#3 「好き」の定義でバトルが始まる
カラオケボックスの中は、薄暗い照明がオレンジ色の光を落としている。
どこか夕暮れのような、落ち着いた空気が漂っていた。
テーブルの上では、飲みかけのメロンソーダの氷が、カランカランと小さく音を立てて溶けている。
室内には、ひとしきり盛り上がったあとの、少しだけ落ち着いた空気が流れていた。
その空気を、不意打ちのように破ったのは――
「ねぇ、ふと思ったんだけどさ」
マイクも使わず、自然な声でそう言ったのは、千歳だった。
手にはマラカスを持ったまま。視線は誰にも向けられていない。どこか宙をぼんやりと見ていた。
それだけに、その言葉は意外とよく響いた。
「“好き”って、どこからなんだろうね?」
一瞬で、全員の動きが止まる。
ひまりはマラカスを振ったままの体勢で固まり、目をぱちぱちと瞬かせた。
タッチパネルで次の曲を探していた美咲は、指を浮かせたまま静止し、画面をじっと見つめている。
ストローを口にくわえていた音羽は、ぴくっと眉を動かし、顔を上げた。
目には、あからさまな「面倒なテーマきたな」の気配がにじんでいた。
「え、それ哲学? それとも今日のテーマ?」
最初に反応したのは音羽だった。
軽く眉を下げ、冗談まじりに笑いながらも、その声には明らかな警戒が混じっている。
雰囲気を壊さないように笑ってはいるが、頭の中では「これ、長くなるやつだ……」と本能的に察している様子だった。
「んー、どっちかっていうと……爆弾?」
千歳はいつものいたずらっぽい笑顔を浮かべながら、手に持ったマラカスをシャカッと軽く振る。
その音がやけに響いて、まるで彼女の言葉を強調しているようだった。
「だってさ、“好き”の定義って人それぞれじゃん?
誰かが“それはもう好き”って言っても、別の人は“いや、それ虫に好かれてるだけだよ”みたいな。
そろそろさ、決めといたほうがよくない? 部活的にも?」
「部活的ってなんだよ」
音羽が即ツッコミを入れる。
とはいえ、完全な否定にならないのは、話題の重さと妙な説得力のせいだった。
なんとなく笑って流すには、ちょっと考えさせられる話題――それが“好きの定義”というやつだ。
そんな空気のなか――
「え、じゃあウチのターンいっていい? わたし的“好きの定義”、あるんだけど!」
元気な声とともに、勢いよく身を乗り出してきたのは、あかねだった。
ソファから転げ落ちそうな勢いで前のめりになり、目をキラキラと輝かせている。
その顔には、「きたきたきた〜〜〜!!」という全力の“出番待ち顔”が浮かんでいた。
「えっとね、“3回目の挨拶で、笑顔になってくれたら、それはもう好き!”」
あかねが勢いよく言い切った。
目をきらきらと輝かせながら、椅子から前のめりになりそうな勢いで身を乗り出す。
その断言ぶりに、一瞬の間を置かず――
「軽いな!? いや、挨拶に意味乗せないで!?」
音羽が思わず肩をすくめ、立ち上がりかけた勢いでツッコんだ。
声のボリュームがいつもより上がっているのは、内心の動揺の表れだ。
その横で、ひまりがそっと手を握りしめる。
声を震わせながら呟いた。
「でもちょっとわかる気がする…!」
うるうるとした目で頷くその姿は、もはや感動の一歩手前。
“恋バナフィルター”が完全に発動していた。
すると、美咲がすっとストローをくわえ直し、
軽く息を吸ってから、冷静な口調で突っ込む。
「てか、それだと近所のコンビニ店員、全員好きになるわよ?」
その一言で、場の空気がパッと弾けた。
笑い声があがる中、あかねは必死に反論する。
「だって! 一回目は無表情、二回目でちょっと頷いて、三回目で笑ったらさ……なんか、心通じ合った感あるじゃん!?」
懸命に言葉を繋ぐあかねだったが、焦れば焦るほど説得力は下がっていく。
顔もどんどん赤くなり、声のトーンもやや裏返り気味。
他のメンバーは、もう完全に“笑うしかない”モードに入っていた。
「いやいやいやいやいや!」
音羽が両手をばたつかせながら、立ち上がりかけの勢いで全力のツッコミをかます。
