#1 放課後カラオケ部、活動内容は“恋バナ”です
春乃音羽は、開けかけたカラオケルームのドアの前で立ちすくんでいた。
目の前にいるのは、見知らぬ女子が4人。全員、同じ制服を着てはいるけれど――ただの同級生とは思えない独特の存在感がある。
カラフルなネイルに、ピンクのヘアピン。弾む巻き髪に、こなれた茶髪。
見た目も雰囲気もバラバラなのに、なぜか全員でひとつの空気を作っている。
(同じ学校の子なのに、世界が違って見える……)
目が泳ぎ、どこを見れば正解かわからない。カラオケルーム独特の薄暗さが、さらに緊張をあおる。
おそるおそる、一歩だけ足を踏み入れて、口を開いた。
「えっと、その……雨宿りで、ちょっとだけ入っただけなんですけど……」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、真っ先に反応したのは、金髪のギャルだった。
ソファに座っていたはずが、ピンクのネイルをキラリと光らせながら勢いよく前へ出てくる。
「あ〜ん、わかる〜! アタシも最初そんな感じだったし〜!」
ノリが良すぎて、音羽の言葉がまるで歓迎の挨拶だったかのような反応。
「えっ、えっ…」と困惑している音羽に、畳みかけるように自己紹介が飛んでくる。
「てかさ、マジで新入部員じゃん!? ヤバ、出会いって突然くるやつ〜! アタシ、真壁あかね! アカネでいいよ、よろ〜!」
「いや、入部した覚えないんだけど!?」
ツッコミが思わず口を突いて出る。状況が急転直下すぎて、理解がまるで追いつかない。
頭を抱えかけたそのとき、さらに別の声が背後から飛んできた。
「わぁ……かわいい子……! 今日、雨降ってほんとラッキー……」
振り返ると、前髪ぱっつんの小柄な女子が、うるんだ瞳で音羽を見つめていた。
制服のリボンはちょっと曲がっていて、胸元でぎゅっと両手を握っている。
その姿は、まるで少女漫画の中の“感情が爆発してる子”そのものだった。
「わたし、小牧ひまりっていいます! ……あのっ、雨の日に出会った人って、忘れられないって言うじゃないですか……!」
まっすぐすぎる言葉に、音羽は反射的に何かを返そうとしたけれど――
その熱量に、なんだか言葉を失ってしまった。
するとすかさず、今度は部屋の奥から冷静すぎる声がかぶさった。
「それただの通り雨じゃない? あと、テンションみんな風邪引くレベルで高い」
振り向くと、茶髪ロングの女子が、片手にリモコンを持ったまま肩をすくめていた。
制服はしっかり着ているのに、ネクタイだけがゆるく結ばれていて、その“適当さ”が逆に洒落て見える。
「柊千歳、って言います。ま、ここでは部長ってことで。あ、でも一応言っとくと、ちゃんとした部活ではないから安心して?」
「いや、その説明、逆に不安しかないんですけど……」
苦笑しながら返した音羽に、さっきの金髪ギャル――あかねが「それな〜!」と手を叩いて笑った。
その無邪気なノリに、音羽の不安がほんの少しだけほぐれる。
そして最後に、今まで一言も喋らずに様子を見ていた女子が、静かに前へ出てくる。
ふわりとゆる巻きのロングヘアが揺れ、ひと目で“只者じゃない”と感じさせるような優雅な所作だった。
「宍戸美咲。ししど、で“ミサキ”。恋の酸いも甘いも噛みしめてきた女ってことで、よろしくね」
その落ち着ききった微笑みは、まるで年齢詐称でもしているかのような貫禄を漂わせていた。
「言い方こわっ。てか、高校生でそれだと、全部一瞬で終わってそう…」
思わず出た音羽のツッコミにも、美咲はふっと笑い、肩を軽くすくめる。
「ふふ。だいたい三話完結ってとこかしら?」
戸惑いながら、音羽はあらためて、目の前の4人を見渡す。
勢いとテンション、個性とクセの強さ、空気の支配力――全部が濃すぎる。
なのに、なぜか不思議と嫌な感じはしない。むしろ、少しだけ胸が高鳴っている。
(……この部屋、ヤバい……けど、なんかちょっとだけ、気になるかも)
そして気づいた。
――あれ、私、もう座ってる。
気がつけば、音羽はカラオケルームのソファの端に腰を下ろしていた。
その手には、いつの間にか握られていた温かいレモンティーの缶。
ほんのりと手のひらに伝わる温度が、逆に状況の異常さを際立たせる。
(え……? 誰かに勧められたっけ……?)
