#2 恋愛経験ゼロたちの、必死の恋バナ
カラオケルームには、笑い声と、ストローがジュースの氷に当たる音がやわらかく響いていた。
壁際の時計は、昨日と同じく午後四時半を指している。
音羽は、ドリンクバーで取ってきたアイスレモンティーを口に運んだ。
氷が少し溶けて、甘さがほんのり丸くなっている。
まだこの部屋に来るのは二度目のはずなのに――すでに、どこか“いつもの場所”みたいな感覚があった。
(まさか、今日もまた来ることになるとは思わなかったけど……でも、なんか悪くないかも)
集まっているのは、昨日と同じ五人。
テンションも変わらず賑やかで、話題はやっぱり恋バナばかり。
昨日の続きのようで、でもちゃんと今日の空気が流れている。
そんな穏やかな時間がしばらく続いたあと――
「ねえ、みんな……ちょっと、聞いてもいい?」
その声が、ふっと空気を切り取った。
話し出したのは、ひまりだった。
普段の感情豊かな調子とは違って、どこか戸惑いを含んだ、静かな声。
自然と全員の視線がひまりに集まる。
泣いたり笑ったり忙しい彼女が、今日はまっすぐ前を見ていた。
「……わたし、たぶん――恋したことないかも」
その一言が落ちた瞬間、部屋の空気がぴたりと止まった。
さっきまで聞こえていた笑い声も、氷のぶつかる音も、不思議なほど遠く感じられた。
「……え?」
誰かの、小さなつぶやきが空気を揺らす。
でも、誰もすぐには反応できなかった。
ひまりは、うつむいたまま、自分の指先をぎゅっと握りしめていた。
少しゆがんだ制服のリボンと、不自然に真っ直ぐな背筋が、妙に印象に残る。
「今まで、“あの人かっこいいな”とか、“話してみたいな”って思ったことはあったんだよ?
でも、それが“好き”ってことだったのかって言われると……よくわかんなくて」
震えるような声ではなかった。
ただ、自分の心の中をひとつひとつ確かめながら言葉を探すような、そんな話し方だった。
「……ごめんね。変なこと言って。
こんなに恋バナばっかしてるのに、わたし、もしかして――全然だったのかも」
最後の一言だけ、ほんの少し小さくなった。
ひまりは顔を上げなかった。
けれど、その姿にはごまかしも照れもなかった。
ただ、ほんの少しだけ苦くて、それでも真っ直ぐな、素直な言葉がそこにあった。
音羽は、静かにひまりを見つめていた。
(……“わかんない”って、ちゃんと言えるの、すごいな)
音羽は、恋バナの輪に混ざるたびに、笑って相づちを打ったり、なんとなく話を合わせたりしてきた。
――でも、心の奥では、いつも曖昧なままだった。
「好きかも」って思ったことなんて、本当にあったかな。
ドラマや漫画なら、恋の始まりって毎日のように起きてるけど、自分にはどうしても実感が湧かなかった。
だから、今のひまりの言葉が、自分の気持ちそのままみたいに思えた。
「……変じゃないと思うよ」
気がつけば、そう言っていた。
声に出した瞬間、自分の中の何かが、少しだけ軽くなった気がした。
その声に、ひまりが顔を上げた。
ぱちりと目を見開いた表情には、驚きと戸惑い、それから――ほっとしたような柔らかさがにじんでいた。
「私も、たぶん……同じかも。恋って、どこから始まるのか、まだよくわかんないし。
なんか、話してるだけで恋してる気分になることもあるし」
音羽の声は静かだったけれど、芯があった。
その言葉は、誰かに向けたというより、テーブルの真ん中にそっと置かれたような響きだった。
「それそれ~~!」
声を張ったのは、あかねだった。
ソファに沈んでいた身体をばっと起こし、勢いよく身を乗り出す。
「マジでさ、恋バナだけで一生分恋してる気分になるよね!? うち、最近もう週3で惚れてるから!」
どこまで本気なのかわからないテンションで叫びながら、なぜか得意げに胸を張る。
その姿に、千歳が吹き出した。
「週刊ラブコメ読者かよ」
そう言いながら、手元のドリンクを片手で持ち上げ、ストローを指でくるくると回す。
目元には、呆れたような、それでも楽しげな笑みが浮かんでいた。
その騒がしさの中で、ひまりがもう一度、音羽の方を見た。
目が合うと、少しおそるおそる、確認するように問いかける。
「……ほんと?」
音羽はゆっくりとうなずいた。
言葉にしなくても、胸の奥にふわっと何かが落ち着いていくのを感じていた。
「うん。少なくとも、“恋してないかも”って思うの……ちょっとわかる気がする」
口にした瞬間、心の中にあった何かがすっとほぐれていくのがわかった。
答えが出たわけじゃない。ただ、妙に納得できた。
「“この気持ちが恋なのかどうか”って考えてるうちは……なんか、まだ恋じゃない気がするよね」
自分自身に言い聞かせるような、やわらかな声音だった。
ひまりは、小さくうなずいた。
そして、泣き笑いのような顔で微笑む。まっすぐで、飾り気のない、無防備な笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間、音羽の胸の奥がじんわりと温かくなった。
