、妙に真剣だった。


「この歌詞の“君”はね、存在しない恋人……つまり“理想そのもの”なの。

だからこそ、いないのに、一番そばにいる存在として描かれてて――」


「ポエム始まったー!!」


思わず叫んだのは、あかね。

耳まで真っ赤にしながら、ソファに背中を預けて体をよじらせている。


「こっちが恥ずかしくなってくるやつー!」


ひまりも、うずくまるように肩を震わせて笑っている。

指先で自分の髪をくるくるいじりながら、顔は火照ったままだ。


そのなかで、音羽は小さくぼそっとこぼした。


「……いやでも、ちょっとわかるって思っちゃったのが悔しい……」


すると美咲が、してやったりといった顔でニヤリとウインクを飛ばしてきた。

空気がふっと緩み、みんなが笑いかけた――その瞬間。


「うち!?」


唐突な指名に、あかねが跳ねるようにソファから立ち上がった。

顔は真っ青、手はバタバタ、目は完全に泳いでいる。


「え、え、無理無理! 歌詞とか見て考えたことない!!」


パニックモード全開。

リモコンを持つ手がぶるぶる震えていて、モニターと千歳、そして画面をぐるぐると見回している。


「てか歌詞ってどこ!? リモコン!? 画面!? 選んだら出るの!? 無理すぎ!!」


混乱を叫びつつも、なぜかしっかり曲を入れているあたりが、あかねらしい。

マイクを握った手が震えているのが、音羽の席からでもはっきりわかる。

――そして、始まってしまった。


「♪会いたいよ〜って思っても〜……うぅ……ちょっと待って、歌詞の意味が重い……えっ、なにこれ……泣ける……」


声が揺れる。語尾がにじんで、目も潤んできていた。

まさかの展開に、カラオケルームの空気がざわつき始めた。


「まだ一番だよ!?」

「Bメロすら行ってないのに!?」

「心の弱点でかすぎない!?」


美咲、ひまり、千歳が一斉にツッコミを入れる。容赦はない。

まるで照明が一気に乱れ打ちされたみたいに、笑いと叫びが部屋に満ちた。


ソファの上では笑い声と悲鳴が交差していて、テーブルの上のドリンクまで小さく揺れている。

リモコンの画面は点滅しっぱなし、空気はまるでカオスなライブ会場のようだった。


ふざけてるのに、ちょっとだけ本気。

バカみたいだけど、どこかまぶしい――そんな空気。


音羽はその騒ぎのなか、マイクを持ったまま俯いているあかねの顔をちらりと見た。

耳まで真っ赤に染まったその横顔を見ながら、笑いながらも心のどこかで思う。


(恋の歌って……こういうのも、アリなんだ)


意味なんて、後からついてくる。

まず先に動くのは、心――。それが、恋の歌の正体なのかもしれない。


笑い疲れた空気の中で、あかねはマイクを離さないまま、テーブルに突っ伏していた。


「……なんで歌って泣きそうになってんの、うち……恥ずかしすぎるんだけど……」


ピンクのネイルを塗った指先で顔を隠しながら、かすれた声でぼやくあかね。

普段は勢いで押し切るタイプなのに、こんなふうに正直に崩れるのは珍しい。

強がることすら忘れてるその姿に、音羽は思わずくすっと笑った。


「いや、そこまで感情移入できるの、逆に才能だと思うけど」


からかうように肩をすくめて言うと、あかねは「やめてやめてほんと無理……」とさらに顔を沈めた。

指の隙間からのぞく目元は、まだほんのり赤く、さっきの歌詞の余韻が残っているみたいだった。


その空気をパン、と切り替えたのは、千歳の手の音だった。


「次、誰いく〜?」


明るい声が響く。けれど、その場にいた全員の視線が、自然とひとつの方向へ向いていった。


ひまり。


小柄な彼女は、自分が見られていることに気づくと、びくっと肩を跳ねさせた。


「……え、私……?」


戸惑った声が、ぽつりと漏れる。

目を見開き、視線を泳がせるその様子に、さっきまでの賑やかな空気が一瞬、静まる。


でもその日、ひまりは「無理無理無理!!」と騒ぐことも、「よっしゃ歌う〜!」と誤魔化すこともなかった。


ただ、唇を少し噛んで、戸惑ったまま――静かにリモコンを手に取った。

その細い指先が、わずかに震えているのを、音羽は見逃さなかった。


「うん……じゃあ、私……これ、歌う……」


小さく、遠慮がちな声。

そして、画面に表示された曲名を見た瞬間――音羽の目が止まる。


(……バラード?)