記憶をたどっても、誰かが「はいどうぞ」と渡してきた覚えはない。
けれど、自然な流れの中で、抵抗する暇も理由も見つからず、気づけばここにいる。
(……これ、嵐に巻き込まれるってこういうこと?)
静かな混乱の中で、音羽はそっと缶を傾けた。
レモンの香りとほのかな甘さが口の中に広がる。思ったよりも優しい味だった。
少しだけ、肩の力が抜けた気がした――そんな矢先だった。
「ってことで、自己紹介タイム、お返ししま〜す!」
ひゅっと空気を切るように、千歳が軽やかに手を差し出す。
リモコンをマイク代わりに扱うその所作は、まるでテレビ番組の司会者みたいだった。
ぱっと空気が切り替わる。その瞬間、音羽へと向けられる全員の視線。
四方から射抜かれるようなその圧に、音羽は思わず背筋を伸ばしてしまう。
「えっ、私!? えっと……春乃音羽です……」
たどたどしく名乗った瞬間だった。
「おとは~~~!? 名前までかわいいとか反則なんだけどぉ!!」
弾けるような声が響いたかと思うと、ひまりが勢いよく前のめりになる。
両手で顔を覆いながら、その指の隙間から目をキラキラさせて絶叫している。
(そんな反応、人生で初めてされた……!)
ソファに深く沈み込みたくなるような恥ずかしさと戸惑いに、思わず身を引いた音羽。
そのすぐ背後から、まるでドラマのワンシーンみたいなセリフが、静かに落ちてくる。
「春が来たわね……恋の季節……」
つぶやいたのは美咲。
リモコンのボタンを無意味にくるくると回しながら、遠くを見るその瞳は、完全に“物語の中の住人”だ。
本人はいたって真剣らしいが、背景に風と桜が舞っていてもおかしくない空気感である。
(……なにこの人たち)
戸惑い半分、呆れ半分。
もはやツッコむ気力すら失いかけながら、音羽は手元の缶に再び口をつけた。
レモンティーはさっきよりも、ほんの少しだけ温度が下がっていたけれど――それでも、なんだか心にじんわり染みるような味がした。
(……ちょっと、面白いかも)
そう思い始めたその時だった。
突然、千歳がバッと立ち上がる。その勢いでソファのクッションが一瞬沈む。
「はいじゃあ、さっそくいってみよー!」
手に持ったリモコンを天井に向けて掲げながら、場の空気をぐっと引っ張る。
声のトーン、表情、テンポ。すべてが“空気作り”に長けた者の動きだ。
「今日のテーマ、“この前目が合った男子との妄想ストーリー”でいきまーす!」
「きたわー! ワンチャン恋だったかもエピソードじゃん!!」
あかねが、跳ねるように立ち上がって叫ぶ。
その金髪が照明を受けてふわっと光り、ネイルがまばゆく反射する。
「わたし、それ語ったら泣く……!」
ひまりは、もはや感極まったように胸元で両手を重ねていた。
目元にはすでに涙のきらめきが浮かんでいて、今にも曲を入れかねない勢いだ。
「じゃ、今日もアカネからスタートで〜!」
軽やかにリモコンをくるくると回しながら、千歳がソファへふわりと戻る。
その声には、部屋の空気を一気に切り替えるような勢いがあった。
隣では、指名されたあかねが――なぜか両手で顔を覆い、小刻みに震えていた。
「ちょ、ムリムリムリ……今日ほんとムリかも……なんか、マジで緊張してんだけど〜〜」
声のトーンは明るい。けれど、その体の動きは妙にリアルだった。
肩が上がり、指先が震え、まるで本当に発表会の直前みたいな様子。
(え、ほんとに緊張してる……?)