(……そっか。この部活って、変なこと言ってもちゃんと受け止めてくれるんだ)
音羽はゆっくりと息を吸い込む。
静かに胸の奥に空気が満ちて、少しだけ体が軽くなったような気がした。
ジュースのストローを吸う音すら聞こえないほど、部屋は一瞬の沈黙に包まれていた。
そんな張りつめた空気の中、まるでそれを察したかのように、美咲が口を開いた。
「じゃあ……言っとく? “実は”って話」
その声はどこか柔らかくて、冗談とも本気ともつかない優しさを含んでいた。
まるで、これから始まる物語の扉を、そっとノックするような響きだった。
ソファの上で、音羽はじんわりと汗ばんだ手のひらを握りしめる。
胸の奥が、ほんの少し跳ねた。何かが始まりそうな、そんな予感。
「“実は”って……なによ?」
最初に反応したのは千歳だった。
ストローをくわえたまま、少し目を細めて美咲をじっと見つめる。
その視線を受けながら、美咲は口の端をほんのわずかに上げて、意味ありげに笑った。
ソファに深く体をあずけ、長い脚を組み替える。
肩を軽くすくめながら、手の中のリモコンをくるりと回す仕草は、どこか芝居がかっていて――まるで舞台の開幕前のような空気をまとっていた。
そして、あくまで他人事のような口ぶりで、さらりと口を開いた。
「私さ、恋の話は誰よりもしてるけど……付き合った人数、ゼロよ?」
「は!?!?!?」
一拍置いて、部屋に爆音のような叫び声が響いた。
声を上げたのは、もちろんあかね。
目を見開き、両手をばたつかせながら、今にも立ち上がりそうな勢いで叫ぶ。
「えっ、でもさ! えっ、えっ、あれで!? あの落ち着きと、意味深な笑顔と、“噛みしめてきた女”とか言ってたやつは!? えっ!?」
動揺がすごすぎて、むしろ全員がちょっと引くレベルだった。
「ぜんぶフィクション。舞台装置。“だいたい三話完結”って言ってたでしょ?」
美咲は涼しい顔で言い放つ。
まるで郵便局で「82円切手ありますか?」と尋ねるときみたいな、淡々とした口調で。
「……言うなれば、“恋バナ役者”。リアルがないぶん、演技力でカバーしてるってわけ」
その言葉には、どこか少しだけ誇らしげな響きすらあった。
千歳は一瞬、ぽかんとした顔で固まったあと、ふっと口元をゆるめた。
「……プロの演技だ」
そう言いながら、手元のストローを口から外し、両手でゆっくりと拍手を送る。
皮肉ではなかった。純粋な感心のトーンだった。
「なんか……すごいな。むしろ尊敬するわ。恋してないのに、あそこまで語れるって、もう才能じゃん」
「ふふ、そう言ってもらえると救われるわ」
美咲はさらりと笑い、手の中のリモコンをテーブルに戻す。
その仕草には、まるで舞台を終えた役者が小道具を片づけるような、静かな余韻があった。
「……てかさ、じゃあマジでこの中で、付き合ったことある人いないの?」
あかねが、ふいに真顔で言った。
唐突だけど、妙に現実的な質問だった。
自然と、みんなの視線が一人に集まる。
千歳。
人付き合いがうまくて、恋愛経験くらいはあるだろうと、なんとなく誰もが思っていた。
その本人は、首を軽くかしげると、あっさり答えた。
「ん? あー……ないよ?」
「ないんかーい!!」
四人のツッコミが、ほぼ同時に響く。
タイミングぴったりで、まるで台本でもあるみたいだった。
「だって面倒じゃん。“どう返信すればいいかわかんないLINE”とか来たら即死なんだけど、うち」
千歳はそう言って、ストローをいじっていた手をふと止める。
軽口に聞こえるけれど、その一言には一瞬だけ、リアルな重みがのっていた。
けれど、それも長くは続かない。
「それな~~!!」
今度はあかねが跳ねるように叫ぶ。
勢いそのままにソファから半身を乗り出し、魂をこめたような共感をぶつける。
「“今なにしてる?”って送られてきた瞬間、もう逆に心閉ざすもん!」
胸を押さえ、大げさにソファに倒れ込む姿に、思わず音羽が吹き出した。
「それもう……恋のスタート地点すら踏んでないよね」
笑い混じりにツッコみながら、音羽はテーブルのコースターを指先でくるくる回す。
その向かいでは、ひまりがクッションを抱えたまま、じんわりとうなずいていた。
「あるある……」
柔らかい声で共感しながら、小さく微笑んでいる。
誰かが本音をこぼせば、自然と誰かが応える。
“暴露タイム”が始まったら、もう止まらない。
「てかさ、あかねもゼロってことは……これ、全滅じゃない?」
音羽がふとつぶやくと、あかねは食い気味にうなずいた。
「ゼロ! ガチでゼロ! “好き”って言われたことはあるけど、うちは言ったことないし!」
なぜか胸を張って言い切るその姿は、戦績ゼロのままリングに立ち続ける無敗(=無試合)ボクサーのようだった。
「でもさ~、“好きな人います”って言った瞬間に、なんか立ち位置決まっちゃう感じあるじゃん?