目を見開き、肩を上下させながらまくし立てた。
「それは恋じゃなくて、ただの“慣れ”だから!」
ビシッと断言されたその瞬間――
「うっ……」
あかねは、小さくうめいて黙り込んだ。
頬を真っ赤にしながら、手元のドリンクに視線を落とす。
ストローで氷をコツコツとつつきながら、まるで叱られた子どものように口を閉ざしてしまう。
あれだけ自信満々に語っていた“3回目の挨拶理論”だったが、どうやら本人にとってはかなり本気だったらしい。
そんな微妙な空気を、パーンと破ったのは、ひまりだった。
「私もあるよー、好きの定義!」
ぱっと手を挙げて、ぱあっと笑顔を見せる。
その目は、夢見る乙女モードに全力で切り替わっていた。
「その人の声、聞いたときに“あ、落ち着く…”って思ったら、それ!」
言い終わった瞬間――
「来た来た〜、“耳から恋に落ちるタイプ”〜!!」
千歳がすかさず割り込む。
マイクなしでもテンションは高く、実況風のノリで肩を揺らしながら笑いをこらえていた。
「てかそれ、好きな声優の話じゃないの?」
音羽が、やや呆れたように首をかしげながらツッコミを入れる。
どこか「またか」といった表情で、コップの氷をストローで軽く回す手が止まった。
すると、ひまりがビクッと反応し、勢いよく立ち上がった。
「違うもんっ! 生の声っ! リアル男子のやつ!!」
両手をぶんぶん振り回しながら、全身で全力否定。
まるで、全校集会で叫んでいるかのような迫力だった。
その気迫に押されて、他のメンバーも思わず顔をそらして笑う。
ツッコもうにも笑いが先にこみ上げてきて、何も言えなくなる。
空気は一気に、ぐちゃぐちゃにあったかい「ひまり劇場」モードへ突入していた。
そしてその空気を、スッと切り裂いたのは、美咲だった。
「じゃあ私も言っていい?」
静かに、でも妙な存在感を持って声を発する。
その表情はどこか得意げで、ソファにもたれたまま姿勢を崩さずに背筋を伸ばしている。
「“目が合ったあと、1秒だけ沈黙したら好き”」
……その瞬間、空気が固まった。
唐突な論理すぎて、誰もすぐには反応できない。
「……え?」
音羽がぱちぱちとまばたきをしながら、美咲のほうを振り返る。
明らかに「どういうこと?」という顔。
「1秒って、なんか意味あるの?」
「あるのよ。“言葉が出なかった”ってことだから」
美咲は自信たっぷりに頷くと、腕を組んでどや顔を浮かべた。
「で、沈黙のあとに“えっと”って言ったら、もう告白一歩手前」
さすがにそれは飛躍しすぎじゃないか――と思った瞬間、音羽が食い気味に身を乗り出す。
「どんな世界線の話それ!?」
鋭くツッコむ声に、笑いがパチッと弾けかけたそのとき。
「ちょ、待って!」
ひまりが急に真顔になり、神妙なトーンで問いかける。
「じゃあ、目が合ってから“ごめん”って言われたら……?」
その予想外すぎる質問に、場が一瞬しん……と静まり返った。
そして――
「あっぶな! それ失恋ルート! スタートすらしてないやつ!!」
今度はあかねが体を乗り出して全力で叫んだ。
言い終えるなり、どっと笑いが爆発する。
「それ正論すぎる……!」「ひどすぎる世界線……!」
ドリンクの氷がカランカランと跳ね、ソファにひっくり返る子まで現れる。
まるで部屋じゅうが「恋バナ笑撃波」に巻き込まれたかのようだった。
「みんな、好きの定義、軽すぎ問題!!」
音羽が両手で頭を抱えて嘆くが、その声すら笑いに飲まれていく。
千歳は膝を叩きながら笑い転げ、ひまりは口を押さえて涙目になっていた。
やっとのことで笑いが一段落したころ、千歳が息を整えながら言った。
「次あたり、“歌詞に共感したら恋”とか言うよ、絶対」
まだ笑いが残る声でそう言いつつ、タッチパネルに手を伸ばす。
パネルに浮かんだ検索ワードは――「ラブ・ソング」。
それを見た瞬間、全員が「あー、やっぱり」みたいな顔になる。
そんな中、音羽がふいに口を開く。
「……じゃあさ」