思わず笑いそうになりながら、音羽はあかねの様子を横目でうかがった。
「なにその照れ方。どうせまた“運命エピソード”なんでしょ?」
美咲がソファに背を預けながら、口元だけで微笑む。
肩を小さく揺らし、どこか楽しそうな表情であかねを見ていた。
「ちがうってば〜! 今回はマジで……震えるから……!」
言いながらも、あかねは何度もうなずいて自分を奮い立たせるような仕草をした。
その視線がふと音羽の方へ向く。はっと息を呑んだその瞬間、彼女は深く息を吸い込んで――話し始めた。
「今日ね、学校行く途中でさ、信号待ちしてたの。駅前のとこ」
その一言で、場の空気がピンと張りつめた。
今までの賑やかさが、嘘みたいに静かになる。
誰もが、あかねの語る“その瞬間”を逃さないようにと、自然と集中していた。
音羽もまた、知らず知らずのうちに息をひそめていた。
「でさ、向こうから来た男子が、信号変わる直前に、うちのことチラって見たの!」
「……おっ?」
千歳が興味津々といった様子で身を乗り出す。目がきらりと光る。
「しかもさ! イヤホン、片耳だけ外したのよ!!」
「きたーーーーー!!!」
絶叫に近い歓声をあげたのは、ひまりだった。
ソファからぴょんと立ち上がり、大きな瞳を潤ませながら身を乗り出す。
その表情はもはや“この物語の最大のクライマックス”を迎えた読者のよう。
「それ絶対、風の音と運命の音、聞き分けてるやつぅ……!」
「どんな耳だよ……」
冷静なツッコミを入れた音羽だが、部屋の熱気はそれを完全に飲み込んでいた。
ひまりは目を潤ませたままうっとりと息を吐き、あかねに夢中な視線を送っている。
そして――。
「しかもね? その瞬間、風がふわって吹いて、うちの髪がふわってなって、そんで、目が合ったの……!」
あかねの声には、なぜか陶酔の響きが混じっていた。
頬をほんのりと染め、両手をぎゅっと握りしめながら、肩をすくめる。
まるで、その一瞬を何度も脳内でリプレイしていたかのように。
(どんだけロマンチストなの……)
音羽が内心ツッコミを入れようとしたそのとき、視界の端でひまりが震えだした。
両手で頭を抱え、今にも感極まって泣き出しそうな勢いで「すご……すご……」と呟いている。
(本気で感動してる……!)
すると、ストローをくわえたままの美咲が、ふいに口を開いた。
「名前とか、わかったの?」
その声は驚くほど淡々としていたが、どこか“結論を見届けに来た女”のような含みを感じさせた。
そして返ってきたあかねの答えは、予想を斜め上に突き抜けていた。
「知らん!」
それは、堂々たる宣言だった。
ひまりが「えぇ……」と崩れ落ち、美咲が「やっぱりね」と鼻で笑う。
音羽は思わず額に手を当てながら、これが“彼女たちの日常”なのだと、ほんの少し理解しはじめていた。
千歳もまた、くすっと笑いながら、首をかしげる。
「え、てことは初めて見た人ってこと?」
「そう! 今日、人生で初めての遭遇!!」
あかねは目をキラキラさせながら、完全に感情の波に乗っていた。
身振り手振りも大きくなっていて、まるで舞台の主演女優みたいに話を盛り上げている。
そのテンションのまま、キラキラオーラ全開で話し続けようとする彼女に、音羽がそっと一言、差し込んだ。
「……つまり、知らない男子がチラ見して、風が吹いただけってこと?」
優しく、笑いながらのツッコミだった。
あかねは一瞬きょとんとしたあと、「ぷっ」と吹き出す。
そして、「それな〜!」と千歳がすぐに乗っかり、ドリンクのコップを傾けた。
あかねは、にやりと笑いながら、ネイルをいじる指をくるくると動かす。
「やーん! 音羽ちん、恋の幻想すぐぶった切ってくるんだから〜!」