あれムリ〜〜〜。校内ランキングみたいで!」
あかねは天井を見上げながら、誰にともなく言葉をこぼす。
ふてくされたような声。でも、それが妙に素直だった。
「わかる……」
ひまりが、小さな声でつぶやく。
クッションに頬をうずめたまま、視線を少し横にずらしながら言った。
「うちはたぶん、一生誰にも知られないまま、恋してたいタイプ」
その一言に、ふっと空気が落ち着く。
誰もすぐには言葉を返さない。けれど、否定の気配もなかった。
「……隠れ蓑タイプね」
美咲が肩を軽くすくめながら、にこりと笑う。
「隠れ蓑……?」
ひまりがきょとんとして聞き返す。
でも、その言葉を否定する者はいなかった。
むしろ全員が、どこか思い当たるような顔をしていた。
そして――
「……みんな、恋してないのに、よくそんなに恋の話できるよね」
音羽が静かにつぶやく。
その言葉が、にぎやかだった空気をそっと切り取った。
語尾には、少しだけ戸惑いが混じっていた。
笑い声がふっと遠のき、部屋には静けさが落ちる。
カップの中でストローがカランと鳴る音だけが、妙に耳についた。
美咲が背筋を伸ばし、手にしていたリモコンをコトリと置いた。
少しだけ首をかしげて、音羽の方を見る。
冗談めいた笑みも、ふだんの飄々とした空気もなかった。
その目には、まっすぐな真剣さだけが浮かんでいた。
「……恋の話って、恋の代わりになるんじゃない?」
静かで、落ち着いた声だった。
誰も口を挟まない。
あかねも、千歳も、ひまりも――自然と美咲に耳を傾けていた。
「誰かを本気で好きになるって、意外と難しいんだよ。運命とか、タイミングとか……あと、自分の気持ちとか。
うまくそろわないことのほうが多い」
語り口はあくまで静かで、どこか遠くを見るような目だった。
教えるでもなく、押しつけるでもなく。
むしろ、昔の自分に言い聞かせているような、そんな話し方だった。
「でもさ、“恋バナ”なら、一瞬でそこを飛び越えられるの。
『好きだった』ってことにもできるし、『もし好きだったら』って想像するのも自由。
そこに“リアル”は必要ない。想像で十分、成立するのよ」
その言葉に、誰かが小さく息をのむ音が聞こえた。
肩の力がふっと抜けるような静寂が、しばらく続いた。
やがて――
ひまりが、クッションを抱きしめ直しながら、小さな声で呟いた。
「……たしかに、うちは恋してないけど、誰かの恋バナ聞いてると……ちょっとドキドキするもん」
顔は少しだけ赤い。
でも、まっすぐに前を見ていた。
まるで、自分の中の気持ちを初めて言葉にできたような顔だった。
それを受け取るように、音羽も静かに言葉を続ける。
「つまり……恋の話って、“なりきり恋愛”ってこと?」
その言葉に、千歳がぴくりと反応した。
カップをテーブルに置き、指をパチンと鳴らす。
「……それ、いい線いってる気がする!」
にやっと笑って、ソファの背にもたれながら、リズムを取るように肘を動かす。
「はい、部の標語に決定。“恋してないけど、恋してるふりして生きてます!”」
「長いわ!」
「長いっつーの!」
音羽とあかねが、見事なシンクロでツッコむ。
まるでリハーサルでもしたみたいな完璧なテンポに、部屋の空気が一気にゆるんだ。
笑い声が重なる。
ソファがぎし、と鳴り、誰かのグラスの氷がカランと揺れる。
ひまりが鼻をすする音まで混ざって、それらすべてが、あたたかい“部活の音”になっていった。
音羽は、部屋に漂う音のひとつひとつを感じながら、静かに息を吐いた。
(……誰も恋してないのに、なんでこんなに話が尽きないんだろう)
たぶん、きっかけなんてどうでもいいのかもしれない。
「話したい」って気持ちさえあれば、それだけで笑い合えるし、つながれる。
それって――今の自分たちにとっての“青春”そのものなんじゃないか。
ふと、そんな気がしてきた。
自然と、ことばが口をついて出る。
「……結局、全員、恋してないんだね」