それは、今までの誰とも違う選曲だった。

盛り上げ系でも、ノリのいい恋ソングでもない。

どこか懐かしくて、少し古くさくて――“片想い”の気持ちを、そっとすくい上げるような、静かなラブソング。


やがて、スピーカーからゆっくりとイントロが流れ出す。

淡く響くピアノの旋律が、カラオケボックスの空気をふわっと変えていく。


ひまりは目を伏せたまま、そっと息を整えた。

両手でマイクをしっかりと握って、口元へ近づける。

いつものオーバーなリアクションも、マスコットみたいな笑顔も、そこにはなかった。

ただ静かで、真剣で――どこか覚悟したような表情だった。


そして。


「♪――好きなのに 好きだって言えないままで――」


その声は、小さなスピーカーからふわっと広がった。

高くもない。派手でもない。なのに、不思議と澄んでいて、まっすぐ耳に届いてくる。

まるで、ひとつひとつの言葉を大事に手渡されているような気さえした。


感情を“込めている”というより――あふれた想いが、そのまま“にじみ出てる”ような、そんな声だった。


誰も、しゃべらなかった。


ついさっきまで、笑い声で満ちていたはずのカラオケルーム。

今は、嘘みたいに静まり返っていた。


誰もマイクを握っていないのに、誰もリモコンに手を伸ばそうとしない。

テーブルの上では、お菓子の袋がくしゃっとわずかに鳴っただけ。

炭酸の抜けたグラスの底に、小さな泡がゆっくり浮かんでいた。


その中で――ただ、ひまりの歌声だけが、時間を進めていた。


ひまりの頬は、ほんのり赤く染まっていた。

でも、それは照れているというより、心の奥からこみあげてくる何かを、ぎゅっと抑え込んでいるように見えた。


やがて、曲が終わる。


画面からゆっくりフェードアウトしていく最後の音。

けれど、誰もツッコミを入れない。

笑いも、拍手も、何も起きなかった。


その静寂の中で、ひまりはマイクを両手で握ったまま、ぽつりと口を開いた。


「……歌詞の意味とか、あんまり分かんないけど……」


その声は、さっきまで彼女が歌っていた旋律みたいに、やわらかくて、まっすぐだった。


「……この曲、お姉ちゃんが失恋したときに、ずっと聴いてて……」


音羽は、思わず目を見開いた。

ひまりが過去を語るなんて、珍しい。

いつもは感情のままに突っ走る子なのに、今のひまりは、ちゃんと自分の言葉を選んで話していた。


「“好き”って、言えなかったんだって。その人、彼女いたのに……気づいたら、好きになっちゃってたって……」


伏せたままのまつげが、かすかに揺れる。

ひまりは誰とも目を合わせないまま、静かに、でも確かに、気持ちを語っていた。


誰も、笑わなかった。

茶化す子も、軽く流す子も、ひとりもいなかった。


あかねは口を半開きにしたまま、ぽかんと固まっていた。

千歳も、手にしたリモコンをそのままの形で動かせずにいる。

美咲はいつも通りクールな表情を保っていたけれど、その目の奥で、何かがわずかに揺れていた。


そんな空気の中で、ひまりは、もうひとつ――そっと差し出すみたいに、続きを話し始めた。


「……だから、“好きになっちゃった”って、そういうことなんだって思ってた……」


言い終わった声が、かすかに震えていた。

その小さな揺れが、さっきまでの静けさを、より深く、重くする。


ひまりは、マイクをそっとテーブルの上に置いた。

手のひらは小さく握られていて、まるで指先に感情をぎゅっと押し込めているようだった。


そして、もう一言。


「……あのね」


か細いけど、ちゃんと届く声だった。

うつむいたまま、ひまりは続ける。


「いつか、“好き”って言ってみたいなって……思ってるんだ」


ぽつん、と落ちたその言葉が、部屋の空気を変えた。

誰も、笑わなかった。

誰も、茶化さなかった。


さっきまでの賑やかな雰囲気が、まるでどこかに吸い込まれて消えてしまったかのように――

今、部屋の中には、静寂だけがあった。


音羽は、胸の奥にふわりと熱が灯るのを感じた。

なにか言おうとして、でもうまく言葉が見つからなくて、開きかけた口をそっと閉じる。


(……なにこれ)


言葉にできない感情が、胸のなかでじんわりと広がっていく。

小さな声で語られた、たったひとこと。

でもその言葉には、余計な飾りなんてひとつもなかった。ただの“本音”だった。


「好きって言ってみたい」――それだけの願いが、こんなにも胸に響くなんて。


音羽は戸惑いながらも、今のその気持ちを、静かに受け止めていた。


その余韻を――突然、千歳がぶった切った。


「……よしっ、はい、じゃあCM入りまーす!!」


パンッ!