声は小さい。でも、それだけで十分だった。
誰もしゃべっていない今、その一言は部屋のどこまでも届いていく。
目線はまだテーブルのメロンソーダに落ちたまま。
そのグラスの中では、ストローの先で溶けかけた氷がカラン……と鳴る。
「“好きじゃない”って、どういう状態なんだろうね?」
ぽつりと放たれたその問いに――また、空気が止まった。
まるで、さっきまで流れていたBGMのリズムまでもが、一瞬息をひそめたような静けさ。
ふわりと、一同の視線がじわじわと音羽に集まっていく。
「……え?」
最初に反応したのは、ひまりだった。
ぽかんとした顔のまま、ストローを口にくわえて音羽をじっと見つめている。
「なにそれ、逆から攻めてくスタイル?」
千歳がソファの背にもたれながら、体をゆらりと揺らして口を開いた。
笑ってはいるけど、その瞳にはどこか素の真剣さも混じっている。
「定義、ひっくり返してくるとはね」
続けて、美咲が紙コップを指でくるくると回しながら、苦笑まじりにぼそっと言った。
何気ない口ぶりだけど、ちゃんと音羽の言葉を受け取っているようだった。
音羽は、少しだけ肩をすぼめるようにして、言葉を探した。
自分の中でもまだ形になりきっていない感情のかけらを、そっと言葉にしていく。
「さっき、“好きの定義”っていろいろ出たけどさ……」
「じゃあ、それに当てはまらなかったら、“好きじゃない”ってことになるのかなって」
言い終えると、音羽は手元のソーダをぼんやりと見つめ、小さく息を吐いた。
その問いに、誰もすぐには返せなかった。
部屋の空気がふっと静まり返る。
それぞれが、少しずつ噛みしめるように、その言葉を受け取っていた。
やがて――
「……うーん……」
あかねが、スカートの裾を指先いじりながら、小さく唸った。
斜め下に視線を落とし、眉間に軽くしわを寄せて、何かを探るように口を開く。
「逆ってむずいな……。好きじゃないって……たとえば、“名前わかんない”とか?」
真剣に考えているのか、ふざけてるのか、判断に困るようなトーン。
でも、その絶妙な曖昧さに、すかさず美咲が返す。
「いやそれ、むしろ好きの始まりフラグじゃない?」
グラスを軽く揺らしながら、肩をすくめて呆れたように笑う。
美咲らしい冷静なツッコミに、ソファのあちこちからクスッと笑いがこぼれた。
張り詰めそうだった空気が、ふわっとほぐれていく。
「でも……ある意味わかるかも」
今度は、音羽が静かに声を出した。
視線はまだ、自分の目の前のグラスに落ちたまま。
ストローを指先でくるくると回し、その動きに目を預けるようにしながら言葉を続ける。
「たとえばさ。朝、駅でたまたま同じ電車に乗った人と目が合って……。ちょっとだけドキッとしたとしても……それって、好きじゃないよね?」
その言葉に、ひまりが食い気味に反応した。
「えっ、それ恋じゃん! 始まりのやつじゃん!」
ソファから勢いよく前のめりになって、手をばたばたと振る。
目をぱっちり見開き、完全に“全肯定モード”に突入している様子だった。
しかし、音羽は小さく首を横に振った。
「でもさ、相手の名前も知らないし、話したこともないし……たまたま目が合っただけなんだよ?」
その言葉に、間髪入れず――
「えっ、それ恋じゃん!」
ひまりが、まったく同じセリフをもう一度叫んだ。
まるで録音を再生したようなタイミングに、思わず笑いがこみ上げる。
千歳はソファを叩きながら「また言った!」とツッコミ、
あかねは手で口を押さえながらくすくすと震えている。
美咲は肩をそむけたまま、目元を拭うふりをして笑いをごまかしていた。
部屋は、ゆるやかな混乱に包まれていた。
……けれど。
音羽だけは、なぜかその笑いの波に乗れなかった。
「いや……だから、それはただの偶然で――」
言いかけたところで、ふっと言葉が途切れる。
手にしていたストローをグラスから離し、両手を膝の上でそろえたまま、視線を落とした。
(……でも。あのとき、なんであんなふうにドキッとしたんだろう?)