言いながらも、あかねの頬はどこか照れたようにほんのり赤い。
ただ、ネイルから顔を上げたあかねの目は、どこか真剣だった。
「でもさ、その2秒の目線が……心臓ぶち抜いてきたんよ。マジで、息止まった!」
そう言い切ったときの彼女は、どこか神聖なものを見たような表情をしていた。
その熱にあてられて、音羽は内心、小さくため息をつく。
そして――次の瞬間。
あかねは勢いよく立ち上がった。
ソファの背もたれに片手をかけ、わざとらしいほどに遠くを見つめる。
まるで少女漫画の1ページのようなポーズだった。
「……もしかして、これが“恋のはじまり”ってやつなのかな〜って!!」
キラキラした目で、満面の笑顔とともに高らかに宣言する。
背景にバラの花とかキラキラのエフェクトが出てそうな勢いだ。
その姿に、最初に吹き出したのは千歳だった。
「ぶちあがったな〜!」
ソファに倒れ込むように笑い出し、手を叩いては腹を抱え、笑いすぎて涙がにじんでいる。
「わたし、今それで泣きそう……」
ひまりは、感極まったように両手で顔を覆い、ふるふると震えながら呟く。
そのまま、どこか儚げな声で口ずさんだ。
「はじまり〜の〜風が〜♪」
妙にAメロ感のある音程で、泣き笑いのように。
すでに感情は“サビ前”に突入している。
「急にミュージカル!?」
タイミングを見計らったように、音羽の鋭いツッコミが飛んだ。
その瞬間、部屋にいた全員が爆笑しながら拍手し始めた。
意味のない“パチパチ”が鳴り響き、全員がなぜか満足そうに笑っている。
「うちの部活、初ツッコミ合格〜!」
千歳が大げさに親指を立て、ドヤ顔で音羽の方にぐっと突き出してきた。
その姿に思わず吹き出しそうになりながら、音羽も小さく笑う。
(なんだこの空気……めちゃくちゃすぎる。でも……)
ふと、肩の力が抜けていることに気づく。
さっきまでの緊張が、自然とほどけていた。
(……これが、“放課後カラオケ部”ってやつ?)
少しずつ、世界がやわらかく変わっていく感覚があった。
そんな風に思い始めたそのとき――
「ということで、次は音羽ちんね!」
千歳がひょいっとリモコンを持ち上げて、当然のように指名してきた。
まるで“はい、つぎの主役どうぞ”と言わんばかりの軽さ。
「え、私!? いやいや、入部してないし!」
音羽が慌てて両手を振ると、千歳は首をすくめてあっけらかんと返す。
「関係ナッシング〜。恋バナは誰でも参加OKっしょ!」
「聞きたい〜……」
ひまりがうるうるした目で、ソファの上をずりずりと音羽の方ににじり寄ってくる。
その動きと表情は、完全に“おねだりモード”だった。
その横で、あかねがぽそっとつぶやく。
「ほらさ〜。恋のはじまりって、最初は妄想からって言うじゃん?」
ネイルをいじりながら、ちらりと音羽を見上げるその顔は、少し悪戯っぽい笑みを浮かべている。
(誰が言ったのそれ)
音羽は心の中で静かにツッコミながら、ふと自分の制服のリボンに目を落とした。
指先が無意識にそれに触れ、ゆっくりと結び目をほどいていく。
きゅっ、と締め直すと、少しだけ気持ちが整う気がした。
一度、深く息を吸って。
「……じゃあ、一つだけ」
静かに吐いた息に混ざるように、言葉がこぼれ落ちた。
その声はどこか曖昧で、語るというよりは――思い出すような響きだった。
目線は誰にも向けておらず、ただ自分の内側をたどっているように。
「この前、電車で本読んでたらね。向かいに座った人が、同じ本読んでて……なんか目が合ってさ…ちょっと、嬉しかったの」
言い終えた瞬間、空気がふっと止まる。
ソファのきしむ音も、ストローの氷が鳴る音も、誰の声も聞こえない。