その一言に、みんなが顔を見合わせる。
そして、誰ともなく、ゆっくりと頷いた。
まるで、今この瞬間に肩書きが生まれたかのように。
――“恋愛未経験者の会”。
そんな名前のない同盟に、ふんわりと心がひとつになっていた。
「うち、なんか……ちょっと安心したかも」
ひまりが胸に手を当てて、小さく息をつく。
その声には、張っていた緊張がふわっとほどけたような、やわらかさがあった。
「今まで、自分だけ恋してないのかなって思ってたから……恋バナのとき、ちょっとビクビクしてたんだよね」
テーブルの上で、誰かのカップが揺れて氷がカランと鳴った。
静まりかけた空気を破るように、あかねが元気よく声を上げる。
「わかる〜〜! マジでそれ!」
勢いよくソファから身を乗り出し、両手を広げて同意を表現する。
いつも通りのテンション――でも、話の内容はちょっと繊細だ。
「なんかさ、恋してないのに恋バナすると、“こいつ嘘ついてんじゃね?”って思われそうでビビるじゃん?
だからうち、恋してるフリしたことあるよ! ほんとは近所の郵便局員だったんだけど、同級生ってことにして話してたし!」
「どこをどうして郵便局員が同級生になったんだ…」
音羽がソファに寄りかかったまま、少しだけ肩をすくめてツッコミを入れる。
その一言に、部屋にふわっと笑いが広がる。
誰かがストローを吸う音が混ざって、空気がやさしくゆるんでいく。
その笑いの余韻のなかで、美咲が口を開いた。
肩を軽くすくめながら、飄々とした笑みを浮かべる。
「恋ってさ、想像から始まるものでしょ。
だから、相手が“実在してるかどうか”って、案外どうでもいいんだよね」
さらっと投げたその言葉に、千歳がピクッと反応する。
「お、それ名言〜!」
親指を立てて笑ったあと、ふと顔を戻し、少しだけ目を伏せる。
さっきまでのテンションが、ふと落ち着いていく。
彼女の視線が、すこしだけ遠くを見るような色を帯びた。
千歳はソファの背にもたれ直しながら、ふっとトーンを落とした。
どこか考え込むような目つきで、ぽつりとつぶやく。
「……今ふと思ったんだけどさ。ここでの恋バナって、なんか安心できるんだよね。
うち、こういうのが“居場所”ってやつなのかなって、ちょっと思った」
「……居場所?」
音羽がほんの少し眉を上げて聞き返す。
千歳はうなずきながら、コップの縁を指でなぞるようにして言葉をつなぐ。
「“ちゃんと話を聞いてもらえる場所”って感じ。
学校じゃさ、本気の恋バナなんてなかなかできないし。
『えー誰? 誰?』って冷やかされて終わりじゃん」
その言葉に、あかねが即座に大きく頷く。
「マジでそれ!! うちも、“好きな人いるの?”とか聞かれるの、ホント無理〜〜!」
少し肩を怒らせながら、手をばたばた振ってまくし立てる。
「“いる”って言ったら絶対詮索されるし、“いない”って言ったら急に興味なくされるし……どうしろっての!」
「詰んでるじゃん、それもう……」
音羽が小さく笑いながらツッコむと、ソファのあちこちからくすくすと笑い声が漏れた。
その中で、ひまりがそっと姿勢を正す。
ソファの端っこにちょこんと座り直して、抱えていたクッションをぎゅっと胸に抱きしめる。
そして、うつむきがちな顔を少しだけ上げて、静かに口を開いた。
「でも……ここなら、なんか……話しても大丈夫って思える」
その声は小さかったのに、なぜかすっと部屋の隅々まで届いた。
「それそれ〜〜!!」
一番に反応したのは、あかねだった。
勢いよく前のめりになって、両手でテーブルをバンッと叩く。
「この部活、変なこと言っても誰も引かないし! むしろ盛り上がるし!」
弾けたような笑顔と声に、空気がパッと明るくなる。
その横で、美咲が小さく肩をすくめ、ふっと微笑んだ。
どこか優しくて、全部を包み込むような、あたたかい表情だった。
「……ここってさ、“恋してない人”のための居場所なのかもね」