名前も、声も、何も知らない相手。
それでも、心臓だけが一瞬だけ、跳ねた。
自分でも説明できない小さな引っかかりが、胸の奥に残っている。
「“ドキドキしたら好き”って言うならさ、私……今日だけで5回くらい恋してることになるんだけど」
冗談めかして、ふっと笑いながら口にしてみる。
自分でも、あまりに暴論すぎて、吹き出しそうになる――はずだった。
けれど。
その場にいた誰一人として、笑い飛ばすことはなかった。
少し間をおいて、声が落ちてくる。
「……恋の定義、ゆるいよね」
マイクを膝の上でくるくると転がしながら、千歳が呟いた。
表情にはあまり感情が出ていない。
けれどその視線は、どこか遠くを見ているようで――
声のトーンも、ふざけた調子ではなかった。
「“なんとなく気になる”を恋って言う人もいれば、“相手のこと何でも知ってからじゃないと”って人もいるしさ」
言葉のひとつひとつは淡々としていたけれど、それが逆に妙にリアルに響く。
まるで、どこかで何度も考えたことがあるような、そんな口ぶりだった。
その言葉に、音羽は小さくまばたきをし、ゆっくりと視線をテーブルに落とした。
グラスの中では、残った氷がカラカラと小さな音を立てている。
ストローの先を指でくるりと回しながら、ゆっくりと呟いた。
「……じゃあ私たち、今何やってんのかな……?」
声は静かだったが、その場にいた全員の耳にしっかりと届いた。
独り言みたいでいて――確かに投げかけられた問いだった。
「恋の話、いっぱいしてるけど。誰も恋してないのに、ずっと“好き”について語っててさ」
少しだけ口元に苦笑を浮かべながら、音羽は続ける。
バカみたいって笑いたいわけじゃない。ただ、ふと不思議になったのだ。
この空間で、自分たちは何をしているんだろうって。
誰もすぐには答えなかった。
カラオケのモニターには、別の曲のエンディング映像が流れ続けている。
BGMは淡々とループし、誰も次の曲を入れようとしない。
それぞれが、グラスを見たり、天井をぼんやり見上げたりしていた。
そのとき――
「……でも、なんかさ」
ぽつりとした声が、空気をそっと撫でた。
ひまりだった。
少しうつむいたまま、指先を膝の上で組んでいる。
顔を上げずに、それでもしっかりとした声で続けた。
「話してるとき、ちょっとだけ……心が温かくなる気がするんだよね」
その言葉に、誰かが少し息を呑むのが聞こえた。
重くはない。でも、まっすぐで、どこか胸に残る言葉だった。
「何それ、詩人?」
千歳がすかさず返す。
茶化すような言い方だったけど、その顔にはいつものいたずらっぽさじゃなく、優しい笑みが浮かんでいた。
からかうというより、照れ隠し――そんな感じだった。
ひまりは、照れくさそうに小さく笑いながら、うつむいたまま肩をすくめた。
すると、今度は美咲が口を開く。
ドリンクのストローを軽くくわえたまま、どこか得意げな表情で言い放った。
「つまりこれは、“恋”じゃなくて、“恋の会話に恋してる”ってことかしら」
一瞬、誰も何も言わなかった。
でも、それは呆れたわけじゃなく、妙にしっくりきてしまったからだった。
「会話に恋って……どういう状態よそれ」
音羽が思わず苦笑しながら、肩をすくめてぼやく。
だけど、完全には否定できなかった。
どこか、ほんの少しだけ――わかる気がしたから。
だからこそ、ふと、こんな言葉がこぼれる。
「でも――それって、“恋バナに恋してる”ってこと?」
音羽のその一言に、場が静まり返った。
笑いも、ツッコミも、茶化しもなかった。
まるで全員が、同じものを見つめて立ち止まったような空気。
沈黙は数秒続いた。けれど、それは気まずいものではない。
むしろ、その問いがちゃんと届いた証――誰の心にも、静かに落ちたような、そんな間だった。