全員が、ただ静かに音羽の言葉に耳を傾けていた。
「えっ、それってもう……恋の幕、開いてない!? てか開演済みじゃない!?」
誰よりも早く反応したのは、ひまりだった。
うるんだ瞳をさらに見開き、勢いよく立ち上がる。
ソファがわずかに揺れて、周囲の視線が彼女に集まる。
「いやいや、ただの偶然でしょ!!」
音羽は慌てて両手を振る。完全否定のジェスチャー。
顔も真っ赤になっていた。
けれど――その否定さえも、あっさりと笑い声にかき消されていく。
「キャー!」「やば〜い!」「これは来てるね」「電車恋、始まったわ〜!」
ひとりが声を上げるたびに、他の子たちも乗っかって盛り上がる。
まるでステージの照明がぱっと灯るように、一気に室内の空気が明るく跳ねた。
音羽はその中心で、少しだけ目を丸くした。
(……なに、この勢い)
次の瞬間、誰かがリモコンを操作した音がして、カラオケの次の曲のイントロが流れはじめた。
スピーカーから流れるメロディが、部屋の雰囲気をまた少し変える。
すると――
「なあ、“目が合った=運命”って、実際どう思う?」
ぽつりと放たれたのは、千歳の声だった。
ストローをくるくる回しながら、天井をぼんやりと見上げている。口調は軽いのに、その一言が空気を変えた。
にぎやかだったカラオケルームが、一瞬だけ静まる。
“ざわっ”じゃない。“すっ”と音が引いたような感覚。
けれど、その沈黙を破ったのは――
「いやそれ、目が合わなかったら運命も何もないじゃん」
音羽だった。
ソファに深く身を預けたまま、肘を軽く組み、天井に目を向けたままつぶやくように言う。
ツッコミというより、単なる冷静な感想といった調子だった。
「ちがうちがう!」
即座に声を上げたのは、あかね。
勢いよく身を乗り出し、テーブルの縁に片肘をついたかと思えば、ぴしっと人差し指を空中に突き立てる。
「目って、合うためにこの世にあるんよ! そこから全部始まるのよ! ……知らんけど!」
「知らんのかい」
音羽が小さく苦笑しながら返すと、あかねは得意げに肩をすくめ、ふふんと笑ってソファに戻った。
その様子は、いつものテンプレみたいに安定感がある。
そのテンションに引っ張られるように、クッションを抱えていたひまりが口を開く。
背筋を丸めたまま、抱えていたクッションを少し胸元に引き寄せて、そっと頷く。
「でも……なんか、あるかも。目が合うと、バリア外れる感じ」
その言葉に、千歳が口のストローをくわえたまま目を細め、軽く片手を上げて同意する。
「それな。無意識に張ってたガードが、ピキッて消えるみたいな」
「共感センサー……みたいな?」
ひまりがうるんだ目をさらに輝かせながら、両手を胸の前でぎゅっと組む。
その表情はすでに感情で満ちていて、次の行動を予感させる。
そして――我慢しきれなくなったように、声があふれ出した。
「♪見つめ合った〜 その瞬間に〜〜〜」
完全に入り込んだAメロ。
しっかりとした音程と、妙にこもった情感だけで成立している。
「またAメロからなんだ……」
音羽が、呆れ混じりにツッコミを入れる。
しかし口元は笑っていて、その視線の先では、ひまりが満足げにソファへと沈み込んでいた。
クッションを抱え直しながら、やりきった表情で天井を見上げるその姿に、なんとも言えない達成感がにじんでいた。
カラオケルームに流れる会話が、ひとしきり盛り上がったあと――
ふいに、静かな声が落ちた。
「……目が合ったら、ちょっとだけ話してみたくなるかもね」
ふと目をやると、美咲がカラオケリモコンの赤いランプをぼんやり見つめたまま、宙を見ている。