勢いよく鳴った両手の音が、静まり返っていた空気をあっさりと打ち壊す。


千歳は、いつもの笑顔を浮かべていた。

でも、その顔にはちょっとだけ“照れ隠し”の色も見える。

たぶんこの空気が、ちょっとだけ真剣すぎたから――彼女なりに和らげようとしたのだろう。


「まさかの本編スタートするところだったわ! このままじゃ青春始まっちゃうって!」


突拍子もないテンションに、全員がぽかんと千歳を見た。

ついていけないというより、置いてかれた感じの顔。


音羽も、口を開けたまま固まっていたけど、ぼそりとつぶやいた。


「……いや、始まってたでしょ」


その声はほとんど独り言だったけど――

千歳にはちゃんと届いていたらしい。


「そっか。もう始まってたか」


ニヤッと笑って、そう言う千歳。

そのひと言をきっかけに、ぴんと張っていた空気がふっとほどける。


少しずつ、笑い声が戻ってくる。

小さなため息。くすっと漏れる笑い。ドリンクを持ち上げる音。

ひとつひとつが重なって、部屋は再びいつもの“日常”に戻っていった。


ソファにもたれていた美咲が、ポテトをつまみながらぽつりとこぼす。


「バラードって難しいよね〜。なんかもっとこう、語り入れたいっていうかさ……」


そのぼやきに、すかさずあかねが突っ込んだ。


「恋っていうか、感情っていうか、なんかもうカオスだったから!」


あかねの言葉には笑いが混じってたけど、耳はまだほんのり赤かった。

そんななか、千歳がリモコンを勢いよく掲げる。


「じゃ、次は“片想い三部作メドレー”いきまーす!」


「ちょっと待って!?」「誰のチョイス!?」「いやまだメンタル回復してないから!!」


全員が一斉にツッコみ、笑いが弾ける。

カラオケルームの空気は、完全にいつもの“ノリ”に戻っていた。


けれど――その中心で、音羽だけは、静かに黙っていた。


誰かにツッコむでもなく、誰かと笑い合うでもなく。

みんなの笑い声から、ほんの少しだけ距離を取るように、ひとり、取り残されたような感覚だった。


(“好き”って、言ってみたい……か)


ひまりの歌と、そのあとの言葉が、まだ耳の奥に残っている。

澄んだ声。伏せられたままの視線。あの、まっすぐすぎるくらいの表情。


ふざけてばかりの、この場所なのに。

まさかあんな“本物”の気持ちが、突然ぽろっとこぼれるなんて、思ってもなかった。


(あんなふうに、誰かのことを思って、泣きそうになったこと……私、あったっけ?)


胸の奥に、そっと問いかける。

でも、その答えはもう、わかっていた。


――ない。少なくとも、これまでの人生では。


(でも……なんとなく、わかる気がしたんだ)


ひまりが歌っていたときの顔。

語っていたときの、小さく震えた声。


どれもが、飾っていなくて、ふざけてもいなくて。

ごまかしのない“本当の気持ち”だった。


演技でも、演出でもなく。

ただ、自分の中にあるものを、そのまま言葉にしただけ。


それが、どうしようもなく――まぶしかった。


(私も……)


音羽の頭の中に、いくつかの景色が浮かぶ。


いつもの通学路。制服のスカートを押さえて、小走りしていた朝。

混みあった電車。つり革越しに、ふと目が合った誰かの顔。

開いた文庫本のページ。ページをめくる風の音。


どれも“恋”じゃなかった。

でも――“好きになってもよかったかもしれない瞬間”なら、いくつかあった気がする。


(“誰かを好きになってみたい”って、思ったの……今が初めてかも)


胸の奥に、ふっと灯った感情。

それは、焦りでも、誰かへの憧れでもなくて。


ただほんの少し、“好きってどんな気持ちなんだろう”って思った――そんな、小さな好奇心。

それだけなのに、不思議と胸がじんわり温かくなった。


そのときだった。


「――って、音羽?」


名前を呼ばれて、思考の波から一気に引き戻される。

顔を上げると、みんなの視線が一斉にこちらに向いていた。


テーブルの向こう側で、千歳がリモコンを片手に、にやにやと笑っている。


「次、音羽の番ねー?」


悪ノリ全開の笑顔。もうすでに、手元では操作を始めている。


「えっ、ちょ、私!?」


音羽は慌てて前のめりになって、両手をぶんぶん振った。


「無理無理! なんも考えてないし、私、歌うと絶対声裏返るからっ!」


必死の抗議もむなしく、千歳がボタンを押した瞬間、イントロが流れ出す。


明るくてテンポのいい、ちょっと懐かしい感じの青春ラブソング。

スピーカーから広がるそのメロディが、ゆるやかに部屋の空気を染めていく。


画面に表示された曲名を見て、音羽は目を丸くした。


「え、誰これ選んだの……!」


半ば呆れたように言うと、返ってきたのは、美咲の茶化す声。


「運命ってやつじゃん?」


ウインクまで添えてくるあたり、明らかに狙っている。


「それまた出た〜!」


あかねが肩を揺らして笑いながらツッコむ。

さっきまで少し赤かった頬も、すっかりいつものテンションに戻っていた。


「がんばって……!」


ひまりがそっと手を振ってくれる。

頬は赤いけど、その笑顔はまっすぐで、どこにも嘘がない。


音羽は、小さく息を吸い込んでから、そっとマイクを手に取った。

カラフルなライトに照らされたそれは、見た目以上に、少し重たく感じた。


(……まあ、いっか)


うまくなんて、たぶん歌えない。

声は裏返るかもしれないし、リズムも外れるかもしれない。


でも――


“歌ってみたい”って思った気持ちだけは、

今の自分にとって、何よりも確かな本音だった。


それだけで、今日はもう、十分だった。

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