(……私は、誰かに恋してるわけじゃない。でも)
音羽は、自分の胸の奥にふいに湧いた感情を、そっとなぞるように見つめていた。
(でも、“恋バナ”が楽しくて、なんか……ドキドキしてる)
そのドキドキは、特定の誰かに向かっているものじゃない。
ただ、“こうして誰かと恋について語っている時間そのもの”に――心が動いていた。
指先で、自分の胸をやさしく押さえるようにして、音羽はもう一度呟く。
「好きって、なんだろうね……」
それは誰かに聞いてほしいというより、自分自身に問いかけるような声だった。
でも確かに“音”として部屋に届いたその一言は、不思議と誰の耳にもすっと入っていく。
ちょうどそのとき、パチン、とBGMが切り替わった。
タイミングを測ったかのように、リモコンの操作音が響き、空気が一度ふわりと揺れたように感じられる。
モニターに映し出されたのは、見覚えのあるアニメのタイトルロゴ。
王道中の王道、誰もが一度は観たことのある、あの少女アニメの主題歌。
イントロが流れ始めると、スピーカーからのメロディがやさしく空間を包みこみ、
部屋全体に、まるで波紋のように広がっていった。
「これ……あれじゃん。ラストで主人公が覚醒するやつ」
千歳が、マイクをひょいと片手で持ち上げながら言う。
いたずらっぽい笑みを浮かべ、軽く肩をすくめるようにして、その場の空気にすっと乗った。
まるで「さあ、第二ラウンドの始まりね」と言わんばかりのテンションだった。
「♪運命を越えて〜〜♪」
――突然。
ひまりが、まるで感情を爆発させるような声で歌い出した。
立ち上がりそうな勢いで体を揺らしながら、魂ごとぶつけるような熱唱。
その姿は、まさにアニメのクライマックスで覚醒する主人公そのものだった。
「早い早い! いきなりサビ入った!?」
「助走ゼロじゃん!!」
あかねと音羽が、ほぼ同時にツッコミを入れる。
その直後、美咲もストローを外して、くすくすと笑いながら一言。
「イントロは消滅したのね」
ツッコミが次々に飛び交い、部屋の空気が一気に跳ねた。
くだらないけど、それが心地いい。
そんな中で――音羽はふっと笑う。
(この人たち、本当に誰も恋してないのに……)
それでも、恋の話になると目を輝かせて語って、照れて、叫んで、ときどき泣いたりする。
まるで、誰かを好きになったことがあるかのように。
不思議とそれが嫌じゃなかった。
むしろ――ほんの少しだけ、心地よかった。
やがて、ひまりの熱唱が終わると、拍手と歓声が自然と湧き起こった。
弾けるような拍手の音が、カラオケルームの乾いた壁に反響して明るく広がる。
なかでも誰よりテンションが高かったのは、あかねだった。
立ち上がらんばかりに両手をバンバン叩いて「はい優勝〜!!」と叫ぶ。
美咲が肩を揺らしながら笑い、それに乗るように千歳が声を上げた。
「てか、今日の“好きの定義”バトル、誰が一番やばかったか選手権やろーぜ」
タッチパネルをポチポチしながら、軽口混じりに提案する千歳。
画面にはすでに次の曲候補がずらりと並び始めていた。
「それはもう、1秒の沈黙にすべてを賭けた美咲でしょ」
音羽が即答する。
呆れと笑いが半々混ざった声で、頬にはうっすら赤みまでさしていた。
「おかしいわねぇ……時代が私に追いついてないだけなのに」
美咲は髪をかき上げながら、ドヤ顔を決める。
その表情は完全に“異端の天才”気取りだったが、言ってることは普通にズレていた。
「追いつけなくていいからなっ!!」
あかねがテーブル越しに身を乗り出しながら、勢いよく叫ぶ。
その一言を皮切りに、全員が一斉に吹き出した。
笑いの渦が、まるで連鎖するように部屋いっぱいに広がっていく。