何を考えているのかはわからない。でも、その声にはいつもの冗談ぽさはなく、ごく自然な静けさがあった。
言葉が落ちて、一瞬だけ場が静かになる。
でもそれは重たい沈黙じゃない。ただ、耳を澄ますような間だった。
「別に好きとかじゃなくてさ。たまたまタイミングが合っただけって、頭ではわかってるのに……“もしかして”って、一瞬だけ想像しちゃう感じ」
美咲は、言葉を選ぶように静かに続ける。
声も表情も淡々としているのに、どこか現実味があって、聞いている側の胸のどこかをやさしく突いてくる。
「わかるわ〜」
千歳がソファの背にもたれたまま、ストローの刺さった紙コップをくるくる回しながら頷いた。
軽い調子で笑いながらも、その共感には妙な説得力がある。
「勝手に想像して、勝手に盛り上がるってやつな」
その言葉に、あかねがうっとりと目を細める。
腕を組んで、どこか遠くを見つめながら言った。
「そうそう。“その人のことを知ってから好きになる”んじゃなくて、“知らないから想像できる”んよね〜」
あかねは得意げに顎を上げると、さらに語気を強めた。
「うち、あえて名前知らんままでいたことあるもん。妄想だけで、二週間くらい保った!」
それを聞いた音羽が、ぼそりと返す。
「漬物かよ」
無表情なツッコミ。でも、それがまた場にぴったりとハマる。
「あはっ」
あかねが明るく笑い、両手をひらひらさせながら返した。
「妄想って、じわじわ楽しむ系なの。噛めば噛むほど味出るやつ!」
その瞬間、ふわっと部屋に笑いが広がった。
ソファの端でクッションを抱えていたひまりが、「それわかる〜」と体をくしゃっと丸める。
声は小さくても、その共感は誰よりも真剣だ。
誰かがひと言発すれば、誰かがちゃんと受け止めてくれる。
そんな心地よい空気が、ゆっくりと部屋に満ちていた。
千歳がドリンクを持ち上げ、さらりとひと言。
「恋ってさ、話すよりも前に……想像するもんだったりしてね」
あくまで何気ない調子。でも、その言葉には不思議と余韻があった。
「なにそれ〜」
あかねが目を丸くしながら手を叩く。
「え、ちょっと名言ぽくない?」
ふざけたような声色だったが、誰も否定しない。
むしろ、みんなその言葉をどこかで受け取っていた。
部屋の片隅では、カラオケの待機画面が淡く光っている。
マイクは誰にも持たれることなく、テーブルの上にぽつんと転がったままだ。
誰が歌っても、誰が話してもいい。
そんな“正解のない時間”が、ゆるやかに流れている。
音羽はふと、自分がその輪の中にいることを少しだけ不思議に思った。
でもそれ以上に――心地よさがあった。
自然と、ぽろりと言葉がこぼれる。
「……なんか、この部活、すごいね」
誰かに向けたわけでもない。けれど、そこにいた全員が、きちんとその言葉を受け止めた。
千歳がにやりと笑い、肩をすくめながら言う。
「恋ってさ、しててもしてなくても、語るの楽しいんだよなー」
冗談っぽく言いながらも、どこか本音がにじんでいた。
「わかる〜!」
あかねが勢いよくうなずく。胸の前で手を組み、うっとりとした顔。
……ただし、その表情はどう見ても、言葉の意味までは理解していない顔だった。
音羽は吹き出しそうになりながら、小さく笑う。
その笑いには、やわらかい肯定の気配があった。
そして、ふとバッグに手を伸ばす。
取り出したのは、表紙の角が少し折れた、水色のノート。
静かにページをめくり、ペンを取る。
音もなく一行――
「“恋かどうかはわからないけど、恋の話で笑えた日”。……と」
ペン先からにじむインクが、ゆっくりと白い紙を染めていく。
その言葉が、今日という一日を、そっと包み込んでくれるような気がした。