その一言は、大きな声じゃなかったけど、
まるで部屋の温度がふっと一度上がったような、そんな確かな空気の変化を残した。
音羽は、テーブルの上に置かれた自分のドリンクを見つめていた。
胸の奥が、ふわっとやわらかく揺れるのを感じる。
(恋してないから、笑える。恋してないから、語れるんだ)
もし今、本当に誰かを好きだったら――
こんなふうに気楽にはしゃべれなかったかもしれない。
もっと慎重になって、もっと怖くなって、言葉ひとつひとつに神経を使っていたと思う。
でも、“まだ”していないからこそ。
こうやって、笑えて、語れて、冗談も言い合える。
そんな気持ちのまま、音羽の口が自然と動いた。
「恋の話ってさ……恋の代わりにもなるし、恋の“前”にもなるのかもね」
声は小さかったけれど、まるで遠くを見ながら見つけた言葉のように静かで、まっすぐだった。
ゆっくりと顔を上げたとき――すかさず、声が返ってきた。
「お、出た出た〜! はい、それ名言認定入りまーす!」
反応したのは千歳。
ニヤリと笑いながら、ふざけたように指をくるくる回す。
その仕草はどこか儀式めいていて、まるで空中に言葉を刻みつけるかのようだった。
「ちょ、なにそれ。いつからそんな制度あったの?」
音羽が眉をひそめてあきれたように言うと、すぐ隣であかねがパチンと手を叩いた。
嬉しそうな笑顔で、笑い声に混じって乾いた音を響かせる。
「てかさ、うちらさ……恋してないくせに、恋の話しすぎじゃない?」
そのひと言に、ソファの奥からすかさず相槌が飛ぶ。
「ほんとそれ~~!」
ひまりだった。
笑いながら体をくねらせて、クッションに顔をうずめる。
照れくささをごまかすみたいに、声をくぐもらせながら。
「でもさ……それで笑えるなら、なんかもう、それだけで青春って感じ、しない?」
ぽつんと落ちたその言葉に、場の空気がふわっとやわらかくなる。
誰も返事はしなかったけれど――
誰かが頷く音もなかったのに、不思議とその場にいた全員の気持ちが、ひとつに重なった気がした。
まるで、言葉じゃない何かで、空間が穏やかに包まれていくように。
千歳のカップでストローがくるくると回る、かすかな音。
美咲は目を伏せたまま、小さく微笑む。
あかねはソファの背にもたれて、リズムを取るようにうなずいていた。
カラオケの機械は、しばらく沈黙を保っている。
その間にも、氷がグラスの中で小さくカランと鳴った。
そんな何気ない音の一つひとつが、この瞬間だけのBGMになって、部屋の空気を優しく満たしていく。
音羽は、静かに息を吸い込んだ。
笑い声の余韻がまだ残る空間のなかで、膝の上に置いていたカバンのファスナーを開ける。
中から取り出したのは、水色のノート。
ページを開く指先が小さく音を立てる。
そしてペンを手に取り、少しだけ迷うような間をおいてから、一行を書き込んだ。
「“恋してないけど、恋の話で笑えた日”。……2回目、記録っと」
言葉というより、ほとんど独り言だった。
でも、その小さな声を、ちゃんと聞いていた人がいた。
「……明日もその記録、増やしてこうね」
千歳だった。
からかいでもノリでもなく、まっすぐで穏やかな声。
隣の席から少しだけ体を傾けて、音羽に向けたその笑顔は――どこまでも自然で、ただやさしかった。
音羽は、驚いたように一瞬だけ目を見開く。
そしてペンをそっとテーブルに置き、小さくうなずいた。
「……うん」
その瞬間、自分の頬が少しだけ緩んだことに、音羽自身が気づいた。
胸の奥に詰まっていた何かが、ふわっとほどけていくような感覚。
(たとえ、まだ誰も恋をしていなくても――)
誰のことも好きじゃない。けれど、誰の話にも耳を傾けて、笑い合って、受け止め合える。
そんな時間が、たしかにここにはある。
(……この時間のこと、ちゃんと“好き”って言える)
ページの隅ににじんだインクの跡と、もう氷も溶けきったレモンティーの甘い香りが、ゆるやかに混ざり合っていた。