けれど――
その笑い声も、やがてひと波のように静かに引いていった。
ソファに座っていた音羽が、ふとぽつりと漏らすように言葉を落とす。
その声は、まだ笑いの余韻が残る空間に、ほんの少しだけ真面目な色を添えた。
「……もし、“ドキドキしたら恋”なんだとしたらさ」
手に持っていたストローを指先でくるりと回しながら、視線は自分の手元に落ちたまま。
でも、その言葉には妙な静けさが宿っていた。
「ん?」
千歳がソファの背もたれに腕をかけ、首を傾ける。
軽く返す声には、探るような気配がありつつも、詮索するほどではない。
いつもの調子のまま、それでいて少しだけ真顔だった。
音羽は、ふっと照れたように笑う。
頬がほんのり赤くなり、指先をそわそわといじりながら、言葉を続けた。
「今の私は……この部活に、ちょっと恋してるのかも」
その瞬間、空気が一拍だけ止まった。
自分でも思っていなかった言葉だったのか、音羽は我に返るように目を見開いて、すぐに両手をぶんぶん振る。
「ち、違うの! 変な意味じゃなくて! その、空気とか、話してる感じとか……なんか、うまく言えないけど、心が勝手にドキドキしてる感じっていうか……!」
慌てて弁解するその様子を見て、千歳がすかさずマイクを手に立ち上がる。
「はーーーい、そういうのが一番やばいやつですね〜!!」
マイク越しに全力のツッコミが炸裂。
部屋中に跳ねる声、パチンと弾けるように空気が再び熱を帯びる。
「“恋バナに恋してる”選手権、音羽優勝で〜す!!」
「なにその称号!? やだ、返上したい!!」
音羽は顔を真っ赤にして首を振り、両手で顔を覆ってソファにうずくまる。
その背中に、笑い声がどっと押し寄せた。
「いやいや、もうそれプロポーズの域じゃない!?」
あかねが勢いよく乗っかりながら、テーブル越しに声を張る。
その頬もほんのり赤くなっていて、誰より照れていたのは、たぶん彼女だった。
「わぁ〜〜〜!!」
ひまりは両手で頭を抱え、そのままソファに崩れ落ちる。
感情があふれすぎて、泣きそうで、でもうれしそうで、忙しい顔で叫んだ。
「音羽ちゃん……その言葉、歌にしてもいいですか……!」
「やめてー!! 本気でやめて!! これ以上はもう死ぬ!!」
音羽がうずくまったまま必死に叫ぶと、全員の笑いが一段と大きくなった。
誰かがマラカスをシャカシャカ鳴らし、誰かが手を叩いて笑い転げる。
部屋いっぱいに響くその笑い声は、ただの冗談以上の何かを含んでいた。
まるで、胸の奥にじんわりと広がっていくような――そんな温かさを持っていた。
「……でもさ」
ふいに、あたたかい笑いの余韻をほどくように――
美咲がソファの背にもたれかかりながら呟いた。
「そうやってドキドキするのも、恋に含めちゃっていいんじゃない?」
視線は天井の方へ向けたまま。
誰に向けたわけでもない、ただふわっとこぼれたその声は、不思議と部屋の空気を静かに染めた。
あれだけ賑やかだった空間に、すうっと風が通ったような感覚が走る。
ふざけていたはずの会話が、ふと、本当のことに聞こえてしまうような――そんな一瞬の静けさが生まれた。
「うん、そうかもね」
その静けさの中で、音羽がゆっくりと頷いた。
誰に向けるでもなく、でも確かに“みんな”に届くように。
その声には、自分自身に言い聞かせるようなやわらかさがあった。
頬には、まださっきまでの照れがほんのり残っていた。
だけど、その表情はどこか誇らしげでもあった。
“恋バナ”って、不思議だ。
言葉にした瞬間、それっぽくなってしまう。
誰も本気じゃないのに、誰も完全にウソをついていない。
笑いながら、ふざけながら――それでもどこかで、ちゃんと真剣だった。
そんな会話の中に――
たしかに、青春の匂いがしていた。